家に帰ると、ロウはコタツに入ってぬくぬくと過ごしていた。テーブルに散らばる紙くずはお菓子を食べた後だろう。
「おかえり」と口にするロウの手には使い古された端末が握られている。私や友達、バイト先の人と繋がっている端末。それを開く暗証番号は知っていても、実際に試そうと思ったことはなかった。
無関心だったわけではない。ただ、なんとなくそうしない方がいいような気がしていた。私は心のどこかで既にロウの隠し事について察知していたのかもしれない。
「どうした?」
玄関に立ち尽くしたままの私に、ロウは訝しげな視線を寄越した。目と目が合った瞬間、気が付けば私はロウに訊ねていた。
「ロウって、家出してるの?」
ロウの瞳が大きく見開かれる。
間に流れた沈黙が、何よりの答えだった。
「ロウは親父さんと上手くいってなくてね。それで実家を飛び出してきたんだよ」
童顔先輩は皿のカレーを寄せながら、淡々とそう言った。
「ロウの親父さんは向こうで土木関係の会社をやってるんだけど、それをロウに継がせたかったらしいんだ。継がなくとも、地元で働いてほしいってね。でもロウはそれを嫌がった。他人に人生を決められたくないって、卒業してから半年くらい経った頃かな、急にこっちに来たんだ」
ロウの地元はここから遠く離れた場所だった。私の地元なんかよりもはるかに遠いところだ。
そんな遠路はるばる、ロウはただ簡単な荷物だけを手にやってきた。呆れ半分、でもこいつならやりかねない、と当時先輩は笑ったのだそうだ。
「ロウは帰る気はない、こっちで暮らすって言って聞かなくてね。無謀だって言ってやったんだけど、あの性格だろ。こっちの忠告なんか聞きもしない」
とはいえ金も何も持たない奴が生きていけるわけがない。先輩をはじめ、ほかの同級生たちも皆そう思っていた。
「でもあいつにはずば抜けた運と、人を魅了する力があった。バイト先で知り合いを作って、そこからまた新しいバイト先を見つけたんだ。体力には自信があったから、惜しまず働いた。それで金の問題はあっさり解決した」
お金があれば大抵のことは問題にならなくなる。ロウは友人の家を転々としつつ、時には住み込みのアルバイトを見つけたりして、もうかれこれ1年以上こちらで暮らし続けているのだという。
「たまに親父さんの部下の人から連絡は来ているみたいだけどね。そのたびロウは帰らないって突っぱねているみたいだけど」
それには心当たりがあった。年末、ロウが電話で話していた相手はその人だったのかもしれない。
「さて、リンウェルちゃん」
先輩はスプーンを置くと、改めて私の方に向き直った。
「今の話を聞いてどう思った?」
え、と声が零れる。
「ロウは家出をしてきた。でも今はここで暮らしている。暮らせている。幸運なことにね」
ふっと笑って、先輩は続けた。
「それって、何も問題はないのかな。ロウはおおむね満足しているようだけど、それでいいと思う?」
僕はそうは思わない、と先輩はきっぱり言った。
「ロウがどうして定職に就いてないか、疑問に思ったことはない?」
あ、と思う。正直これまではあまり不思議に思ったことはなかった。でも先輩の話を聞いた後だと印象が違う。ロウは決して働くことを面倒だと思っていないのに、敢えてアルバイトばかりしている。まるでそれしか選択肢がないかのように。
先輩は小さく視線を落として言った。
「家がないからだよ。今のままだとロウはどうしても住所不定になってしまう」
住所がないとまともな職には就けない。職に就いていないと家は借りられない。
でも、と私は反論した。
「ロウはシェアハウスみたいなところで友達と一緒に暮らしてるって……」
先輩は首を振った。
「シェアハウスとはよく言ったものだね。それは多分、バイト先のどこかだよ。大方荷物を置かせてもらってるロッカーとかその辺のことだろう。今だってロウはほとんど君の部屋にいるんじゃないのかい」
