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境界線上で待つ

一話

 ロウと出会ったのは、サークル後の宅飲みでのことだった。
 夏、期末試験明け。土曜日、週末の夜。微量とはいえアルコールも入っていた。
 だから、私はその時ちょっとどうかしていたのかもしれない。気分が高揚して、まともな判断ができなくなっていた。
 あるいは、気が狂っていたのは初めからだったのかもしれない。ロウと出会うもっと前から。新しい一歩を踏み出した時から。少しずつ少しずつ、私の心は擦り減っていった。

 大学入学。都会の街での一人暮らし。真っ新なところから始まる新生活。膨らんだボールのように弾んだ心持で迎えた四月も、今では随分と遠い昔のことのように思える。
 あの頃は良かった。毎日が楽しくて、キャンパスに向かうたびわくわくした。今日のはどんな授業だろう、どんなことを教えてもらえるのだろう。無垢なまま、無知なまま、目にするものすべてが新鮮で輝かしいものに思えた。
 自分が抱いていたものが幻想であったかもしれないと気付き始めたのは、入学して割とすぐのことだった。五月の連休が明ける頃には授業にも慣れていたが、同時にそれがほとんど決まりきったルーティンであることに気が付いた。
 高校時代とそう変わらない大きさの教室で講義を受け、出席カードを提出して次の講義に向かう。毎日、毎時限、その繰り返し。
 授業が懇切丁寧かと問われたら決してそうではなかった。それなのに質問をする隙もなければ、教員側もそれを受けようという姿勢は見られない。分からないことがあれば自分で調べろ。それがだいたいの共通認識なのだ。
 私は授業についていくので必死だった。こんなものを周りのみんながすぐに理解できているのかと思うと悔しくてならなかった。でもどうやらそうではなかったらしい。
 みんなの関心はもっと違うところにあった。日々の遊び、アルバイト、サークル活動。授業なんか、試験さえ何とかなればいい。単位が取れさえすれば、卒業できさえすればそれでいいのだった。
 大学生ってこんなものか。正直、私はそう思った。
 もちろん真面目な層は一定数いる。でもそれはすこぶる勉強ができるか、あるいはそういった活動に興味がない人たちだった。
 私もそうやってなりふり構わず勉学に励めたら良かった。自分の夢に向かって、知りたいことをとことん突き詰められたら良かった。
 でも私にはその肝心の夢がなかった。その夢を探しに、こうして大学生になって都会に出てきたのに、今自分がしていることは何だろう。
 そう広くもない自分の部屋にはサークルの先輩方が酒瓶よろしく転がって、すやすやと寝息を立てていた。テーブルにはビールやらカクテルやらの空き缶が十数本。アルコールとつまみの匂いが入り混じる部屋は、換気扇をいくら回しても循環が間に合わない。
 よくもまあ他人の部屋でこれだけ無防備に眠っていられるものだ。そんなことを思う自分の手元にも缶チューハイの空き缶が一本転がっている。たとえ度数が低くてもそれは何の免罪符にもならない。
 部屋のゴミ箱にはプラスチック製のトレーがいくつも積み重ねるようにして捨てられていた。誰かが屋台の焼きそばや焼き鳥を買ってつまみ代わりに持ってきたのだろう。いくらあちこち駆けずり回ろうとも、そういうことは忘れない人たちなのだ。
 今夜は――正確には昨夜だが、サークル活動の一環で地域のお祭りの手伝いをしていた。名目上ボランティアサークルを名乗っている私たちはこういった催しやイベントの運営を手伝ったり、あるいは公園や河川敷のゴミ拾いをしたりしている。多くは代表がそういった話を持ってきて、メンバーに参加を募るという形だ。
