便利屋始めました
プロローグ
緑色だ、と思った。
大地を覆う草も、木々に生い茂る葉も、スカーフをはためかせる風だって、すべてが緑色に見えた。
これが豊穣の国か。どこもかしこも雪だらけで、ひたすらに暗い陰がさしてばかりの故郷とはまるで違う。ひとつ海洞を越えただけでこうも様子が変わるものなのか。
溢れんばかりの驚きと感動は、これまでの旅路で疲弊しきっていた手足をなおも動かす。むしろその足取りは、決意を固めて故郷の村を出たあの日よりもずっと軽く感じられた。
高い空には大きな鳥が舞っていた。太陽の光は目を焼くほどに眩しく、それこそシスロディア出身の自分には目を開けていられないくらいだ。
まさに日和としては申し分ない。強さを増した風は背を押してくれているようでもあり、その辺に咲いている花だって、これから新しい生活を始めようとしている自分への祝福のようだ。
目的の地は既に視界の先にある。
エリデ・メナンシアの首府ヴィスキント。遠目でもわかるほどに立派で頑丈そうな城壁は、見かけによらず柔和に移民を受け入れてくれるらしい。〈世界合一〉以前からダナとレナが手を取り合って生きているというこの街では生まれなど関係ないのだと、村を訪れていた旅商人から聞いた。といってもそれは無関心なのではなく、互いを尊重し合うがゆえのことで、つまりは垣根がないという意味なのだそうだ。
果たしてそれが事実なのかどうか、この目で確かめる時がとうとう来た。あの旅商人が嘘つきかそうでなかったか、真実を知る日が来たのだ。
そうは言うものの初めから疑ってなどいない。結局はあれもこれも逸る胸を抑えるための言い訳に過ぎず、今や世界の中心とも言われるヴィスキントには何があるのか、どんな人々が暮らしているのか胸は期待で膨らむばかりだった。
街道に差し掛かると、辺りは土の匂いに加えて生き物の匂いが混じるようになってきた。牧場が近いのだろう、それはより濃く深くなっていく。
それだけでもうこの地が豊穣の国と呼ばれる所以がよく理解できた。畑の実りもさぞ多いことだろう。肺いっぱいに吸い込んだ空気が美味しい。こういう場所で食事を摂ったら、腹も心も満たされるに違いない。青い空の下、草の上で食べるパンを想像したら空腹が加速したような気がした。
早めに街に入ろう、と足を早めた時だった。
何か唸り声が聞こえて、後ろを振り返った瞬間、それとまともに目が合った。合ってしまった。
猪型のズーグル。岩ほどもあろうかという巨体を目の当たりにして、さあっと血の気が引いていく。
――――まずい。
思った時には咆哮が響いていた。脇目も振らず、一直線にこちらに向かって駆けてくる。泥にまみれた大きな牙が鈍い光を放つ。
「ひいっ……!」
もう駄目だ――。目を瞑り、咄嗟に身を捩ろうと思った瞬間、視界の端に黒い影が過るのが見えた。
「おらあっ!」
飛び込んできた影はなんと人間だった。それもごく若い、青年の姿をしていた。
青年が振るった拳は、ズーグルの横っ腹を抉る勢いで突き刺さった。唸り声は途端に叫声へと変わり、その巨体が砂煙を上げて横道へと吹っ飛ぶ。
「そら、もう一発!」
間を置かず、青年はもがくズーグルへとどめの一撃をお見舞いする。空中から繰り出された見事な蹴りは、さながら巨大な斧を振るったようでもあった。
一連の出来事に、ただただ呆気に取られるばかりだった。手の震えはいまだ収まらず、膝の笑いは情けないほどに止まらない。
それなのに青年はというと、
「ケガなし、服の破れなし。装備に傷なし」
まあまあだな、と、体のあちこちを見回してはうんうんと頷いていた。まるでまとわりついていた小さな虫を追い払った後のような、そんな軽い調子だった。
「あんたも大丈夫だったか? 危ないところだったな」
青年は、今度はこちらに向かってそう言い、へたり込んだままの自分に手を差し出した。
「ああ、ありがとう。助かったよ」
「この辺はしょっちゅうズーグルがうろついてんだ。美味いエサが多いからな」
間に合ってよかった、と青年はにかっと笑った。なかなか逞しい体つきの彼をぐっと幼くさせる無邪気な笑顔だった。
「にしても、あんた一人か? いくらメナンシアって言っても護衛なしじゃ危ないぜ。どこから来たんだ?」
「シスロディアさ。この地で新しく商売を始めようと思ってね」
シスロデンを経由して海洞を抜けて来たのだといえば、青年は驚いたように声を上げた。
「あんな危ないとこ抜けて来たってのに、今までズーグルに遭わなかったのかよ。あんた、ものすごく運が良いんだな」
「存在感が薄いってよく言われてきたが、こんなところで役に立つとは思わなかったよ」
自嘲気味な声が漏れたところで、青年は「それなら、」と何か思いついたように言った。
