とんとん、とまな板の音が部屋に響いて、ころころと不格好なニンジンが転がっていく。鍋からは白い湯気が立ち上っていて、そこからは微かにスパイスの香りがした。
シンクと鍋の間をせわしく行ったり来たりしているリンウェルは、何度か味を見た後で宙に視線を彷徨わせ、こんなものかな、と呟いている。
「味は自分の好みだけど、調味料は少しずつ入れて調整してね。一気に入れると後で調えるの大変なんだから」
自らの経験に則ったような言い方はどこか可笑しい。自分よりもいくらか年下であるのに、もう何十年もそうしてきたような貫禄がある。
「ねえ、ちょっと。聞いてるの?」
「あ、ああ、聞いてる」
あ、かわいい。不機嫌そうに眉を吊り上げているその表情にだってそう思ってしまう。
振り返った時に黒い髪がさらりとなびくのだって、とても綺麗でいまだについ見惚れてしまうほどだ。毎日顔を合わせているのにも関わらず、だ。
ああそうか、これがしあわせの風景ってやつか。
思わずふにゃりと歪みそうになった唇をぐっときつく噛み締めて、ロウは鍋の中身を覗き込んだ。湯気の中に覗いたカレーはやはり香ばしいスパイスの香りを放っていた。
ロウがリンウェルの住む部屋とは別に家を借りたのはひと月ほど前のことだ。
想いが通じ合い、晴れて恋人となった相手と同じ屋根の下で暮らすのはやぶさかでない、願ってもないことだ。
だが実際はそうもいかない。何しろリンウェルの部屋は二人で住むにはやや手狭なのだ。ダブルベッドを置くならまだしも、二人分のベッドを置くスペースはない。二人同じベッドで眠れるならそれに越したことはないのだが、それを許さない同居人(フクロウ)――フルルがいる。
自分が主な職場としている家畜小屋からも遠いのもまた難点だった。そこまで広い集落ではないのだが、リンウェルの家は村のはずれに位置していることもあって、小屋とは端と端を結ぶような関係にある。元々体力にはそれなりに自信があったし、トレーニング代わりになるとはじめこそ小屋までの道を走り込んでいたが、一日の終わりとなるとそれも億劫になった。「残業」で前日の疲れが取れない日が続いたときは、その道のりが伸びているような錯覚に陥ったこともある。
リンウェルにも話をし、二人で対策を練り始めた頃、村長に「村はずれにある家を片付けて欲しい」と頼まれた。それはリンウェルと住んでいる家よりも一回りほど小さい家だったが、生活に必要なものは一通り揃っていた。
掃除はリンウェルにも手伝ってもらった。壊れかけの椅子や机を修繕し、ベッドシーツやカーテンを新しいものに替えると部屋はすっかり見違えた。「誰か越してくるのか?」というロウの問いに、村長は朗らかに「いいや」と笑うだけだった。
蓄積された疲労がソファで回復できるそれを上回ったとある日、思い切って村長に尋ねてみた。「この辺で部屋ってもう一個くらい余ってたりしねえかな……」
「ほう。ならばあの部屋を使うかい?」
村長が指したのは他でもない自分が蘇らせたあの小屋だった。
そうして居を移してからは、リンウェルはよく部屋に訪ねてくるようになった。数日に一度、味覚が戻りつつある自分に料理を教えに通い、食事を共にして〈夜〉が更け切る前に自宅へ帰っていく。当然、それだけで済まない日もないわけではないが。
今夜のメニューはカレーで、慣れないながらも自分が包丁を握った。リンウェルが大体の分量をメモに書いて、味付けやら調整やらを実践して見せる。適当にやって、あとは慣れ! とかなり大雑把な教官ではあったが、やはり何年もこなしているだけあってさじ加減が上手だと思う。自分ひとりでは簡単なスープでさえいまだ納得いくように作れない。
「味覚がちゃんと戻ればうまくいくよ」
「そんなもんか?」
「そんなもんだよ」
食事を終えると、デザートにリンウェルが持ってきたアイスクリームを食べた。朝から仕込んでおいたというそれは外の寒さも相まってキンキンに冷えていた。
「うーん、美味しい!」
「へえ美味いな、これ」
聞けば材料には村の牛から取れたミルクを用いたらしい。その濃厚さは味覚を取り戻しきれていない自分でもわかるほどだ。
「ロウ、甘いのも分かるようになってきたんだね」
「言われてみればそうだな」
