突き抜ける晴天に心地よい追い風。それに混じる花の香り。
いつになく清々しい日だ、とロウは思った。
ここにはもう何度も訪れている。目に入る光景はそう珍しいものでもないはずなのに、何故だか今日は道端に置かれたよくある植木鉢も、市場から聞こえる客引きの声も、慌ただしく行き交う人の波だって、何もかもが新鮮で特別なもののように思えた。
だからなのか、通りから一本路地に入ったところにあるその建物を初めて見た時も、特に何とも思わなかった。古い、いや、歴史を感じさせる建物だなあと感じたくらいで、表面の剥がれかけているレンガ壁も、一部それをツタが覆い始めていることもほとんど気にならなかった。
むしろフゼイがあるなとすら思ったかもしれない。この場所が新たな生活の拠点になると思うとすべてが輝いて見えて仕方なかった。この街で新しく『便利屋』を始めようと思っている自分には。
きっかけというほどのことはないが、ロウは常々思っていた。世界をより良くしたい、人の役に立ちたい。それはアルフェンたちと旅をする中で段々と強まっていった思いでもある。
とはいえ自分一人ができることなどたかが知れている。無力だとまでは言わないが、その力には限りがあって、例えばダナとレナの垣根を無くしたいと思ったところでそれの達成には多くの助けだったり、時間だったりが必要だろう。もちろん自分だってそれを願わなくはないが、それはもはや己の力で成し遂げるというよりいつかどこかの時代で叶うかどうかの問題に近い。
ロウが望んでいたのはそういった大きなものでなく、もっと身近なところで誰かの役に立つことだった。ひとつひとつ、どんな小さなことでも誰かの助けになることを積み上げていけば、それはきっと世界のためになると、そう考えていた。
そこで提案されたのが『便利屋』だ。誰かの困りごとがあればそれを依頼として引き受けて、代わりに自分が達成する。顔の見える相手と直接やり取りできるし、何より一番わかりやすい。ロウはその話を聞き、すぐさま乗ることを決めた。
拠点を構えるにあたってヴィスキントを選んだのは人も多く、そういう困りごとが多そうだったからだ。加えてメナンシアは世界でも最先端を行く国でもある。他領がこの先歩むのは程度の差こそあれメナンシアがおおよその目標となるわけで、メナンシアでの困りごとは他領でも充分起こり得る問題というわけだ。
自分の経験がカラグリアの復興にも役に立つかもしれないと思うと、ますますやる気は高まった。ロウはネアズやほかの〈紅の鴉〉メンバーに話を付け、期限付きでヴィスキントに住むことを許してもらったのだった。
『便利屋』の事務所兼自宅となるであろう建物の中は外見ほど古くはなかった。木造りの天井や床にはシミや傷がいくつか見受けられるものの、それと言われるまでさほど悪目立ちはしない。
ほかにはミニキッチンや、壁の照明などが備わっていた。奥には以前の住民が置いていったと思われる古い本棚が一つ。まだ彼らが出て行って間もないのか、あるいは誰かがこまめに掃除をしてくれているのか、部屋に埃はそれほど溜まっていなかった。
唯一、だだっ広いこの部屋にひとつ設けられた窓がくすんでいることだけが気にかかった。これでは外からの光がとりこみにくいし、建物の前を通りかかった人にも良い印象は与えられないだろう。これは早急に磨いてやらねばならない。例え何か困りごとがあったとしても、どんよりした事務所に入ってまで依頼をしようという人はおそらく少ないだろうから。
明日からの毎日を想像するだけでロウの胸は熱くなった。どうしよう、いきなり朝から依頼人が押し寄せたりしたら。先ほどもここで商売を始めるという商人に宣伝を頼んだばかりだし、人から人に話が伝わって有名になってしまうのも時間の問題かもしれない。そういう目的でここに来たわけではないしろ、ちやほやされるのは悪くない気分だ。
薄気味悪い笑い声の出所は自分の口だった。思わずきゅっと唇を引き結び、一人きりの部屋で背筋を伸ばす。
さて今日はこれからどうしようか。もうすぐ夕刻を迎えるこの街は市場に再び人が集まる時間だ。
とりあえず、と考えてロウは夕飯を求めることにした。その後はおそらく寝床を確保することになるだろう。それはきっとこの建物の二階を使うことになるだろうということも察しがついていた。自分は床だろうが地面だろうが、安全さえ確保できていればどこだってぐっすり眠れるのだ。
そうして明日からのことは明日の自分に任せることにした。どんな依頼を受けられるかなと想像しつつ、再び緩みかけた口元に力を込めた。
