幼い頃に読んだ絵本はお姫様と王子様が結ばれるお伽話だった。お姫様と王子様が出会って惹かれ合い、苦難を乗り越えた先で最後はキスをして永遠の愛を誓い合う。
恋って綺麗なものなんだ。
挿絵に描かれた二人の横顔があまりに美しいので、私は自然とそう思っていた。
綺麗は綺麗でも、あまりに綺麗なものには触れられない。そもそも私の世界に恋は無い。だって私は魔法使いだから。一族の血を絶やさぬよう、決められた相手と婚姻を結ぶと決められていた。それも今では全部失くしてしまったが、幸せそうに微笑むシオンとアルフェンを見ていて思う。私は、二人とは程遠い。二人を祝福できる魔法使いではあっても、お姫様にはなれない。
「おめでとう、シオン、アルフェン」
「ありがとう、リンウェル。素敵なブーケ、嬉しいわ」
青天の下に開かれた二人の結婚式には多くの人が出席していた。一緒に旅をしていた私たちはもちろん、その道中で知り合った人や昔からの知人など、集まってみれば生まれから境遇まで多種多様な面々だ。そんな人々が一堂に会して笑顔で杯を酌み交わす。これこそ私たちが、この先の世界が目指すべき光景なのだろう。
シオンと世界を救って、ダナとレナは融合を果たした。レナによる一方的な支配からは解放され、ダナの各地で復興が始まっている。両者のわだかまりを解くにはまだもう少し時間がかかりそうだが、それでも街も人も目に見えて変化しているように思う。
そのきっかけを生み出したのが本日の主役であるアルフェンとシオンであり、困難を乗り越えて結ばれた二人を祝福しない者などいない。仲睦まじく微笑み合う二人の姿は、あのお伽話の中の王子様とお姫様に重なるようだ。
「シオンのドレス綺麗。とっても似合ってるよ」
「ありがとう」
「アルフェンも素敵だね。やっぱり青は外せないんだ」
「そりゃあもちろん。シオンが最初に勧めてくれた色だからな」
「もう、まだ言ってるの」
「一生言うさ」
他愛もない会話をしていると、シオンの視線が私の背後へと向いた。続いて聞こえてきた声の主には心当たりがある。
「よお、久しぶり」
「ロウも、来てくれたのね」
「あったりまえだろ。俺だってずっと楽しみにしてたんだぜ」
改めておめでとう、と言いながら、ロウはアルフェンの肩を叩いていた。
「カラグリアの復興はどうだ。進んでるか?」
「んーそこそこだな。やっぱ人手が足んなくてよ。暑さは和らいでる気もするから、かなり動きやすくはなったけどな」
「俺もカラグリアには縁も恩もあるからな。いずれ手伝いに行きたい。落ち着いたら顔出すよ」
「無理すんなよ。今は気持ちだけ受け取っとくぜ」
そう言って目を細めるロウの横顔には、あまり見覚えが無かった。しばらく会っていなかったとはいえ、そんなに大人っぽく微笑む人だっただろうか。もしかしたら、世界が変化するのと同じように、ロウも変化しているのかもしれない。いつまでも子供ではいられないと、日々自分を磨いているのかもしれない。
じゃあな、と言って遠ざかっていくその背中を見つめたまま、私は最後までロウに声を掛けることはできなかった。それはきっと、私の中でまだ答えが定まっていないから。あの日ロウに投げかけたはずの問いは、他ならぬ自分に返ってきていた。
本から興味を得たのか、あるいは興味があったから本を読み始めたのか、どちらが先だったのか今となっては分からない。だがあの頃の私は〈恋〉というものが気になって仕方なかった。それはどこから芽生えるのか、きっかけはないのか。恋に落ちる、というが、その瞬間は分からないものなのか。とにかく恋について知りたくて仕方なかった。
手に取った本はヴィスキントのアウテリーナ宮殿にある図書の間から借りてきたものだ。子供向けのお伽話なんかじゃなく本当の恋が知りたくて、大人向けのものを選んだ。それはまさに文字通り大人向けで、好奇心が勝ったと言えば聞こえはいいが、結局のところそういった性への関心が上回った。
ロウに声を掛けたのは共犯が欲しかったからなのかもしれない。初めはそんな軽い気持ちでしかなかった。だが逢瀬を重ねるたびそれも段々と変化していった。夜にロウと触れ合う時間が増えるたび、ロウのことが気になっていく。恋人でも何でもないのに、恋人紛いの行為をすることによって身体だけでなく、心の距離も近づいていくのが分かる。
