「ただいまとおかえり」後日談その3。紆余曲折を経て二人が一緒に暮らし始めるまでの話。性描写はぬるいのがほんの少しだけ。(約13,000字)

☆後日談③(終)

 潮の匂いと、吹き抜ける風。見渡す限り波は穏やかで、青い空には真っ白な雲が浮かんでいた。
 金属製の手すりから身を乗り出してみると、すぐ真下で轟音と共に飛沫が上がっているのが見えた。後方には白い泡が線を引いて、軌跡を描いている。波に揺れ、はっきりとした形さえ覚束ないのに、それでいてどこか力強い軌跡。
 この光景を見ると、まるで船が海を割ったようだといつも思う。船が布生地のような海を切り裂きながら進んでいるようにも見えるのだ。実際はこんな果てしない海を割れるものなんかどこにも存在しない。たとえどんなに強い星霊術を用いたって、せいぜいひととき亀裂を生みだしただけだった。
 どこまでも広い海は続き、外にはそれよりもさらに大きな世界が広がっている。こんな船も、海も、ここから見える風景も、少し前までなら出会うことだって想像すらつかないものだった。それがまさかこうして何度も目の当たりにできるようになるとは。本当に、生きているとは何があるかわからない。
 この船はミハグサールに向かっている。ガナスハロスを出航し、大量の貨物と共に東へと進んでいた。
 今回の仕事はその中の一部をニズへと届けることだった。正確に言えば、俺はそれを送る商隊の護衛で、カラグリアを出てからガナスハロスへ向かい、そこに最近できた港から船に乗ったのだった。
 最近ではこうしてあちこちを行き来する仕事も少なくない。それはかつて俺たちが世界各地を旅して回った経験を買われているからでもあり、ついでに各地の事情に詳しくて顔が利くともなれば自然と依頼も増えていくものだ。
 頼られるのは悪くないなと思う。責任のある仕事を任されるのは緊張もするが、一方できちんとやり遂げなければと背筋が伸びる。
 気を抜いて油断して失敗するなんて格好悪い。そういう姿を見せたくない相手がいるというのは思いのほか自分を成長させる機会ともなった。
 船が港に着くと、見知った顔なじみが陽気な調子で現れた。
「よう、ロウ。久しぶりだな!」
「マハバル! 船に居ないと思ったら、こっちにいたんだな」
 船の管理者であり航行の責任者でもあるマハバルとは、初めて船に乗せてもらった時からの知り合いだ。かつてはレナの支配のもと、彼らの第二の城と呼ばれる戦艦を造る事業に当たっていたが、それらから解放された現在は自らの意思で船を操舵し、あちこちへ貨物を届ける商売をしている。海を愛し、船を愛する実に彼らしいやり方だ。
 請け負う仕事は領同士の交易から個人の依頼までと幅広く、商隊の護衛をすることが多い俺にとってはマハバルと顔を合わせる機会も少なくなかった。情報交換をするうち今ではすっかり気心も知れ、親しい友人の一人とも言えるだろう。年齢こそ離れてはいるが、それを感じさせないほどには彼の活力はどこまでもみなぎっていた。
「どうだ、仕事は順調か? カラグリアも最近は人が増えてきたって聞いたが」
「まあな。それでいて住宅用の資材が足りてないってんで、それの調達にてんやわんやだ。そっちこそ、商売は上手くいってるみたいだな」
「それこそぼちぼちだ。仕事はあるが、人手が足りねえ。せっかくの大口も泣く泣く断らなくちゃいけねえくらいだ。はあ、どこかに腕っぷしの強い、根性のある海と船好きの男はいないかねえ」
「さすがにそりゃ欲張りすぎだろ。あんたみたいな男がどこにでもいると思うなよ」
 軽口を叩き合いながら再会を喜び合った。自分たちのような筆不精が互いの息災を知らせるには、こうして直接顔を合わせること以外に方法はないのだ。
 本来ならここで一杯盃を交わしておくべきなのだろう。マハバルもそのつもりだったのか、今後の動向を訊ねてくる。
「ニズに着いたら依頼は終わるんだろう? どうだ、久しぶりに。美味い店を知ってるんだが」
「あー……悪い。今日はこれから向かうとこがあるんだ」
 俺は慎重に、かつ正直に断りを入れた。
「これから? 他に急ぎの用事でもあったのか」
 残念がるマハバルに、俺はああ、と頷いた。
「メナンシアに、待たせてる奴がいるんだよ」