 今回のお祭りは毎年手伝いをしているもので、今年もぜひお願いしたいと頼まれたらしい。メッセージにてその告知が来て、私は「参加します」と返事をした。何とか期末試験も乗り越え、提出すべきレポートもおおむね片付いたので目途が立ったのだ。
 私が参加すると聞いて「一緒に行こう!」と同じサークル仲間である友人が言ってくれた。本音を言えばひとりでは心細かったので心からほっとした。どうやらこれでひとりぼっちということはなさそうだ。
 安心して当日を迎えようとしたが、事は起きた。前日の夜のことだ。
 サークルの先輩から送られてきたメッセージを見て、私は一瞬めまいを起こしそうになった。
『お願いがあるんだけど、明日の宅飲み場所にリンウェルちゃんの部屋貸してくれないかな?』
 なんでも、元々使う予定だった部屋の持ち主の都合が悪くなり、今日の手伝いには来られなくなったという。
『駅から近くて場所も分かりやすいし、近くにスーパーもあるからいいかなって思ったんだけど、どうかな。もちろん無理にとは言わないよ!』
 都合が悪かったら言ってね、と付け加えられてはいたが、先輩にそんなことを言われて拒否できるわけがない。私は悩んだということも悟らせないようほとんど間を置かずに『大丈夫ですよ』と返事をしたのだった。
 その後は急いで部屋を片付けた。といっても、スペースを空けるために邪魔なものを引き戸で仕切られた寝室に放り込んだだけだ。酒に酔った誰かが間違って寝室を開けてしまった場合を想定して、それらは布で目隠しをしておいた。これならぱっと見、そこまで散らかっているようには見えないだろう。
 何せ私は片付けがあまり得意ではない。ひとり暮らしを始めてまだ数か月だというのに1Kの部屋には既に物が散乱している。足の踏み場もないとまではいかないが、このままではそれも卒業までに現実になりかねない。
 つり下がっていた洗濯物を取り込み、キッチンの生ゴミを処理し、水回りをそれっぽく掃除したところで日付がとうに変わっていたことに気が付いた。祭りの準備は八時からだ。寝坊するわけにはいかないと私は急いで寝る支度を済ませると、そのままベッドへと潜り込んだのだった。
 そうして迎えた朝は電車に乗った時からあくびを連発していた。会場最寄りの駅で友人と待ち合わせた時も「随分眠そうだね」と言われた。まるで試験日の朝みたい、と。
「でも今日はお祭りなんだから、たくさん楽しまないとね!」
 はしゃぐ友人は明るくて人当たりが良くて、まさに今どきの大学生といった感じの子だ。たまたま最初の語学の授業で席が隣になり、知り合った。同じ学部に女の子はあまり見かけないため、私たちはすぐに連絡先を交換した。
 彼女はとても要領が良い。てきぱきとして、時間の使い方に無駄がないように見える。というのも、時折彼女が開く手帳には毎日予定がびっしりと埋まっていた。「やりたいことがたくさんあって、毎日時間が足りないよ~」というのは、ほとんど彼女の口癖だ。
 今は欲しいものがあってアルバイトに力を入れているらしい。時間の折り合いがつかない時は代返をお願いされたこともあった。「今度私がリンウェルの代返するね」と言われたけれど、私はまだそれを頼んだことはない。
「おっ君たち、来てくれたんだ」
 会場に着いて早々、声を掛けてくれたのは3年次の先輩だった。彼はこのサークルの代表でもあるが、周囲の男性と比べると比較的小柄で童顔のため、私と友人は密かに「童顔先輩」と呼んでいる。
「今日はあまり人数揃わないから助かるよ。結構働いてもらうかも」
「えっ、休憩時間はありますか?」
 先輩相手に臆せず思ったことを尋ねられるのが友人のすごいところだ。私だったら絶対そんなこと聞けない。
 それでも童顔先輩は気に留める様子も見せず、
「そこはあまり心配しなくていいよ。応援も頼んだし、忙しいのは多分祭りの前後だろうから。最中はそれなりに時間取れると思う」と言った。