私は絶句した。信じられない反面、先輩の言うことは辻褄が合いすぎている。ロウがどうしても家の場所を教えようとしないのは、そういうことだったのだ。
「たとえお金があってもこれだけはどうにもならない。ロウは今のままだとちゃんとした仕事には就けないんだ」
それっていいのかな。先輩の言葉が私に刺さる。まるで自分が責められているような気持ちになった。
「僕はね、リンウェルちゃん。こう見えて責任を感じてるんだよ。なんてったって、ロウに最初のバイト先を紹介したのは僕なんだ」
懺悔するように先輩は言った。
「ロウが困っていたから、ついね。ほんの人助けのつもりだったのに、それが巡り巡ってロウはここまで暮らせるようになってしまった。ロウの家出を長引かせて、調子に乗らせたのは僕にも責任がある」
その言い方はただの友人でなく、まるでもっと近しい存在であるかのようにも感じられた。
「ロウが言わなかったってことは、きっと君には隠しておきたかったのかもしれない。でも君にも分かると思うけど、このままじゃ駄目なんだ。ずっとこのままでいいわけがない」
リンウェルちゃん、と先輩がこちらを見つめた。
「君に話したのは、ロウが君を大事に思ってるんだって確信したからだよ。君の話を出した時のロウの顔、初めて見たなあ」
先輩がふふっと小さく笑う。私は自分の顔がかあっと熱くなるのを感じた。
「ロウのこと、どうかよろしくね。ほぼニートな上に住所不定まで乗っかっちゃったけど、見捨てないでやってくれると嬉しいな」
微笑んだ先輩は、私よりもロウよりも、もっとずっと年上であるかのように感じられた。
私はロウに歩み寄り、真正面に座った。
「家出、したままなんだね」
ロウは目を逸らしたきり何も言わない。
「……帰らないの?」
ありきたりな質問をしたなと思った。きっとロウはこれまでもう何度もこの言葉を聞いてきたのだろう。
それでもロウははっきりと返答を口にした。
「帰らない」
「どうして?」
どうしてもだよ、とロウは言った。それは答えになっていない。
ロウはまたあの顔をした。事情を話したくない顔。これ以上聞かないでくれという顔。
「そっか……」
私は視線を落とし、呟いた。
正直なところ、私もまた迷っていた。先輩の話を聞いていた時は、ロウは帰ってしかるべきと思っていた。帰ってお父さんに頭を下げ、ゆるしてもらうべきだと、そう信じ込んでいた。
それこそが先輩の意図だったのかもしれない。私の口から何とかロウを説得するよう仕向けたかったのだろう。自らにも責任を感じていると言った先輩の言葉を信じるなら、私を使ってでもロウを帰したいという気持ちはわからないでもない。
でもこうしてロウと向き合った今、その気持ちが揺らいでいる。ロウはこれまで1年以上もの間こちらで暮らしてきた。1人の力では叶わなかったとはいえ、運も味方してこの街で生活してきたのだ。当然苦労も多くあっただろう。私の想像のつかない何かを乗り越えながら、結果としてロウは今ここにいる。生きている。
良くも悪くもそれが全てだ。きっと明日も明後日も同じようにロウは生きていく。今ここでそのバランスを崩し、無理に地元へ戻ることに果たして意味はあるのだろうか。ロウが帰りたくないというのならそれもまたひとつの、ひとりの人生の選び方なんじゃないだろうか。話を聞いた誰もが「帰るべき」だと、そう口にするだろう。でもそれはあくまでどうとでも言うことのできる第3者の意見に過ぎないのではないだろうか。
そうして考え込んでいてふと気付いた。あれこれ考えているのはきっと私や先輩だけじゃない。そのほかの友達やロウのお父さん、部下の人だってロウのことを考え、どうすべきなのかを模索しているはずだ。
それなのにロウの意思はまるでそこに存在していないように思えた。私たちは結局自分の意見をロウに押し付けるばかりで、ロウ本人の考えをきちんと聞いていなかったのではないか。自分の意思とは関係なく机に縛りつけられていたあの頃が頭を過る。
「ロウはどうしたいと思ってるの?」
