奴隷時代、ネアズに救われた少女の話。悲恋?夢(not固定夢主)。ゲーム序盤でシオンと対峙した時の様子を見るに、昔のネアズは結構過激派だったのではと思いました。ジルファに出会って落ち着いた印象。あれで落ち着いたのか。なんとなく、天体観測が好きそう。

それは過去の光

「お前ら奴隷の命なんざ、その辺の石ころよりも軽い」
 これは両親が死んだ時、レナの兵士から言われた言葉だ。
 今でこそそれは間違いでそんなはずない、そんなことあってはならないと断言できるが、当時の私にはそう口にする度胸も、強い視線で反論する勇気もなかった。
 それどころか、それを真とすら思っていたかもしれない。辺りに石ころ同様転がっているのは人間で、それがもうすでに息絶えてしばらくが経過しているだなんてこのカラグリアでは日常のことだった。視界に入っているようで誰の目にも留まらない、あってもなくても変わらない、そんな存在。
 亡骸を弔うことすら許されなかった。せめて父か母、どちらか片方でも生き残っていれば自分と二人、兵士たちの目をかいくぐり、そうすることも叶ったかもしれない。でも両親は同時に逝った。鞭打たれる母を庇い、父も同様にされた。折り重なるようにして息を引き取った二人は最期まで互いを慈しみ、抱き合っているようにも見えた。
 無知で無力な私は、二人の亡骸の行き先を知らない。悲しみに暮れる間もなくレナの兵士がそれを回収していったからだ。放られた荷車には各地で亡くなったと見られる遺体が先にいくつも載っていた。それこそ自分たちが毎日掘っている鉱石のような扱いだ。いや、あちらは一つでも取りこぼしがあれば怒鳴られる分、より貴重で価値があるのだろう。一つや二つその辺に転がったままにされる奴隷とはわけが違う。
 そうして両親をうしなった私の肩を叩くものは誰一人としていなかった。同情の言葉を掛けることさえなく、皆その場から足早に去って行った。それも仕方のないことだ。兵士に見つかれば咎められるどころか自分たちも同じ目に遭うかもしれないのだから。
 その夜は眠れなかった。急に広くなった寝床に困惑したというのもあった。
 元より病弱な母は床に伏していることが多かった。その分父が必死になって働いてきたが、一体それの何が悪かったというのだろう。優しい両親が何か悪いことをしたのだろうか。とてもそうは思えない。「うまれを恨め」と兵士たちは口癖のように言うけれど、ダナ人に生まれてきただけで罪になるなんてそんなことがあるのだろうか。
 耐えきれず寝床を抜け出し、外に出た。この時間は働いている奴隷が少ないせいか、見張りの兵士も少ない。たとえ見つかっても夜勤の合間の休憩だとかトイレだとか言えば多少は誤魔化せるはずだ。
 あちこちで火の上がるカラグリアは夜とあっても暗闇にならない。街の方では違うのかもしれないが、この辺の鉱石が多い地域では炎のせいでずっと明るく、常に熱風が吹きすさぶ。時折岩や家屋にぶつかりごうごうと音を立てるそれは例えひとときだって静寂をもたらしてはくれない。
 それでも空を見上げれば、確かにそこに夜はあった。濃紺に散りばめられた星たちがそれを告げている。素知らぬ顔で、我関せずといった表情で星たちは天上にて毎夜のごとく光を放っていた。
 残酷だ。星はただそこに在るだけで、私たちを助けてはくれない。自分たちはいつでもいつまでもきれいなまま、上から私たちを見下している。青白い光はどこか冷ややかな視線のようでもあって、無数に降り注ぐそれが今夜はやけに痛かった。
 しばらく星空を眺めているうち、ふとどこからか聞こえてくる音に気が付いた。遠くで響く奴隷たちの採掘の音でもない。夜を荒らす風の音でもない。むしろそれを切るような、絶えることないこの熱風を断とうとしているかのような音。何度も何度も断続的に、それでいて自然のものでないと分かるそれはあばら屋が立ち並ぶ集落とは違う方角から聞こえてくるようだった。