「なら良かったです。お手伝いももちろん頑張りますけど、お祭りも楽しみにしてきたので!」
 無邪気で人懐こい笑みは友人の得意技だ。これを見た人は大抵毒気を抜かれてしまう。
「はは、そうだよね。今日は天気もいいし、最後まで楽しめそうだ」
 童顔先輩は視線を遠くに向けながらそんなことを言った。
「そういえば今夜の宅飲みの場所、リンウェルちゃんが代わってくれたんだって?」
 童顔先輩の言葉に、「えっ、そうなの?」と友人までもがこちらに視線を送ってくる。
「えっと、まあ、そうなんです」
「昨日話ついたって聞いてさ。ごめんね、急に。先輩から言われたら断れないでしょ」
「いえ、そんなことないです。私もいつも皆さんのお宅にお邪魔してるわけですし」
 私は小さく手と首を横に振った。
「まあリンウェルちゃんの部屋は立地が良すぎるからなあ。せめて毎回は頼まないようにって僕からも言っておくよ」
 じゃあまたね、と言って、童顔先輩は去っていった。
「毎回とか無理だよね。掃除も大変だもん」
 ぼそっと呟くような声で友人が言う。
「リンウェルの部屋が会場なら、私が準備も片付けも手伝うからね。酔って寝ちゃったら、起こしてくれていいから!」
 そうして手を握ってくれた彼女を、その時の私はどれだけ頼もしく思ったことか。
 今、彼女は私の部屋の片隅で穏やかに寝息を立てている。その口元にはかすかに笑みをたたえているようにさえ見えた。
 きっとお祭りにはしゃぎ、手伝いにはしゃぎ、飲み会にはしゃいで疲れ果ててしまったのだろう。それでも幸せそうな表情を浮かべているあたり、本当にタフな子だなと思う。
 それでも、いくら起こしてもいいとあらかじめ言われていたとしても、祭りを一緒に過ごし、宅飲みの準備まで手伝ってくれた彼女を揺り起こすことは私には憚られた。どうせ片付けといっても缶やら瓶やらを集めてゴミをまとめるだけだ。みんなが眠っている間にさっさと済ませてしまえばいい。
 私は静かに立ち上がると、近くにあったブランケットを友人の足元にそっとかけた。ほかの人にはそうしてやらないが、このくらいの贔屓は許されるだろう。
 手元にあった空き缶を拾って、先輩方の屍を避けながらテーブルに寄った。並んだ缶は見事にどれも口が開いていて、一本たりとも残す気はなかったと見える。
 呆れつつ何本か空き缶を手に取ろうとした時、ふとそばで動く影に気が付いた。
「手伝うぜ」
 そう言って一緒に缶を集めてくれたのがロウだった。その時の私はまだ、ロウの名前を知らなかった。
 缶のひとつを拾い上げたロウは、一瞬顔をしかめた。
「これ、まだ中身残ってるな」
 そういう缶はほかにも何本かあった。
「なら、キッチンで中身捨てよっか。ついでに少しすすいでくれると助かる、かな」
 分かった、と頷いたロウと二人、シンクに並んで缶を洗った。時計は三時半を回っている。流れていく水の音が静まり返った部屋にやけに大きく響いた。
 私は缶に水を注ぎながら、この人は誰だろうと思った。この部屋にいるということは飲み会の参加者、つまりはサークルに所属しているメンバーのはずだ。だがこの人はこれまでの活動の中で会ったことがない。それは確信があった。だってこんな目立つ髪色をした人なら忘れるはずがない。
「あの、同じ大学の人ですか」
 思い切ってそう聞いてみた。知らないまま知ったふうな顔をするより、知らないということを正直に言った方がいいと思ったのだ。
「初めて会いますよね。学部は?」
 そう訊ねると、ロウは小さく笑って、
「いや、俺は違うぜ。大学生でもねえし、サークルにも入ってない」と言った。
「え?」
「応援で呼ばれたんだ。人足りないから手伝ってくれって。高校ん時の同級生でさ、あいつ」
