大学生リンウェルがプー太ロウと出会ってただれた生活を送る話。現代パロ。なんやかんやでハッピーエンド。捏造/妄想/強めの幻覚/R15程度の性描写/喋るモブ/未成年の飲酒描写など不適切表現あり。本当に何でも許せる人向け。(約8,600字)

境界線上で待つ(5)

「しばらく生理が来てないの」
 私の言葉に、ロウは大きく目を見開いた。
 まさか朝からそんなことを告げられるとは夢にも思わなかっただろう。夜間のバイトを終えた体にさらなるムチが振るわれるなんて。
「い、いつから」
「正確にはわかんない。でも、少なくとも2週間は遅れてる」
 私は手元の手帳を開きながら、事実だけを淡々と答えた。
 ロウはあからさまに顔を青ざめさせると、落ち着かない様子で狭い部屋を行ったり来たりした。時折カレンダーに目をやっては「いつだ」「あの時か」「いやそんなはずは」などとぶつぶつ呟いている。
「これから病院に行ってくる。予約は取ってあるから」
「なら俺も」と言いかけたロウに、私はううんと首を振った。
「病院には私1人で行く。だから、ロウはその間覚悟決めてて」
 いってきます、と部屋を出た私に、ロウからの言葉は何もなかった。
 病院までは徒歩で向かった。大学の近くにあるその病院は、端末の検索でヒットしたものだ。
 受付を終えると、私は待合室のソファーに腰掛けた。薬品のような、消毒液のようなにおいがする。病院特有のにおいといってもいい。私はこのにおいがあまり得意ではなかった。どうしても幼い頃の注射の記憶がよみがえってきてしまうのだ。
 待合室には自分の他に数名が診察を待っていた。大抵は自分よりも年上と思わしき人が多かったが、中には自分と同じくらいの年齢に見える人もいた。そういう人には多くの場合、母親らしき人が隣に付き添っていた。
 お腹の大きな人もいた。その人が受付にて取り出した『母子手帳』の文字にはどきりとした。ああいうのはどこで貰うのだろう。そういえば、私は自分が生まれる時の母子手帳さえ見たことがなかった。それどころかその在り処さえ知らない。おそらく母さんがどこかに保管してくれているのだろうとは思うが、こんなことになるなら適当に理由を付けて見せてもらえば良かった。今さらそんなことを思ったって遅いけれど。
 あちこちを見回したり、あれこれ考えたりもしたが、時計の針は一向に進まなかった。病院にいる時って、どうしてこんなに時間の進みが遅いのだろう。まるで1分が120秒くらいある気がする。
 それでも前へは確実に進んでいた。後ろを振り返っている暇などない。
 私は大きく息を吸って顔を上げると、静かにただその時が来るのを待ち続けた。