 導かれるようにその音の元を辿った。地面から上がる炎をいくつか避けて進み、入り組んだ道を抜けたさらにその奥。少し開けたそこは大きな岩々に守られるようにして存在していた。
 そんな場所を陰から覗いてみて驚いた。そこには自分とそう変わらない年代の男の子がひとり、背丈の半分ほどもあろうかという鉄の棒を振っていた。
「何か用か」
 男の子が振り返ることもせずそんなことを言うものだから、さらに驚いた。彼は私の気配に気づきつつも、それがレナの兵士のものでないことも分かっているようだった。
「ご、ごめんなさい。邪魔するつもりはなかったの」
 そこでようやく男の子は手を止めた。こちらに向き直り、投げかけられた視線や顔立ちからやはり年の頃は同じか少し上であると判断がついた。
「こんなところで何してるの?」
「見れば分かるだろ。鍛えてるんだ」
「鍛えてる?」
 そんなことを言われてもまるでピンと来なかった。鍛えるとは普通、体の弱い者がすることだと思っていた。父も床の母に「病気が良くなったら体を鍛えないとな」とよく言っていた。でも目の前の彼はとてもそんなふうには見えない。
「どうして? 労働のため?」
「そんなわけあるか。あいつらを叩きのめすためだ」
 至極当然、といった口ぶりで彼は言った。
「あいつらって?」
「決まってる。〈光り眼〉の奴らだ」
 えっ、と声が出た。まさか、ありえない、と思った。
 レナの兵士を憎むことはあっても、それを表に出すことはほとんど禁じられていた。彼らに反抗しようとすればその瞬間、鞭打たれ、剣が降ってくる。あるいは星霊術などというわけのわからない力で焼かれ、吹き飛ばされてしまう。武力も何も持たないダナ人は強靭な装甲かつ力を持ったレナ人には敵わない。それがこの世界の常識だった。常識だと思っていた。
「できっこないって顔だな」
「でも、だって……」
「別に理解しようとしなくていい。それが普通だろうしな」
 そう言って彼は再び棒を振るい始めた。びゅん、びゅんと風を切る音が辺りに響く。
「お前は?」
「え?」
「こんなところに何しに来たんだ。見つかればただじゃすまないぞ」
 急に咎められたような気持ちになって、視線が落ちた。彼の強い口調もまたそうさせる一因なのだろう。
 棒を振る音に掻き消されそうなほどの声で私は言った。
「私は、その、少し眠れなくて」
「眠れないからって、わざわざ外に出たのか」
「今日、両親が死んで、それで」
 別に同情を買おうとしたわけでも、慰めを求めたわけでもない。頭に浮かんだことをそのまま口にしただけだ。そもそもこの地では親を失くそうが兄弟を失くそうが、それは珍しいことでもなんでもない。
「眠れなかったから、散歩に来たの」
 私の言葉に彼は少しの間手を止めた。寄越した視線は意外なほどに真っすぐだった。
「病気か?」
 私は首を振った。
「母さんは元々病弱だったけど、それが気に食わなかったのかな。鞭で打たれて、父さんもそれを庇って」
「……そうか」
 再び彼の手元から風を切る音が聞こえてくる。鉄の棒を規則的に振るいながら、彼は言った。
「言っておくけど、それは死んだんじゃない。殺されたんだ」
 思わぬ言葉に面食らった。
「お前の両親は〈光り眼〉たちに殺された。勝手に死んだんじゃない。本当なら、もっと生きてたはずなんだ」
 淡々とした口調はそれだけで私の心の深いところに言葉を沁み込ませた。
「忘れちゃいけない。親のことも、あいつらがしたことも。慣れは心を麻痺させる」
 それを聞いた途端、鼻の奥が痛くなった。目頭が急に熱くなって視界がぼやけてくる。
 忘れなくていいんだ。優しい両親がいたことも、それを奪った奴らに対するこの憎しみも。
 泣いてはいけないと思っていた。悲しむことさえ許されないと思っていた。でも、そうじゃない。