 荷馬車を捕まえた甲斐あって、ヴィスキントには予定よりも早く着くことができた。日没にはぎりぎり間に合わなかったが、それでも満天の星々には程遠い。
 城門近くで荷馬車を降りて、そのまま早足に目的地へと向かう。ドアの前に立ってベルを鳴らすと、奥から「はーい」という返事が聞こえてきた。
「いらっしゃい。お仕事お疲れ様」
「おう、お邪魔します」
 ドアを開けて開口一番、リンウェルが笑顔で出迎えてくれる。奥のテーブルの上からフルルがちらりと視線を寄越すのが見えた。
「思ったより早かったね。まだご飯できてないや」
 早く終わったの? と問われ、俺は咄嗟に「ああ」と誤魔化した。額に汗までかくくらい急いだことは秘密だ。
「ん? これ、何の匂いだ? すげえいい匂いする」
 俺の問いにリンウェルはふふんと鼻を鳴らして、
「今日は特製の串焼き肉にしたんだ。いいお肉が安く手に入ったからね」と、得意げに答える。
「スパイスはキサラ直伝だから、味はお墨付きだよ」
「どうりで。じゃあ早速――」
「だーめ。まずは手洗いうがいから!」
「ちえー」
 そのまま洗面台の方へと追いやられる俺を、フルルがこれ見よがしに笑っていた。
 交際が始まってからもう半年が過ぎた。立ち止まることのない日々を送っていれば、あっという間に時間は過ぎ去っていく。
 それはもう目にも留まらぬほど。この半年でカラグリアには住居がかなり増えたし、同じくらいヴィスキントに新しい店が建った。来るたび光景が変わるので、毎度リンウェルに説明を求める次第だ。
 それでいて俺らの付き合いは変わらない。普段カラグリアに暮らす俺は仕事のたびにヴィスキントを訪れ、リンウェルの元を訪ねる。一緒に食事をしたり、買い物をしたり、休みの日には遺跡調査に行ったりと、ここ半年どころかその前とほとんど変わらない日々を過ごしてきた。
 とはいえ関係性は変わったのだから、当然キスをしたり、抱き締めたりもする。その度フルルの視線は気になるが、今のところ以前のように妨害してくるということはない。相変わらず俺を目の敵にするフルルだが、その辺の触れ合いはどうやら許してくれたようだった。
 そういう意味では穏やかな日々だと言えるだろう。波風の立たない海を、ゆっくりと船が滑っていくような、緩やかな風を肌に感じるような、そんな日々だ。
 二人で夕飯を食べていると、リンウェルが思い出したように言った。
「そういえば明日、大丈夫そう?」
「ああ、あれな。いつでもいけるぜ。全然問題ナシ」
「そう? 疲れてるならまた今度でもいいけど」
「心配すんな、大丈夫だって。荷馬車でも少し休んだし」
 リンウェルたっての希望で、次の休みは遺跡調査に行こうと話していた。前回の休みもその予定だったが朝になって急ぎの知らせが入り、荷車がズーグルに襲われたとか何とかで街道まで出ることになってしまったのだ。討伐ついでに海洞まで商隊に付き添い、終わった頃には昼を大きく過ぎていた。これでは調査どころか遺跡に着いてすぐとんぼ返りしなければならないということで、その日は目的を達することができなかった。
 それから少し間は空いたが、ようやく約束を果たせそうだ。聞けば今回の目的地は近場の遺跡で、そこはもう何度もリンウェルと訪れた場所だった。
「そこでいいのかよ? 朝早く出ればもうちょっと遠くまで行けるだろ?」
 俺の言葉にリンウェルはううんと首を振った。
「だってロウ、明後日の朝には出なきゃいけないんでしょ? 帰りが遅くなったら困るじゃない」
 それを聞いて思わず口ごもる。確かにリンウェルの言う通り、今回の休暇はたったの2日きりだった。
 人から頼られるということは仕事が増えるということでもあって、俺は今多くの依頼を抱えていた。俺だけじゃない。カラグリア全体が深刻な人手不足ということもあって、〈紅の鴉〉はあらゆる人材が常に足りていないのだ。
 仕事は増える中で休暇を貰えていることは本当にありがたい。自分はこうしてあちこちを飛び回っている分、羽休めも必要だろうと気を遣ってもらっているが、現地でひたすら頭を使っているネアズにはきっとまともな休みなど存在しないのだろう。それを考えれば現在の状況は恵まれすぎているほどだ。現地の奴らを助ける意味でも、早めに向こうに戻った方がいい。