 ロウがしゃくった先では童顔先輩が猫が丸まるように寝ていた。
「祭り終わって帰ろうとしたら、今から打ち上げやるからってひっぱられてよ。悪いな、部外者が勝手に加わっちまって」
「いや、そんなことは……」
 十人が十一人になろうとあまり変わらない。店で飲むのとは違って宅飲みではこういった融通がきくところが良いと先輩たちは言っていた。
 ロウはそこで初めて名乗った。ついでに敬語も敬称も要らないと言った。
「タメ口でいいぜ。そういうの、苦手でよ」
 先輩の同級生ということは年上。少なくとも二つ。
 ここはきちんとした方がいいのでは。一瞬そんな考えも過ったが、言う通りにしようと思った。なんとなく、ロウに敬語は似合わない気がしたのだ。
 私も軽く自己紹介をした。
「私はリンウェル。理学部一年」
 言ってから、相手が大学生でないことを思い出した。ロウの方もよく分からない、といったふうに首を傾げている。
「リガクブ? って何するとこなんだ?」
「えっと、理系なんだけど、数学とか物理とか、そういうのの研究をするっていうか」
「実験とか?」
「そう、そんな感じ」私は慌てて相槌を打つ。
「何を実験するんだ?」
 唐突な問いには思わず詰まった。
「……さあ……?」
 今度は自分も首を傾げる番だった。実験の授業は一年次からも組み込まれているが、それは後期に入ってからだ。
 そんな私の様子を見て、ロウがぷっと噴き出す。
「なんだよ、自分でも分かんねえのかよ」
「だ、だってまだそういう授業やってないから。今はほとんど英語とか数学とか、座学ばっかりだし」
「うわ、よくそういうのできるな。俺にはぜってームリ」
 うえっと舌を出すロウは嫌悪感を微塵も隠さなかった。
「俺頭悪ぃから、座って勉強とかムリなんだよな」
「じゃあロウは今何してるの? 専門学校生とか?」
 いいや、とロウは首を振る。
「フリーターって言やあ多少はマシだけど、何もしてねえ時もあるからな。ほぼニート」
 えっ、と顔が引きつりそうなのを堪えて、「そうなんだ」と言った。
「でも安心しろよな。自分の食い扶持くらいは稼いでるぜ」
 別に心配してない、と言おうとして胸を撫で下ろしそうになったあたり、やっぱりどこかで心配していたのかもしれない。ロウがこんなふうに片付けの手伝いをしてくれるような人であったからこそなおさら。
「何かやりたいことでもあるの?」
「へ?」
「ほら、そういう生活する人って夢があったりするじゃない。音楽で食っていきたいとか、役者になりたい、とか」
 私の問いに、ロウは少し考えた後で「そうだな」と小さく笑った。
「前の俺は何かあったかもな」
「前は?」
「今は、忘れちまった」
 どういうこと? と思わず首を傾げたが、ロウは何も言わなかった。口元に笑みをたたえて、微笑んでいるだけ。
「お前こそ、夢とかあんのか? 大学入るくらいだから、何かあるんだろ」
 痛いところを突くなあと思った。それでも私は隠すことなく、「ない」と言い切った。
「ない? そうなのか?」
 私はうんと頷く。「ないから、探しに来たの。大学でも入れば何か見つかるかと思って」
 かつての自分はまさに希望を胸に抱いていたのだ。でも現実はそう単純じゃなかった。
「……結構頑張って入った学校だったんだけどね」
 大学は勉強するところ。自分のやりたいことを探して、それに向かって努力するところ。そう思っていた私は、実際に入学してみて肩透かしを食らった。
 真面目に勉強している人はごく少数で、みんなはどれだけ楽に、効率よく単位を取得するかに躍起になっている。遊びに、バイトに、サークルに、目の前の今を楽しむことに夢中だ。
 自分はそういう人たちとは違う。そんなふうに考えていた時期もあった。でも違った。