「誰かを思って泣けるならまだ心は死んじゃいない。心まで殺されてたまるか。絶対にあいつらにも同じ苦しみを味わわせてやるんだ」
 静かな声色に滲む怒りはまるで音も立てず燃え上がる炎のようだとも思った。こんな人がいたなんて。それも自分と同じような年齢なのに。
「ありがとう」
 そう言うと、彼は少し驚いたような顔をしていた。
「少し、気持ちが軽くなった」
「別に、励まそうとしたわけじゃない」
 それでも私の心はずいぶん楽になった。彼にそのつもりがなくても、そうなったという結果は変わらない。
「とはいえ眠れないからって外を出歩くのは危ないと思うぞ」
「そういうあなたはどうなの」
「俺だって毎日こうしてるわけじゃない。タイミングを見計らってるんだ」
 どうやら彼には彼なりのやり方があるらしい。
「夜はあいつらが気を抜くから好都合なんだ。長い時間寝床を空けたって誰も気づきやしない」
 とはいえ油断もできないと彼は言った。「あいつらは気まぐれで人を生かすし、殺す。機嫌が悪い時は大人しく寝床で朝を待つんだ」
「じゃあ眠れない時は? あなたならどうするの?」
「そうだな……」
 私の問いに彼は少しだけ考える素振りを見せた後で、すぐに何かを思いついたように視線を宙に投げた。
「俺なら、星を見る」
「星?」
「この辺じゃ明るくて、少し見にくいけどな。こうして棒を振りながら眺めているうち、気づいたこともある」
 そうして彼は星についてやや饒舌に語った。色や大きさが少しずつ違うこと、時間によって僅かに動きがあること。
「そうなんだ。ただきれいなだけかと思ってた」
「きれいなだけでも充分だ。汚いのは地上だけで間に合ってる」
 そう口にした彼の顔にまた少し影が落ちる。星のことを語る彼の瞳には年相応な輝きが確かに見えたのに、それが光ったのもほんの一瞬だけだった。
「ねえ、もっと星のこと教えて」
 私の言葉に彼は目を見開いた。
「今度眠れない夜があったら、その話を思い出すことにするから」
 そんな提案は嘘ではなかったにしろ、ただのその場の思い付きにすぎない。
 本当は、ただ惜しいと思っただけだ。星を好きになれなくても、その輝きを瞳に映す彼が見られなくなるのはどうにも勿体ないと思ってしまった。
 彼は呆れたように小さくため息を吐きつつも、星について知っていることを話してくれた。振るっていた鉄の棒で時折空を指しながら、自分の持ちうる知識をその日知り合ったばかりの私にも惜しむことなく分け与えてくれたのだった。

 その後、私が彼と夜に会うことはなかった。眠れない夜はもうしばらく続いたが、外に出るのはやめた。危険を冒すのは良くないというのはもちろんだが、一番は彼に迷惑をかけたくなかったのだ。自分が彼を探し回った結果、彼が兵士に見つかるようなことがあってはならないと思った。
 彼は〈希望〉だ。この世界の、私が生きる世界の〈希望〉。その〈希望〉を絶やしてはならない。だから私は二度と夜中に外を出歩くことはしなかった。彼に会いたい気持ちをぐっと堪え、天井の隙間から星を眺める。彼があの夜語ったことを思い出しては目を閉じ、朝になるのを待った。
 とはいえ自分たちは同じ奴隷だ。彼を日常で見かけることは何度かあった。働く場所は違っても寝床は思いの外近かったらしい。
 すれ違うたびに胸を高鳴らせはするものの、話しかけたことは一度もなかった。彼の方も同様だ。こちらに声を掛けるどころか、視線が重なったこともなかった。
 私が知らなかっただけで、どうやら彼は以前から反抗的だったようだ。何かもめごとが起きているとなると、大抵は彼がそれに絡んでいた。
 奴隷同士の噂話に耳を傾けてみれば、彼がほかの奴隷の仕事を奪っただとか、自分がケガをしたわけじゃないのに薬を多めに持って行くだとか、そんな話ばかりが聞こえてきた。「余計なことをしてこちらまで目を付けられるのは勘弁してほしい」「そんなのほとんど泥棒と同じだ」彼らは口々にそんなことを言っていたが、彼はそんな人ではないと私は思う。きっと仕事を奪ったのではなく代わっただけ。薬は誰か動けない人のために彼が運んだのではないだろうか。確かに彼は少々物言いがきついところもあったけれども、少なくともあの夜話した彼はそんなことをするような人ではなかった。
