もしロウがカラグリアを出奔していなかったら、という本編ifのお話。全部捏造/強めの幻覚/何でも許せる人向け
赫く夜空は君のため
◇
英雄とは何だろう。
弱きを助け、悪しきを挫く人? どんな困りごとも嫌な顔ひとつせずに解決してくれる人?
それとも、世界をまるごと変えられる人?
そのどれもが正解で、間違っている。少なくとも自分の認識ではそうだ、とロウは思う。
英雄なら当然悪人を打ち払ってくれるだろうし、弱い人を見捨てたりはしない。誰かが困っているなら手を差し伸べてくれるだろうし、報酬こそ受け取れど有り金すべて置いていけなどとは言わないだろう。振る舞いはもちろん、言葉遣いも堂々としていて、それでいて思わず追いたくなるような背中をしていて――。
とはいえ英雄だって一人の人間だ。何もかもが完ぺきというわけではない。盗賊だと思って追い払った敵は実は義賊団かもしれないし、困りごとが英雄の力及ばず未解決に終わるかもしれない。
世界だってそうそう変わらない。その証拠に、今日も空では鳥たちがやかましく鳴いていた。昨日も一昨日も、その前もロウは同じような鳥の声を聞いていた。300年続いたレナの支配が終わろうが、閉ざされ続けていた壁に穴が空こうが、世界はそれほど大きく変化しないのだ。
ただ、と思う。
ただ、本物の英雄なら、一番大事なところで判断を誤ったりしない。
拠点の建物を訪れたロウを出迎えたのは、入り口のところにできた小さな人だかりだった。幼い子供からよぼよぼの老人まで皆が皆中を覗き込もうと必死に首を伸ばしていて、まるでわらわらと生い茂ったキノコのようだ。
その隙間から声が聞こえた。
「だから、まだあいつは寝たきりなんだって。ケガもやっと治してもらったとこなんだ。今は静かに休ませてやってくれよ」
今にも殺到しそうな人々を必死に押しとどめているのは、ガナルだった。両手を目いっぱいに広げ、隙間を縫って中に入り込もうとする子供を足で通せんぼしている。
「まだ寝てるってんじゃ花も萎れちまうし、パンも食えないだろ。目ぇ覚ましたら知らせるから、それまで待ってくれ。な?」
「けど、直接お礼を言わなきゃ気が済まないんだよ」
「一目でいい。どうか会わせてはくれんかのう」
人々は手にした花やパンを掲げ、まるで神に祈るかのように声を上げていた。中にはどこから拾ってきたのか、酒瓶のようなものまで抱える者もいた。
「頼むよ。俺らを救ってくれた英雄に感謝を伝えさせてくれ」
「いずれそういう機会も来るって。今はその気持ちだけありがたーく受け取っとくから」
何度か同じ問答を繰り返したところで、やがて人々は散っていった。ロウは端に寄って彼らを避けつつ、その背後で大きく息を吐いているガナルに声を掛けた。
「お疲れ。また見舞いか?」
「ああ、今日はもうこれで3度目だ。それも日に日に増えていってやがる。まだ会わせられないって何度言っても聞きやしない。殊勝なことだ」
「それも仕方ないんじゃねえのか。何せ国ひとつまるまる救っちまったんだから」
「そうだな。けどそれまで戦い続けた俺たちのことも、少しは労ってくれないもんかね」
ガナルは笑って肩をすくめると、入り口のところに残された花や酒の瓶を拾い上げた。表面に付いた土埃を払い、それを建物の中にあるサイドテーブルへと置く。
「まさか本当にやり遂げちまうとはな。疑って悪かった」
ガナルの言葉にも反応を見せず、ベッドで胸を穏やかに上下させる我らの英雄は、いまだ深い眠りの中にいるようだった。
あの夜、例の2人組は見事にビエゾを討ち取った。それだけでなく、隣国との境に立ちふさがっていた炎の門さえも打ち破ってしまった。
ロウがジルファたちと共にグラニード城へと駆け付けると、屋上ではレナの女が仮面の男に必死に治癒術を施していた。身体の半分以上が焼け焦げ、思わず目を背けたくなるような惨状だったが、それでも女は一瞬たりとも気を緩めることなく力を込め続けていた。
なんとか人間の身体を取り戻した頃、仮面の男を皆で拠点まで運んだ。組織で医者をしているティルザも加わり、それから朝になるまで治療を続けた結果、仮面の男は何とか一命を取り留めたのだった。
「よくやってくれた」
ベッドに横たわる男に向かって、ジルファは呟くように言った。その言葉はおそらく届いていないだろうが、誰よりも、何よりも早く伝えたかったのだろう。語尾は僅かに震えているようにも聞こえた。
「シオンと鉄仮面、お前たち2人がいなかったら……」
「アルフェンよ」
治療を終え、窓際に佇んでいたレナの女が遮るように言った。
「戦いの中で思い出したらしいの。鉄仮面は、自分の名はアルフェンだと、そう言ったわ」
「アルフェン……そうか……」
噛み締めるようにジルファはその名を呟き、そしてもう一度「ありがとう、アルフェン」と言った。
あれから3日が経つが、アルフェンはいまだ目を覚まさない。寝息が穏やかなところを見るとただ体力回復に勤しんでいるようなのだが、寝返りのひとつも打たずに眠り続けているというのは些か不気味なようにも思えた。
「体を相当酷使したのね。こんなになるまでの戦いなんて、いったいどんな有様だったのかしら」