 病院を出た頃には空から雪がちらつき始めていた。吐く息がいっそう白く濁るのが見えて、私はマフラーを口元まで引き上げた。
 端末を開くと、メッセージがいくつも届いていた。その送り主はどれもロウで、『終わったか?』という状況を問うものから、『今どこにいる?』という所在を訊ねるものに続いていた。私は『終わったよ』と返事をして、足を送る速度を少しだけ早めた。
 角をひとつ曲がって大きな交差点に差し掛かった時、コンビニの前できょろきょろと辺りを見回すロウを見つけた。ロウは私の姿を認めるなり、すぐさまこちらへと駆け寄ってきた。
「大丈夫か」
 開口一番そう言って、ロウは私の赤くなった指先を両の手で包んだ。
「うん、私は大丈夫。ロウの方が待てなかったみたいだね」
 私の言葉にロウは何も言わず、そのまま私の手をダウンのポケットに自らの手ごと押し込む。そうして赤くなった鼻を軽く啜ると、私を引っ張るようにして道を歩き出した。
 部屋に戻ると、私とロウはコタツを挟んで向かい合って座った。鞄から病院で貰った薬を取り出し、ロウの目の前に並べる。
 顔を上げると、私はロウを見つめて言った。
「赤ちゃんはね、できてなかったよ」
 ロウの瞳は僅かに揺らいだだけだった。
「妊娠は、してなかった。今回は生理が遅れただけだろうって」
「そうか」
 ロウは静かに言い、小さく息を吐いた。
「そうか……」
 もう一度ロウが吐いた息は深かった。そのままロウはがくりと項垂れる。
「なあに、その反応は。もしかしてできてた方が良かった?」
「いや、そうじゃねえけど、……あー、いや、どうだろう」
 ロウは自分でもよくわからないといったふうに首を傾げた。
 そうして少し考えこんだ後で、ロウは言った。
「お前、もしかして知ってたんじゃないか。子供はできてないって」
「……なんでそう思うの?」
「理由はねえよ。なんとなくだ」
 私は笑った。やっぱりロウは鋭いところがある。特に、私に関することに対しては。
「知ってたよ」
 私は素直に頷いた。
「本当にその疑いがあるなら、まずは検査薬使うでしょ。生理が来てないって気づいた時にすぐ薬局で買ってきて調べたの。陰性だった。でも、もともと不順ではあったから病院には行った方がいいなって思ってて」
 すべてを白状すると、ロウは「なるほどな」と肩から力を抜いた。
「よく考えてみりゃあそうだよな。今朝はすげえ混乱してたから検査薬だとかなんだとか頭からすっぽ抜けてたけど、お前がそういうの気付かないわけねえし」
 まあね、と私は言った。とはいえ私だって焦っていた。検査薬を使った時は、心臓が破裂しそうになるくらい緊張したのだ。
 結果的に妊娠はしていなかった。あれだけロウが気を付けていたのだから、その可能性は限りなく低いとみていた。今日病院に行ったのはその裏付けと、もう1つ、ロウに揺さぶりをかけるためだ。
「覚悟は、決まった?」
 私の問いにロウは再び息を吐くと、「決まった」と諦めたように言った。
「あっちに……家に、帰る」
 うん、と私は頷いた。
「いつまでもこのままじゃいいわけないよな。子供ができたかもって言われて、やっとその怖さに気付いた」
 ロウは拳をぐっと握りしめていた。指が僅かに震えている。
「お前も、怖かっただろ」
 怖かった、と私は答えた。お腹に子供がいるかもしれないと気付いて、一番最初に感じたのは恐怖だった。
 これまでの生活が壊れる恐怖。描いていた未来が崩れる恐怖。そして私は、私たちはそれらの恐怖に対してどうしようもなく無力だった。
 その無力さこそ、私がロウに伝えたかったことだ。私たちはお金も判断力も、何も持ってはいない。悪く言えば未熟者で、良く言えばそれを培っている途中。その道は踏み外してはいけない。踏み外したら最後、二人で歩けるほどの幅は持てない。
 私たちの未来を考えるなら、ここで一旦前を向くべき。互いの顔ばかりじゃなく、これから進む道を見つめ直さなければならないのだ。
「駄々をこねるのはもうやめる。帰って、親父に頭下げて、ちゃんと働く。ゆるしてもらえるかはわかんねえけど、少なくとも今みたいな生活は終わりにする」
 じゃないとお前の家に挨拶にも行けないしな、と付け加えてロウは笑った。
 それを聞いて私は心の底から安堵した。ロウの描く未来には私がいる。私といる未来のために、ロウはひとつ大きな決断を下したのだ。
「私も、」
 出した声は上ずっていた。
「私も、ちゃんと勉強する。大学行って、単位取って、ちゃんと卒業するから」
 おう、と言ってロウは微笑んだ。
「寂しくなるな」
「それ、ロウが言うの」
「今度は俺が部屋を空けることになるからな」
 でも今回は1週間じゃない。どのくらいの期間になるかも想像がつかなければ、そもそもロウがこちらに戻ってくるのかもわからない。ロウがこの部屋を出て行った後のことは、まるで何も決まっていないのだ。
 私はその場に立ち上がると、
「シャワー浴びてくるね」
 と言った。寝室から着替えを適当に取り、浴室に向かう。不思議そうにこちらを見つめるロウの視線には、気付かないふりをした。
 逃れるように扉を閉め、蛇口をひねる。服を脱いで浴槽に立ち、カーテンを引いた私は頭から湯を被った。その瞬間、張りつめていたものがふっと和らいだ気がした。
 このタイミングでシャワーだなんて、あまりに唐突だったかもしれない。でも仕方がなかった。この部屋で私がひとりになれる場所はユニットバスが備え付けられたこの浴室だけなのだから。
 誰の目にもつかないと思うと、鼻の奥がツンと痛んだ。堪えるように奥歯を噛み締め、シャンプーを手に取る。
 覚悟を決めていたのは自分も同じだったはずだ。ロウならきっと期待に応えてくれると思っていたし、実際にそれは叶った。離れることになっても、それはお互いの将来のため、そしてもう一度一緒に未来を歩くための選択なのだと納得したはずだ。
 一生の別れじゃない、と思ってみる。ただひととき、ロウがこの部屋からいなくなるだけ。心は繋がっているし、連絡先も知っている。会いに行こうと思えばいつだって会いに行ける。だから、これは一生の別れじゃない。
 それでも、寂しいものは寂しい。初めて会った時からロウとはずっと一緒に過ごしてきたのだ。この広くもない部屋で一緒にご飯を食べて、話をして、一緒に眠った。キスだってたくさんした。それ以上のことも。
 いわばロウは既に私の半身なのだった。それが今引き剝がされようとしているのだ。痛くないはずがない。
 たちまち目からは熱いものが溢れてくる。湯よりも熱く、塩辛いそれが泡と一緒に排水溝へ流れていく。
 その様子を眺めているうち、もう止まらなくなった私はシャワーの音に紛れてすすり泣いた。蛇口をさらにひねり、水圧を強くする。辛い思いも、寂しい気持ちも、全部涙と一緒に流れて消えてしまえばいい。
 その時、ふと浴室の扉が開く音がした。振り向いた瞬間、鋭い音とともにカーテンが開かれる。
 そこにはロウが呆れた顔をして立っていた。ロウは私の顔を見るなり「やっぱりな」とため息を吐いた。
「こんなことだろうと思った」
 ロウは浴室の扉を閉めると、そのまま自分も浴槽へと押し入ってきた。
 服が、と言いかけた私の言葉は、ロウの肩口へと吸いこまれた。背に回された腕がきつく胸を締め上げる。
「くるしい、よ」
 ロウは何も言わなかった。何も言わないので、私はまた寂しさがこみ上げてきて、ロウの腕の中で泣いた。行かないで、とは言わなかった。ただ、寂しい、とそれだけ何度も叫んだ。
 ひとしきり泣いた後でロウは私の体を離すと、蛇口をひねって湯を止めた。そうして私の頭にタオルを被せると、湯と涙でぐしゃぐしゃになった私の頬を両の手のひらで挟みこんだ。
「ひでえ顔」
 ロウがくつくつ笑うので、私もロウの濡れた髪をもみくちゃにしてやった。いつも整えられているロウの髪が乱れているのを見るのは気分がいい。
 鼻を鳴らした私に、ロウは優しくキスをした。そして再び私を強く胸に抱き、
「俺のいないとこで泣くな」
 と言った。
「……ごめん」
「そうじゃねえよ。泣くなら俺の前にしろって言ってんだ」
 じゃないとお前を慰めてやれないだろ、とロウはふてくされたように言った。
 ごめん、と私はもう一度言って、腕をロウの背中に回した。
「でも、泣き顔見られたくないんだもん」
「なんでだよ。かわいいだろ」
「かわいくないよ。ロウだってさっき、ひどい顔って言ったでしょ」
「ひでえ顔だけどかわいいんだよ。間違ってもほかの奴の前で泣くなよ」
 泣かないよ、と笑って、私は腕に力を込めた。泣くほど感情が昂ぶるのは、ロウに関すること以外にそうそうないだろうから。
 互いに着替えを済ませると、ドライヤーの取り合いになった。早くしないと風邪を引く、という私の主張と、俺の方が早く終わる、というロウの主張がぶつかった。
 結局ロウが先に使って、そのままロウが私の髪を乾かすことで決着がついた。ロウに髪を撫でられるのは嫌いじゃない。
「いつ帰るの?」
 ドライヤーの騒がしい風の中で、私はロウに訊ねた。
「来週にしようと思ってる。できるだけ早い方が良いんだろうけど、いろいろ準備もあるしな」
「そっか」
 私は請け合うと、
「次は、いつ会えるの?」と呟いた。
「え? なんだって?」
 上手く聞き取れなかったのか、ロウはドライヤーを止めて聞き返してくる。
 私は「なんでもない」とただ首を小さく振った。
 