私の言葉に、ロウは顔を上げた。不安げなその目はどこか迷いの中にあるようにも見える。
「帰りたい? それとも帰りたくない? わからないならそれでもいい。今のロウの正直な気持ちが知りたいの」
ロウは少し考えるような素振りを見せた後で、
「……今更、どの面下げて帰るってんだよ」
と言った。零すように吐かれた言葉が静かに空気を揺らす。
ロウの視線に胸が貫かれる思いだった。ロウは帰りたくないんじゃない。むしろその逆で、本心では帰りたいと思っているのだ。
でもおそらくロウはそれに気が付いていない。これまで膨らませてきた反発心がゆえに自分の気持ちが見えなくなっているのだろう。あるいは諦めにも似た感情なのかもしれない。
思い返してみれば、それらしき言動は多々あった。私たちが初めて会った日、夢は忘れてしまったと言ったロウの顔。選ぶアルバイトは何故か工事関係のものばかりで、それは自分に向いているとも言っていた。帰省を迷う私の背中を押してくれたのだって、その時の私が自分と重なって見えたからじゃないだろうか。
ロウはひとりでずっと悩んできたのかもしれない。何でもないような顔をしながら虚勢を張りつつ、心の内では後悔に苛まれていたのかもしれない。
どうしてもっと早く気付いてあげられなかったのだろう。その壁を乗り越えようと思えばいつでも乗り越えられる場所にいたはずなのに。これでは無関心と変わらない。見て見ぬふりは、自分以外からすれば見ていないのと同じだ。
「帰った方がいいんじゃないかな」
少し考えてから、私はそう言った。
「まだ遅くないと思う。今からでも地元に帰って、お父さんと和解した方がいいんじゃないかな」
言葉は選んだつもりだった。ロウを責めたくなかったし、そもそもそんな必要もないと思ったからだ。
ゆっくり持ち上げられたロウの視線は、鋭かった。冷たいというより、そこには一切の温度が感じられなかった。
「お前も、あいつらと同じこと言うんだな」
ロウは吐き捨てるように言った。
「こんなとこでだらだらしてないで、真っ当な仕事に就けって言うんだろ。いつまで甘えてんだよって」
その視線はもう私の方を見ていない。
「違う」
私は強くかぶりを振った。
「違うよ。私が言いたいのはそういうことじゃない」
私の声は、ロウには思いの外大きく聞こえたらしい。その目が一瞬たじろぐのが分かった。
「ロウは帰るべきだと思うけど、それは将来のためでも、真っ当な仕事に就くためでもない」
「じゃあ何のために帰るんだよ。帰ったってムダだけどな。追い返されるに決まってる」
時間も交通費もムダだ、とロウは視線を逸らした。
「それでもいいよ。こっちに戻ってくることになったっていい」
私はロウの目を見つめて言った。腕を伸ばし、その手にそっと触れる。
「ただ、ロウには何もしないまま、諦めて欲しくない。後悔したままでいてほしくないだけ」
握った指はいつもよりずっと冷えていた。大して温かくもない私の手のひらでは充分な温度を分け合うこともできないが、それでも私はその指を離さなかった。
どういう結果になっても心は一緒に在ると、そう伝えたかった。たとえロウが選んだ道で自分と離れることになったとしても。
その日以降、ロウは「考えてみる」と言ったきりで、具体的な答えは出さないままだった。確かに時折何かを考え込む様子はあったものの、それ以上何を言うわけでもなく、頼まれれば昼夜を問わずアルバイトに出かけるという日々を繰り返していた。あるいは、そうして毎日を忙しく過ごすことで現実から逃げようとしていたのかもしれない。交際を始めてから私たちは本当によく似てきたと思う。
ロウのことが気になる一方で、私も日々に追われていた。刻々と期末試験は迫り、ほかの授業のレポート提出も重なってくる。1つが終われば1つ課題が出され、次々に襲い掛かるそれはまるで波のようだった。
とはいえそのうちのどれも手を抜くわけにはいかない。ただでさえ崖っぷちなのだ、ぎりぎりのところにしがみついてでも踏みとどまるしかない。