辛味や酸味は刺激が強いせいか感知しやすい。一方で甘味やうま味というのはそれらに押し負けているのか、まだいまいちはっきりしないのだ。
「こういう甘いだけのやつならわかりやすいのかもな」
「ふうん、そっか」
はやくこの美味しさが分かるようになると良いね、などと軽口を叩きながら、リンウェルはアイスクリーム二杯を完食した。わざわざ暖炉の前で冷たいものを食べる必要があるのか甚だ疑問ではあるが、しあわせそうな表情が大変可愛らしいので深くは追及しないことにする。
使った食器を洗い、二人でシンクを綺麗にし終わると、ようやく一息つくことができた。隣で手を拭うリンウェルから、ふわりと甘い香りが香る。
「リンウェル」
細い体に腕を回し、抱き竦める。肩口に埋もれるリンウェルが、わ、と小さく声を上げた。
「どうしたの?」
「別に、なんとなく」
理由はない、ただ愛おしくなっただけだ。
大きく息を吸い込むとリンウェルの香りがする。本能に訴えかける甘いそれと、リンウェル本来のこれまた甘美な匂い。先ほどのアイスクリームなどとは比べ物にならない、格別で特別な香りだ。
腕の力を緩め、肩に手を置くとリンウェルと視線が交わった。まるでそれを何かの合図とするように唇を重ね合わせる。表面が合わさるだけの、確かめるようなキス。それを何度も何度も、繰り返す。
随分と長くこうしていなかったような気がした。ほんの二、三日程度間が空いただけだというのに。
「くすぐったいよ」
身を捩る動作がいじらしくて、今度はやや強引に唇を押し付けた。上唇を軽く吸ってやると、果実にも勝るとも劣らない芳醇な甘みが口蓋を伝って脳に快感をもたらす。何度味わおうと決して飽きることのないそれを舌で何重にも愉しむ。
「お前の、美味いんだよな」
素直に、その瞬間思ったことをそのまま吐き出しただけだった。ただそれだけのことでリンウェルの表情がほんの一瞬、――曇った。
「……リンウェル?」
「ううん、なんでもない」
咄嗟に髪を揺らしてリンウェルが否定する。
だがそれの意味は知っている、なんでもない奴はそんなことを敢えて言ったりはしないものだ。
「どうかしたか?」
「なんでもない、なんでもないんだけどね」
「リンウェル」
その目を見つめてやると、リンウェルは少し俯いた後で意を決したように口を開いた。
「……ロウは、味覚が戻ってきてるわけだよね。今日のご飯とかも、味分かった? 美味しかった?」
「まあ……少しずつな。まだ、完全にってわけじゃねえけど。メシも美味かった。カレーだとそういうのわかりやすいしな」
自分の味覚については、日々話題に上がる。
「おはよう、今日の朝ご飯は? どうだった?」
「おう、なんとなくだけどな。塩気とか辛味はだいぶ分かるようになったぜ」
「そっか、良いカンジだね!」
そんな調子でほとんど挨拶と化すくらいお互いの間を行き交っているのに、どうしてリンウェルは今更そんなことを聞くのだろう。
「そう、だよね」
よかった、と漏らした声は床へと転がり落ちていった。まるで弾まないそれが喜びを表しているとは到底思えない。
「どうしたんだよ」
無理やり顔を覗き込むと、リンウェルはわずかに瞳を潤ませていた。頬は僅かに紅潮しているようにも思える。
「ロウの味覚が戻るのは嬉しいの、嬉しいんだけど……」
リンウェルがぽつりと零す。
「【ケーキ】じゃない私も、好きでいてくれるのかなって」
「……は?」
「ロウを疑ってるとか、そんなんじゃないんだけど……ほら私、可愛いわけでもないし、胸が大きいとか、そんな魅力もあるわけじゃな――」
言い終える前に、とりあえずその唇を塞いでやった。ついでに深く舌を捻じ込んでやれば、その言葉の続きを言わさずに済んだ。
「なにするの!」
咄嗟に距離を取ったリンウェルの目は先ほどよりも強く潤んでいる。
「やっぱやめた」
そんなことを言われて黙っていられるわけがない。今夜は特に何もせずそのまま見送るはずだったが、たった今気が変わった。
「今日は帰さねえ」
狼狽えるリンウェルの身体をひょいと抱き上げ、そのままベッドへと直行する。
「え、ちょっ、待って!」
「誰が待つか」
腕の中で暴れるリンウェルの抵抗など無に等しい。あの頃精神統一を極め、筋トレに励んだ日々は決して無駄ではなかったのだ。
