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ただいまとおかえり

 私がかつて暮らしていた家は、シスロディアの雪深いところにある一軒家だった。大きすぎず小さすぎず、三人で暮らすのにちょうどいいくらいの広さで、木造りの家具があたたかみをもたらすつくりだった。  家の周りは雪で囲まれていたのに、どういうわけかあの家で寒さに凍えた記憶は一切ない。もちろん友達と外で遊んだときは雪にまみれて濡れて、寒い寒いと震えながら家に帰ったものだ。  けれど家の中はいつも暖かかった。部屋に飛び込むと「おかえり」と母さんが迎えてくれて、すぐに温かいココアを出してくれた。私はそれを見るや否や大喜びで、濡れたコートをさっさと脱ぎ捨ててマグに飛びついていた。  私には自分の部屋もあったけれど、勉強する時以外は大抵両親のいる居間にいたと思う。そこには古びた暖炉があって、その前で本を読むのが好きだった。暖炉のきらきらとした炎と心地よい温度も相まって、読書の途中についうっかり眠ってしまうこともあった。そういう時はふわふわ夢見心地な気分になったかと思うと気付けば部屋のベッドで寝ていたけれど、思えば父さんが私を部屋まで運んでくれていたのだろう。勉強には厳しかったが、それ以外はとても優しい父だった。  今でもあの家のことははっきり思い出せる。母さんがせわしなく動き回っていたキッチン。父さんの背丈よりも大きな本棚。少しがたつく勉強机。風に軋んで揺れる窓。  そう考えると、私が今住んでいる部屋はあの家とは似ても似つかない。ひとり暮らし用なのでちょっと狭いし、暖炉はあまり使われていないかのようにまだ真新しい。そもそもここは寒さの厳しいシスロディアではなく、気候の穏やかなメナンシアなのでそれも当然と言えばそうだ。  それでも部屋にはなかなかの大きさの本棚がある。集めてきた本が増えてきたので、この間思い切って買ったのだ。  暖炉の前にはテーブルもあって読書もできるし、ココアも飲める。木造りの内装は心を落ち着かせると同時に懐かしさまで感じさせてくれる。  思えば全体的な家具の配置もどことなくあの家に似ているような気がした。備え付けのキッチンと暖炉は偶然にしても、本棚やテーブルを置いたのは私だ。意識していないのに似てしまうなんて、そういう好みまで遺伝したのかな。  ううん、たぶんそうじゃない。私はきっとあの家が気に入っていたのだと思う。大きくもないし豪華でもなかったけれど、寒さを感じさせないあの家が好きだった。  そこで愛情を持って私を育ててくれた両親のことも。思い出すだけで心が温かくなって、思わず笑みが零れそうになる。  今私が部屋に帰ってきてドアを開けて「ただいま」と言っても、「おかえり」と返してくれる人はいない。  でも寂しくはないんだよ、父さん、母さん。  私が暮らすこの街には親切な人がたくさんいるし、私を気にかけてくれる友達も仲間もいるの。  それにね、この街以外にもそういう人がいるんだよ。私のことを気にかけて、気にかけすぎて小言ばっかり言う人がいるの。もう子供じゃないのに、最近はフルルまでその人に同調するから肩身が狭いです。  最近というほどこの頃は会えていないけれど。体力だけは有り余ってる人なので、きっと元気に過ごしてると思います。たぶん。知らないけど。  そういうわけで、私は今日も元気です。今日も一日、勉強頑張ります。  じゃあ、行ってくるね。  心の中で祈りを捧げると、私は高い青空の広がる街の通りに向かって部屋のドアを開けた。  朝起きて準備を済ませた私が向かう先は大抵アウテリーナ宮殿だ。その中の〈図書の間〉で本を読むのが日々の日課となっている。  読む本のジャンルは様々だ。物語に伝記、歴史書や図鑑に、最近は料理のレシピ本なんかも手に取ってみたりする。  どんな本を開いても、そこには自分の知らない世界が広がっている。その世界の主人公となって新しい知見を得られるのが本の素晴らしいところだと思う。  私が今日手にしたのは、ダナの古い歴史書だった。その場でパラパラとページをめくり、大体の内容を確認していると、不意に隣に立つ影に気が付いた。 「おはよう。今日も熱心だねえ」  声を掛けてきたのは同い年の友人だった。私以上に朝に弱い彼女はふああと大きな欠伸を一つして、涙の滲む目を擦る。 「おはよう。また夜更かししたの? 目の下のクマ、隠せてないよ」 「あたし夜型なんだもん。でも今日は朝から本の整理するから早く来てって言われちゃってさあ」  彼女はこう見えて〈図書の間〉の司書でもある。(朝は特に)ぼうっとしている印象の強い彼女ではあるが、その知識と本への愛情は確かなものだ。 「整理するのは好きなんだけど、まだ頭が働かなくて……リンウェルとおしゃべりして目を覚まそうかなあって」 「ちょっと、人を目覚まし時計みたいに扱わないでよ」  まあいいけど、と少し笑いながら意識をはんぶん友人の方へと傾ける。 「リンウェル、最近また小難しい本ばっかり読んでるよね。何の本探してるの? 最近読んだっていうダナの星霊術関連?」 「そう。たぶん相当古い記録だろうから、ほとんど残ってないと思うけどね。少しでも手掛かりないかなあって探してるとこ」  少し前、街の商人から古い本を買った。表紙が気に入って買ったものだったが、中にはなんと大昔のダナの星霊術についての記述があった。  それが気になって、私は調査を始めた。もうほとんどお伽話となってしまったそれの出所はどこか、他に言い伝えはないのか調べることにしたのだ。  今手に取った本には直接そういった記述は見当たらない。でも中には星霊術としか考えられないような現象の目撃例もいくつか記載されていた。 「これ参考になるかも。ちょっと借りていこうかな。ほかにもこういうのあればいいんだけど」 「あたしも整理しながら探してみるよ。見つかったら教えるね」 「ありがと、助かる!」  強力な助っ人の出現に心も弾む。これで調査ももっと捗りそうだ。  そうした私の様子を見て友人が言った。 「いいなあリンウェル。毎日充実してるって感じで」 「そう?」 「うん、毎日楽しそう。羨ましいなあ。あたしなんか毎日同じことの繰り返しだし」  はあ、と友人は小さくため息を吐く。 「あたしも何か個人的に調べ物でもしようかなあ。その方が生活にハリが出そう」 「いいと思うよ。目的があった方が本探しも楽しいし」  私も手伝うよ、と言えば、友人はふにゃりと笑って「じゃあちょっと考えてみようかな」と言った。 「そろそろ戻るね。ありがと、目覚ましに付き合ってくれて」 「お役に立てたなら良かった。お仕事頑張ってね」  うん、とひらひら手を振って友人は去っていく。その後ろ姿は心なしか、さっきよりも背筋が伸びているようにも見えた。 〈図書の間〉で見つけた本を抱えて宮殿を出ると、買い出しに向かうためそのまま市場の方へと向かった。食料が思いのほか減っていたことに今朝になって気が付いたのだ。  最低限の野菜とお肉、そしてお米を少しだけ買い足した。本当はもっと欲しかったけれど、自分一人で持てる量には限りがある。今日は重たい本も抱えているので仕方なくの妥協案だ。  そうして家に戻って、荷物を置くと同時にはあと深い息を吐いた。額にはうっすら汗をかいている。疲れた、ちょっと運動不足かもしれない。  思えば最近街から出ていない。それどころかほとんど毎日家と宮殿の往復で、そのほかのルートと言えばたまに今日のように市場をぐるっと回るぐらいのものだ。前に外に出てフィールドワークをしたのは一体いつだろう。少なくともひと月以上は遺跡に行っていない。 『いいなあリンウェル、毎日充実してるって感じで』ふと友人の言葉がよみがえる。  確かに、それは間違っていないと思う。毎日好きな本に囲まれて、好きな研究をして、いたって健康に暮らせている。