「サークルにも、本当は入らなくても良かったんだ。ただみんなの話題についていくためのネタが欲しかったの」
 自分の進みたい方向も分からず、毎日流れに身を任せるばかりの私も結局、例にもれず〈大学生〉の一人なのだった。
「でも正直、ボランティアっていうより飲みサーに近いよね。毎回活動の後に宅飲みして、朝まで騒いで。次の日朝から授業でもこういうことしたりしてるんだよ」
 大学生が聞いて呆れてしまう。本業はどうした。高等教育は。机に座っていればいいのか、という言葉はそっくりそのまま自分へも返ってくる。
「思ってたのと違うなあって。正直がっかり」
 零れた笑いは少し乾いていた。自分でも分かるほどのそれにはっとする。
「ご、ごめん、変なこと言っちゃった」
 目の前のロウはぽかんとしていたが、すぐに小さく笑って、「いいや」と言った。
「毎日頑張ってりゃ愚痴も出るだろ。俺で良けりゃいくらでも聞くぜ」
「別に、いくらでもってことはないけど……」
 私は小さくなりながらも、話を聞いてくれるというロウの厚意につい甘えてしまった。私たちはキッチンの隅で声を潜めながら話をした。普段は何をしているとかアルバイトの話とか、ごく他愛もない話題ばかり。
 ロウとのおしゃべりは思いの外楽しかった。友人たちには言えないこともロウ相手になら打ち明けられた。それはロウが大学生でもなくサークル仲間でもない、外の人間だったからかもしれない。
 そうしているうちに時間は過ぎ、気が付けば始発が動き出す時刻になっていた。
「そろそろあいつら起こすか」
 ロウが童顔先輩を揺り起こすと、それに次いで周りの先輩方も次々と目を覚ました。みんなが荷物をまとめ始めると、にわかに辺りが騒がしくなる。
 その中で目を覚ました友人は、ひどく申し訳なさそうな顔をしていた。
「リンウェルごめんね、私昨日寝ちゃって」
「ううん、大丈夫。昨日は忙しかったもんね、疲れてたんだよ」
 私の言葉に、友人はもう一度「ごめんね」と手を合わせる。
「でも、部屋は片付いてるね。リンウェル一人でやったの?」
 私はううん、と首を振った。
「それは……ちょっと手伝ってくれた人がいたんだ」
 視線を向けた先では、ロウが童顔先輩と話をしていた。こちらの様子には気が付かず、自身もまた荷物をまとめているようだった。
 私はみんなを送るため、財布と鍵だけを持って外に出た。
 駅の前まで来ると童顔先輩が、
「じゃあここで解散ということで。リンウェルちゃん、部屋ありがとうね」と言った。
 それに続き、他の先輩方も「ありがとー」と声を上げる。いえいえ、と私は軽く手を振り、笑顔を作った。できればもう二度とごめんだと密かに願いながら。
 何人かは駅の方、何人かは別の方向へと向かってそれぞれ帰っていった。友人も「じゃあまた学校でね!」と手を振って駅の方へと去っていった。
「なあ」
 そうして声を掛けられて驚いた。振り返ると、ロウがまだ残っていた。
「あれ、家この辺なの?」
 私がそう問うと、ロウは「あーいや、まあ」と言葉を濁す。
「それより、朝メシ行かねえか?」
「え、朝メシ?」
「どっか近くのファミレスとかで」
 急にそんなことを言われ一瞬戸惑ったが、確かに空腹は感じていたので「いいよ」と頷いた。
 二人で店に入ると、空いている席に向かい合わせに座った。メニューを開き、適当にモーニングのトーストセットを注文する。
 何か話でもあるのだろうかと思ったのに、ロウは料理を待つ間も、それを食べる間も、特に何も話さなかった。手元の端末をいじったり、時折窓の外を眺めたりしては、その合間に一瞬私の方にちらりと視線を向けるだけ。
 それの意味するところは何だろう。ロウの意識がこちらに向くたび私の緊張は高まるのに、ロウは結局食事を終えるまで何も言わずじまいだった。
 もしかして本当にご飯を食べに来ただけ?
