ケーキバース。〈蛇の目〉ロウ×リンウェルのif話。グロ表現はありませんが、ロウがちょっとケガしています。軽めのエロ。ビターエンド。(約5,300字)

☆恋ならどんなによかっただろう(1)


 目も開けていられないほどの風が容赦なく吹きつけてくる。それに混じる氷の粒がまた一つ、リンウェルの頬を弾いた。刺さるような痛みももう感じない。前に前にと進める足の感覚だってもうほとんど残っていない。それでも雪を踏みしめる微かな摩擦音だけは、確かにこの耳に届いていた。
「……着いた」
 リンウェルが小さく呟いたのは苔むしたトンネルの前だった。街のはずれにあるそこは、昔は地下水道に繋がる道として利用されていたらしい。
 辺りに見張りがいないことを確認すると、リンウェルは中に隠れるようにして石壁を背にする。すっぽりと頭を覆っていたフードを下ろせば、積もった雪がはらはらと落ちた。先ほどまで風に掻き消されていた吐息も、ここでは白い濁りを見せている。
 ほんの僅かの休息もそこそこに、リンウェルはさらにトンネルの奥へと歩みを進めた。石造りのトンネルは旧水道というよりは、ほとんど洞窟に近かった。独特の生臭いにおいが漂うと、視認できずともおおよそどんな環境かは察しがつく。一歩ごとに伝わってくるぬるりとした足裏の感触は、お世辞にも心地よいとは言えなかったが、おかげで靴音にはさほど気を遣わずに済んだ。
 突きあたりにあった梯子を下りると辺りの様子は一変する。石のレンガでできた壁は整然とのびており、一見秩序正しいそれは侵入者の方向感覚を奪うためのギミックなのかもしれない。中央の水路には今も不気味に水面が揺れており、ひと度足を滑らせようものなら得体の知れない何かに引きずり込まれてしまいそうな闇を抱えていた。
 情報屋に聞いた通りの道を進めば、遠くにオレンジ色に揺れる壁が見えた。あそこが目的地だと悟るとリンウェルの足も自然と急いてくる。
 逸る気持ちを抑えて慎重に近づくと、地下に出来た空間には似つかわしくないほど巨大な部屋の前に着いた。入口には目印のように一本だけ松明が灯されており、淡く辺りを照らしていた。
 リンウェルは物陰から全神経を耳に集中させるが、話し声や足音といったものは一切聞こえなかった。それもそのはず、この時間帯は見張りの交代の時間と重なっていて、怠惰な連中がきっかり現れることはまずないと情報屋から聞いたのだ。
 恐る恐る部屋を覗き込んでも誰の影もない。代わりに目に飛び込んできたのは、部屋中に積み上げられた木箱や樽の数々だった。
(……!)
 再びフードを被りなおし、軽やかに部屋へ侵入すると、リンウェルはその木箱の蓋をそっと持ち上げる。艶めいた真っ赤なリンゴの瑞々しい香りがむせかえるほど鼻腔をくすぐった。隣の箱にはジャガイモやタマネギが水晶玉のごとく積まれていて、小麦粉の入った袋は金貨が詰まっているかのように重たい。宝箱さながらのそれらは、リンウェルの身体に溜まった疲労を一気に吹き飛ばしてしまうほどの輝きを放っていた。
 ――長かった。
 もうかれこれ三日はまともな食事を摂れていない。最後に齧った一切れのパンは昨日の朝食だっただろうか。ほとんど乾いた硬貨のようなパンを水で膨らませて胃に押し込んだのだ。空腹だけなら水分でもう少し耐えられたのかもしれない。だがそれは自分一人なら、という話だ。家にはたった一人の友人であり、家族が今も自分の帰りを待っている。
 リンウェルは懐から袋を取り出すと木箱の中身を移し始めた。鮮度などで選んでいる暇などない。できるだけの食料を持って、なるべく早くここから立ち去らねばならないのだ。
 一方でこれだけの食料を目の当たりにして、リンウェルの中に迷う気持ちがないわけではなかった。小麦粉があればパンを焼けるが、リンゴはいつでも場所を選ばずに食べることができる。ミルクや卵は、保存はききにくいが、料理の幅が広がる魅力的な存在だ。その一つ一つを袋に詰める手を動かしつつも、頭の中であれもこれもと考えていれば足はなかなかそこから離れようとしない。
 今ここでリンゴを一つ齧ってしまえば、もう一つ分空きができるなとリンウェルが袋の紐を緩めた時だった。
「誰だ!」
 響き渡った声に、リンウェルの心臓はぐるりと一回転したようだった。
 たちまち早鐘を打つ胸を抑えながら振り返ると、そこには黒い服を纏った男が一人立っている。顔をすっぽり覆い隠すようなマスクは街で見掛ける連中と同じだ。