まあたまに夜更かしをしてしまうこともあるけれど。  旅をしていた時とは違って戦闘もないし、毎晩屋根のついた部屋で眠りにつける。衣食住に不足はないし、環境としてもこれ以上ないくらいだ。  それなのにどうしてだろう、近頃の私はそんな毎日に物足りなさを感じている。夜ベッドに入って一日を振り返る時、「ああ今日もいい日だったな」と思うと同時に、胸に小さな穴が開いているような、抜け落ちたページがあるような、そんな気持ちになってしまうのだ。  毎日楽しいか。充実しているか。そう聞かれたなら、私は間違いなく首を大きく縦に振ると思う。その問いに対する答えはもちろんイエスしかない。  それでも私の心はすっきり快晴とはいかない。雨が降っているわけではないにしろ、辺りを照らしているはずの太陽がどこにも見えない。  その原因は一体どこにあるのだろう。  私はとうに気付いていた。日用品や食料の減りが以前より緩やかになったことも、街から出る機会が少なくなったことも。  気付いていて、見ないふりをしていた。それとこれとはまったくの無関係であると言い聞かせていたのだ。  最近ロウに会っていない。以前は仕事のついでだとか、近くまで来たからとか何かと理由を付けて現れていたのに、それがここのところまるきり姿を見せない。  私がヴィスキントに暮らすようになった当初からロウはたびたび現れては声を掛けてきたり、遺跡調査に付き合ってくれたりしていたけれど、これほど長い間会わないことは一度もなかった。ロウにも仕事があるといえばそれまでだが、こうも連絡も何もないとこちらとしては些か不安にもなってしまう。病気をしたのかケガでも負ったのか、あるいは何かに巻き込まれているのかもとか、そんなふうに考えたこともあった。  とはいえ大ケガでもすればさすがに何か知らせは来るだろうし、今のところそういったものは届いていない。病気は病気でも風邪程度なら話題にもならないだろうし、そもそも本人が風邪を自覚するかどうかすら怪しい。  つまりロウはおそらく無事で、私が心配するようなことは何もなく日々を過ごしているのだろう。あちこちを風のごとく駆け回りながら充実した毎日を送っているに違いない。  それはそれで胸を撫で下ろすとして、一方ではそれを面白くなく感じてしまう自分もいる。  元気ならどうして会いに来てくれないの? 何か理由があるの?  手紙を書くにしても言伝を頼むにしても、ただの「元仲間」がそんなメッセージを送るのにはなかなか壁が高いことも悩みの一つだった。  街でキサラに会ったのはそんな時だった。〈図書の間〉から家に戻る途中、釣りの帰りだった彼女と偶然出くわしたのだ。  世間話の最中、盛大にお腹を鳴らした私にキサラは魅力的な提案をしてくれた。それは自宅に昼食を食べに来ないかというあの頃の仲間なら誰だって心躍るものだったが、すぐに頷いたのは少し軽率だったかもしれない。  何せキサラは忙しいのだ。護民隊の教官としてだけでなく、他にもヴィスキントの街の運営や交易にも携わっていると聞く。貴重な休暇に家を訪ねるどころか料理までさせてしまうなんて、配慮が足りていなかったようにも思う。  あるいはそれくらい自分の心にも余裕がなかったのかもしれない。ひとりでいるのが寂しくて、話を誰かに聞いてほしくて、ついついキサラに甘えてしまったのかもしれない。  そんな私にキサラはきちんと気が付いていた。自分でも言われるまで気が付かなかったのに、やっぱりキサラは人をよく見ていると思った。  私はキサラに素直な心を打ち明けた。最近ロウと会っていないこと。心にぽっかり穴が空いたようであること。  その穴を寂しさと呼ぶのかは分からない。けれど、確かにこの胸に何か違和感がある。  キサラはそういうことを思わないのかな。自分たちよりもずっと会える機会は限られているはずだけれど、我慢できているのかな。訊ねてみると、キサラから返ってきたのはやはり「次会う時を楽しみにしている」という大人な答えだった。  いいなあ。私はまだそんなふうに考えられない。目の前の『今』のことばかりを考えてしまう。  キサラたちが大人だから前向きでいられるのかな。それとも二人が特殊なだけ? どちらにしたって羨ましい。私もキサラのように心に余裕を持ちたい。  そんな私にキサラは声を潜めて言った。 「どうしても我慢できなくなったら、こちらから会いに行くというのも一つの手だぞ」 「……!」  私は衝撃を受けた。それってつまり……!  口を開きかけた私を制して、キサラが人差し指をそっと口に寄せる。その仕草がとてもきれいで優しくて、私は言おうとした言葉をそっと心の中にしまうことにした。  家に帰る道を歩きながら、私はキサラからのアドバイスを思い出していた。 『我慢できなくなったら、こちらから会いに行くのも一つの手』  さっきはキサラの思わぬ告白に驚くばかりだったけれど、よく考えてみればこの方法は目からウロコかもしれない。  会いに行けばいいのだ、私から。別にロウを待ってばかりいる必要なんかない。いつもとは逆に私がカラグリアに向かえばいい。どうしてこんな単純なことに今まで気が付かなかったのだろう。  むしろ〈紅の鴉〉みたいな組織に所属していない分、私の方が身動きがとりやすい。〈図書の間〉の本を読めなくなることは寂しいけれど、それも少しの間の辛抱だ。この心のもやを払ったらすぐに戻ってくればいいだけのこと。  そうと決まったら私の行動は早かった。数日分の着替えや手回り品を鞄に詰め、明日の馬車の出発時刻を調べた。いつかロウから聞いたことがあったような気がしたが、ヴィスキントから直接カラグリアに向かう馬車は少ないようだった。今回はとりあえず一旦シスロデンに向かって、そこからカラグリアのウルベゼクを目指すことにした。  準備を進めていると、半開きになった窓から風が入ってくるのを感じた。振り向くとフルルがその隙間を押し上げて部屋に入ってきたところだった。 「おかえり、フルル。仲間とのお散歩楽しかった?」 「フル!」  白い翼をはためかせてフルルが声を上げる。私の「おかえり」に返事をしてくれるのは今はフルルだけだ。 「フゥルル!」 「風が気持ちよかった? そうだね、今日は天気も良かったもんね」  うんうんと頷いていると、フルルが私の手元に視線を向けた。荷物の詰め込まれた鞄を見て首を傾げている。まるで「どこかに行くの?」とでも言うみたいに。 「そうだ、フルルも行く? 久々に街の外に出ようと思うんだけど」 「フゥル!」  もちろん! と言わんばかりにフルルが目を細める。そう来なくちゃ、私たちはいつでもどこでも一緒の仲良し家族なんだから。 「行先はカラグリアだよ。ロウに会いに行くんだ」 「フル……!」  その瞬間、フルルの表情が固まったのを見て「しまった」と思った。  カラグリア、ロウ。フルルの苦手な場所と、あまり好かない奴の名前が挙がれば当然そういう反応にもなる。 「な、長居するってわけじゃなくて、ちょーっと顔見たら帰ってくるよ。暑いのは私も苦手だしね。でもフルルが辛いなら別に無理しなくても……」 「フル、フル」   いや、大丈夫。覚悟を決めた強いまなざしでフルルは言った。 「フルゥル」  いつまでも目を背けてちゃいけない。この辺で克服しておかないと。その(鳴き)声からは確固たる決意が伝わってくる。 「そっか……なら私もそれに応えないといけないね」  私も強く決心する。絶対にロウを驚かせてやろう。何も知らせずにいきなり現れて、ロウに一泡吹かせてやるのだ。  私たちは熱い気持ちを胸に見つめ合い、頷き合った。  そうこうしているうちに窓の外では日がすっかり傾き始め、もうすぐ夕暮れを迎えようとしていた。  翌日は朝食と着替えを済ませると宮殿へと向かった。しばらく家を空けることになるならあらかじめ誰かに知らせておく方がいいと思い、司書を務める友人に伝えることにしたのだ。