1.
空が、燃えていた。
真っ赤に染め上げられた夜の幕に、目に染みるほどの煙が立ち上っている。
いつもは無遠慮に輝く星たちも、今夜ばかりはその姿を見せなかった。代わりに宙を舞うものといえば、あちこちから上がる炎がまき散らした火の粉だけで、それらは流星のように一瞬だけ強い光を放っては、いとも儚く散っていった。
まるで命のようだ。この地で生を受けた、人々の命。
少しだけ違うのは、たとえ一瞬であっても、火の粉には輝く瞬間があるということだ。
どこかで大きな爆発音がして、それを合図とするようにロウは大げさに振り抜いた拳をすぐさま元の位置に引き戻した。強く視線を向けた先で兵士が後ずさるのを見て、自分も大きく一歩後退する。
ほとんど息継ぎと変わらないため息を吐きながら思う。こんな意味のない威嚇をいつまで続けたらいい。ただ奴の視線と意識をこちらに引きつけておくために、いったいあと何度宙を蹴りつければいいのだろう。まったく、「むやみに殺すな」なんて簡単に言ってくれる。
それでなくとも相手は本気なのだ。本気で自分を殺そうと、その見かけによらず軽さのある剣を振るってくる。とはいえ奴隷ごときに後れを取るまいとつまらない誇りを守ることでいっぱいの剣は、この身体をひと掠りすることもなかった。ただ切っ先が無駄に美しい弧を描いては、虚しく宙を切るだけ。
それとこの拳に何の差がある。相手に触れることを許されていない拳と、触れたくても触れられない剣。それらはただ空気をわずかに揺らすだけで、何を生み出すわけでもない。
こんなことのために鍛えたわけじゃないはずだ。こんな、何の意味も為さないようなことのためじゃ――。
なら何のために? 誰のために?
俺はどうして、拳を振るっているのだろう。
「だあああっ!」
不意に突進してきた兵士の剣を手甲で受け止めると、ロウは身を翻して背後から手刀を食らわせた。気を失った兵士がその場にどさりと崩れ落ちる。
到底鋭いとは言えない動きだった。相手が手練れだったなら、間違いなく反撃されていただろう。
迷いがあるから、駄目なのか。自分の中にある拭いきれない迷いが、この拳を鈍らせているのか。
あの時だってもしそうじゃなかったら――。守りたいものを、お袋を、俺は守れていたのだろうか。
ロウは仲間の加勢に向かうため、その場を後にした。先ほどから続く爆発音に混じって、あちこちから喚声が上がるのが聞こえる。
夜は更けていく一方で、空は奇妙にその明るさを増していた。あの日も、こんなふうな空だったのだろうか。
およそ300年前。レナが最初にこの地を訪れた日。最初に戦火が上がった日。カラグリア――〈劫火と灰渦巻く国〉が生まれた日。
こんなふうに、世界は変わったのだろうか。その名の通り、大地を炎と灰で覆い尽くしながら。
赤い空を前に道を駆けつつ、ロウは一瞬だけ視線を向こうに投げた。ほとんど大岩か、あるいはただ溶岩に塗り固められたようにも見えるそれは、この国を治める当主ともいうべき輩の住まう居城だ。先ほどその天辺で、何か異形の物体が垣間見えた気がした。
炎の色をしたそれは、地鳴りにも似た唸り声を上げていた。そしてそのあとすぐにけたたましい音が鳴り響き、いくつか大きな火球が降り注ぐのが見えた。
あいつらは無事だろうな。数日前、ウルベゼクに突如現れた仮面の男とレナの女。聞くところによれば、その男はレナの女の力を介することで炎そのもののような剣を扱えるらしい。
というのも、ロウはその剣を直接目の当たりにしたわけでもなければ、2人と何か言葉を交わしたわけでもなかった。隠れ家やモスガルが次々に襲撃を受けたと聞き、駆け付けてみればそこには見慣れない2人組がいた。さらにその2人を取り囲んで何やら神妙な雰囲気になっているなと思っていたら、突然作戦の敢行を言い渡されたのだった。
それがまさか領将ビエゾの暗殺計画だとは誰が予想しただろう。各地への襲撃で消耗しているという身内にさえ想像のつかないタイミングであることこそ、この作戦の肝だった。
自らも囮になると言ったのは、組織の頭領であるロウの父ジルファだ。あくまで本命は例の2人組であり、その他のものはすべて敵を釣り上げるための陽動でしかない。正式なメンバーとなって日が浅いロウはもちろん、重要な役割を担っている面々まで表に駆り出されるこの戦いが持つ意味は、これまでのそれとは大きく違った。
負ければ死よりも恐ろしいものが待っている。それは組織だけでなく、おそらくカラグリア全土をも巻き込むことになるだろう。
今やこの国の運命はあの2人に託されていた。親父でさえ出会ってほんの数日だという、素性も知れない2人に。