 実際、彼自身が私を庇ってくれたこともあった。虫の居所が悪かったのか、その兵士はたまたま目についた私に向かって突然鞭を振るってきた。
 咄嗟に目を閉じると、鋭い音が聞こえた。だが体のどこにも痛みは感じない。恐る恐る目を開けると、目の前には彼の背中があった。その向こうにはたじろぐ兵士の姿も見える。
「な、なんだお前……」
 明らかに上ずった声を上げる兵士に、彼は何も言わなかった。ただじっと前を見据え、微動だにしない。
「奴隷同士で馴れ合いとは! もういい、さっさと行け!」
 去っていく兵士を見送り、彼はようやくこちらを振り返った。
「大丈夫か?」
「う、うん、でもあなたが」
「俺はいい。この程度慣れてる」
 そうは言うものの肩には血が滲み、じわじわと服を汚していく。
「血が出てる。放っておいたら良くないよ」
 切り傷の薬なら幸い手持ちがある。兵士が去った今なら監視の目もない。
「庇ってくれたんだから、せめてお礼させて」
 そう言うと、彼は渋々ながらも提案を受け入れてくれた。
 彼の体の傷は、それは酷いものだった。一つや二つじゃない。きっとこれまでもあらゆるところで誰かを庇い、いくつも傷を重ねてきたのだろう。
「どうしてこんなことを続けるの?」私はそう問わずにはいられなかった。
「誰に感謝されるわけでもないのに」
「感謝されたくてやってるわけじゃない。俺が許せないからやってるだけだ」
 相変わらず淡々とした口調でそんなことを言うが、これでは先に体がもたなくなってしまう。
 そんな私の心配を知ってか知らずか、彼は続けた。
「俺はこんなところで死んだりしない。必ずあいつらに目に物見せてやる」
 沈むような、憎悪に満ちた声には背筋が凍るような思いがした。彼のレナに対する憎しみは相当なものだ。霊石の表面の傷は自然についたものではないだろう。
 それでも私はどこかで彼を頼もしくも感じていた。彼ならきっと何かを変えてくれる。成し遂げてくれる。
 彼が瞳に宿した炎はきっと、私たちを照らすかがり火になると信じて止まなかった。
 
 彼が突然姿を消したのは、それから1年も経たない頃だった。
 死んだとも聞かない。兵士に連れて行かれたのを見た人もいない。本当に誰も彼の行方を知らなかった。
 それでも周りの人間は皆言った。
「ネアズ? またいらない反抗をして、とうとう兵士に捕まったのかもな」
「あるいは労働から逃げ出した途中で見つかって殺されたんだろう」
 違う、彼はそんな人じゃない。ここでみすみす捕まるような人ではない。
 誰も知らない。彼のことを。彼が見据えた先にあるもののことを。
 私は彼が生きていると心の底から信じていた。今もどこかで息を潜めながら〈その時〉を待っているのだと。彼が成し遂げようとするもののために歩み続けているのだと。
 ならば私がすることは一つ。信じて、生きるだけだ。生きて、生き続ける。過酷な労働に耐え、眠れない夜は星を数えた。彼を思い出して、彼の語った星を思い出した。何度も何度も記憶の中の星空と、視線の先の星空とを重ね合わせた。
 彼が教えてくれた通り、星には様々な色があった。光り方も違った。長い間見つめていると、その位置が変わっていくのが分かった。
 今でも彼はこうして星を見つめることがあるだろうか。あの大きな星や、あっちの赤い星を見て何か考えたりすることがあるだろうか。
 きっとあると思った。私は彼と同じ星を見ている。場所は違っても、眺める星空は変わらないから。同じ地上に立っている限り、上にある星空も同じだから。