 頭ではわかっているが、誰かを恋しく思う気持ちに嘘はつけない。カラグリアに戻ったところで待ち受けるのは大量の仕事だけであって、そこにリンウェルはいないのだ。
 当然、復興は自分の意思で参加しているものであり、成し遂げなければならない必須事項であることもよくわかっている。とはいえ日常に潤いが足りていないこともまた事実であり、今のこのオアシスのような日々はどうにも離れがたいものだった。カラグリアにいてもふとリンウェルのことを思い出す。美味しい食事。たわいもない会話。愛らしい笑顔。
 その度自分を奮い立たせてきた。足を止めるな、手を動かせ。何より今の自分の目標はただ故郷を復興させることだけでなく、同じ景色をリンウェルにも見てもらうことでもあった。
「いつも気遣わせて悪いな。もっと長く休みが取れたら良かったんだけどな」
「ううん、いいの。忙しいのにこうして来てくれるだけでも。ネアズにもいずれきちんとお礼しないとね」
「そうだな。けどまずは明日、だろ。バタバタさせちまう分、何にでも付き合うぜ」
 何しようか、という俺の問いにはリンウェルは小さく笑った後で「考えとくね」とだけ言ったのだった。
 翌日はよく晴れていて、まさに探索日和だった。リンウェルの機嫌も良く、目と鼻の先であるとはいえ道中もずっと楽しそうにしていた。
 俺はリンウェルのこの顔を見るのが好きだった。遺跡探索に出かける時のリンウェルの弾みようといったら傍目から見てもわかるほどで、歴史にも遺跡にも興味もないこちらまで愉快になってくる。その笑顔を見ているだけで背中の重たい荷物も足場の悪い道も全部どこかへ吹っ飛んでしまうのだった。
 楽しい時間ほどあっという間に過ぎる。探索を終えて街へ戻ってくると、もうすぐ夕方という時分だった。これから何か行動を起こすには時間が足りないが、解散にはまだ早い。
 買い物と迷った挙句、俺たちは一緒に夕飯を摂ることを選んだ。場所はリンウェルが知人から教えてもらったという新しめのレストランで、味も量も価格も悪くない店だった。ヴィスキントにはこういった店が次々建っていくのだから、競争の激しさは図り知れない。ウルベゼクがここに近づけるまでにはもう相当の時間が必要だろうなと思った。
 店を出ると辺りはすっかり暗くなっていた。リンウェルを部屋まで送り、ドアのところで別れようとした時、
「……ねえ」
 リンウェルに引き留められた。
「どうした?」
「ロウは、明日帰るんだよね。その後は? ずっとカラグリアにいるの?」
 ほかの場所に行く仕事はないの? とリンウェルが訊ねてきた。
「そうだな……確か、そういう仕事はしばらく入ってなかったはずだぜ」
「本当に?」
「まあ、多分。って、いきなりどうしたんだよ。お前がそんなこと聞いてくるなんて珍しいな」
 リンウェルは休暇の予定については聞いても、仕事の予定まで聞いてくることはなかった。まあ大抵はカラグリアにいるか、あとは護衛で一時的にどこかの国に寄るかなので、敢えて訊ねる必要もなかったのかもしれない。
「なんだ、こっちに来る予定でもあんのか?」
「べ、別に、そういうわけじゃないんだけど……」
 リンウェルは言葉を濁したあとで、「ただ聞いてみただけ」と笑った。
「ロウが普段どんな生活してるのかなって思って。あ、仕事に夢中になってケガしないでよ。もちろん病気もだけど」
「おう。お前もな。ちゃんとメシ食ってベッドで寝ろよ」
「ロウってば、いつもそればっかり。わかってるよ、この頃はちゃんとしてるんだから」
 どうだか、と俺も笑って、その日はそこで別れた。またね、と部屋に戻って行くリンウェルに一瞬違和感を覚えたものの、宿に着く頃にはそれもすっかり忘れ去っていた。

 リンウェルがウルベゼクに現れたのは、その1週間後のことだった。たまたま街を歩いている時に荷馬車から見慣れた格好の人物が降りてきたので、俺はひどく驚いた。
「リンウェル?」
 声を掛けると、リンウェルは視線を僅かに逸らした後、どこか気まずそうにしてぎこちなく笑った。
「どうしたんだよ急に。何か用事か? 調べものとか?」
「ううん、別にそういうわけじゃないんだけど……ふと来たくなったから」