彼女なら共通の知人も多いし、何か聞かれた時には上手に説明してくれるだろう。ヘンにおしゃべりでもないため、みだりに触れ回ることもきっとない。  とはいえ理由付けには少し困った。昔の仲間に会いに行くと正直に言っていいものかどうか。彼女にはロウの話題を出したこともあるし、なんでもないふうに話せばいいのだろうけれど、「なんで今?」と言われたら上手く答えられそうにない。だからといって「調査のため」なんて嘘をつけば後で「結果はどうだった?」と聞かれてしまうだろうし――。  散々悩み、正直に理由を述べることで覚悟を決めたのに、彼女が返してきたのは「そっか、気を付けてね」の一言だけだった。 「……そ、それだけ?」 「あ、お土産期待してるよ。鉱石がたくさん採れるんだよね。あたしアクセサリーとか好きだから」  好きな色は赤色、とおまけのようにつけ足して、彼女は私を見送ってくれた。  拍子抜けすると同時に心もふっと軽くなった。もうこれで憂いはない。あとは用意した荷物を持ってカラグリアに向けて出発するだけ。  昼過ぎに街を発つと、馬車は軽快に街道を越えていった。海洞の近くに新たに整備された道を通ってシスロディアに入る。予想通りの気温だったけれど、それも昔と比べたらそこまで寒さは感じない。フルルもフードの中だと少し暑いくらいなのか、私の膝の上で昼寝をしていた。  シスロデンに着いたのは夕方だ。今日はここで一泊して、翌日に備える。  翌朝の出発はまだ夜も明けきらない頃だった。遠くの空がほのかに白むのを横目に眺めつつ、馬車に乗ってシスロデンを出る。  シスロディアからカラグリアまでの道はメナンシアの間ほど整備が進んでいない。環境が厳しいのもあってなかなか人手が足りていないのだ。  そんな話を昨晩夕飯を食べた店で聞いた。メナンシアとの交易が安定して食料には困らなくなってきたが、カラグリアとはまだそうもいかない。あっちで採れる燃料はここでは重宝するから、早いとこ南側の整備を進めてほしいなあ。どこかのテーブルから聞こえてきた声だ。  願っているだけでは叶わない。本当に求めるなら自分から動くべきだ。いつか誰かが口にしていたことが思い出される。  それでも、自分の力だけじゃどうにもならないこともあるだろ。そういう時に少しでも手伝えたらなって思うんだよな。頭使うことは無理でも、ズーグルを追っ払うことくらいは俺でもできるからな。  以前そんなことをロウが言っていたっけ。一緒に食事を摂りながら自分の志について話していたことがあった。  ズーグルを追い払うことだって誰にでもできることじゃない。誰もが戦えるわけじゃないんだよ。ロウってばいつも変なところで自信がないんだから。もっと自分に胸張ってればいいのに。  当時の私は密かにそんなことを思った。直接そう言ってあげられれば良かったものの、面と向かって口にする勇気だけがどうしても持てなかった。  あれこれ考えているうち、周りの景色は白色から赤色へすっかり様変わりしていた。いつの間にか国境を越えていたらしい。  ウルベゼクに着いたのは昼前だった。思った通り気温が高く、吹く風に混じる砂粒が素肌を刺した。久々に来たけれど、やっぱりここは他領より段違いに厳しい気候だ。 「フルル、大丈夫?」 「フル~……」  フルルはカラグリアに入った途端、私の膝の上で溶けかけたアイスクリームのようになっていた。できるだけ日射しを避けようとフードの中へと逃げ込むが、それはそれで分厚い布が暑苦しいらしい。すっかりしょぼくれてしまった顔にはもう一昨日の気合なんか見る影もない。  とりあえずロウを探そうと思ったが、その向かう先に心当たりはなかった。かといってウルベゼク中を探し回っていればフルルが完全に溶けてしまう。  誰か知っている人はいないかと、私は〈紅の鴉〉の拠点を訪ねることにした。階段を上った先で慰霊碑に祈りを捧げ、すぐ隣の建物を覗き込む。  中を見回してみて、見知った顔を見つけた。今現在〈紅の鴉〉の取りまとめ役をしているネアズだ。  声を掛けようとした時、先にネアズがこちらに気付いた。 「あんたはロウの、」 「こんにちは。急に来ていきなりだけど、ロウはいる?」  その瞬間、背後で「リンウェル!?」と大きな声がした。  振り向くと、ロウが入口のところに突っ立っていた。大きな目をさらに丸くし、口をあんぐり開けたままで。 「ロウ、いたいた。探したよ」  言うほど駆け回ってはいないけれど、探していたのは事実だ。ほっと胸を撫で下ろし、ロウの元へと駆け寄る。  再会は実にひと月以上ぶりだ。もしかしたらふた月近いかもしれない。これほど間が空いたのは初めてのことだ。  なのにロウは私の顔を見るなり、 「な、なんでお前がここにいんだよ」  とものすごく焦った顔をしてみせた。 「なんでって、ロウが来ないから私が来てあげたんじゃない。何にも連絡寄越さないから」 「うわっお前、ここでそういうこと言うなって!」  私の口を手で塞ぎそうな勢いでロウは私を建物の外へと連れ出した。強引に手を引かれるまま、ネアズに「ありがとう」も言えなかった。  あまり人目につかないところまで来ると、ロウはようやく私の手を離した。 「そんで、何の用だよ」  ため息を吐きながらの物言いには少しカチンときたけれど、もしかしたらロウは動揺しているのかもしれない。もしそうならロウを驚かせる作戦は大成功といったところだ。  それでも用はと聞かれると返答に困った。私は咄嗟に、 「べ、別に用はないよ。ないけど、強いて言うなら友達にアクセサリーでも買おうかと思って」  と適当に取り繕う。ロウに会いに来たなんてそんなこと、とても言えそうになかった。 「はあ? なんだよそれ。そのためにわざわざ来たってのか?」 「そうだよ。いいでしょ、別に。カラグリアのためにもなるし」  我ながらちっとも可愛くない。これでは恩を売りに来たと言っているようなものだ。 「まあいいけどよ。お前、行くあてはあんのか? 宿とか部屋とか」  そう聞かれてはっとした。フードの中身が微かに揺れる。 「そうだ、フルル。フルルがへばっちゃってるからどこかで休みたいんだけど、いい場所ない?」  そっとフードの中を指し示すとロウはそれを覗き込み、やれやれと息を吐いた。 「宿の部屋で休めって言いたいとこだけど、あそこ夕方からなんだよな。最近は混んでるって話も聞くし」 「そんなあ……」  思わず肩を落としていると、ロウはやや考え込んだ後で、 「なら、とりあえず俺が借りてる部屋で休んどけ。狭いし砂っぽいけど、日よけくらいにはなるだろ」と言った。  ロウがあまり乗り気ではないことはすぐに分かった。それでもロウは気持ちがまったくないのにそういうことを言う人ではない。 「ありがとう、助かる。お言葉に甘えて使わせてもらうね」  私がそう言うとロウは「おう」と小さく呟いて、今来た道を引き返し始めた。  ロウの部屋はウルベゼクの街から少し先に行ったところにあった。 「あちこち行くからあんまり使ってねえけど、こっちにいる間はここに寝泊まりしてんだ」  ロウの言った通り、そこはあまり広い部屋ではなかった。ちょっと埃っぽい床に小さいベッドと机が一つずつ。キッチンは簡素な作りで調理器具の類は見当たらない。奥の扉はバスルームだろうか。手前の物干しにはタオルが数枚掛けられていた。 「これ、渡しとく」  ロウがそう言って机の引き出しから取り出したのは小さな鍵だった。どうやらこの部屋のものらしい。 「必要なら使えよ。まあ、この辺りは人通りも少ねえだろうけど」  ロウはそう言うが、鍵をかけるに越したことはない。防犯面からいっても、プライバシーの観点からも。  一通り説明し終えると、ロウは仕事に戻ると言って部屋を出て行った。終わるのはどうやら夕方くらいになるらしい。  