 私たちはロウが帰るまでの日々を穏やかに過ごした。私はいつも通りに大学に向かい、ロウはバイトに行く。帰ったら一緒に夕飯を食べておしゃべりをして、2人で同じベッドに入って眠った。
 一方で部屋の片隅にはロウの荷物が少しずつ増えていった。1年以上もこちらにいた割には少ないが、それでも大きく膨らんでいく鞄に、私はその日が迫り来るのをひしひしと感じていた。
 クローゼットからはロウの私服がなくなり、残ったのは僅かな着替えだけになった。持ちきれない荷物は先に送ったらしい。逆にあちらにあるようなものは必要ないからと捨てるものもあった。たとえば使い古したタオルなんかがそうだ。ゴミ箱に入れられたそれらを見て、私は少し悲しくなった。なんだか思い出が1つ捨てられてしまったような気持ちになった。
 前日は金曜日だったので2人で買い出しに出かけ、一緒に夕飯を作った。出来上がった寄せ鍋は野菜がいびつな形をしていたけれど、とても美味しかった。片付けをしながら、この土鍋もしばらく使わないのだろうなと思った。鍋料理はとても一人では食べきれない。私はロウの目を盗んで、土鍋を入れた箱を流し台の下にしまった。
 寝る準備を済ませベッドに入ると、ロウが後ろから抱き締めてきた。体勢を変え、向き直る形になると、ロウは私の額にキスを落とした。
 でも、それだけだった。あとは腕の力を強くして、私の髪を優しく撫でるだけ。
「今日も、しないんだ」
 この1週間、ロウは私を抱かなかった。キスをして抱き締めはしても、それ以上はしない。体調が悪いわけでもないとなると、これはいよいよ意図的なものだと気付く。
「もしかして、怖くなっちゃった?」
 思い違いであったとはいえ、一旦は疑惑に駆られた私たちだ。そういうことはしばらく控えようかという考えになってもおかしくない。
 そうはいっても、今夜はまた話が違うような気もする。最後ではなくとも、しばらくは触れ合えなくなるのだ。果たしてそういう機会をこのまま失ってしまってもいいものか。
 私の言葉に、ロウは「いや、」と小さくかぶりを振った。
「別に怖いわけじゃねえんだけど。いやまあ怖くないっつったらそれも違う、か」
 ひとりごとのように呟いて、
「けどなんか、もったいないんだよな」
 ロウはどこか愉快そうな口調で言った。
「お前とそうするのは好きだけど、今はもっと、こう、噛み締めてたいっつうか」
 そう口にしたロウに、私は「なんとなくわかる」と言った。
「ロウとシてると、時間があっという間に過ぎちゃうんだよね。それはそれでいいんだけど……今は、明日になってほしくないから」
 そこまで言葉にすると、堪えていたものが溢れそうになる。思わずロウの胸に顔を押し当てて、それが零れないよう奥歯を強く噛み締めた。
 そんな私の様子を見て、ロウは小さく笑った。
「自分で言って泣くなよ。明日から俺はいないんだぜ」
 わざとらしい軽口にとうとう涙腺が決壊する。先週あれほど泣いたのにまだ涙は出るらしい。このままでは辺りは海になって沈んでしまう。
 そんな私を、ロウは強く抱き締めた。溺れないようその腕でつなぎ止め、最後には額を合わせながらちょっと寂しそうな顔をした。
「ちゃんと朝起きろよ。メシも食えよ」
「うん」
「大学も行けよ。勉強も頑張れ」
「うん」
 私は何度も頷いた。
「ロウも、ちゃんと許してもらうんだよ。それで、元気でいてね。私はロウが元気でいてくれれば、家を継いだってプータローだってなんだっていいから」
「プータローはねえだろ」
 ロウが喉を鳴らしてくつくつ笑う。
「いいの。ロウがそれでまた私に会いに来てくれれば、それでいい」
 そこまで言うと、ロウの腕の力が強まった。
「落ち着いたら連絡する」
「うん」
「また必ず、こっちに来る。お前に会いに来る」
「うん」
 約束だよ、と言うと、ロウは力強く頷いた。最後に交わしたキスはごく優しく長い、そして少ししょっぱい味のキスだった。