 忙しかった? というリンウェルの問いには首を振って、とはいえまだ仕事が残っているので日中は外に出ていることを伝えると、
「大丈夫。時間なら一人でいくらでも潰せるから。だから、ロウのお仕事が終わるまで部屋で待っててもいい?」
「それは別に、構わねえけど」
 俺が頷くと、リンウェルはほっとした顔で、
「ありがとう。なら、夕飯作って待ってるね。お仕事頑張って」と言った。
 それから「じゃあね」と言ってリンウェルは俺の部屋の方へと去って行った。その後ろ姿がやけに物寂しく見えたのは、気のせいだっただろうか。
 仕事を終えて部屋に戻ると、リンウェルは宣言通り夕飯を作って待っていてくれた。だがそこに違和感を覚えたのは、いつもリンウェルに付き従っているあいつの姿が見えなかったからだ。
「フルルは皆のところにいるよ。ここに来る途中、杜に寄ったんだ」
「そうだったのか」
 俺はてっきり、暑さに参ってリンウェルのフードか鞄の中にでも引っ込んでいるのかと思っていたが、そうではなかったらしい。
「向こうに行くの久々だったし、フルルにとってはちょっとした帰省みたいなものかな。あ、王様も王妃様も元気そうだったよ」
「そうか、なら良かった。ここんとこ顔出せてなかったから、どうしてるかって思ってたんだよな」
「安心して。皆の無事も伝えておいたから」
 リンウェルは得意げに笑った後で、「そういえば」と言った。
「実はね、こっちに来るのあまりに急だったから、宿取れなかったんだ。だから今夜一晩泊めてほしいんだけど」
 だめ? と言われて、俺は思わずたじろいだ。
「だめ、じゃねえけど……いいのかよ」
「いいも何も、泊めてもらえなかったら野宿になるじゃない」
「そ、そういうことじゃなくて」
 俺の言いたいことをわかっているのかいないのか、リンウェルは小さく首を傾げたままこちらの様子を窺うばかりだった。やや上目遣いで、きょとんとした表情。ああもう勘弁してくれ、俺はその顔に弱いのだ。
「わかったよ。狭いけど、文句言うなよな」
「やったあ、ありがとう! 狭いのは知ってるから大丈夫!」
 はしゃぐ声にますます不安になる。それは俺の方が大丈夫じゃないということをこいつはきちんと理解しているのだろうか。
 互いに寝る準備を済ませると、意を決してベッドに入った。2人分の重みにベッドがぎしりと軋む。
 思えば、こうしてリンウェルと同じベッドで眠るのは交際前のあの夜以来のことだった。その翌日から自分たちの交際は始まったわけだが、その後リンウェルがこちらを訪れる時は宿を取っていたし、俺もメナンシアでは〈紅の鴉〉が用意した宿に泊まっていた。リンウェルの部屋で一晩を過ごそうなどと考えたことは1度たりともなかった。
 そうするのはまだ早いと思っていたのだ。焦ることはない、もっと時間をかけてからでも遅くはないと。
 だがそれは俺の勝手な逃げだったのかもしれない。そもそもリンウェルに気持ちも確かめないまま「まだ早い」だなんてどうして決めつけられるだろう。そういうところが俺の未熟さであり、幼さでもあった。
 間を詰めてもなお狭いベッドは、緊張を加速させるには充分だった。以前より確実に距離は縮まっているはずなのに、俺の心臓はまるで慣れというものを知らない。むしろ洗い立ての髪の匂いがわかるほどに近いものだから、頭蓋を打ち鳴らしているかのように大きく響いた。こんな音はリンウェルには到底聞かせられない。聞かれたらきっとからかわれるに違いない。
 リンウェルはといえば、夕食の時とは打って変わってごく落ち着いた様子だった。はしゃぐ素振りも見せず、ただ天井をぼうっと見上げているだけ。
 もしかして眠いのだろうか。ここに来る前にシスロディアにも寄ったというし、あるいは疲れ切っているのかもしれない。今日はこのまま特に何もせず、本当にただ眠るだけなのかも――。
 そう思った時、リンウェルがふと囁いた。
「ねえ、ロウ」
 シーツの擦れる音が聞こえる。
「ぎゅってして」
 思わずリンウェルの顔を見たが、リンウェルはそれ以上何も言わなかった。何も言わず、ただ黙ってこちらを真っすぐ見つめるだけ。
 俺はリンウェルの方へと向き直ると、その細い体に腕を回した。力を込め引き寄せると、花のような香りがすぐそこで香った。