私はフルルをフードから出すと、一番涼しそうな箇所を探してそこに寝かせた。日陰になって少し元気を取り戻し始めたのか、溶けかけたアイスクリームは柔らかい大福もちくらいには復活していた。  これでひとまずは安心できそうだ。ほっと一息つくと気が抜けたのか、自分の体にも疲れがどっと押し寄せた。いくらロウに会いに来たといってもここは縁の薄いカラグリアだ。それなりに気を張っていたらしい。  おまけに今朝は早起きだった。ふああと大きな欠伸が出て、自分も少し休もうと思ったけれど、そういえばこの部屋には椅子がないことに気が付いた。  目に入ったのはロウのベッドだ。ちょっと失礼します。心の中で呟きながら縁に腰かけると、思いのほか軋む音が大きく響いた。敷かれている毛布は平べったくて、少し硬い。  毎日ロウはここで寝てるの? というか、こんなベッドで疲れが取れるの? 見た目より寝心地がいいとか? 疑念か好奇心かよく分からないものがふつふつと湧き上がってきて、とうとう魔が刺してしまった。  少し試すだけ、少し寝そべってみるだけ。誰に対してなのか分からない言い訳を頭に浮かべつつブーツを脱ぐと、私はひと息にロウのベッドへと寝転がった。どきどきと鳴り始める心臓は警報のようで、まるで悪いことでもしているかのようだ。  そんな緊張もはじめだけだった。ふと息を吸い込んだ時、なんだかひどく安心した。私はこの匂いを知っている。どこかで嗅いだことがある。どこだったっけ。どこで嗅いだんだっけ――――。そんなことを考えているうち、私はいつの間にか眠りに落ちてしまっていた。  ふと目を覚ますと、私は思わず飛び起きた。窓の外に目をやると日はまだ高く、どうやらそこまで時間は経っていないようだ。  ほっと息を吐きながら辺りを見回す。そういえばロウの部屋に来てるんだっけ。ロウの部屋。ロウが毎日生活している部屋……。  それにしては生活感が薄いけれど。まあ本人も「寝泊まりしている」と表現していたし、暮らしているという感覚とはちょっと違うのかもしれない。  それでも毎日使う場所には変わりない。だったらもう少し気分良く過ごせるようにしてもいいと思うんだけどな。  そこで一つ閃いた。ロウが仕事から戻ってくるまでにこの部屋を掃除しておいてあげるというのはどうだろう。床も窓も埃っぽいし、洗濯物もその辺に放りっぱなしだ。それらをきれいにして片付けておけば、ロウはきっと驚くに違いない。  よし、と思い立ったが、なんとこの部屋には掃除用具が存在しなかった。箒もバケツも雑巾の一枚さえ見当たらない。戸棚を片っ端から開け放ってようやく見つけたのは、食器を洗うスポンジ一個だけだった。 「あまり使っていない」と言ってはいたものの、まさかここまでだなんて。ちょっと呆れながらもそのくらいは買い足しておいても問題にはならないだろうと思い、私は街に買い物に出ることにした。お腹も空いているし、ついでに昼食も買って来よう。  フルルには留守番を任せ、ロウの部屋を出た。もちろん鍵はしっかりとかけて、戸締まりは万全だ。  街まではそう遠くない。先ほどロウと歩いた道をそのままなぞるように戻って行く。  雑貨屋で掃除用具を買い、食堂に寄ってサンドイッチを持ち帰り用に包んでもらった。食後のデザートとしてグラニードーナツを買いにココルの元へ向かおうとした時、向こうの階段から見覚えのある人物が下りてくるのが見えた。  ロウだ、と思うと同時に、その隣を歩く女の子に目がいく。――誰?  年齢は自分たちと同じくらいか、少し上だろうか。後ろでまとめた髪がよく似合うはつらつとした感じの女の子だった。  ロウは私の存在には気付かず、女の子と会話を交わしながら表情をころころと変えていた。真顔から焦ったような表情になったかと思うと、続いてホッとしたような顔になる。そしてまたいくつか言葉を発し、最後には楽しそうに笑っていた。思えばこれが、私が今日初めて見るロウの笑顔だったかもしれない。  一連の流れを見て、どうしてか私はすっかり気落ちしてしまった。ドーナツも買わずに元来た道をふらふらと引き返し、気付けばロウの部屋の前へと戻っていた。  鍵を開けそのままベッドに座ると、ぼうっとしたままお弁当のサンドイッチを食べた。見た目はとても美味しそうなのに、口にすると味がよく分からなかった。ただレタスが口の中でシャキシャキ音を立てる。 「フルー!」 「あっ」  フルルはといえば、カラグリアのサンドイッチが気に入ったようだった。ちょっと目を離した隙に具材のチキンが食べ尽くされてしまい、私の昼食はただの野菜サンドになってしまった。 「こら、偏食はダメって言ってるじゃない。食べすぎもダメ」 「フル……」  あからさまにしょげているフルルだけれど、そういう無邪気なところが可愛いと思う。天真爛漫なフルルを見ていると、まるでこっちの邪気まで払われるかのようだ。  うん、さっき見たことは忘れよう。せっかく掃除道具を買いに行ったんだから、せめて無駄にしないようにしよう。  そう心に決めると私は残りのパンを頬張り、ジュースでそれを流し込んで立ち上がった。  ロウの部屋をきれいにするにあたって一番大変だったのは床の掃除だった。床といっても木造りのメナンシアの家とはずいぶんつくりが違う。もうほとんど外と同じような土の上に壁と屋根を付けただけの建物なので、どこを床と呼んでいいのか分からない。  とりあえずベッド周りや机のあたりを集中的に箒で掃くと、おびただしい量の砂が出てきた。自分はついさっきこの中で眠っていたのかと思うとちょっと背筋が震えた。  床の掃除は早々に諦めて、次に窓や机を雑巾で拭いた。やっぱりこちらにも砂が多く、雑巾はすぐに土色になったが、窓や机は床とは違って目に見えてきれいになるのが分かった。  一方で部屋の片付けにはそこまで時間はかからなかった。まずそもそもこの部屋には物が少ない。自分の部屋とは違って本などの趣味のものもほとんど見当たらない。  だから片付けといってもその辺に転がっている洗濯物を畳むだけで良かった。ついでに物干しのタオル類も片付けてあげよう。  衣服やタオルを広げていると、その中にいくつか裾がほつれているものや穴の空いているものを見つけた。靴下は親指の付け根の部分が大きく破れていて、もはやそこから指が出せてしまいそうだ。  繕ってあげたかったが、生憎今日は道具を持ち合わせていなかった。自分の部屋ならキサラのお下がりの裁縫セットが置いてあったのに。  肩を落とすと同時に、こんなになるまでロウは頑張っているんだなと感心した。タオルだってきちんと洗濯はされているものの、使い古されて表面がゴワゴワしている。新しいものを買えばいいのにそうしないのはお金がないからか、あるいはまだ使えると踏んでいるからか。  服の穴だって、私のところに来た時に言ってくれれば縫ってあげるのに。そりゃあキサラみたいに上手くは繕えないかもしれないけれど、そのキサラに習ったのだから多少は信頼してくれてもいいのにな。  そんなことを考えながらふと思った。今のこの状況はとても不思議だ。ロウの部屋で掃除やら片付けやらをしながらその帰りを待つ。穴が空いたロウの衣服をどう繕うか考えている。  昔似たような光景を見たことがあったような気がした。そうだ、あれは私がまだ幼い頃、父さんが出かけている間に母さんが編み物をしていた時だ。母さんは私に「夕飯何にしようか?」と訊ね、あれやこれやと案を出しているうちに家の扉が開いて、父さんが「ただいま」と戻ってきた。母さんが「おかえり」と言って父さんのコートを暖炉の近くに掛けて、父さんの帰りを喜ぶ私はその背中に飛びついていた。  その瞬間、家族、という言葉が頭に浮かんでくる。今のこの状況はあの時の私たち家族にちょっと似ている気がした。かたやあっちは雪深いシスロディア、かたやこっちは熱風吹き荒れるカラグリアで暖炉も本棚もない部屋なのに、どうしてか私はそんなことを思った。  