 そう思った時、ロウが突然「本題なんだけどよ」と言った。
「俺と付き合わね?」
 あ、と思った。心臓の鼓動が大きくなると同時に、やっぱり、とも思った。高まった緊張は期待そのものだったのだ。
 むしろ期待しない方がおかしい。朝食を食べに行くのに元々知り合いである童顔先輩ではなく、敢えて私を誘うあたり何かあると言っているようなものだ。
 とはいえ万が一もある。自分の勘違いでなくて良かったと、私はひっそり胸を撫で下ろした。
「ひとつ聞いてもいい? 理由は?」
 私が問うと、ロウは視線を僅かに宙に浮かせた。
「理由は……話してて楽しかったってのもそうだけど、」
 頭を掻きながら、ロウは呟くように言う。
「お前、毎日楽しくなさそうだし、疲れてるように見えたから」
 予想外の言葉に、私は面食らった。
「それって、ロウと付き合うと毎日楽しくなるってこと?」
「そうは言わねえけど、まあ、いい背もたれくらいにはなるんじゃねえかと思って」
 自身のためではなく、私のため? これまた予想外の返答だ。思わずふふっと笑みが零れる。
 それでも答えは決まっていた。じゃなきゃ初めからこんなところについて来たりしないし、期待したりなんかしない。
「いいよ。付き合おっか、私たち」
 私が答えると、ロウは目を見開いた。
「なんで驚いてるの。そっちが言ったんじゃない」
「いやまあそうだけど、まさかOK出ると思わねえだろ」
 そうか、ここは普通断るのか、と思ったが、そんなことはどうだって良かった。付き合ってほしいと言われて、自分もそうしたいと思っただけのこと。他人なんかどうでもいい。
「もしかして本気じゃなかった? やめる?」
「いや、付き合う。付き合うに決まってんだろ」
 改めてよろしく、と合意に至ると、私たちは会計を済ませて外に出た。
 それからなんとなくで部屋に戻った私たちは、そのままなんとなくセックスをした。部屋のドアが閉まった瞬間、何かのスイッチが入ったかのようだった。
 私は躊躇わなかった。引き戸を開け雑然とした寝室を見せることも、その中にロウを招き入れることも。
 ロウになら見せられると思った。見せても構わないと思った。
 どうしてそう思ったかは分からない。ただ、それを恥ずかしく思わないほどには私たちは互いを知らなさすぎた。
 とはいえどうにも肌を触れ合わせるとは不思議なものだ。それを繰り返しているうち、深く体を交じらせているうち、まるでロウが以前から焦がれ続けた相手のように思えてきた。
 ロウの方も同様だったのだと思う。段々と熱っぽくなる視線は私の身を焦がし、掛かる吐息に頭がくらくらした。
 男の子とキスをするどころか交際経験すらない私が全てを正しく応対できたとは思えない。それでもロウは事が終わると、ふっと表情を緩めて私の髪を優しく撫でた。
「やべえ、」
 背に回された腕に力が入る。
「すげえ好きかも」
 それを聞いて私は心の底から安堵した。まったく同じことを考えていたからだ。
 それでもそう伝えるのは恥ずかしかった。代わりにロウの胸に身を寄せ、額を押しつける。出会ってまだ数時間の男の胸に。
 こんな姿はいくらなんでも想像つかなかっただろう。あの頃、参考書とノートしか視界に入れていなかった私には。
 でも、大学生なんてそんなものだよ。心の中で私はそっと呟く。
 あの頃の私に教えてあげたい。人はいつまでも夢を見たままではいられないのだ。