「ロウってお金のこととか何か考えてるの?」
朝早くから事務所を訪ねてきたリンウェルは唐突にそんなことを言った。
「お金?」
「ほら、便利屋の料金とか。誰かの代わりに働くんだから、それ相応の対価は貰わないと」
料金。対価。
その言葉を聞いて初めてロウ自身も気が付いたのだが、驚くべきことに自分はそれについてまったく何も考えていなかった。便利屋の宣伝や見てくれに関することよりも頭の外側にあった。
なぜならば、これは自分自身がやりたくてやることなのだからそこに対価は発生しないと思っていた。むしろ依頼人には、依頼をしてくれてありがとうございます、という感謝さえ沸き上がりそうなくらいで、そんな強い謝意を抱いている相手に対して謝礼を要求するのはどこか腑に落ちない気もする。
「そうだな……」
口ごもったロウにリンウェルは何かを察してか、訝しげな視線を寄越してきた。
「まさかと思うけど、無償で、なんて考えてないよね」
「いやだって、これは社会勉強したいっていう俺の希望だろ? それに付き合わせるって意味じゃ、金取るのはおかしくないか?」
相場もよくわかんねえし、めんどくせえし、と本音が漏れたところで、リンウェルがこれまでにないほど大きく、深いため息を吐いたのが聞こえた。
「わかってない。わかってないよロウは」
いい? まず便利屋以前にここで生活していくことが大前提なの。ご飯も食べないでお仕事できる? できないでしょ? 食べ物を買うためにも、家賃を払うためにも、依頼人からお金をもらうことは当たり前。それでこそ仕事に責任が生まれるし、相手も変な依頼をしてこなくなるってわけ。一日中タダでこの街の落ち葉拾いしてきてって言われてこの世のためになる? 食費、家賃、光熱費諸々のことを考えてもロウの貯金だけじゃひと月も生きていけないよ。これが社会勉強っていうなら、そういう面も学ばないと。自分の生活もままならない人に誰が依頼しようって思うの?
ひと息にまくし立てられてロウは面食らった。リンウェルの言っていることを全て理解できたわけではなかったが、その中に気になるワードがいくつか含まれていた。
「お前、今家賃っつったか?」
それに光熱費。食費はともかくとして、どれもカラグリアではあまり聞き慣れない言葉だった。
「部屋を借りてるんだから家賃が発生するのは当たり前でしょ。それに水道代も燃料代も、この街の資源を使わせてもらってるんだから対価は払わないと」
「まじか……」
ここでも対価ときた。この世界は自分が思っている以上にカネで回っているらしい。
「ついでに、これも」
リンウェルが突きつけてきたメモには、昨日自分たちが整えたこの部屋の内装にかかった費用が記載されていた。
「部屋の契約にかかった諸費用も含めると、このくらい。優しいから、私の手数料はタダにしてあげる」
リンウェルがさらに書き加えた数字にひえっと悲鳴を上げそうになる。ただこの街で部屋を借りて生きていくだけで、まさかこれほど金がかかろうとは。カラグリアでコツコツ貯めてきたガルドがこの数日だけでごっそり減ってしまう。
「ね、生きていくって大変なんだよ。だから対価は必要なの」
「わかったけどよ、でもどうやって決めたらいいんだ?」
対価の必要性は理解した。だがそれをどの程度に定めたらいいかはわからない。何せ自分がこれまで働いていたのはカラグリアで、賃金もひと月にかかる生活費もこことはまるで違うのだ。
するとリンウェルは、「もう、しょうがないなあ」と言って腰に手を当て胸を張り、
「私がお金について担当してあげます」
と高らかに宣言した。いつの間にかリンウェルのフードで目を覚ましたフルルも翼を広げ、フル! と声を上げている。
「……え?」
どういうことだ? と首を傾げるロウに、リンウェルは呆れたように肩をすくめる。
「だから、私が手伝ってあげるって言ってるの。ロウにお金のアレコレは難しいだろうから、料金の設定もその管理も、私が担当するってこと。便利屋の経理ってやつかな」
なるほど、とロウは呟いた。詳しくはよくわからないが、小難しいことはリンウェルが請け負ってくれるということか。
その申し出はロウにとって願ってもないことだった。何せ自分は数字だの計算だのがあまり得意ではない。買い物の時はもちろん、ひと月の給金だって言われたままの金額を信じるだけだった。釣銭も賃金も完全に相手の良心に委ねていたのだ。