 そうして生きてきた10年はあらゆるものを変えた。自身の見てくれはもちろん、まさか本当に世界そのものまで変えてしまうなんて。
 カラグリアからは兵士が消え、支配がなくなった。突然のことだ。あまりに急すぎて、誰もが戸惑った。まるで実感が湧かなかった。この世に生まれ落ちた瞬間から奴隷として扱われてきたのに「あなたたちはもう奴隷ではありません」とある日突然言われて戸惑わない人なんかいない。
 それでも受け入れるしかない。自分たちはもう自由なんだと何度も言い聞かせ、立ち上がってみれば少し空が澄み渡って見えるような気がした。
 彼のことは一度たりとも忘れなかった。記憶の彼方の彼の顔はもうほとんど覚えていない。それでも彼の言葉や、過ごした時間のことははっきりと覚えていた。
 世界が変わった今、彼がここへ戻って来るのではとどこかで期待もした。だがそんな都合のいいことは起きるはずもなく、彼はいなくなったままだった。私の心以外から。
 支配がなくなった一方で、食料には苦労した。それまで食事は兵士が僅かばかりの量を配るだけだったので、自ら食料を確保するという考え自体が浸透していないのだ。
 食べることに罪悪感を覚える人もいた。満足するまで食べれば罰を受けるんじゃないのか、人から疎まれるんじゃないか。一度染みついた習慣を変えることは難しい。それが生まれてからこれまでの常識であればこそなおさら。
 そんな時代は終わったと声を掛ける人たちがいた。彼らは〈紅の鴉〉といって、これまでレナに対しての抵抗組織として活動していたらしい。
 抵抗組織、と聞いて真っ先に彼のことを思い出した。もしかしたら彼もそこにいるんじゃないのか。期待に胸は膨らんだが、彼のことを聞く勇気はなかった。
 ウルベゼクで配給が受けられると聞いたのはその数日後だ。撤退したレナが貯め込んでいた物資を一般向けに解放するという。服や食料は勿論、その他の日用品まで必要なものがあれば自由に持って行っていいということだった。
 街に出ると、そこはまるで知らない国のようだった。活気にあふれ、人々の表情も明るい。いまだに奴隷としての身分を拭いきれない故郷とは似ても似つかず、本当に同じ国なのか疑いたくなった。
「ここは〈紅の鴉〉の本拠地だからね。真っ先に解放された街と言ってもいいわ」
 そう案内してくれた人も例の抵抗組織の一員だという。身なりもきちんとしていて、致し方ないとはいえボロ布を纏う自分が急に恥ずかしくなってきた。
「配給はこの階段を上った先の建物の中で受けられるわ。ほかに必要なものがあったら言ってね。可能な限り対応するから」
「……ありがとう」
 頭を下げ、言われた通りに階段を上る。建物には配給を受ける人間で溢れているらしく、少し外で待っていて欲しいと言われた。
 窓から中を覗くと、そこには確かに大勢の人影が見えた。大人から子供、老人まで年代は様々だ。
 中には組織の人間と思わしき人たちの姿もあった。自分たちとは着ている服がまるで違うのですぐに分かる。
 誰もがせわしく動き回っていた。説明のため声を張る人もいれば、足元の覚束ない老人に手を貸している人もいる。子供と話す女性は腰を落として目線を合わせ、背にけが人を負ぶって物資を集める人もいた。
 思いやり。助け合い。これまでカラグリアで抑圧されてきたものがその建物の中には満ちている。ああ革命とはこういうことなのかと思った。変わったのは世界であってそうじゃない。私たちの心なのだ。逆に心が変わらなければ、革命なんか起きはしない。心を殺さずに行動を起こした誰かの勇気がこの国の仕組みを変えた。
 その誰かに、心から感謝したいと思った。その勇気を称え、同時に申し訳なくも思った。自分はこれまで何も知らなかった。革命が起きていたということも、そもそもこの国に抵抗組織があったことさえも知らなかった。
 知っていても、きっと何もできなかっただろう。誰かが何か行動を起こすのを見ているだけ。応援する気持ちはあっても、ともに武器を取る勇気はおそらくなかった。