そうすると母さんが私で、当時の私がフルル? なら父さんは、ロウ? それってつまり――――?  たちまち頬に上ってくる熱をかぶりを振って振り払う。待って待って、今考えるべきはそういうことじゃなくて。 「フル?」  そんな私の様子を見て、隣にちょこんと座っていたフルルが首を傾げた。 「な、なんでもないよ」  私はそう言ってフルルの羽をひと撫でする。そう、なんでもない。これはただの私の妄想。  妄想だけど。現実とは違うけれど。  ちょっとだけ、ほんの少しだけ、そういう未来を見てみたい気もした。    ◇  ロウが仕事から戻ってきたのは空がオレンジ色になってからだ。ドアが数回叩かれる音に続いて「おーい」と聞き慣れた声が聞こえた。  ドアを開けると、ややくたびれた姿のロウが立っていた。ズボンの裾は少し土を被っている。 「おかえり。お仕事お疲れ様」 「ただいま。はあー、今日も疲れたぜ」  首やら肩やらをぐるぐると回しながらロウが部屋へと入ってきた。 「……あれ?」  ロウは辺りを見回すと、小さく首を傾げた。鈍感なロウといえど、見慣れている部屋の変化にはすぐに気が付いたらしい。 「なんか様子変わったか?」 「えへへ、分かった? ロウがいない間にちょっと掃除しちゃった」  私はどうだ、というふうに胸を張り、見せびらかすようにした。部屋はきっとそれなりに実感できる程度にはきれいになったはずだ。  ところが、ロウの反応は思ったものとはずいぶん違った。 「お前、勝手に……! な、なんか変なモンとか無かったよな!?」  私の言葉を聞くなり、ロウは急に焦り始めた。この顔を見たのは今日二度目だ。こんな短時間でよくもまあそんなに何度も慌てられるものだなと思う。  それとも何? 何度も慌ててしまうような何かを隠しているの? 私の訝しげな視線にはロウはまったく気付いていない。 「特になかったけど。この部屋、物自体が少ないし」 「はーびびった。焦らせんなよな、ったく」  ほっとしたような、その中に少し苛立ちも混ざっているような口調でロウが言った。 「そんで、お前ら夕飯はどうすんだ?」 「あ、それなんだけどね」  私は部屋を掃除しながら思いついた妙案を口にした。 「私が作ってあげようかなって」  急に訪れた私たちにロウが店を予約しているとは思えない。夕飯をどうするか訊ねてきたあたり、ロウもまだ考えあぐねているのだろう。  だったら私が腕を振るうというのもやぶさかではない。部屋を使わせてもらったお礼代わりと言っては何だけど、夕飯の用意くらいなら私にもできる。ロウはきっと仕事終わりで疲れているだろうし、これからわざわざ街まで逆戻りさせてあちこち案内させるというのも気が引けた。 「作るって、場所はどうすんだよ」 「それはここでいいんじゃない?」 「狭いだろ。それに道具もねえし」 「鍋とか無くても作れるものにすればいいじゃん。サンドイッチとか」  昼間も食べたばかりだったが、それは具材を変えれば問題ない。ハムや卵など選択肢はいくらでもある。 「包丁かナイフくらいあれば作れるよ。買うのが面倒なら借りてきてもいいし」 「それこそ面倒だろ」  ため息を吐きながらロウは言った。 「いいから、どっか外に食いに行こうぜ」  その表情には明らかに煩わしさが滲んでいた。この顔を見るのも二度目だ。ここへ着いて休みたいと言った私たちにこの部屋を案内してくれた時に続いて。  ロウと再会してまだ半日も経っていない。それなのに私はもう何度もロウにそんな顔をさせてしまった。  今までこんなことはあったっけ。いや、心当たりはない。少なくとも、私の記憶の中では。  ロウはいつも笑っていた。時折私の不摂生に怒ったり呆れたりすることはあっても、それが長く尾を引いたことはなかった。  私だけでなく、誰に対しても明るく朗らかに接するのがロウだ。なのに今日は違う。ほかの人には穏やかにしていても、私にはそうじゃない。私だけに笑ってくれない。  その時、あまり考えたくなかった可能性が頭を過った。見ないふり、知らぬふりをしてきたそれが今、とうとう私の眼前に突き立てられる。 「私、来ちゃダメだった……?」  ぽろりと零れ落ちたのは、心の片隅にあった消えない疑念だった。 「来たら迷惑だったかな……?」  そんなことを口にする私を見て、ロウがぎょっとしたように大きく目を見開いた。  カラグリアに着いた時から、ウルベゼクでロウに再会した時からうすうす感じてはいた。  もしかして、私歓迎されてない? ここに来たらまずかった? 「ち、ちが……!」  ロウは慌てて何かを言おうとするけれど、その口から次の言葉は出てこない。何も言えないならつまりはそういうことじゃないの?  喜ばれるものと思っていた。  だって私はロウに会えると嬉しいから。ロウが会いに来てくれるのをいつも心待ちにしているから。  だからきっとロウも同じだと思っていた。  でもそれは思い込みで、大きな勘違いだ。自分がそうだからといってロウも同じ気持ちであるとは限らない。自分にとっては嬉しいことでも、ロウにとってはそうでないかもしれない。  メナンシアを出る前によく考えるべきだったのだ。ロウがどうして自分に会いに来ないのか。  忙しいから、時間が取れないから。それ以外にだって理由はあるかもしれない。例えば、他に好きな子ができたからとか。  それこそすぐに思いつきそうなものなのに、数日前の私はまったくそんなこと考えもしなかった。ロウが会いに来ないのは単に仕事のせいだとばかり思い込んでいた。  だったら自分が会いに行けば解決する。ロウはきっと喜んで私を迎えてくれて、前みたいに一緒にご飯を食べながらおしゃべりできるはず。  それも私の浅はかで考えの足りていない思いつきに過ぎなかった。なんて自分勝手で自意識過剰なんだろう。ひどく恥ずかしい。おまけに惨めで情けなくて、今すぐこの場から消えてしまいたい。  それなのになかなか体は動こうとしない。まるで足が鉛にでもなってしまったかのように、靴の底が床に貼りつけられてしまったかのように持ち上がらなかった。 「……帰るね」  ようやくそう口にして、私は自らの呪いを解いた。手早く荷物をまとめ、鞄を手にして立ち上がる。  部屋を出ようとした時、かくんと視界が揺れた。腕を後ろに強く引かれる感覚。 「待てって!」  振り返ると、ロウがこちらを見つめていた。困ったような、悲しそうな、あらゆる感情が混ざった顔だった。 「違うんだ、迷惑なんかじゃない。ただ、どうしたらいいかわかんなくて、俺……」  ロウはそこまで言うと言葉を選びながら、ぽつぽつとそれを並べ始めた。 「お前がいきなり来て、すげえ驚いたんだよ。会うのも久しぶりすぎて、何を言えばいいのかわかんなかった」 「せっかく来たんだからなんとか時間作ろうとも思ったんだけど、仕事もあるだろ。とりあえず部屋使えって言ったけど狭いし汚えし、おまけに放置しっぱなしでこれでいいのかって思って……」 「全然余裕なくて、イライラしてた。お前にじゃなくて、自分に。なのに俺、お前に当たり散らして最低だよな。お前は部屋も掃除もしてくれたし、メシまで作るって言ってくれたのに」  本当に悪かった、とロウは頭を下げた。そのあまりの勢いに、私からはロウのつむじどころか後頭部さえ覗くことができた。  そんなロウの謝罪に対し、 「なんだ、そうだったんだね」  あるいは、 「ひどい、傷ついたじゃない!」  そんなふうに言えれば良かったのに、私はロウの言葉を聞いてもまだ何も返せないでいた。納得や怒りよりもなお寂しさや悲しみの方が勝っていたのだ。  何か言わなくちゃ。そう思っても、上手く言葉が出てこない。  言葉を胸につかえさせているうち、ふと視界に飛び込んでくるものがあった。 「フルッフー!」 「いでえっ!」  同時に上がるロウの悲鳴。