 ――〈蛇の目〉。
 情報屋を疑うわけではないが、誰かが現れるであろうことは予想していた。ここが奴らの管理する食料庫と知って侵入したのだから。
 どうやら男の他に仲間はおらず、一人だけのようだった。武器は携帯しているようには見えないが、レナ人は星霊術を使う。油断はしない方がいいだろう。
「盗みか、いい度胸だな」
 誰のせいよ、とリンウェルは小さく舌打ちをする。
 元はと言えばレナ人たちがこの食料を買占めているせいで市場が狂っているのだ。最近ではそれが顕著で、野菜一つにしても値段が数倍になっている。街に出ても何も買うことが出来ず、備蓄は減っていく。おまけにこの間は見知らぬ男らに追いかけまわされ、街に出るのもすっかり恐ろしくなってしまった。リンウェルが飢えに喘いでいるのはこういう理由からだ。
「袋に詰めたものは置いていけ。さもなくば―」
「連行する?」
 置いていかなくたってそうするくせに。
 相手が一人なら、やれる。リンウェルが手のひらに込めた風は一瞬にして強烈な暴風へと変化した。
「なっ……!」
 ここがいくつかの部屋を無理やり繋げたものだとか、近辺の地盤はさほど強くはないとか、あらかじめ仕入れた情報は頭からすっぽり抜けてしまっていた。言ってしまえば頭に血が上っていたのだ。
 だが結局、リンウェルが込めた風が男へと放たれることはなかった。
 男が顔を隠していたマスクを外し、「取引しないか?」と口にした瞬間、リンウェルの集中力はすっかり逸れてしまったのだ。

 場所を変えよう、という男の提案でリンウェルが連れられた先は、これまた街のはずれにある小さな家だった。
「俺の部屋だ。つっても、寝泊まりする以外は使ってねーけどな」
 外観ほど粗末でもない部屋はその言葉通り、ベッドが一つあるほかには簡素な暖房と水道がある程度で、唯一の小さな窓も明かりを採り入れるには場所が悪いように思えた。
 男は暖房に薪をくべながら突然「お前【ケーキ】だろ」と口にした。
「は……、え……?」
 聞き間違いと思ったが、それは確かに「ケーキ」という単語だったと思う。
 ケーキって、あの甘くて美味しい、絵本に出てくるような可愛い食べ物のことだろうか。
「ケーキ……?」
「お前が風ぶわーってやった時、すげえ甘い匂いしてさ。ああこれかって、すぐわかったんだよ」
 うんうんと頷きながら男は言うが、こちらとしては全く話が分からない。自分はケーキを持っていないし、あるなら寧ろ今すぐ食べさせろと言いたいくらいだ。
「話が見えないんだけど」
「いや、だからお前が【ケーキ】だから、」
「その【ケーキ】って何?」
「へ?」
「私ケーキなんて持ってないけど」
「……もしかして【ケーキ】知らねえのか?」
「?」
 お互いに疑問符を浮かべたままの問答に、しばしの沈黙が流れる。ややあって、男は「うまく説明できるかわかんねえけど……」と口を開いた。
 男によれば、この世界には三種類の人間がいるらしい。
「味がしない奴、食べると美味い奴、普通の奴」
「普通の奴って……」
「ほとんどは普通の奴。美味いもん食べて、美味いって感じる奴な」
 だが男は違うらしい。
「俺は何食べても味しねえんだ。パン食べても、その感触がするだけ。匂いもよくわかんねえ」
「え……」
 そんな人間がいるのかとリンウェルは驚いた。食べ物の味がしない、ということは想像もつかないことだった。
「ただ、【ケーキ】だけは美味く食べられる。この世で味がする唯一の【食べ物】らしい。あ、ここでいう【ケーキ】はあのお菓子のとは違―」
「いい、わかるから」
 男の話を遮りながら、リンウェルはふと疑問に思う。
「……『らしい』?」
 まるで他人事のように話す男の口ぶりに、リンウェルは違和感を覚えた。どうやら男もそれを察してか、理由を付け加える。
「俺、【ケーキ】見るの初めてなんだよな。つーか味覚なくなったのも最近の話だし」
 どうやら味覚を失った人間―【フォーク】はほぼ後天的なもので、そのほとんどが先天的な【ケーキ】とは根本的に異なるらしい。【フォーク】は【ケーキ】を見ると、本能でそれを察知する。自分の味覚を刺激できる唯一の存在だと分かるようになっているのだ。
「それで、私が【ケーキ】だって気づいた、と」
「ああ」
――じゃあ、気づいた後は?