家に帰って開いた課題は昨日出されたものだった。提出期限を確認しようと手帳を開いた時、ふと気付いたことがあった。
私は月のものが来れば日付のところにマークを付けておく習慣があった。それをここ最近は記していないなと思ったのだ。
今月分、先月分と見返してみるがマークは見当たらない。付け忘れているだけかとも思ったが、そもそも前回の記憶が遠すぎて思い出せない。手帳の記録が正しいとすれば、少なくともひと月半は来ていないことになる。元々不順気味ではあったけれど、こんなに遅れるのは初めてだ。
――もしかして。途端にどくんと心臓が大きく脈打つ。
避妊、してたよね。でもゴムだって100%じゃない。自分はピルも飲んでいない。つまり、可能性はゼロじゃない。ゼロじゃない限り、疑いからは逃れられない。
――嘘、だよね? 咄嗟にお腹に手を当ててみるが、そこには変わらず自分の体温があるだけだ。
どうしよう、もし本当に子供ができていたとしたら。産むの? 子どもを育てるの? 私が? そもそも大学はどうしたらいいのだろう。いや、その前に両親にはどう説明したら。あらゆる不安ごとが一気に押し寄せ、頭の中を埋め尽くす。容量オーバーで今にも爆発しそうだ。
こんな日に限ってロウはいない。帰った時にはもう姿がなかったので、急なバイトが入ったか、あるいは友達に呼び出されでもしたのだろう。間が悪いと言えばそうだ。
ロウが知ったら何て言うかな。以前の発言を考えれば、きっと喜びはしないのだろう。今になって思えばそれも、自分が家出の真っ最中であることに起因していたのかもしれない。勝手に家を出て行った挙句、どこかで子供を拵えてくるなんて親からしたら卒倒モノだろう。
それは私にも当てはまるわけだけれど。勉学に励むために街へ送り出した娘が妊娠したなんて言ったら、両親はどんな顔をするだろうか。それこそロウじゃないけれど、追い出されて二度と家の敷居を跨がせてもらえないかもしれない。これはあくまで想像に過ぎないとはいえ、父さんの厳格さを考えれば大きく外れてはいないはずだ。
自立もしていない、稼ぎ口も持たない自分たちが子供をつくってしまうというのは、つまりはそういうことなのだった。本来は祝うべき事象であったとしても、今の私たちにとっては手放しで喜べるものではない。どういう選択を取っても悔いの残るものになってしまう。
せめて今、ロウが隣にいてくれたら。大丈夫だ、なんとかなる、と腕を回して、この身体を強く抱き締めてくれたら良かった。
でもそのロウはいない。そもそもロウは今自分が帰るべきかどうかの答えだって出せていない。現実に向き合えていないと言えばその通りで、あるいは私の話を聞いて逃げ出す可能性だってある。ロウはそんな人でない、一緒に悩んでくれるはずだと信じてはいるけれど、その可能性がゼロでない限り、やっぱり疑いからは逃れられないのだ。
考えれば考えるほど、私たちの先行きは怪しいということに今さら気が付いた。お互いばかり目に入れていたから、自分たちがそんな綱渡りみたいなところにいるなんてこれまで考えもしなかった。
あっけなく繋がれた糸は、解けるのもあっけない。自分たちの糸はまだ解けたわけではないけれど、糸と糸が離れるのに鋭利な刃物は要らない。ただほんの油断と力加減であっさり切れてしまうものなのだから。
軽い絶望は諦めにも似た何かに変わった。どっちにしたってこのままでいられないなら、変わるしかない。変えるしかない。
今のこの状況は、もしかしたら1つのきっかけになるかもしれない。そのためにはまず、はっきりさせておかなければ。
混乱していた頭が急に醒めていき、冴え冴えとするようだった。自分はこの状況でこうも冷静になれるものかと感心するほどだった。
私は財布と鍵を手に取ると、コートを羽織った。そうしてマフラーを巻くのもそこそこに、まだ温まり切らない部屋を飛び出した。
つづく