ティルザはそんなことを言いながら、アルフェンの頬に滲んだ汗を手拭いで拭っていた。どうやら出会った時は顔全体が仮面で覆われていたようだが、先の戦いで半分ほど割れてしまったらしい。今や半仮面となった男だが〈炎の剣〉を振るう〈鉄仮面〉という存在は、カラグリア、ひいてはダナの歴史に刻まれるべき英雄の象徴として民衆に広く知れ渡ることとなった。
それを示すように、あの夜以降、アルフェンへの見舞いをしようと多くの人間がひっきりなしにウルベゼクを訪れている。いくらケガをしていて寝たきりだと言っても、自分たちの英雄を一目拝みたいという連中が後を絶たない。食事も摂ることができない状態なのだと説明しても、彼らは自分たちが配給で得たパンを、「どうか英雄へお納めください」と差し出すのを止めないのだった。
「せっかく苦労して手に入れてきたってのによ」
その様子を見て、ガナルは不服そうに口を曲げていた。
「気持ちはわかるけど、俺たちがそのパン1つにどれだけあちこち駆け回ってるか……」
「なあに、数日もすれば大人しくもなるだろう。自分たちの腹が空けば、結局はそこに収めることになるだろうさ」
ネアズは宥めるように言って、次の配給に向けた用意を進めるのだった。
もう一人の英雄――シオンはといえば、あまり拠点の建物には姿を見せなかった。偉業を成し遂げた立役者の一人とはいえ、レナ人であることは知れている。その近寄りがたい雰囲気もあってか、いつも建物に人だかりを作っているアルフェンとは違って、シオンに直接礼を言いたいという人間は少なかった。
「でも彼女、そんなに悪い子じゃないけれど」
そんなふうに言ったのはティルザだ。
「シオンはあれから、私たちと一緒にケガ人の治療に当たってくれているのよ。彼女の治癒術は素晴らしいわ。小さな傷はもちろん、大きな傷も痕ひとつ残さずに治してしまうんだから」
ティルザのその口ぶりは、心から感心している様子だった。
「自分も疲れていて当然のはずなのに、ここまで力を貸してくれるなんてそうできることじゃないわよ。それもダナのために」
実際、ロウが薬などの物資を運んだ時、そこで懸命にケガ人の治療をするシオンの姿を目の当たりにした。無愛想な様子は相変わらずだったが、ずらりと床に横たわった彼らを前に彼女は何も言わず、ただ淡々と治癒術を施していた。
レナ人が星霊術を使う時、その瞳は青く光る。自分たちはそれを揶揄して〈光り眼〉などと呼ぶこともあったが、治癒術をかけるシオンの瞳は宝石のように美しく見えた。その一方で誰も寄せ付けない冷たい空気を放っているようでもあって、それはレナ人だからというより、もっと別の理由があるようにも思えた。
英雄には英雄の、ロウにはロウの1日がある。
ロウが目を覚ますのは、決まって日が昇り始める頃だった。窓から射しこんだ日射しに部屋が明るく照らされている。壁付けされた戸棚や粗末なキッチンはオレンジ色に染まっていて、昨夜食べた夕飯の皿が水桶の中に沈んでいた。
自分のほかに音も気配も感じられないこの光景に、もはや落胆もしなければ寂しさも感じない。物心ついた時から父親がこの部屋に姿を見せる機会はほとんどなかった。
「父さんは、ロウの未来のために戦っているのよ」
抵抗組織の長を務める父について、母は口癖のように何度もそう言った。
「あなただけじゃない。この国、この世界の人のために戦っているの」
何と戦っているのか当時のロウにはわからなかったが、ただ、父親を誇らしく思ったことは覚えている。まるで絵本の中の英雄みたいだ。いつか自分も強くなって同じようになりたい。そんなふうに願ったものだった。
朝の鍛錬はその頃からの習慣だ。目も眩むような朝日を背にひたすら拳を強く突き出し、数を数える。決まった回数に達したら次に移り、最後に軽く家の周囲を走り込んでようやく朝の日課は終わりだ。こうしないと完全には目が覚めないし、落ち着かない。ロウにとって身体を鍛えることは、食事や睡眠とほとんど変わらないものだった。
その日、ロウが〈紅の鴉〉の拠点に向かうと、何やら周囲が慌ただしかった。
「近くでレナの残党が見つかったんだ! お前も応援に行ってくれ!」
すぐさま現場に駆け付けると、そこにはボロボロの鎧をまとった数人の兵士たちがいた。彼らは誰も寄せ付けまいとめちゃくちゃに武器を振り回して、わけのわからない言葉を吐き続けていた。先の戦いから逃れたはいいものの、恐怖と絶望で錯乱しているのだろう。大人しくしていれば手を出すつもりはないというこちらの言葉もまるで聞こえていないようだった。
「ロウ、頼めるか」
乞われるまま前に出ると、ロウは兵士たちに近づいた。1人が大きな声を上げながら振りかぶった剣を、両腕の手甲で受け止める。
響いた音の割に重さも鋭さも感じないそれは、押し返すにもほとんど力は要らなかった。バランスを崩したところに腹部への強打を放つと、真正面からそれを受けた兵士は低く呻き声を上げて倒れ込んだ。
あとは一変して攻勢に転じた。動きの止まった兵士の隙を見て、仲間たちが一斉に飛び掛かる。こうなってしまえばもはや武器や装甲は関係ない。ただ数が物を言うだけだ。
「ありがとな、助かったよ」
場を収めるきっかけとなったロウを、仲間たちは肩を叩いて称えてくれた。
「さすがはジルファの息子だ」
無理やり作って見せた笑顔が引きつっていることなど誰も気付かないし、気にしない。ロウは手甲の下の拳を皮膚に爪が食い込むほど握り締めながら、拠点までの道を歩いた。