私たちの行いは決して褒められたものでないことも分かっていた。だからこそ昼間はそれを表に出さないよう必死に取り繕い、なんでもないふうを装った。
壊したくなかった。私たちの関係を。昼は背中を預ける仲間として、夜は秘密を共有し合う共謀者として過ごす甘く曖昧な日々を手放す勇気が私には無かったのだ。
ロウから好きだと言われた時、自分は激しく動揺した。あの瞬間、私の身体が感じたのは間違いなく喜びの感情だった。同時に頭を過ったのは、あのお伽話だ。〈恋〉は美しくて、それゆえに触れられないもの。
ロウが口にしたその想いは、今こうして触れているからこそ感じている気持ちじゃないのか。快楽で惚けているからそう錯覚しただけで、いざ冷静になった時後悔するんじゃないのか。もしそれに気づいてしまったら、私たちはどうなってしまうのか。自分の気持ちもロウの気持ちも、何も信じられなかった。
あれから時間が経った今だって分からない。私はロウが好きなのか、そうでないのか。そもそも恋が知りたかったはずなのに、それを通り越すような行為をしてしまったせいか心が追い付いていないのかもしれない。
あの頃のことを思い出すと今でも胸が苦しくなる。私はこの先も、後悔にも似たそれを抱え続けながら生きるのだろうか。
翌日、私はシオンの家を訪れていた。手には昨日シオンに贈ったはずのブーケがある。式の終盤、クライマックスともいえる場面でフルルたちがリボンを解いてしまったものを、街の花屋さんで改めて整えてもらったのだ。
「わざわざありがとう。一本一本でも綺麗だけれど、こうしてブーケの形になるとなんだか特別なものに思えるわね」
胸元で咲き誇る白い花びらがシオンにとてもよく似合っていた。今日はドレス姿ではないのに。お姫様はいつでもどこでもお姫様なのかもしれない。
「ところで、リンウェルの方はいいの?」
「私?」
「昨日、あまり話せていなかったみたいだけれど」
それが誰のことを指しているのかは、すぐに分かった。
「数日でカラグリアに戻るって聞いたわよ」
「うん。でも、二度と会えなくなるわけじゃないし」
「そうね。でもそれなら、また会えるっていう保証もないんじゃないかしら」
痛いところを突かれて、私は押し黙った。
「ごめんなさい。でも、何か言いたいことがあるように思えたから。貴方にも、向こうにも」
「ロウにも?」
確証はないけれど、と言いながら、シオンはブーケから白いバラを一本抜き取った。それを私の指に持たせ、柔らかく微笑む。
「貴方たちには後悔してほしくないの。それだけよ」
この機を逃してはいけない。シオンに背を押された気がして、街に帰るなり私はロウに会う約束を取り付けた。約束というよりほとんど押しかけに近いそれに驚きながらも、呆れたように笑ってロウは時間を作ってくれた。
「ロウたちはいつまでメナンシアにいる予定なの?」
「式も終わったし、明後日には発つんじゃねえかな。ネアズの仕事が終わり次第」
「ここまで来てもお仕事してるんだね」
「根っからの仕事人間なんだよ。どうせ戻ってもやることだらけだし、今くらい羽目外しゃあいいのに」
こうして二人で食事をするのはおよそ一年ぶりだというのに、私たちの間の空気にはさほど違和感が無かった。むしろ、どちらかと言えば緊張していたのは私の方だけで、ロウからはそんな素振りは微塵も感じられないように思えた。あるいは、意識しているのは私だけで、ロウはもう私のことなんて気に留めていないのかもしれない。そう思うと、どうにも心が寂しくなる。本当に今更、自分勝手な話だ。
店を出ると、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。夜空に瞬く星はあの頃の方がよりくっきりと見えていた気がする。
「なあ」
通りを並んで歩きながら、ロウがふと言った。
「今、彼氏とか居んのか」
「いないよ、そんな人」
「じゃあ好きな奴とか」
「……それは」
どうだろう、と濁すと、ロウがその場に立ち止まる。
熱の籠った瞳。暗がりに街灯が数本灯っているだけなのに、どうしてか私にはロウの表情が手に取るように分かった。
「俺は――」
「待って」
その言葉を遮って、私は視線を落とした。
「私はまだ、わかんない。ロウが好きなのか」
痛いほどに真っ直ぐなその目を見られなかった。私が放つ言葉に失望するロウを見たくなかった。
「だから、もう一回試したい」