 そういう部分がいまだ自分を奴隷という身分から解放させてはくれない。誰かの言いなりになるのが楽だと自らで考えることを放棄している自分がいる。
 この革命を成し遂げるために一体いくつの命が犠牲になっただろう。そうまでして求めた自由のはずなのに、生き延びた自分がそれを受け入れられないでいるなんて。
 情けなさに打ちひしがれているうち、ふと視線が部屋の奥で腕組みをしている人を捉えた。その顔を見て、思わず息が詰まりそうになる。
 ――彼だ。間違いない。とうに忘れ去っていたはずの面影がみるみる記憶の中に蘇ってくる。
 どうして。やっぱり。せめぎ合う感情がうまく呼吸を整わせてはくれない。
 すると彼が辺りに向かって声を上げた。
「まだ食料はある。急がなくていい」
 静かで、それでいて滲むような声は自分の記憶のそれと確かに重なった。やや穏やかさを含んでいるのは月日の経過によるものだろうか。
 安堵と歓喜で満ちていられれば良かった。「生きていてよかった」「信じていた」そう声を掛けられたなら。
 でもそれはできなかった。
 少し視線を落とせばみすぼらしいボロ布が目に入る。身体は泥だらけで、髪を最後に洗ったのはいつだったか。
 好きで奴隷だったわけじゃない。周りを見ても自分と同じ格好、身なりの人間はいくらでもいた。
 それでも彼に声を掛けることは憚られた。彼が立つ場所と自分の立つ場所が違うのが明白だからこそ、自分はただの元奴隷になるしかなかった。
 それに彼はもう自分のことなんか覚えてはいない。たった一晩会話をして一度助けてもらっただけの人間を、幾人もの奴隷を庇ってきた彼が記憶に留めているはずがない。それがついひと月前の出来事だったならまだしも、10年も前のことならばなおさら。
 彼は私なんか知らない。声を掛けたりもしない。目線も合わない。あの頃、道ですれ違ってもそうだったように。
 そう言い聞かせながら私は建物の中に入ると、配給品に目を向けた。必要なものを手早く箱に入れ、奥へと進んでいく。そうして一刻も早くその場を去るつもりだった。
 それなのに自分の足はなかなか前に進まなかった。急に重たくなって動かなくなった足先はまるで鉱石の塊のようだ。
 これではまるで彼の視界に入り続けたいと願っているようじゃないか。彼が私に気付くはずもないのに、むしろ気付かれたくなんかないはずなのに。こんな格好、こんなみすぼらしい服を着た自分に彼が向ける視線なんて、想像したくもない。
「おい、大丈夫か?」
「えっ」
 声を掛けられて咄嗟に顔を上げた。私の顔を覗き込んでいたのは彼、ではなく、彼よりも随分通る声を先ほどから何度も張り上げていた別の男の人だった。
「具合悪いとか? 顔色悪いぞ」
「あ、いえ、大丈夫です」
 首を振ると、その男の人はぱっと表情を変え、人懐こい笑みを浮かべた。
「支配が終わっても暑いのは変わんねえからな。体調には気を付けろよ。これは余ってたから、オマケな」
 そう言って水の入った瓶を私の箱に入れる。
「あ、ありがとうございます」
「おう、いいってことよ」
 建物を出たのはどうやら私が最後のようだった。これで午後の配給は終わりだと、後ろであの人の大きな声がする。
 振り返ることはできなかった。両手に持った箱が重かったせいもあるが、なんとなく振り返ってはいけないような気がしたのだ。
 階段を下りたところで、ふっと心が軽くなる。建物から離れると徐々に足も動くようになってきた。
 そうか、これで良かったのだ。声を掛けなくて、掛けられなくて良かった。後ろ髪を引かれるようなことはない方がいい。
 さようなら、遠い人。心の中でぽつりと呟く。元気でいてね、これからも。
 歩幅を僅かに大きくする。街を出る頃には、もうほとんど地を駆けていた。