フルルがロウの頭に鋭い頭突きを見舞ったのだ。 「フル! フル!」  続いてその後頭部に憑りつき、髪をむしろうとする。その勢いはいまだかつて見たことのないものだった。まるでロウの頭がカラグリアのようにはげ上がってしまおうとも一向に構わない、といった様子で。  フルル、いくら何でもやりすぎ! と止めに入ろうとしたところで、さらにそれを制したのはなんとロウ本人だった。 「いや……お前が怒るのも当然だよな」  ぴたりとフルルの動きが止まる。 「そんくらい俺はリンウェルに酷いこともしたし、酷いことも言った。お前の気が済むまでそうしてくれていい」  頭を下げたままでロウは続けた。 「けど、リンウェルに会えて嬉しかったのは本当なんだ。迷惑だなんてそんなこと、あるはずないだろ。ずっと会いたいと思ってたんだぜ」  その時、ふっと心が軽くなった気がした。  会えて嬉しい。ずっと会いたいと思っていた。その言葉をようやくロウの口から聞くことができた。 「フルル、もういいよ」  一歩近づいた私に、ロウがゆっくりと顔を上げる。 「もう一回聞いてもいい?」  もうほとんど言わせているようなものだと思いながら、私はロウに訊ねた。どうしてももう一度聞かずにはいられなかったのだ。 「私、ここに来て良かった?」  私の言葉にロウは表情を緩めて言った。 「あたりまえだろ」  それを聞いて私はやっと心の底から笑うことができた。  その後、三人(二人+一匹)で食事に行った。入ったのは、ロウが行きつけにしているという街の食堂だ。  そこは私が昼間訪ねたところとは違って、もっと大衆的なお店だった。平日の夜だというのに席もほとんど埋まっていて、私たちで満席となるくらい盛況だった。 「仕事終わりは大体ここに来るんだよ。ひとりの時もあればネアズとかガナルと来ることもある」  注文した料理はどれもとても美味しかった。安いのにそれでいて量も多い。 「ヴィスキントだとこの値段なら半分の量もないかも」 「だろうな。この店は安くて美味くて、おまけに料理が出てくるのも早いからな。俺向きってわけだ」  それにしては野菜の一部がまだ皿に残ってるんだけど。視線だけでそれを指摘してやれば、ロウは一瞬うえっと舌を出した後でしぶしぶそれに手を付けていた。  店を出た私たちが向かった先は宿屋だったが、そこで思いもよらないことを言われた。 「すみません。今日は満室です」  私は思わず「えっ」と声を出し、ロウは隣で頭を抱えた。 「最近はかなり混んでるって聞いてたけど、まさか本当だとはな。こんなとこの宿が埋まるわけねえだろって高くくってたぜ」  私も自分の見立てが甘かったことを反省した。次来るときはきちんと宿の予約を取ろうと思った。 「ねえロウ、」  私は声のトーンを一つ上げて、 「泊めて?」  ロウにそうお願いした。  ロウは頭を掻きながら、 「……なんとなく、こうなるんじゃねえかなって気はしてたけどよ」と深く息を吐く。 「それって、期待してたってこと?」 「ち、違えよ! 嫌な予感は当たるって言ってんだよ!」 「嫌な予感、ねえ……」 「フル……」 「あ、いや、それも違うけど……!」  慌てるロウの様子をフルルと視線を合わせて笑い合う。ようやくいつもの私たちに戻ったようで、私はこの居心地の良さを噛み締めていた。  ロウの部屋に戻ると、私はシャワーを借りた。今日一日で纏った砂やほこりの量は相当のものだ。それらを全部石鹸で洗い流してやれば身も心もすっきり軽くなった気がした。  休む準備を一通り済ませると、私はロウのベッドの前に立った。 「じゃあお邪魔するね」 「おう……」 「壁側使わせてもらうから」 「おう……」  ロウの視線を感じながらシーツと毛布の間に潜り込む。とはいえカラグリアは夜中も暑いくらいなので、毛布はそこまで必須ではない。その用途といえばお腹を隠すか顔を隠すかくらいのものだろう。  仰向けになってちらりとロウの方を見やれば、その表情にはいまだ躊躇いがありありと見て取れた。落ち着かない視線と、何か言いたげな口元。そこまで緊張されるとこっちにまで感染ってしまうのに。  私が壁の方を向くと、ようやくロウの気配が近づいた。ベッドが二人分の重さで軋んだと思うと、腰のあたりにかかっていた毛布が不意に引っ張られる。布の擦れ合う音がやけに大きく部屋に響いて、やがて静寂が私たちを包んだ。  背中にはロウの体温を感じていた。ぎりぎり触れ合ってはいないけれど、確かにすぐそこに自分でない存在がある。かつて旅の途中、戦闘だったり料理当番だったり触れる機会は何度もあったはずなのに、今はそのどれよりもロウに近づいている気がした。ただ背中合わせになって同じベッドに入っているだけ。それなのにどうしてそんなふうに感じるのだろう。 「お前は……平気なのかよ」  ふと後ろで呟くようなロウの声が聞こえた。戸惑っているようで、ちょっと拗ねているような、そんな声だった。  私はふふっと笑って、 「平気じゃないよ」  と言った。 「えっ」 「慣れない土地にフルルと二人旅で、おまけに頼りにしてた人からは冷たい扱い受けるんだもん」 「だ、だからそれは本当に悪かったって……」  今にも消え入りそうなロウの謝罪に私のイタズラ心はすっかり満たされた。 「ウソウソ。もう気にしてないよ」  とはいえ半分くらいは本気だ。本気で、あの時はもう帰ってしまおうと思った。 「それに、私もロウのこと何も考えてなかったなって反省した」  思えば余裕が無かったのは私も同じだ。ロウを驚かせたい、喜んでもらいたい一心で周りのことが見えていなかった。ロウの立場になって考えることをしなかった。 「何も知らせずにいきなり現れたら当然驚くよね。それが目的ではあったんだけど、それより喜んでくれるんじゃないかって自分基準で考えてた」  そう自分で口にしながら、改めて情けなくなってくる。 「部屋も勝手に掃除なんかしてごめん。ロウにだって見られたくないものの一つや二つあるよね。本当、独りよがりだったと思う」  背後でロウが「いいや」と呟く。 「お前が来てくれたことももちろんだけど、掃除にも感謝してるんだぜ。自分じゃやらなかったと思うし。本当にされたくないならそう言えばいい話だしな」  ロウは明るい口調で言った。 「俺の場合は好きにしてくれていいってことだ。別にお前に見られて困るようなもんは置いてねえと思うし。……たぶん」  最後の部分だけ見事に小声になったロウに、思わずふふっと笑い声が漏れた。どこまでも格好がつかないところが実にロウらしい。 「確かに変なものは置いてなかったけど、服は破れてたよ。何枚かはもはや風穴が空いてたね」 「げっ、まじかよ。やけに風通しが良いなって思ってたんだよな」 「カラグリアならいいかもしれないけど、シスロディアだと風邪引いちゃうよ。今度うちに持っておいでよ。繕ってあげる」 「いいのか? 金払えないぜ?」 「ちょっと、私を何だと思ってるの? 買い出しとか遺跡探索に付き合ってくれればそれでいいよ」 「結局タダじゃねーじゃねえか」  そう不平を言いつつも、「まあそれならいつもと変わんねえか」とロウが小さく笑ったのが分かった。  と同時に、欠伸を噛み殺すような声も聞こえてきた。私も段々瞼が重たくなってくる。  まだ起きているうちに聞いておきたいと思った。思い切って寝返りを打つと、咄嗟に振り向いたロウの顔がすぐそばまで迫る。 「リ、リンウェルさん……?」  戸惑うロウに、私は訊ねた。 「さっき、私は平気なのかって聞いたよね。あれって、どういう意味?」  ロウの目がこちらを捉えたまま、大きく見開かれる。 「もし平気って言ったらどうなってたの? 逆に平気じゃないって言ったら? ロウはなんて返してくれたの?」 「それは……その……」 「……」 「あー……、っと……」  もごもごと何かを言いかけて、言おうとして、喉のすぐそこまで出かかった言葉をロウは、――飲み込んでしまった。