ブーツを脱がせ、シーツの上にリンウェルを放ると、逃がすまいとすぐさまその上に覆いかぶさる。
「な、なんで怒ってるの」
怒ってなどいない。ただ呆れているだけだ。 有無を言わさず首筋に顔を埋めた瞬間、リンウェルが小さく啼いた。そのまま舌を這わせ、耳に息を吹きかけると「ひゃあっ」と可愛い声が上がる。こわばっていた腕から力が抜けてシーツの上へくたりとしおれるのを見届けると、その唇へひとつ優しいキスを落とした。
「お前は甘いんだよ。全部、何もかも」
この小さい唇も、ピンクの舌も。纏う唾液だって、全部全部甘い。
舌を捻じ込み、隅から隅まで確認するようにして咥内を掻き回すとリンウェルの口端から吐息が漏れた。必死でこちらに応えようと舌を差し出すのが可愛くてつい、それに吸い付いてしまう。纏う唾液を全部絡め取って我が物とすれば、名残惜しむように先端同士が糸を引いた。
そうこうしているうち、ベッドに縫い留めた手にリンウェルの指が絡んでいた。そう、こういうところが甘いのだ。許すを超えてもはや縋るようなそれは、ますます自分を調子に乗らせるだけだというのに。
胸の膨らみに手を掛けると、リンウェルは抵抗こそしないものの、ふいっと顔を背けてしまった。服の上からそれをやわやわと揉みしだけば、都度びくりと体を震わせて可愛い声を上げている。
たまらず背に手を挿し入れ、ニットのセーターをたくし上げると、リンウェルは急に身を縮こまらせ始めた。今更その反応は、一体。
「……シャワー、浴びてないもん」
はあなるほど、とは思いつつも、はいじゃあどうぞとそれを許すはずもない。いや寧ろ――
「それがいいんだろ」
お構いなしに胸へと顔を埋め大きく息を吸い込むと、甘ったるい香りが瞬時に脳内を満たしていく。今にも惚けそうな頭のまま手探りで下着をずらし、鼻先で辿り着いた胸の突起を口に含めばリンウェルは一層高い声を上げた。既に硬くなり始めているそこを丹念に舐め上げ、吸い上げるたび腰が面白いように跳ねる。
――今どんな表情で啼いているのだろう。
つい気になり、好奇心混じりに視線を動かしてやると、それはそれは切ない表情でこちらを見つめるリンウェルがいた。
「ロ、ウ……」
名を呼ぶ声は微かだが、確かにはっきりと耳に届く。
羞恥やら快楽やらをない交ぜにしたその瞳には、ほんの少し寂しさが混じっているような、そんな気がした。
「お前、なんか勘違いしてるだろ」
「え……?」
「俺がこうしてんのは自分が【ケーキ】だからなのか、とか思ってんじゃねえか」
「……ちがうの?」
思わずため息が漏れそうになった。それをぐっと飲み込み、代わりに唾液で舌を湿らすと再び胸へとかぶりつく。
「あっ、あんっ、やっ、はあっ、ん……っ!」
円を描くように周囲を濡らした後、突起を強く吸った。それだけでリンウェルはまた腰をくねらせ、高く啼く。
「【ケーキ】とか【フォーク】とか関係なしに、美味いんだぜ、お前は」
そう、関係ない。自分が【フォーク】だからリンウェルの素肌を甘く感じているというのは、あくまで表面的な話に過ぎない。甘いから舌を這わせているわけではないし、そう感じなくなったからといってやめるわけでもない。
リンウェルが甘いのと、自分がこうしているというのはまったく別のところにある。つまりリンウェルがリンウェルである限り、自分がリンウェルを好きだと思う限り、この身体は甘美で何より魅力的なのだ。
「胸だけってわけでもないしな」
舌を素肌に寄せたまま、頭を下へ下へと下ろしていく。鳩尾を通り、「ここも」小さな臍に口づける。「ここも、」
「全部美味い」
可愛らしい窪みに舌を挿し入れ、ぴちゃぴちゃと唾液を塗りたくる。「ひ、あっ!」
「それから、こっち」
浮いた腰から履いているものを取り払い、薄い茂みの中に舌を這わせる。そこは圧倒的な甘さの中に淫猥な香りが漂っていて、それだけで自分の熱がひとつ大きくなるのが分かった。
脚を開かせ中心目がけて口づけをする。逃れようとする腰を捕らえ、蜜の溢れるそこへ舌を挿し入れると、内壁がびくびくと震え、とろりと愛液が流れ出た。それを先で絡め取り、ぷくりと腫れ上がった肉芽に纏わせ唇で食んでやれば、また脚が跳ね回る。