 翌日、ロウは午前のバスに乗って帰っていった。夜の便にしなかったのは、「夜までいたら、帰りたくなくなるから」だそうだ。
 私はロウが乗ったバスを手を振って見送った。窓から手を振り返してくるロウの手首には、私がクリスマスに買った腕時計が覗いていた。
 バスが見えなくなると、私はひとり雪の積もる帰り道を歩き出した。転ばないようにと気を遣う一方で、いまだ残る寂しさを拭うように一歩一歩を力強く踏みしめる。
 背後には自分の作り出した足跡が連なっていた。それが大きいのか小さいのか、自分では測りようがない。机にばかり向かっていたあの頃となんら変わらないように思えるのに、心だけは大人になったような気になって、でもだからといって一人で生きていけるわけでもない。
 中途半端だなあと思った。私たちは決して大人ではないのに、子供とも言い切れない。おまけにいい子にも悪い子にもなり切れず、いつまでもふらふら、大人と子供の中間を彷徨うばかり。
 そんな悩ましい時期にロウと出会えたことには何か意味があるような気がした。一緒にふらふらしたからこそ危ないところにいると気付くことができたし、このままじゃいけない、変わりたいと思えるようになった。これが一人だったなら自分はいつまでもふらふらしたまま、何をしたいかもわからないまま、ただ歳を重ねるだけだっただろう。きっとそれはロウも同じだったんじゃないだろうか。
 今は少なくとも目標がある。ちゃんと勉強して、大学を卒業する。胸を張れる私になって、ロウを待つ。
 それでもまだきっと大人にはなり切れないし、子供っぽさも抜け切らないだろう。あっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返しながら、少しずつ、でも確実に前に進んでいく。
 とはいえ最後はロウと一緒に進みたい。だからそれまで、私はロウを待ち続ける。大人でもない、子供でもない曖昧なところで、ロウに再会できる日を待っている。
 