重なっていた視線は逸らされ、その辺を不自然に泳ぎ始める。  私は知っている。こうなってしまったロウはこれ以上何も言えないままか、あるいは話題を変えてしまうかのどちらかだ。  私は心の中で大きなため息を吐いた。今夜もやっぱりダメみたい。  私はふっと笑うと、「まあ、平気かどうかはともかく、安心はしてるんだけどね」と言った。 「あ、安心?」 「フルルがいるんだから、変なことは起きないってこと」  フル、と頭のすぐ上で声がする。ここからきちんと見張っていますよと言わんばかりに。 「あ、変な気って言った方が良かった?」 「お、起こさねえよ! 起こすわけないだろ!」  辺りに響き渡らんばかりのその反応には一体喜んだらいいのか、悲しんだらいいのか。  私は苦笑半分で再び寝返りを打つと、緩んだ口元を毛布で隠して睡魔に身を預けたのだった。  翌日、ロウは丸一日休暇を貰ってきた。どうやらネアズが「せっかくだから街を案内してやったらどうだ」と気を利かせてくれたらしい。私はその心遣いが素直に嬉しかったが、ロウの方は「また後でツケ払わせられるんだろうな……」と遠い目をしていた。  朝食を軽く摂った後で、私たちは街を散策した。最近増えたという商店には見慣れないものも多くあり、その中で私は友人への土産を探した。購入したのはもちろん、カラグリア産の鉱石を使ったアクセサリーだ。小ぶりとはいえ存在感のある真っ赤な石があしらわれていたが、司書が胸元にひっそり忍ばせるくらいなら許されるだろう。  ネックレスをプレゼント用に包んでもらっている私を見て、ロウは少し驚いていた。どうやら昨日私が言ったことは半分くらい出まかせであると思っていたようだ。 「なにそれ、ひどくない? 私が嘘言ったと思ったの?」 「そうじゃねえけど、お前がこういうのがあるのを知ってるって思わなかったんだよ。買ってきてほしいとも言わねえし」  なるほど。ロウがカラグリアを拠点にしているのを知りながら強請らないので、こういうのには興味がないと思われていたのか。 「じゃあ今度買ってきてよ。高価なものじゃなくていいから」 「な、なんでだよ。だったら今選べばいいだろ」 「ロウが選んだのが欲しいの。色もデザインも任せるから」  そう言うと、ロウはとうとう観念して頷いた。これで次に会う時の楽しみがさらに増えた、と密かに笑ったのは内緒だ。  ほかにも商店や露店をいくつも回ったが、どの店の店主も皆親切だった。それもそのはず、誰もがロウのことを知っているようで、中には「彼女とデートかい?」と声を掛けてくる人もいた。そのたびロウは「違うって!」と全力で否定するのだが、同時に私の機嫌も悪くなっていく原因にはあまりピンと来ていないようだった。  街を歩いている途中で昨日目撃した例の女の子にも出くわした。彼女はロウの同僚らしく、年が近いことで仲が良いのだそうだ。よく互いに相談をしたり、悩みを打ち明けたりするのだという。  それを聞いて内心警戒していたけれど、彼女には年上の恋人がいると知って一安心した。曰く「同年代の男は頼りがいがなくてダメ」なのだそうだ。 「あいつ気強えからなー……ネアズにもくってかかってくし」  それはなかなかだね、と言おうとしたところで、自分たちはもう一人そういう女性を知っているなと思った。  それから街を出ると、ロウの案内で荒野を進んでいった。岩山の間を抜け、高台を上った先で目の前に広がったのは、切り開かれた広大な土地と、そこにぽつぽつと建ち始める住居用の建物だった。 「最近はこの辺の開拓してんだよ。元々ズーグルだらけだったんだけど、それを追っ払ってさ。少しずつだけど、人も増えてきてるんだぜ」  ロウの言う通り、辺りにはそこに暮らす人々の姿もちらほら覗いていた。買い出しから戻る女性、元気に走り回る子供たち、それを見守る老夫婦――――。  新しい土地に新しい家が建ち、新しい街が作られようとしていた。街の復興は世界各地で見てきたはずだけれど、この光景はそのどれとも違った。〇が一になるまでの過程を見るのは初めてのことだった。 「なるべく急ぎたいってことで手伝ってたんだ。それでなかなか外にも出られなくてよ。気が付いたらすげえ時間経ってて……」 「……そうだったんだね」  出た言葉は納得というよりも、感嘆に近かった。ロウはきちんと自分の役目を果たしていた。いつか言っていたように、世界をより良くするためのお手伝いをしていたのだ。  それをこうして実際に目の当たりにして、私は心の底から感動した。同時に尊敬もする。その努力と献身はやっぱり誇れるものだと思う。 「なかなか会いに行けなくてごめんな。忘れてたわけじゃないんだぜ。でも連絡するったってどうしたらいいかわかんねえし……」  どうせなら直接会いに行こう、でも休みがなかなか取れない、それをどう伝えようか。結局はそれらの堂々巡りだったらしい。  思い悩むロウの姿が目に浮かぶようで、私は思わず笑った。 「ロウは手紙も言伝も苦手だもんね」 「なんかどっちも恥ずかしいだろ! 手紙は字書くの苦手だし、言伝は誰かに聞かれたくねーし」 「そういうところがロウっぽいよね。でもいいじゃない。ケガも病気もしてなかったんだし、こうしてまた会えたんだから」  正しくは手段を新たに得た、というところか。私たちが会う場所は何もメナンシアに限らなくていいのだ。  私は生まれたての街を眺めながら、足元の切り立った崖に腰かけた。風には砂が混じるのに、今はそんなこと気にもならない。むしろ心地よいとさえ思っていると、フルルも同様だったのか、ふわりと羽をはためかせ宙返りをしていた。嬉しそうに目を細めている様子はかなり上機嫌のようだ。  ロウも私と同様、崖の縁に腰を下ろした。そうしておもむろに後ろに両手をつき、空を仰ぐ。前に垂らした一房の前髪がカラグリアの砂風に揺れていた。  そんななんてことない仕草が背後に広がる風景に調和していた。ロウにはやっぱりこの地がよく似合う。 「どうかしたか?」  ロウがこちらの視線に気づいた時、自分もロウを長く見つめていたことに気が付いた。 「な、なんでもない」咄嗟にそう答えはするものの、不自然に逸らしてしまった視線はその返答にはふさわしくない。 「と、ところで、今のお仕事はあとどれくらいで終わりそうなの?」  誤魔化すための問いとしては上出来だったと思う。ロウは私の動揺にはちっとも気付かず「そうだなあ、」と頭を悩ませる。 「もうしばらくは終わんねえだろうな。ちょうど今軌道に乗ってきたとこだし」  それを聞いて私は内心がっくり来てしまった。本来なら喜ぶべきはずのところを喜ぶことができない自分にも、同じくらいがっかりした。 「けど、休みは取れるようになると思うぜ。人が増えてきたってのは住民だけじゃなくて、手伝いの奴らもそうなんだ。一緒に働いてくれる奴が増えりゃ、俺らも楽になるからな」 「じゃあ、また前みたいにメナンシアにも来れるってこと?」 「そうなるな。まあ俺の場合はまたそっちに行く仕事に戻るってことになるだろうけど」  護衛の仕事も相変わらず多いからな、とロウは言った。 「そっか……」  それを聞いて今度はほっとしてしまうなんて、私はどこまで自分本位なんだろう。  でも嬉しいものは嬉しいのだから仕方ない。この街の人と〈紅の鴉〉の皆には申し訳ないけれど、私だってロウと一緒に過ごしたい。皆がロウを必要としているように、私にもロウが必要なのだ。 「それにしたってここの手伝いはちょっと忙しすぎるぜ。報酬も弾むって言われてつい飛びついたけど、まさかここまで休みが取れないもんだとは思わねえだろ」  脱力しながらロウは言った。 「確かに金は貯まったし、思ったよか目標にも早く届くかってとこだけど、外にも出られないんじゃ意味ねーだろ」  そこでふと引っかかった。 「目標? ロウ、お金が要りようだったの?」  