「ここが一番甘いんだよな」
「やあっ、あっ……だめ、っ……ああっ、あんっ!」
ほとんど泣き声となったそれに気を良くし、一層激しく責め立てる。舌先でくにくにと押し潰してやると、リンウェルの内腿が激しく震えた。
「あ、あ、い、イっちゃ、あっ、やぁ、っ、あああ――っ!」
悲鳴のような声を上げてリンウェルが達した。背を反らせながら全身でその快感を受け止め、シーツに体を擦り付けている。
自分もほとんど限界だった。枕の下に隠した避妊具を急ぎ着け、上着を脱ぎ捨てる。
「挿入れるぞ」
返事の代わりに手を伸ばしたリンウェルに体を預け、いまだ熱いままのそこに自身を押し当てた。ゆっくりと、だが確かに腰を前へ進めるとリンウェルが吐息を漏らす。
最奥まで到達するや否や、すぐさま腰を引き再び奥を突く。達したばかりのリンウェルの中は狭く、きゅうきゅうとこちらを締め付けてきた。
長くはもたないと分かっていた。それでもできるだけヨくしたい。ヨくなりたい。リンウェルが好きなのだ、二人でヨくなれるなら、長い間そうしていたい。
「すき……」
自分の下でリンウェルがそう呟いたのが聞こえた。
「ロウが、すき……すき、なの……」
「だから、不安、で……、すきなまま、放られちゃったら、どうしよう、って……」
「馬鹿」
そんなわけあるか、とキスをして、リンウェルを搔き抱く。生まれて初めて心から欲しいと思ったものを自ら放り出すほど自分は満ちちゃいない。それくらい自分はリンウェルを欲している。飢えている。
リンウェルは甘い。己がどれだけ愛されているか、甘く見積もりすぎている。自分が〈朝〉から〈夜〉までどれほどリンウェルを目で追い、視界のどこかにその姿を捉えようとしているか。皆の前では触れたい気持ちをぐっと抑え、どれほどの努力でいかにも平然を装っているのか。こんな味覚のない【フォーク】になったのだって、もしかしたらリンウェルを見つけるためだったのかもしれない、そんなふうにすら今は思うのに。
「離すかよ」
指に指を絡めて握り込む。そうしてまた何度もキスをした。唇が離れるたびにリンウェルが「すき」だと漏らすものだから、我慢ならず熱は早々に爆ぜた。可愛いのもここまで来るともはや兵器でしかない。
「お前のこと、ずっと好きでいる」
怠い体をリンウェルに被せたまま、次いで情けない声が出た。
「と思う」
永遠の愛を断言できたらどんなに良かったか。これだけ餓えていながらも、見えない未来を約束できるほど自分は出来た人間じゃない。自信もない。そしてそれらを覆い隠してリンウェルに嘘をつけるほどの度胸もない。
「ふふ」
肩越しにリンウェルが笑った。「何それ」
「仕方ねえだろ」
ごろりと寝返りを打ち、天井を見上げる。腕に掛かるリンウェルの重みが心地良い。
「ずっとそうだったら良いって、今は思ってる」
「今は?」
「今は今のことしかわかんねえだろ」
「たしかに、そうだね」
私もロウのこと、ずっと好きだったらいいな。
胸に頬を寄せたリンウェルの髪がくすぐったい。さらりとそれを指で掻き分けて、額にキスをすると、リンウェルは嬉しそうに目を細めた。
寝間着に着替え、二人で狭いベッドに潜り込んだ後でリンウェルがぽつりと呟いた。
「これからどうしよっか」
これから。将来。
その先が指し示すものは誰にもわからない。
「そうだな、このままここで暮らすのもいいよな」
「メナンシアに出るって言うのも、楽しそうじゃない?」
ただ、それを思い描くのは自由だ。ああだったらいい、こうだったらいいと、約束はできなくとも、標となるような地図を二人で作り上げるのはどうだろう。
メナンシアかカラグリアか。旅になるならフルルとも仲良くなんないとな。
そうだよ、二人で散歩くらいはできるようになってよね。
どれくらいかかるだろうな。
さあ? 三年くらい?
先は長いな……。
目を閉じると、見えるはずのない未来が見えるような気がした。そのどれもにリンウェルがいて、あの眩しいほどの笑みを浮かべている。しあわせの風景。その中心はいつだってお前なんだ。この眼前の光景をお前にも見せてやりたい。
引き寄せて収めるようにリンウェルを腕に抱く。鼻をくすぐる髪の香りに再び目を閉じれば、同じ夢で逢えそうな気がした。
終わり