 どうしてあの時の自分は彼と同じ星を見ていたと信じられたのだろう。彼が見ていたのはもっと遠いところにある、それこそ自分なんかには見えるはずもない星だったのに。
 同じ星を見た気になって、同じところに向かって進んでいる気でいた。自分が奴隷でいる間、彼はもっと先を歩いていた。星を眺めているだけの自分と違って、彼はそれを掴もうと必死で努力していた。彼の左手から消えた霊石。代わりに残っていた大きな傷跡が何よりの証拠だ。
 きっと初めから、出会った瞬間から遠い人だった。その距離は計り知れない。おそらく今この地に立つ自分と、空高くで光り輝く星の間よりもずっと遠い。今さらそんなことに気が付くなんて、我ながら遅すぎる。
 それでも私は生きてきた。ただひとつの星を求め、時には彷徨い、挫けそうになりながらも10年の月日を歩んできたのだ。それはたとえ愚かであっても卑下することではまったくないと思う。
 私は10年を生き延びた。彼もまた同じ。それだけの共通点があれば充分。
 だから振り返らない。上を見上げることはあっても、後ろはもう見ないことにする。見なくても分かる。彼はこの国のどこかで元気にやっている。

   ◇
 
 後片付けを終える頃にはもうすでに空はすっかり暗くなってしまっていた。
 部屋のランプに明かりを灯そうとして、ふとその手を止める。先ほどまで部屋にいた奴の姿がない。辺りをぐるりと見回してみて、集会所の入り口そばに立つ影を見つけた。
「まーた星見てんのか」
 窓から身を乗り出し声を掛けると、ネアズは一瞬だけこちらに視線を寄越しただけで再び空にそれを戻した。「なんだお前か」と思っていても口にしなくなっただけ随分柔らかくなったなと思う。
〈紅の鴉〉でもカタブツとして有名なネアズだが、その趣味は意外とロマンチストなところがある。夜空を見上げて星を数えるだなんて仮にも抵抗組織の一員である人間の嗜好としてはなかなか洒落込んだものだ。
 とはいえ本人は特に格好をつけるつもりも、物知りを気取るつもりもない。それが選ばれた理由としては、ただ道具もなく場所も選ばず時間を潰せるというだけのことらしい。
 それもそのはず、自分たちは今でこそ少々立場は変わったが、元を辿ればカラグリアの奴隷だったのだ。眠れない夜や苦役に喘ぐ日々には何らかの誤魔化しが必要だった。例えば体を鍛えたり、空を見上げたりするような何かが。
 ネアズの場合はそれがすっかり体に染みついてしまっているらしい。今でもこうして時折外に出ては、空を見上げることがある。最近は忙しさのあまり潰せる時間など皆無に等しいものの、休憩と称して外の空気を吸いに出ることがしばしばあった。
 俺にはその良さがよく分からない。ネアズ曰く、「心が落ち着く」とか「星の挙動は興味深い」とか言うが、いつもそこにあるものの何が面白いのだろう。ただでさえ空には視界に入れたくもない奴らの拠点があるというのに、何が楽しくて空を見上げなきゃならない。
 それでも邪魔をする気も毛頭ない。誰にだって息抜きは必要だ。それにネアズが空を見上げている時は随分と安らいでいるように見える。ならばそのノイズにならないよう、明かりを灯すのを少々遅らせてやるのだってやぶさかではない。まあそんな俺なりの気遣いを奴が察しているのかは定かではないが。
「シスロディアでも星って見えんのかな」
 ふとそんな言葉がついて出た。思ったのは今この国を不在にしている組織の頭目のことだ。
 このカラグリアを解放したのがつい10日前のこと。その立役者となった〈炎の剣〉ことアルフェンを連れて、ジルファはシスロディアに向かった。そちらの抵抗組織である〈銀の剣〉が助けを求めてはるばる使いを寄越したのだ。
 ここへと辿り着いたのはたった一人の少女と一匹の仔フクロウだった。それだけでも相当危険な旅だったことがうかがえる。そうまでするほどに事態が逼迫しているということも。