私の言葉に、ロウははっとした表情を見せた。 「あー……いや、別に、」  あからさまに慌て始めたロウに、私はすかさず詰め寄る。 「欲しいものでもあったの? 買わなきゃいけないもの?」  確かにロウの部屋にはタオルやら靴下やら穴だらけのものはたくさんあった。でもそれらを買い変えるのにいちいち目標金額を立てる必要があるだろうか。 「あ、新しい装備とか? 何か見つけたの?」  欲しい装備がある時も、ロウはわざわざお金を貯めるようなことはしない。とりあえず誰かに借りるか立て替えてもらって、あとで返していくことが多いのだ。それでも手が届きそうにないものの場合は潔く諦める。 「誰かへの借金……じゃないよね。また賭け事したなら怒るよ」 「そ、そうじゃねーけど……要りようっつーか、要りようになるかもしれないっつーか」 「かもしれない?」  一歩も引き下がらない私に、ロウは観念したように言った。 「……アルフェンが」  ロウの口から出てきたのは私たちが慕う兄貴分の名前だった。まさか今、その名前が出てくるとは予想もしていなかった。 「アルフェンが言ってたんだよ。新生活には金が要りようだって」  かくしごとを暴かれたかのような不本意そうな顔でロウは呟いた。  確かに、いつか街で出くわしたアルフェンがそんなようなことを言っていた気がする。シオンと暮らすにあたって家具の他にも食器や雑貨、日用品など買うものがたくさんあった。新しい家での生活っていうのはお金がかかるんだな。  勉強不足だったと肩を落としながらも、次の瞬間にはキサラに節約法の教えを乞おうかと意気込んでいた辺り、やっぱりアルフェンは前向きだなと感心したものだ。  でもそれとロウの貯金と、一体何の関係があるというのだろう。そう思っていると、 「いつになるかわかんねえけど、もしいつかそういう日が来たとして、金がなかったら困るだろ」  ロウは視線を逸らしつつ、そんなことを口にした。  私は衝撃を受けた。ロウの口からそんな言葉が出てくるなんて。  同時に、確かめたいと思った。 「そういう予定、あるんだ」 「予定っつーか、……希望」  みるみる声を小さくするロウに、私はその距離をひとつ縮めてみる。 「……誰と?」 「……今言わせんのか?」  私は何も言わず、黙ってロウの目を見つめた。  逃げないでほしい。揺れないでほしい。お願いだから、今だけは逸らさないでほしい。  ただじっと真っすぐ、願うようにして。  ロウは「あー」とか「うー」とか言った後で立ち上がり、かと思うとその場にしゃがみこんだ。 「リンウェル」 「うん」 「俺は、お前がいる家に帰りたい」 「……うん」 「どこ行っても何してても、お前が待っててくれるって思うとすげえ力出る。頑張れる」 「うん」 「だから、いつか俺と一緒に暮らしてほしい」  一緒に。シオンたちみたいに。父さんと母さんのように。同じ家で一緒に暮らす。 「うん。いいよ」  私は迷わず頷いた。どんな毎日になるか想像もつかない。でも一緒に暮らす相手はロウ以外に考えられない。 「私も、そうだったらいいなって思う。ロウと毎日顔合わせられたら、一緒に過ごせたらって」  何度も思った。ここに来る前も、来た後も。ロウの部屋で洗濯物を畳みながら、もしそうなったらと頭の中であれこれ考えた。 「一緒にいるなら、ロウがいい。ロウとフルルと、同じ家で暮らしたい」  三人一緒ならどんなに素敵な日々だろう。食事も買い出しもお出かけも楽しくなるに決まっているし、苦手な早起きだって悪くないと思えるかもしれない。  そんな毎日なら大歓迎だ。想像だけでも胸が弾んでしまいそうな日々をただの〈希望〉〈願望〉にしておくのはもったいない。 「約束したい。私とフルルとロウは、いつか一緒に暮らすんだって」 「……いいのか?」  いつになるか分かんねえぞ、と零すロウの気持ちも分かる。でも、 「だからこその約束でしょ? 待たせてる、なんて思わないでよ。そもそも私が黙って待ってると思う?」  待てなくて、我慢ができなくて、メナンシアを飛び出してきた私だ。しびれを切らしたならすぐにでもロウに詰め寄るに違いない。 「だから約束しよう。予約でもいいよ。私の家はロウの家。ロウの家は私の家」  そう言うと、ロウはふっと表情を緩めた。 「お前のはともかく、俺のは家とは違うだろ。それに、三人で住むならもう少し広くないとな」  うん、と私は大きく頷く。 「暖炉と本棚は欲しいな。寝室には大きいベッドに、フルルの止まり木」  フル! とフルルが同意の声を上げる。 「それとキッチンはあまり広すぎても使いこなせないから、ほどほどでいいよ。私用の机は大きければ大きいほどいい!」 「ほとんどお前の希望になりそうだよな。まあ俺は筋トレできる場所があればそれでいいぜ」 「フル、フル」 「フルルが手伝う、だって」 「手伝うって、まさか上に乗るんじゃねえだろうな。お前、あの杜の奴らくらいになるんだろ……?」  フッ、と笑うフルルは今からその時を心待ちにしているようだ。その光景が目の前に浮かぶようで、私も思わず小さく笑う。  こんな日々がいずれ私の毎日になるのだと思うとときめきが止まらない。その時こそ、私は友人に胸を張って言えるだろう。「毎日楽しくて、毎日充実してるよ!」一〇〇%、心の底からの気持ちで。 「はあー、肩の荷が下りたら腹減ってきたな。何か食いに行こうぜ」  ロウがそう言って立ち上がる。 「何か食いたいもんあるか? お前はいつものドーナツか」 「あ、そういえばまだこっち来てから食べてないんだった! ココルにも会いに行かなきゃ!」 「へえ、そんな珍しいこともあるんだな。腹でも壊してたのか?」 「違うし! っていうか、元はと言えばロウのせいなんだけど!」 「え、俺?」  罰として奢って! と言えば、ロウは仕方ねえなあと頭を掻いた。フル! というフルルの声はきっと、自分の分も! という主張だ。  ロウとフルル。これが私の家族。家族になる人たち。  フルルはもう家族だけど、ロウはこの先のどこかでそれに加わる。そういう約束をした。  ロウは私にとって、そういう約束をしてもいいと思える人。約束をしたいと思った人。  父さん、母さん。突然だけど、大切な人を紹介します。  この人はロウ。旅の途中で出会った仲間の一人で、今はカラグリアで復興のために働いています。  見た目の通り賢くはないけど、それでも真っすぐで嘘のつけない人です。あれこれ迷いながらも目標に向かって突き進む人でもあります。  そして何より、私をいちばん私として見てくれる人です。私のいいところも悪いところも全部知っていて、その上で一緒にいてくれる、一緒にいたいと言ってくれます。  これまでロウに救われたことが何度もあったの。だから今度は、これからは私がロウを支えてあげたいと、そんなふうに思っています。  父さんは反対するかな? 母さんもびっくりするかもね。  ロウと私、そしてフルル。三人で頑張っていくから、どうか見守っていてください。  私の密かな祈りは、乾いた風に乗ってどこかへひらひら飛んでいく。それはきっと野を越え山を越え、はるか遠くの二人の元へ届くに違いない。  私はこれからメナンシアに帰って、元の生活に戻っていくのだろう。〈図書の間〉で本を読み、研究をしながらロウの訪れを待つ毎日に。  少し違うのは、私たちの間には約束があるということ。いつか同じ家で暮らし、日々を共にするという約束だ。  おはよう、おやすみ。ただいま、おかえり。そんなありふれた挨拶が当たり前に部屋に響くようになる。それらが揃う日がいずれやって来る。  私は首を長くして待っている。ロウが部屋のドアを叩くのを。第一声が「ただいま」に変わるその日を。  そうして私は駆け足で出迎えるのだ。 「おかえり!」  その言葉を口にできる幸せをぐっと心の中で噛み締めながら。 終わり