それをまるごとリンウェルが担当してくれるというのだから助かるどころの話ではない。普通ならこんな面倒なこと、誰も頭を下げたって頼まれてくれないのではないか。それこそ対価が必要なんじゃないかと思ったが、リンウェルは首を横に振った。
「とりあえずは無償でいいよ。私だってこんなこと初めてやるんだし、上手くいくかもわからないから」
便利屋が軌道に乗るまでは無償で、とリンウェルは笑った。
「その代わり、ここは私の席ね」
そう言ってリンウェルは荷物を部屋の奥にある本棚横の机に置いた。ひじ掛け付の豪勢な椅子にばふっと腰を下ろし、ふふんと得意げに鼻を鳴らす。
そんなリンウェルの様子を見て、ロウはようやく気付いた。こいつは初めから便利屋を手伝う気でいたのだ。部屋の家具を見繕っている時から、あるいは自分が便利屋をやると決めた時から協力してくれるつもりだった。リンウェルは自分のことをよくお節介だとか、お人よしなんて呼ぶが、そういうリンウェルだって随分なものだ。
便利屋の見てくれにしろ金の管理にしろ、有無を言わさないあたりがどうにもリンウェルらしいが、頭が上がらないのは変わらない。その席は便利屋設立の功労者であるリンウェルに譲ることにして、ふと思ったことがあった。
「あれ、じゃあ俺の席は?」
「え、知らない。そこのソファーでも使ってよ」
フッ……、とフルルが鼻で笑う。
なんだよそれ、と思いながら、まあそれでもいいかとソファーに腰かけようとしたところで、部屋に突如ノックの音が響いた。
二人で顔を見合わせ、ロウが扉に近づく。恐る恐る開くと、そこには一人の少女が立っていた。
「あの、困ってる人を助けてくれるって、本当ですか」
少女は不安そうにこちらを見上げながら、か細い声で言った。
「そこでお店をやってるおじさんに聞いたんです。困りごとがあったらなんでも聞いてくれる人がいるって」
「ああ、それは俺のことだ」
ロウは胸を張って言った。何を隠そう、俺は今日からヴィスキントの便利屋なのだから。
少女はそれを聞いて、少しほっとしたような表情を見せた。戸惑っている様子は相変わらずだったが、握りしめていた両手の拳がふっと解けていく。
「何か困りごとがあるのか? どんな困りごとだ?」
ロウが訊ねると、少女はまたしても蚊の鳴くような声で言った。
「猫が、いなくなっちゃって」
猫? と聞き直すと、少女は小さく頷く。なるほど、飼い猫探しか。
「やったね、ロウ。得意分野じゃん」
後ろから覗き込んできたリンウェルが肩を叩く。得意分野かどうかは知らないが、確かに動物絡みのことならそれほど苦労したことはない。
とりあえず少女には道すがら話を聞くことにして、ロウたちは便利屋の事務所を出たのだった。
一行はまず少女が最後に猫を目撃したという場所まで案内してもらうことにした。少女は昨日の夕方、そこで猫にエサをあげたのだそうだ。
「それで、その猫の名前は?」
ロウが訊ねると、少女は小さく俯いてしまった。
「名前は、まだないの」
「え?」
どうやら少女は猫の飼い主というわけではないようだった。
「少し前に家の近くで小さくて真っ白い猫ちゃんを見かけて、面倒見てたの。飼いたいけどお母さんに言い出せなくって、そしたら今日、いつものところに猫ちゃんの姿がなくて……」
エサの時間になっても現れないため街中を探し回ったが、どうしても見つけられなかったのだという。
「そこの広場でお店をやってるおじさんが『便利屋をやってる人がいるよ』って教えてくれたの。それで、この通りに入ったら看板があったから」
ロウは、ははあと頷いた。おそらく少女の言うおじさんとは、先日街道で会った商人のことだろう。まさかこうも早く効果がもたらされるとは、やはりあの時宣伝を頼んでおいて正解だった。
リンウェルの用意した看板も目印になったようだ。あれがなかったら少女は便利屋を求めこの街を一日中彷徨うことになっていたかもしれない。
「けど、名前がないんじゃなあ」
呼びかけることもできないとなればなかなか難易度は高い。きっと猫は少女のことを認識してはいるだろうから、その声に反応してくれればいいのだが。
「まあとりあえず探してみようぜ。探し物は人数が多いほど有利だからな」
そう意気込んだはいいものの、捜索は難航をきわめた。あらゆる場所で人に尋ねて回ったが、なかなか白い仔猫の目撃情報は得られない。あったとしても白い、あるいは仔猫のどちらかが一致しているだけで、教えられた場所にいるのは白いは白いがまるまると太ったふてぶてしい態度の猫だったり、あるいは白い毛に茶のぶちが混ざった子猫だったりした。