「キスも、したい」
 さらなる注文は愛らしい上目遣いと一緒にぶつけられた。頭をくらくらさせながら、そっと唇を重ねる。何より柔らかくて甘いそれが触れた瞬間、自分の中にふつふつと湧き上がってくるものがあった。
 それを追いやるので精いっぱいだというのに、なおもリンウェルは、「もう一回して」などと迫ってくる。熱い吐息が頬に触れて、いっそう鼓動は大きくなった。
 一周回って心臓に痛みを感じ始めた頃、
「さすがに俺もそろそろ我慢の限界なんだけど……」俺は素直に心の内を明かした。
 冗談交じりではあったものの、れっきとした忠告のつもりだった。これを聞けばリンウェルだって顔を真っ赤にして「バカ!」などとこちらを罵り、突き放してくるに違いないと、そう思ったのに。
 予想通りだったのは、顔を赤くするところまで。リンウェルは毛布に包まったまま俺の頬に触れると、
「……やめないで」
 はっきりそう告げた。
「お願い、やめないで」
「リンウェル……」
 その言葉の意味するところは俺にだってわかる。リンウェルだって、言葉通りのものを期待しているわけではないだろう。
「……いいのか?」
 改めて訊ねると、リンウェルは俺の胸の中で微かに、それでいて確かに頷いた。俺はその背に再び腕を回すときつく抱き締め、そしてもう一度リンウェルの唇に口づけた。
 
 いくらあらゆる経験談を聞かされていたって未経験であることに変わりはない。いたって単純な構造の寝間着さえ脱がすのに一苦労し、その下に身に着けている下着などいわずもがなだった。
 それでも自分が触れるたび甘やかな声を上げるリンウェルの愛おしさときたら。夜よ、頼むから明けないでくれと何度願ったことか。
「恥ずかしい……」
 身を捩りはしても拒絶はしない。すべてを晒し、全身で思慕を示してくれるリンウェルに、俺は拙いながらも必死で応えた。
 当然余裕などなかったが、それでもリンウェルの一挙動に心をすべて傾け、その奥底の真意を汲み取ることに徹した。時間を掛けたことが功を奏したのか、繋がる時にさほど痛みはなかったようだ。代わりに用意してあった避妊具はすべて消え、唯一誇れるはずの体力もまた底をついた。
 事が終わった後で隣に倒れ込む俺を見て、リンウェルは笑った。笑いながら、泣いていた。
「や、やっぱり痛かったか? それとも体勢が悪くて――」
 慌てる俺に、リンウェルは「ううん、違うの」と首を振った。
「嬉しくて。あとちょっと、ほっとした」
 思ったほど痛くないんだね、と涙を零しながらリンウェルは笑った。そんなリンウェルをもう一度胸に抱き、その髪を撫でる。汗ばんでいても変わらず甘い香りがするそれをどこか不思議に思いながら、俺はリンウェルの髪を撫で続けた。
 翌朝、リンウェルは荷馬車に乗ってメナンシアへと帰っていった。もう少し滞在していてもいいと言ったのだが、「フルルを待たせてるから」と断られてしまった。
 その割に荷馬車に乗るその足が重たそうに見えたのは俺の見間違いか。リンウェルは動き出す荷馬車の上でしばらくこちらに手を振り、艶やかな黒髪をさらりと揺らしながら道の向こうへと去って行ったのだった。
 リンウェルが帰った後で、俺はふと浮かんだ疑問を拭えないでいた。どうしてリンウェルは急にカラグリアに現れたのだろう。宿も取らず、さらにフルルを杜に置いてまで。まさか夜のあれが目的だったなんて、そんなはずはない。
 それにリンウェルがベッドの上で発した言葉。「ほっとした」というのは、本当に痛みについてだったのだろうか。たとえ嘘じゃなかったとしても、他にも「ほっとした」ことがあったんじゃないのか。
 あくまで勘だが、それらの根本はどこかで繋がっているのではないか。リンウェルが去って行った時の背中を思い出す。つい最近、似た光景を見たことがあるような気がした。――それは先週も、そして昨日リンウェルがこちらに現れた時もそうだった。
 どこか寂しそうなリンウェルの笑顔。もし俺の推測が間違っていないとしたら――。
 俺は必死に考えを巡らせた。巡らせた結果、ひとつの決断にたどり着く。とはいえこれはきっと一人では到底叶えられない。あいつらの力を借りないと。