   ◇

 ロウが地元に戻ってからもうすぐ3カ月が経つ。
 あれから私は友人に教えを乞うと、いっそう懸命に勉学に励んだ。
「もっと早く言ってくれれば良かったのに」
 信頼してよね、とぼやく友人は、意外なことに勉強を教えるのが上手だった。もとは教職にも興味があったらしく、「いい先生になれるよ」と私が褒めると、満更でもなさそうに笑って「今からでも間に合うかな」と単位の見直しをしていた。
 とはいえ友人の協力プラス猛勉強でも後期の授業には追い付かず、なんとか単位だけは取得したものの、父さんを納得させるには至らなかった。
「来年からはきちんと勉強させるからな!」と豪語する父さんに、私はもう一度チャンスが欲しいと頭を下げた。ロウは既に部屋から撤退していたものの、きちんと自分で勉強すると誓った以上、そこだけは譲りたくなかったのだ。
 私の必死さを見て「いいじゃない」と言ったのは、意外にも今まであまり口を出してこなかった母さんだった。
「自分でできるところまでやってみたら? あの人は過保護すぎるのよ。父さんには母さんから言っておくから」
 私は母さんに礼を言い、絶対に巻き返してみせると宣言すると、春休みも返上して図書館に通った。
 進級してからはというと、今のところ上手くいっている。以前ほど授業がわからないということはなくなったし、なんとなくコツが掴めてきた気がする。理解が追いつかないところはすぐに友人と話したり、議論したりして解決するようになった。これはひとりで不明点を隠し続けたあの頃と比べたら大きな成長だ。
 ロウからは、お父さんから無事ゆるしを貰ったとメッセージが届いた。これまでの分死ぬ気で働けと言われて、今は現場をあちこち駆け回っているようだ。作業着姿のロウの写真も送られてきたが、あまり似合っていなくてつい笑ってしまった。きっとその派手な髪色のせいだろうけれど、それのゆるしは果たしてどうやって貰ったのか。
 メッセージのやり取りは続く一方で、私にはロウにどうしても聞けないことがあった。その返事が濁されたり、まだ当分見通しが立たないと言われるのが怖かったのだ。
 期待してはいけないと、自分に強く言い聞かせていた。期待は膨らめば膨らむほど、それが弾けた時に痛い目を見る。言ってしまえば私たちは今は反省の真っ最中なのだから、まだそれが叶う時期ではないと自分を納得させていた。 
 
 大学からの帰り道は雪が解けて久しい。一方で陽の当たらない場所では溶け残りも見られて、土に垣間見える鮮やかな緑はいよいよ春の様相だ。
 立ち並んだ木々には淡桃色の花が開き始めていた。開花はほかの地域より随分遅れてはいるが、それでも例年と比べれば早い方で、もしかしたら連休にはお花見ができるかもしれない。
 そういえば、ロウとは桜を見たことがなかった。夏の入り口で出会い、秋を駆け巡って、冬のさなかに離れた私たちは、まだ春を共に過ごしていない。この街の春は短いとはいえ、それでも心地よい季節には変わりない。
 会いたいと思った。一緒に街を歩き、あちこちに見え隠れする春を探せたらどんなに楽しいだろう。想像しただけで緩みそうになる口元を隠すように、私はマフラーを上までぐっと引き上げた。
 家の前の交差点。よく使うコンビニの前だった。そこに佇む人影に、私は自分の目を疑った。
 次いですぐさま足を一歩大きく踏み出す。向こうもこちらに気付き、ふっと表情を緩める。
 飛び込んだ胸からは、懐かしい匂いがした。誰よりも親しみのある、それでいて遠かったこの匂い。
 今それが春と混じる。
 ――待ってたよ。
 呟いた声には、強い腕の力が応えてくれた。

終わり