自宅に着くなり、私はロウを寝室へと連れ込んだ。ロウも何も言わず、私をベッドへと押し倒した。
考えてみれば、こうして組み敷かれるのは初めてのことだ。ぎしりと軋む木の音も記憶には無く、それだけで自分たちの行為がいかに道から外れていたのか思い知らされる。
ロウはそんなことお構いなしに私に触れた。あの頃のような何かを確かめる素振りなど微塵も見せず、ただひたすら目の前の私の身体を弄っていた。
「あっ、はあっ、んっ……あ、ああっ……!」
久しく与えられていなかった快楽に、私の身体は素直に悦んでいた。ロウの指が素肌を撫でるたびに胸が震え、自然と声が漏れた。近隣に多少の配慮はすれど、あの頃のように必死で堪える必要もない。そんな状況がまた一層興奮を加速させていく。
互いの服を脱がし合い、眼前に晒されたロウの身体はよく引き締まっていた。腕や腹に残された傷跡のいくつかには見覚えがある。旅の途中、戦闘の際に負った怪我によるものだ。それを負わせた相手も、その時ロウが見せた反応もよく覚えている。爪が鋭いズーグルだったが、ロウは臆することなく正面からぶつかっていった。私の詠唱する時間を稼いでくれたのだ。私は、きちんと覚えている。
それでももし、この先ロウがこの傷を他の誰かに見せることがあって、知らない指がこの傷を撫でるのだとしたら。何も知らない誰かが気安くこの傷に触れるのだとしたら。そう想像しただけで、私の中で言い知れぬ不穏な何かが渦巻いていくのが分かる。どす黒い色をしたそれは、お腹の下の方に溜まってずしりと重みを増していく。
それと同時に湧き上がる気持ち。やっぱりこれは〈恋〉なんかじゃない。〈恋〉はもっと綺麗で、美しいものだったはずだ。
「ひあっ」
ふとロウが耳に触れたので、私は堪らず声を上げてしまった。
「かわいい」
私の抱える思いも知らずに、ロウは笑った。
「やっぱ俺、お前が好きだ。お前といるとドキドキもするし、嬉しくなる」
指で私の髪を撫でながら細めた瞳につい目を奪われる。まるで眩しいものを見るような、愛おしいものを見るようなそれが今、私だけに注がれている。ここまで来ると嬉しいを通り越してなんだか気恥ずかしい。胸が痛い。
「それに」
やや低くなった声に次いで、ロウの眼差しが真剣なものに変わる。
「お前が他の奴とこんなことしてたらって思うとすげえ腹立つ。そいつのことぶっ飛ばしたくなる」
自分と同じだと思った。こんなどろどろとした澱みみたいなものを、ロウも抱えているのだろうか。
ロウが私でない、他の誰かとこうしていたら。きっと私だってなんかもやもやはする。腹が立つかもしれない。ぼこぼこにしたくなるのは、ロウの方かもしれないけれど。
「なら、お前も俺のこと好きなんだろ」
ロウは確証を得たように笑って、私の背に腕を回した。
恋ってこんなものなの? こんなどろどろしてるのに、恋なの?
「こんなわけわかんないくらいお前のこと考えてんのに、違うことってあんのかよ」
ロウの触れた部分が熱い。じわじわとしたそれが私の皮膚を伝って全身に広がっていく。ロウが私を本当に好きなのだと伝わってくる。
「私以外に、こういうことしないで」
ついて出た言葉は素直な望みだ。
「私だけ見てて。私にだけ、好きって言って」
ロウは一瞬目を見開いた後で、優しく笑った。
「キスしていいか」
そういえば、まだ一度も唇を合わせたことは無かった。どこもかしこも曝け出しておきながら、いまだ触れさせたことのない場所があったなんて。
いいよ、と答える前に自分から唇を重ねる。何度も何度もそうしたのは、空いた期間を埋めたかったからではない。単にロウから感じられる熱が離れがたいものだっただけだ。
こうして私たちは結ばれた。キスで締めるのはお伽話の流れに添っているような気もするが、実際はそれとは程遠い。むしろお伽話はお伽話なのだと思い知らされた。
翌朝、ロウに夜更けまで蕩かされた私はベッドの上で目を覚ましたものの、しばらく動けなかった。私の部屋のキッチンで食事を用意するロウに恨み言を吐きながら、私はその背を見つめていた。ロウは「焦らしたお前が悪い」と言いながらも、どこか満足そうに笑っていた。ついには鼻歌まで聞こえてくる始末だ。
「朝飯、出来たぞ」
「……ありがと」
小さいテーブルに向かい合って席に着く。二人で朝食を摂る朝はなんだか新鮮だった気もしたが、この時が来るのを私はずっと前から知っていたような気もした。
終わり