【フォーク】と【ケーキ】は言ってしまえば「食べる側」と「食べられる側」だ。男が食料を人質に取り「取引しよう」と言った理由に、リンウェルはようやく気が付いた。
「!」
 刹那、身構えて距離を取るリンウェルに、男は嘲笑で応える。
「まあ、当然の反応だよな」
「近づかないで。変なことしようとしたらぶっ飛ばす」
「変なことって……でもお前、食い物に困ってんだろ?」
 それとこれとは別、と言いたいところではあったが、事実、自分は明日食べるものすら持ち合わせていない。
「それに、ここで今お前を食っちまったら取引になんねーだろ」
「それは、そうだけど」
 取引というからにはこちらにも利益があるのは間違いないだろうが、その代わりに差し出せるものなんて、この状況では一つしか思い浮かばない。
「俺が言いたいのは、お前に食料を分ける代わりに、少し体貸してくんねえかってことだ」
「か、体貸すって」
「言葉通りだ。少しでいい。痛めつけたり、そういうことはしないって約束する」
〈蛇の目〉の隊服で何を言っているのだろう。約束とか、そういった言葉とは一番縁遠い存在だろうに。
「……」
 それでも今のリンウェルには縋るしかなかった。このまま部屋を出てしまえば、数日先、生きていられる自信もない。それになにより、家で待っている家族のことを思えば、ここで命も食料も落としていくわけにはいかなかった。
「……今日のこの食料は、持って帰るから」
「ああ、いいぜ」
 目を伏せたままベッドに座りなおすと、リンウェルは飛び出そうな心臓を抑えつける。男の影が自分に重なるのを感じて、思わずぎゅっと目を瞑った。
 だが、想像したような衝撃はいつまで経っても訪れなかった。男の気配は確かに間近に感じるが、体に触れられる感覚はない。恐る恐る目を開けてみると、男はじろじろとリンウェルの体を観察しているようだった。
「な、なに……?」
「手、出せるか?」
「え、」
「グローブ取れよ」
 リンウェルは男に言われるがまま左手のグローブを外し、そっと差し出す。それに鼻を近づけて男はくんくんと匂いを嗅いだ。
「ちょ、ちょっと」
「やっぱ甘いな」
「……何するつもり?」
 緊張と恐怖で変な汗が額を伝う。男の瞳が狩人のそれのようにも見えてきた。
「何って、舐める」
「舐める⁉」
 言うや否や男はリンウェルの指先をぱくりと咥え、舌を這わせ始めた。
「……っ!」
 言われてみれば合理的ではある。動物であれば食事に使うものといえば歯と舌くらいのもので、傷をつけないのなら選択肢は自然と後者に限られる。
 だがリンウェルが、自分が得体の知れない【ケーキ】という存在だと知ったのがつい先刻。生き延びるために取引に応じたものの、その代価がこんな状態にさせられることだとは到底予想もしていなかった。
 恐怖心はいまだに残るとはいえ、頭の中の半分は羞恥で埋められてしまっていた。男が心底美味そうにその指にしゃぶりついているのを目の当たりにさせられれば当然ともいえる。にゅるにゅると生温かいものがほんの指先とはいえ、自分の体を撫でているなんて。
「……美味い」
 そんな真剣な顔で感想を言われても。恥ずかしさのあまり、その頬に垂れ下がった前髪を引っ張ってやりたい気持ちにもなった。

 どれだけ経っただろうか。食事というには充分すぎるほどの時間が過ぎた頃、ようやくリンウェルはその舌から解放された。男もつい夢中になってしまっていた自覚はあるらしく、両手を合わせて謝罪のポーズを見せてはきたが、許すなどとんでもない。
「一週間後、ここでまた同じ時間にな」
「えっ」
 てっきり今夜で全て終わるものと思っていたリンウェルは素っ頓狂な声を上げてしまう。
「だってお前、こんな食料で一生生きていけんのかよ」
「う……」
 反論も抵抗も拒否も許されない状況は、リンウェルを縦に頷かせるしかなかった。食料を受け取る代わりに、これからリンウェルは男の〈食事〉となる。
「約束は守る。鍵はここな」
 一つ置かれた植木鉢の底の鍵はセキュリティも何もあったものではない。どうせ盗られるものなど何もないと、そう言いたいのだろう。
 リンウェルは今夜の収穫を手に帰路についた。氷の粒はさらりとした粉雪に変わり、風もすっかり収まっていた。夜明けはまだ遠く、夜行性のズーグルの活動時間内となれば、気を緩めるわけにはいかない。
 白い息が刹那に消える。
 軽率だった。〈蛇の目〉の食料に手を出したことも、男との取引に頷いたことも。
 なぜあの地下水路で手のひらに込めた風を放たなかったのか、後悔でなく単純に疑問に思う。
 ただ、あの時マスクを取り払った男の目は蛇というより、路頭に彷徨う犬のように思えた。