 そうしてジルファは俺たちにカラグリアを任せてシスロディアへと自ら乗り込んだわけだ。決して放っておかれたわけじゃない。信頼されているからこそだと俺は思う。
 ジルファは歴戦の猛者であり、幾度も戦いを乗り越えてきた。それでも少し思うところはある。アルフェンはともかく、レナの女を連れているわけで油断はならない。寄越した使いのうち一人しか生き残らなかった旅路を思えば、多少の憂いも自然と浮かんできてしまうというものだ。
「シスロディアって寒いんだろ? カラグリアとは全然違うんだってな」
「ああ。それにどうやら〈夜〉しかないらしい」
「〈夜〉しかない? どういうことだ?」
「さあ。詳しいことは俺にも分からん」
 相変わらず視線を宙に投げたままでネアズは言った。「だがもしそうなら、星なんかいつでも見えてるのかもな」
 その遠い目はおそらく同じ人物を思っているのだろうと察しがついた。
「そういえば午後の配給の時、」
 突然思い出したようにネアズがこちらを向いた。
「お前が最後に声を掛けた人がいただろう」
 そう言われて少し記憶を探ってみる。と、すぐにその人物は思い当たった。
「ああ、あの具合悪そうにしてた女の人か」
 その女性ならよく覚えている。太陽の照り付ける暑い日にも関わらず青い顔をしているものだから、思わず声を掛けたのだ。
「昔会った奴に似てる気がしたんだ」
「昔?」
「ここに来る前。組織に入る前だ」
 自分とネアズはここに来た時期が同じくらいだ。ということは――。
「じゃあ、10年以上も前ってことか?」
 ああ、とネアズは何の気なしに頷いた。「奴隷だった頃の話だ」
「まじかよ。よっく覚えてんな、そんな昔のこと」
 自分は奴隷だった頃のことなんかとうに覚えちゃいない。忘れたい気持ちが強かったのかあるいは単に物覚えが悪いせいか、そんな記憶は遥か彼方だ。
 ネアズは情報集めをしている分、他より記憶力は良いだろう。とはいえ昔会った奴の顔まで覚えているなんてなかなか並外れているというか、執念深いというか。
 それとも忘れられない相手だった?
「あ、もしかして、初恋の相手とか?」
「馬鹿言え。そんなわけあるか」
 呆れた様子でネアズが息を吐く。なんだ、つまらない。ネアズのそういう話は噂にも聞かないので少し期待したというのに。
「じゃあなんだよ。どういう関係?」
「さあ、どうだったかな。少し話はしたと思うが」
「話って?」
「そんな昔のこと、覚えてない」
 嘘だと思った。顔まで覚えているのだからどんな話をしたかもきちんと覚えているだろうに。
「そんな相手なら声でもかけてみりゃ良かっただろ」
 俺の言葉にネアズは黙って首を振る。
「俺の勘違いかもしれない」
「だったら別に『間違いました。知り合いに似てました』で済むだろ」
 これだけの年月が経っても記憶に留まっているほどの相手だ。たとえ勘違いであったとしても声を掛けてみる価値は充分あったはずなのに。
 それでもネアズは「いいんだ」と言った。
「もしあれが彼女だったとして、別に話をする必要はない。生きていると分かればそれだけで充分だ」
 その時見たネアズは口元に穏やかな笑みをたたえ、今日一番満足そうな表情をしていた。
「まあお前がそう言うなら、それでいいんだろうけど」
 そうは言うものの俺はなんとなく勿体ない気もした。せっかく生きているのなら直接無事を伝え合えばいいのにと思ってしまうのだ。
 それでもこの頑固な奴のことだ。こちらの助言など聞かず、我が道を行くのだろう。一体誰に似たのか、誰を真似たのかと問いたくもなるが、それは聞く必要がない。同じと分かればこそ。
 見上げた空には今夜も星が瞬いている。ただそこにあるだけ、いつもと変わらない数々の星。
 どうせ見上げる空が同じであるなら、こいつらが媒介となればいい。こいつらを介して互いの無事が届けばいい。そんなふうに願ってしまうのは、少々お節介が過ぎるだろうか。

終わり