「この先は俺が護ってやるよ。商売やるってんならヴィスキントに行くんだろ?」
呼吸を整え彼と同じ方向に視線を向けると、荘厳な雰囲気を纏った世界一美しいとも称される街がもうすぐそこにまで迫っていた。
城門をくぐると、噂に違わぬ街並みに感嘆の声が漏れるばかりだった。シスロデンも整備のされた街ではあるが、ヴィスキントはその比ではない。道には花が飾られ、屋台には色とりどりの果実が並んでいる。レンガを用いた鮮やかな建物は青空によく映えた。本当にここは、あの真っ白い雪ばかりが覆う故郷と同じ大地に属しているのだろうか。
感動を通り越して呆然とする自分を見て、青年は嬉しそうに笑った。
「初めてここに来た奴はみーんな同じ反応するんだ。あんたみたいに口開けて、ぽかんとしてな」
それを聞いて思わず口をぎゅっと結ぶ。誤魔化すように「君はこの街の生まれなのかい」と訊ねた。
「いいや、違う」青年は首を振った。
聞けば、彼はカラグリアの出だという。メナンシアには商人や商隊の護衛で何度も訪れていて、そうしているうち周辺の地理や情勢についても故郷と同じくらい詳しくなったのだとか。
「ここには知り合いも多いんだ。いろいろ顔が利くからって駆り出されたりしてな」
彼が所属していた〈紅の鴉〉という組織については聞いたことがあった。確か以前はレナへの抵抗組織として活動していたが、その後は街の復興のために都市計画を練ったり、各地と物資のやり取りをするためのパイプ役になったりしている団体じゃなかったか。
つまり、彼はこの若さで故郷のためにと働いていたわけか。この年になって村を出た自分とは大違いだ。
「偉いんだな、君は」
そう言うと、青年はけらけらと軽い調子で笑った。
「別に、そんな大した話じゃねえよ。都合が良かっただけだ」
それでも彼は、いつか故郷がヴィスキントのような街になることを夢見ているのだという。
「いい街だからな、ここは。食い物も美味いし、賑やかだし。兵士たちの腕もいいから安心できる」
まだまだ道半ばどころかようやく歩き始めたってところだけどな、と青年は大げさに肩をすくめて笑った。それでもその表情に翳りの一切も見当たらないのを見ると、きっと先は光明に満ちているのだろう。
青年は歩きながら街を案内してくれた。あっちの建物が宿屋で、こっちの道は反対側の城門に繋がってて、と各所を都度指さす。看板もかかっていない店のことまで知っているとは、本当にこの街に詳しいようだ。
「向こうが市場だろ。それからあっちの奥が衛兵の屯所で――」
そうは言うものの、一気にまくしたてられるとこちらの頭がついていかなかった。戸惑いが出てしまっていたのだろうか、青年はこちらの様子に気が付くとそこで言葉を止め、やってしまったというように頭を掻いた。
「悪い、いつもの調子でつい世話焼いちまった。急にあれこれ言われても困るよな」
改めて詫びを言われ、思わず首を振った。「気持ちは嬉しいんだ、ありがとう」
再び歩き出した彼の背中を眺めながら、なんとも不思議な魅力を持った青年だなと思った。初対面の自分の命を救ってくれただけでなく、こうして街まで案内してくれる親切さと、それを押しつけない思いやりを兼ね備えている。
とはいえ街道で見せた戦闘の腕も確かなものだった。素早い判断と、臆せずそれを発揮できる力。この若さでいったいどれだけの鍛錬と経験を重ねてきたのだろう。
考えているうち、彼が足を止めたのは街の中の大きな広場だった。どうやらここがこの街の中心らしい。
「階段の上が宮殿だ。何かあれば、民生局の奴らが助けてくれるはずだぜ」
青年はそう言うと、さほど大きくない鞄を肩にかけ直し「じゃあ俺はここで」と立ち去ろうとした。
「ま、待ってくれ」
思わず彼を引き止める。
「命を助けてもらったんだ、礼をさせてほしい」
その言葉に青年は首を振って笑うばかりだった。
「別にいいって。たまたま通りがかっただけだし」
「そうはいってもこっちの気が収まらない」
そう言うと、青年は少し考える素振りを見せた後で何か思いついたように言った。
「じゃあ、今度この辺で便利屋始めるからよ、あんたんとこの客にでも広めてくれると助かるな」
「便利屋?」
「おう。探し物から荷物運び、ズーグル退治まで何でもやるぜ」
青年はそう言って胸を張ってみせた。肩に付いた銀の狼が揺れる。
「……それだけか?」
「それだけって、商売で宣伝は大事だろ」
あまりに大真面目な顔で言うものだから、なんだか毒気を抜かれた気分だった。
じゃあよろしくな! とまた青年は無邪気な顔で笑い、ひらひら手を振って去っていった。金銭も乞わなければ敢えて名乗ることもない。ピンと伸びたその背中はあっという間に人波に紛れて見えなくなった。
その潔さときたら。まるでこの国に吹く爽やかな風のようだと思った。
つづく