 そうして俺はその足でウルベゼクの中央へと向かった。目的地は〈紅の鴉〉の拠点の建物だった。

 翌週、俺がメナンシアを訪れることができたのは、ひとえに周りの計らいあってのことだった。そわそわと落ち着かない俺を見かねたのか、ガナルとティルザがネアズに掛け合ってくれたのだ。
 どうやらネアズもその気だったのか、これまたあっさり俺のメナンシア行きは決まった。もちろん表向きの仕事も言い渡されている。ネアズはそういうところの調整が本当に上手いのだ。
 言いつけられた仕事を終えてリンウェルの家に向かう頃には、すっかり日が傾き始めていた。早足で通りを抜けドアを叩き、リンウェルに出迎えられると、俺はその場ですぐに訊ねた。
「今何か入り用なものとかないか? あれば買い出しに行くけど」
「え、何? どうしたの、急に」
 リンウェルは夕飯の準備の真っ最中だった。コンロには湯気の立つ鍋が掛かっていて、部屋中にシチューの良い香りが漂っていた。
「うーん、特に思いつかないんだけど」
「なんでもいい。お前が食べたいものでも」
 少し考えて、リンウェルは何か果物を買ってきてほしいと言った。今夜のデザートの付け合わせにするつもりのようだ。
「わかった、果物だな」
「うん、よろしく」
「フルルも借りていくからな」
 リンウェルの「えっ」という声と、フルルが「フル!?」という声を上げたのはほとんど同時だった。俺は戸惑うフルルを肩に乗せ、「ちょっと!」というリンウェルの声も聞こえていないふりをして、そのまま急ぎ足で部屋を出た。
 きっとリンウェルは驚いただろう。訪れたばかりの俺があからさまに変な理由をつけて部屋を出て行ったから。
 それでも、これは必要なことだった。俺は不機嫌そうに目を細めているフルルと向き合うと、その目を真正面から見つめて訊ねた。
「フルル、お前はリンウェルが大事なんだよな」
「フル」
 何を今さら、そんなこと当然だ、とも言いたげな顔でフルルが胸を張る。
「それは俺も同じだ。俺はリンウェルが大事で、これからももっと大事にしたい」
「……」
「だからお前に話がある」
 フル、とフルルの目が見開かれた。どこまでも透き通るその瞳に向かって、俺はこれから起こそうと思っている行動について打ち明けた。
 部屋に戻った時、リンウェルはちょうど料理を終えてエプロンを外しているところだった。
「いいタイミングだったね。今ご飯できたところだよ」
 早速食べよっか、と再びキッチンに向かおうとするその背中に向かって、
「なあ、リンウェル」
 意を決して言った。
「俺と一緒に、カラグリアに来ないか」
「え……?」
 リンウェルは驚いたようにこちらを振り返り、そこで動きを止めた。
「一緒に、カラグリアで暮らさないか。同じ家で、同じ部屋で」
 俺の計画。それは、リンウェルをカラグリアへ誘うことだった。
 それもただ誘うだけじゃない。ひとつ同じ屋根の下で、ともに暮らそうと提案したかった。
 リンウェルと一緒に居たかった。もっと長い時間、同じものを見て、同じものを食べて、一緒にそれを分かち合いたいと思った。こうして互いの国を行き来するだけではとても足りなくなっていたのだ。
 それでも自分の夢を諦めることはできない。カラグリアの復興は俺の最低限の到達点であり、通過点でもある。それを達成できないうちは、ほかの国で暮らすことなど考えられない。
 故に考えた結果が、リンウェルと一緒にカラグリアで暮らすことだった。現時点ではこの方法以外、希望を叶えられるものはない。
 先走ったと思われるかもしれない。夢を叶えてからでも遅くはないんじゃないかと指摘されることも覚悟の上だった。
 それでも俺は、今、リンウェルと暮らしたいと思った。今を大事にできない奴なんかに未来を守れるはずがない。
「悪い、急で驚いたよな」
「うん、少し……」
 リンウェルが驚くのも無理はない。俺だって、これを思いついたのはついこの間のことなのだ。
 先日リンウェルがウルベゼクを去った後、俺は空き家を探してもらうためネアズの元を訪ねた。二人と一匹で住めそうな部屋がないか調べてもらい、その立地についてもガナルやティルザから意見を聞き、何度も話し合った。
 都合よく一軒だけ見つかったのは運がこちらに向いている証拠だと思った。今後の仕事を頑張る代わりに、俺はその空き家をキープしてもらうことにした。