◇
翌日の昼を過ぎても依頼人は来なかった。
窓を開けて建物の前を通る人を観察してみたが、そういう気配を持った人間は現れない。人通りはそれなりにあるものの、誰もが皆こちらに一瞥もくれずただ素通りするばかりだった。
はてこの街の住民には困りごとがないのか。いやいや、これだけの人間がいるのだから依頼の1つや2つ、必ずどこかにあるだろう。
もしかしてこの建物が悪いのか。昨日ここを初めて訪れた時は悪くないと思っていたが、今朝改めて見てみるとなんだか陰鬱な雰囲気を纏っているようにも思えた。壁のツタも、塗装の剥がれたドアも、周りからすると近寄りがたい空気を出しているのかもしれない。
あるいはほかに便利屋があるのだろうか。そういう話は噂にも聞いたことはなかったが、自分が知らないだけで誰かがこの街の人間を助けているのかもしれない。
それはまあ、いいことなのではないかとロウは思った。自分の他にもそうやって他人の役に立ちたいという気持ちを持った誰かがいて、そうした日々を遂行しているのならそれに越したことはない。もし本当にそうだとして、自分がここに越してまでやってきた意味があるのかどうかはともかく。
いずれにしたってこのままでは良くない。自分の目的は人助けであって人間観察ではないからだ。
ならどうすると考えて、直接街に赴いて困りごとがありそうな人を探すという案を思いついた。待つのが苦手な自分にとってはこの上なくわかりやすい方法だ。
だがその間にこの部屋を訪れる人がいるかもしれない。せっかく依頼があって噂に聞く便利屋を探し回った挙句、留守だったなんて失望も良いところだ。自分なら、二度とその便利屋は使わないだろう。
じゃあ待つのか? 誰も来ないかもしれないのに? 自分から飛び込んでいく方が性に合っているんじゃないのか? でも――。
あっちでもないこっちでもないと頭の中で反復横跳びを繰り返していると、そこで突然部屋のドアが無遠慮に開いた。そこには呆れたような顔をしたリンウェルと、その肩でまったく同じ顔をしたフルルが立っていた。
「こんなことだろうと思った」
「フル……」
リンウェルは辺りをキョロキョロと見回したところで、はあとため息を吐く。
「一応聞くけど、誰か来た?」
「いいや」
ロウが首を振ると、リンウェルは「そうだろうね」と肩をすくめて言った。
「看板どころか貼り紙も出してないんだから、ここが便利屋だって誰も気づかないじゃん」
「確かに」
言われてみればそうだと、ロウは手をポンと打った。なるほど、だから誰もこちらに視線も寄越さなかったのか。そんなごく当たり前のことに気が付かなかった自分も自分だが、依頼人が訪れなかったのは困りごとが何もないからというわけではないと知ってロウはひと安心した。
とはいえこれから何をすればいいのだろう。自分は便利屋のことを考えるあまり、そういった根本については何も用意できていなかった。
するとリンウェルは、
「大丈夫。ロウが何か準備してくるとも思ってなかったし、その辺は言い出しっぺとしてちゃんと考えてあるから」と言った。
何を隠そう、この『便利屋』を提案したのはリンウェルだった。何か人の役に立ちたいけど上手い方法が分からないと零す自分に「じゃあ『便利屋』でも始めてみたら?」と具体的な利点欠点の説明も含め、勧めてくれたのだ。
それだけじゃない。この街に暮らすにあたっての手続きや書類の申請、加えてこの建物の賃貸契約までリンウェルが自分の代わりに全て行ってくれた。「ロウに任せたら不備だらけで二度手間だから」との言葉に言い返せなかったのは悔しいが、カラグリアを出るまでバタバタと過ごしていた自分にとっては拝みたいくらいありがたいことだった。
「まずは内装をなんとかしよっか」
ついてきて、とリンウェルは言うと、部屋を出てその足で真っ直ぐ宮殿へと向かった。入口のところで兵士に声を掛け、なにやらひそひそと小声で話をし始める。
案内されたのは廊下の先の、そのまた奥の小部屋だった。
「例のものはこの中です。お好きにお持ちください」
「ありがとう」
リンウェルは笑顔で応えると、早速その部屋へと入っていった。
中はどうやら倉庫のようだった。ソファーやテーブル、椅子などが雑多に積まれていて、奥の木箱には新品同様の食器までもが入れられていた。
「なんだよここは」
ロウの問いに、リンウェルは胸を張って得意げに言った。
「ここはね、廃棄予定の物品の倉庫だよ」