そもそもヴィスキントには猫が多い。その辺を猫が歩いていても誰も気にも留めないし、どんな猫だったかいちいち覚えているという人は少なかった。
これでは人間からの情報はあてにできない。そう思って今度はフルルが空からあちこちを見て回るのだが、それらしい影は見当たらなかった。建物の上にも、屋台のテントの上にも白い仔猫はいない。結局街を3周ほどしたところでフルルの方が先に力尽き、リンウェルのフードの中へ撤退することとなった。
「どうすっかなあ」
ロウは困ったように頭を掻いた。
「街の外には出てねえと思うんだけど」
城門の兵士たちにも話を聞いたが、今朝から猫は見かけていないという。とはいえ「壁づたいに出て行かれたらそれはわかりませんが」とも言っていた。
少女はすっかり気落ちしていた。仔猫が心配な気持ちと、飼いたいと母親に切り出せなかった後悔が入り混じっているのだろう。その目には潤んだ涙の膜が張っている。
そんな少女の姿を見て、
「ちょっとロウ、なんとかならないの?」とリンウェルがせっついてくる。
「野生の勘働かせてよ」
「野生の勘ったって、俺猫じゃねえし」
うーんと唸りながら、ロウは考えを巡らせる。自分が猫ならどこに行くだろう。やっぱり美味いものがあるところに行きたいと思うだろうが、エサの時間に現れなかったということはそうできない場所にいる可能性が高い。動けなくて、フルルからも見えないところ。それに当てはまる、自分たちがまだ探していない場所――。
「待てよ。あそこなら……」
ひとつ閃くと、ロウはすぐさま元来た道を引き返した。
目的地はそう遠くなかった。採石場のつり橋手前、樹海の入り口。緑の葉が生い茂る木の上にそれはいた。
「猫ちゃん!」
少女が声を上げ、それに反応した仔猫も小さく鳴き声を上げる。どうやら木に登ったまま降りられなくなってしまったらしい。
ロウは迷うことなく木の幹に手を掛けた。見た目はそう逞しくもないがさすがはメナンシアの植物、中身はしっかり肥えているようだ。
少女が心配そうに見つめる中、リンウェルが「大丈夫だよ」と優しく声を掛けていた。「ロウはね、頑丈だから」
そこは運動神経が良いとか言ってほしかったところだが、ここで足を滑らせては目も当てられない。ロウは慎重に手足を交互に動かし、着実に上に登っていく。
仔猫のいる枝に手が掛かったところで、仔猫自らそばに近寄ってきてくれたのは助かった。怖がらせないようそれを腕にしっかり抱え込み、あとは幹を蹴って下へと飛び降りる。
「猫ちゃん!」
少女の呼び声に応えて仔猫もにゃあ! と歓声を上げた。しっぽをピンと立てているところを見ると、随分少女に懐いているようだ。
「もう、一時はどうなることかと思ったよ」
疲れ切ったフルルを腕に抱き、リンウェルがはあと息を吐いた。
「でもちゃんと見つかっただろ。ケガもなし、無事依頼完了」
依頼、と口にして思い出したことがあった。これも依頼の内に入るのなら、料金とやらはどうするのだろう。
リンウェルに訊ねようかと思った時、少女が服の裾を引いた。腕にはブルーの瞳をした白い仔猫が大人しく抱かれている。
「お兄ちゃんとお姉ちゃん、それから鳥さんも、猫ちゃん見つけてくれてありがとう!」
きらきらと、太陽にも負けない輝きを放つ瞳で少女は言った。
「お兄ちゃんかっこよかった! お姉ちゃんも優しくしてくれて、嬉しかった!」
ロウはその場にしゃがみこみ、少女と目線を合わせると、その頭をそっと撫でる。
「どういたしまして。お前も、困った時に困ったって言えて偉いな。これからもそうやって生きていけよ。一人で抱え込みすぎるのは良くないからな」
ロウの言葉に少女は元気良く頷き、それにつられて仔猫のしっぽも揺れた。
さあて、とロウはリンウェルを見上げて言った。
「まさか、こんな小さい客からも料金取るわけじゃねえよなあ?」
ロウが送った視線に、リンウェルはうっとたじろぐ。そうして肩をすくめると、「まあいっか」と微笑んだ。
「まだ何も決まってないしね。記念すべき最初の依頼人ってことで」
「そうそう、そうこなきゃな」
少女は再び「ありがとう!」と満面の笑みを浮かべる。今この街でもっとも眩しく輝く笑みだ。
そうだ、その顔。
その笑顔こそ、俺が見たかった何よりの対価なんだよなあ、とロウは思った。
つづく