「ほら、ちょっと前、お前にも見せただろ。ここに新しく集落ができるって」
 新居はその一画で、ウルベゼクと比べると比較的落ち着いた場所にある一軒家だった。街の中心部からはやや離れているが、それでも生活に困るということはない。住民も徐々に増えつつあり、これからより活気づくであろう場所だった。
 この地こそ新生活にふさわしいと思った。自分たちが新たに切り開いた街でリンウェルと暮らせるなら、こんなに胸弾むことはない。
 ただこれはあくまで俺の展望であり希望だ。
「だ、だからって別に、そこに必ず住まなきゃなんてことはないんだぜ。とりあえず、すぐにでも引っ越せる場所はあるってことでお前に安心してもらいたくて……」
「ずっとそこに住む必要もないしな。なんていうか、練習……じゃねえけど、いつか一緒に暮らすんだから、そのために慣れといてもいいんじゃないかって……」
 何度も脳内で予行練習してきたはずの言葉は、実際声になった途端しりすぼみになってしまう。リンウェルが不安がらないようにと用意してきたつもりが、これではまるで何かの言い訳のようだ。
 目の前のリンウェルも戸惑いを隠せないようだった。当然だろう、今までの暮らしを投げうって、また1から始めることになるのだから。異なる土地で暮らすというのはつまりはそういうことだ。
 それに何より、
「お前が心配なのは、フルルだろ」
 俺がそう言うと、リンウェルははっとしたように目を見開いた。
「フルルにはさっき話した。いいって言ってくれたぜ」
 フルルが止まり木の上でフンと鼻を鳴らした。先ほどフルルを連れ出したのは、この話をするためだった。
 意外にもフルルはすんなりそれを受け入れてくれた。道端で取っ組み合いのケンカをするようなことにはならなかった。
「それも考えて、新しい部屋は比較的涼しいとこを探したんだ。少なくともこの前みたいにどろどろになることはないだろ」
 フルフル、とフルルは翼を広げた。あんな失態は二度と見せない、適応してみせる、とでも言いたげだ。この様子ならそう簡単にへこたれることもないだろう。
「俺さ、お前が寂しがってるように見えたんだよ」
 リンウェルを正面から見つめ、俺は思ったことを素直に打ち明けた。
「この部屋で見送られる時だけじゃない。この前俺がお前をウルベゼクで見送った時も、なんとなく、お前が寂しそうに見えたんだ」
「お前が俺と離れるのを嫌がってるように見えた。けどそれって、何より一番俺がそう思ってるんだよな。お前にも同じ気持ちでいてほしいって思ってるからだって気付いたんだ」
 リンウェルに見たのは、自分の気持ちの投影だった。それに気が付いた時、驚くほどすんなり心は決まった。
「俺が、お前と一緒に居たいんだ。一緒に暮らしたい。お前のいる家に帰りたい」
 寂しがりと笑われても構わない。リンウェルに会えないことを寂しく思っているのは事実なのだから。
「けど、お前もいきなり言われたって困るよな。向こうには図書の間みたいなとこもないし、本も気軽に手には入らないだろうし」
 今すぐ受け入れろ、なんていうのは到底難しいとわかっている。環境を変えるというのがどれだけ困難なことか、俺も多少はわかるつもりだ。
 リンウェルにはまず今俺が考えていることを知ってほしかった。一緒に暮らすと言った約束が嘘でなく、ただの夢でないということも。
 それからゆっくり考えてもらえればいいと、そう思っていた。リンウェルが考えて考えて、いつか心が決まった時、頷いてくれればいい。その準備はできているのだと、こちらの用意は整っていると、今日はそのことを真っ先に伝えたかった。
「だから、まずは少し考えてみてくれないか。それでいつか、お前の都合のいい時に――」
 言いかけたところで、衝撃が走った。リンウェルが胸に勢いよく飛び込んでくる。
「り、リンウェル?」
「……いく」
 それはもう、今にも泣き出しそうな声だった。
「行く。カラグリアに。ロウとフルルと、一緒に暮らす」
 まるで子供みたいな言い方に、思わず小さく笑いが漏れた。いや、これは喜びによるものか。もうどっちだっていい。リンウェルが、俺と暮らすと言ってくれた。