曰く、ここは宮殿で使用された物品の中で、傷がついたり古くなったりしたものを一時的に保管しておくための場所らしい。ここにあるものは近い将来、少しずつ外に運ばれていずれ廃棄される。つまりは不用品置き場というわけだ。
「本当は秘密の倉庫なんだけどね。ほら、宮殿で使われてるものって高価だから、少しくらい傷ついててもみんな欲しがっちゃうでしょ」
市民には内緒のその倉庫の存在を知ったリンウェルは兵士や侍従に話を付け、一部を譲ってもらえないかと交渉したのだそうだ。「大丈夫、ちゃんとOK貰ったから」とリンウェルは指でサインをつくってみせたが、そこに誰の名前を出したかなんて想像に難くない。当の本人はこちらで起きていることなど何ひとつ知らず、遠いガナスハロスの地で職務に勤しんでいることだろう。
リンウェルはあらかじめここに入り、使えそうなものをチェックしていたらしい。ロウは言われるまま、それらを倉庫から運び出していった。1人掛けのソファーが2つと、2人掛けのものが1つ。より高級そうで見映えの良いものもあったが、さすがにあの部屋には不釣り合いだと却下された。
ほかにもテーブルや椅子、引き出し付きの机などを1つずつ外に引っ張り出し、最後に休息用のベッドを運び出したところで、
「じゃあ、これをあの部屋まで運んでね」リンウェルはごく朗らかに言った。
ある程度予測していたことではあったが、これなかなか骨が折れるぞと、ロウは思った。とはいえ荷車まで用意されては文句も言えず、大人しく馬車馬のように宮殿と部屋を何度も往復したのだった。
リンウェルの指示通りに家具を置くと、部屋も見違えた。ただのだだっ広いワンルームが、きちんとした事務所のように見えてくる。宮殿で貰ってきたソファーが程よい緊張感を醸していて、ぴかぴかに磨き上げられたテーブルからは清潔感が見て取れた。
部屋の奥にあった本棚のところには机と椅子が並べられた。主に事務作業をする場所になるのだろうと思われるが、いったい誰が使うのだろう。
「じゃあ、次行くよ」
「げっ、まだあんのかよ」
うえっと舌を出してみせると、リンウェルは「もう少しだよ」と笑った。
「次行くところが最後だから」
リンウェルが向かった先はヴィスキントの宿屋だった。ここでは要らなくなった衝立とカーテン、シーツなどを譲ってもらった。
両手いっぱいに荷物を抱え、部屋までの道を歩きながらロウは言った。
「お前、いろんなとこに声かけてたんだな」
「まあね」
リンウェルが小さく鼻を鳴らす。
「私が提案したんだし、言いっぱなしは無責任でしょ?」
それに、とリンウェルはこちらを覗き込みながら続けた。
「ロウが本気で頑張るって言うんだから、私も何か応援したいなって思って」
これらはその手始めなのだとリンウェルは言った。
その言葉の意味はロウにはよく分からなかったが、リンウェルが何やら張り切っていることと、その気持ちが嬉しいことだけは分かった。「ありがとな」とロウは言い、リンウェルも「どういたしまして」と笑ったところでちょうど部屋に着いた。
衝立はミニキッチンのところに、カーテンを窓に設置するとようやく作業は終わった。最後に窓をきれいに拭いてやると、あの陰鬱だった建物が少しだけ明るさを取り戻した気がした。
「じゃあ仕上げに、これ」
リンウェルがそう言って取り出したのはスタンド型の看板だった。その真っ黒な面にどこからか持ってきた白いチョークで「便利屋」と大きく書きつける。
「おお、すげえ。それっぽい」
ロウが褒めると、リンウェルも、それっぽいでしょ、と嬉しそうに笑った。
「朝起きてお店開ける時に外に出してね」
そして夕方、店じまいと共にそれを中にしまう。そうすればお店がいつ開いてるか、ここを通る人にも分かりやすいから、とリンウェルは言った。
看板を表に置くと、とうとう『便利屋』の事務所は完成した。これでもうこの建物を廃墟と見間違うこともないだろう。
安堵と期待と、それともう1つこみ上げてきたのは、ほのかな疲労感だった。思わずついて出た小さなため息がロウの足元に散らばる。
「なあに、もう疲れたの? まだ何もしてないんですけど」
確かに、言われてみればまだ依頼の1つも受けていないのだ。ここで項垂れている場合じゃないと、ロウは腹に力を入れ直す。
「まあ、今日はいいんじゃない? その第一歩ってことで」
ふふっとリンウェルが笑い、その上でフルルが羽を広げた。
「明日から頑張ろうね」
ロウは「そうだな」と呟くと、大きく息を吸い、ツタの這う建物をもう一度視界いっぱいに捉えたのだった。
つづく