「良かった。お前がそう言ってくれて」
 背中に腕を回すと、同じことが返ってきた。互いが込めた力でその距離がいっそう近づく。鼓動も熱も、何も隠せないほど近くに互いが迫る。
 そうだ、だからもう我慢しなくていいんだ。喜びも悲しみも、寂しさだって隠さなくていい。
 一緒に暮らしていくっていうのは、たとえ凪いでいても、荒れていても、それを一緒に乗り越えていくってことだろ。まるで海を渡る船みたいに。
 まだ俺たちの船旅は始まるどころか、船に乗ってさえいない。乗る準備さえできていない。
 荷物もまとまっていないのに、それなのになぜか愉快な旅になることだけは確信できている。2人と1匹、何があっても最後には笑っているだろうなと信じられる。
 そういう相手を選んだのだから。どんな船に乗ろうと、どんな天候に見舞われようと、一緒にいる限り乗り越えていける。
 ようやく出航する時が来たのだ。その前にまずは俺たちが乗る船の用意をしなければ。
「どんな部屋にしたい?」と聞くと、リンウェルは嬉しそうに笑った。それからまた子供のようにはしゃいで、自分の希望を延々と語ったのだった。
 
   ◇

「これで最後かな」
 運び込まれた本棚を前に、俺は思わず声を上げていた。
「――デカっ!」
「ええっ、こんなのまだ小さい方だよ。あの部屋だとこれが精いっぱいだったんだよね」
 リンウェルはそう言って、俺の背丈ほどもある本棚を優しく撫でた。
「いずれは図書の間みたいなやつが欲しいんだ。もちろん、そこに並べる本も合わせてね」
 まじか、とため息を吐く俺の肩にフルルがとまる。「フル」という一言はおそらく「諦めた方が良い」だろう。リンウェルの本好きはフルルでも止めることはできないのだ。
 あの日から数週間。様々な準備を経て、とうとうリンウェルとフルルがカラグリアに越してきた。
 場所は俺が当初から目を付けていた部屋で、リンウェルはあれから一度下見に来たが、すぐに気に入ってくれたようだった。
「日当たりが良すぎないところが良いね。フルルのためにもなるし、本の保存にも良い!」
 それでいて朝日がきちんと射しこむのも良かったらしい。「そうじゃないと私きっと二度と起きられないから……」
 大きなベッドが運ばれてきたのがつい昨日のこと。そして今日は本棚やらそのほかのものと一緒に、リンウェルとフルルもカラグリアに着いた。道中はズーグルに出会うこともなく、ごく穏やかな旅路だったという。
「運が良かったのか、あるいは祝福されてるのかもね」
 上機嫌に言って、リンウェルは荷ほどきをしていた。今にも鼻歌が聞こえてきそうな後ろ姿に俺は思わず笑った。
 こんな喜んでくれるのならもっと早く提案すればよかった、とも思った。自分だってとうに我慢の限界を迎えていたのに、何を引っ張る必要があっただろう。
 それでもここまでかかった時間は決して無駄ではなかった。むしろ必要だったとさえ思う。リンウェルは俺の人生に必要不可欠な存在で、それを今一度確認できたというだけでも意義があったはずだ。
 その方がきっと、リンウェルをより大切にできる。それは俺が生きていく上で何より重要なことだ。
「ねえ、ここに棚置きたいな。引き出し付きの」
「いいんじゃねえか。今度探しに行こうぜ」
 うん! と笑って、リンウェルが弾けるような笑顔を見せる。ただこの笑顔をずっと見ていられるように、俺はひたすら前を向いて頑張るだけだ。
「あーそういや、ネアズたちにも無事に着いたって知らせに行かないとな」
「なら、私も行くよ。これからいろいろお世話になるんだし」
「え!? それはなんつーか、ちょっと恥ずかしくないか……?」
「今さら何言ってんの? どうせそのうちしなきゃいけないことでしょ? ほら、ジルファにも挨拶に行かないと」
「親父にも!? ますます恥ずいな……」
「フッ、フルル」
 リンウェルに引っ張られるようにして外に出る。振り返るとそこにはまだ見慣れない新しい家があった。
 新しい家。俺たちの暮らす家。
 次に戻る時は「いらっしゃい」でもなく「お邪魔します」でもない言葉を言うのだろう。
「ただいま」「おかえり」
 やっと胸を張って言える日が来た。
 今日これから、俺たちの新しい日々が始まるのだ。

 終わり