バッグを掛けなおすふりをして滑らせた目線の先をシオンは思わず疑った。
広場の時計の針は先ほど確認したときとほとんど変わらない。時間にしたら5分程度だろうか。体感ではすでに丸鶏がオーブンで焼き上がっているほどだというのに。
まさか、と思いながらももう少し視野を広げてやれば、確かにここへ来るときに見かけた人もさほどその立ち位置を変えてはいない。今日は流れが速いと思った雲たちも留まったままで、まだ街を抜けてはいなかった。
(あとどれくらい掛かるのかしら)
待つという行為には随分と慣れているはずだったが。こんなふうにひとりきりでいることだって、以前は当たり前のことだったのに。人のぬくもりを知ってしまった自分は少々気が短くなってしまったらしい。
シオンの待ち人――アルフェンは現在宮殿へと赴いている。次の仕事はメナンシアの兵士たちと合同のようで、急遽その打ち合わせが入ったのだ。元々二人でヴィスキントに出掛ける予定はあったので、それなら外で待っているわと申し出たのはシオンの方からだった。そんなに長くは掛からないはずだというアルフェンの言葉を信用してのことだったが、今思えば宮殿のベンチにでも座っていればよかったのかもしれない。数秒おきに時計を確認して、もはやほとんど間違い探しに近いそれに躍起になってしまっている自分は、周りから見たらどんなふうに映っているだろう。広場に大きな時計の設置を提言した元領将の満足げな笑みが浮かぶようだ。「終業時間を今か今かと待ちわびる私の気持ちが分かったかね」と。
そわそわと落ち着かない気持ちを紛らすようにシオンがバッグのストラップを今度は左肩へと掛けなおしたとき、石造りの階段を上ってくる青年と目が合った。翡翠色の瞳と肩に鎮座する銀色の狼。かつて共に旅をした仲間をいまさら見間違うことはない。
「ロウ」
半ば呟いたようなシオンの声と二人の視線がかち合ったのはほとんど同時で、ロウもこちらの存在に気づくとすぐに人懐こい笑みを見せた。
「シオン、久しぶりだな。こんなところでどうしたんだ?」
滑るように間合いを詰められてシオンは思わず腰が引けた。〈荊〉の呪いは解けたとはいえ、いまだ他人との距離を測るのには慣れていないのだ。
「ちょっと人待ちよ」
「なるほど、アルフェンだろ?」
今の言い方は少々そっけなかっただろうかと自戒する間もなくロウにそう言い当てられて思わずぎくりとした。それは経験則から導き出されたものか、はたまた今日の服装から察したものか。まさか表情に出ていたのでは、と口元を少し引き絞る。
「仕事の打ち合わせが入ったのよ。すぐに終わるって言うから、ここで待っているの」
事情を説明したつもりが、言い訳のように聞こえてしまうのは何故だろう。そんな自身の居心地悪さを隠すように、間を空けずにロウへ問う。
「そっちはどうしたの? あなたも誰かと待ち合わせ?」
「まあ……そうなるな」
歯切れ悪く答えたロウの頬が赤く染まる。
「あいつが、リンウェルが買い物付き合って欲しいって言うからよ」
仕方なく? などと言いながら泳がせた視線の先の真意は到底隠せてはいない。それに敢えて気が付かないふりをして、シオンは小さく笑みを堪えた。
「待ち合わせは何時なの?」
「10時」
今は9時45分。随分と、というわけでもないがそれなりに早めの到着だ。
「いっつもこんくらいだぜ。宿にいるのもここで待つのもそんなに変わんねーだろ」
通りの店が開き始めるのもこの後からで、時間を潰すにも当てがないのだろう。それでもじっとしているのが性分でないロウは早々に街に出て、何をするということもなくただひたすらリンウェルを待つという選択をしたらしい。
「あなたたちは買い物といえば普段はどこに行くの?」
「本売ってる店とか、よく連れてかれるぜ。一気に何冊も買うから一人じゃ持てねーんだと」
想像に難くない光景にシオンは思わず笑ってしまいそうになる。一緒に買い物、というよりは相手を荷物持ちにさせてしまうといった経験は自分にも心当たりがあった。
「食事は? お店で食べたりはしないの?」
「時間によるけど、大抵は屋台で買って食べ歩きで済ませてるな。あいつアイスばっか食いたがるから、腹壊さねーかひやひやするぜ」
そう言ってロウが目線を投げかけた場所ではアイスクリームを売る屋台が店支度を始めていた。おそらく今日もそうするのだろう。澄んだ青空はより一層深さを増していて、日差しも強くなってきた。アイスクリームを食べるなら、きっとこんな日和がいい。
「相変わらずなのね」
ふふっと零した笑みには嬉しさと安堵が半分ずつ。旅を終えても切れない縁は何よりも尊い。
加えて二人にはそれ以上の何かを感じている。ロウがリンウェルを”気になる存在”として意識していることは、自分をはじめキサラやテュオハリムなども知るところではあるが、リンウェルの方だってそれなりにロウのことを気にかけているように思える。でなければ、自分から一緒に出掛けてほしいなどとお願いはしないものだ。
「上手くやっているみたいじゃない」
「どうだかな……」
ところがロウから漏れたのは、シオンの安堵とは真逆の反応だった。先ほどのような気恥ずかしさを隠すような物言いではない。
「どうかしたの?」
ロウの方も、そんな言い方になってしまった自分に驚いているようだった。慌てて手を振って何でもないと取り繕うが、いまさら言い逃れはできないと悟ったのか、リンウェルには言うなよと頭を掻いた。
「別に大した事じゃねーけどさ。あいつ、自分から誘っておいて遅刻してくるんだぜ? 寝坊したー、とか言ってよ」
明るい調子で話すロウではあるが、どこかに滲む寂しさはきっと気のせいではない。
「どうせまた本でも読んで夜更かししてんだろうなって」
自嘲気味とも取れるようなため息が、二人の間の石畳に落ちた。
約束を蔑ろにされているような気にもなるのだろう。自分の気持ちとの温度差を感じずにはいられないのかもしれない。だがおそらく真相は異なる、とシオンは思う。
「私も、時間に間に合わなくなりそうな時があるの」
シオンは前を向いたまま、そう口にした。視線の先にあるのは広場の大きな時計だった。
私たちの場合は待ち合わせじゃなくて家を出る時間になるけれど、と前置きをしたところでふっと表情が緩む。
「最後まで鏡でチェックしたくなるのよ。服装とか、髪型とか。もちろん、アルフェンを待たせてしまっているとはわかっているのだけど」
今朝もそうだった。ワンピースの襟元が歪んでいないか、髪飾りの位置がずれていないか、何度も鏡で確認した。
そこまで多くの服を持っているわけではない。髪飾りだって気に入ったものを数個使い回しているだけ。それでも今日の天気や気温に相応しくて、自分に一番似合っているものを身に着けたいと思う。隣を歩くアルフェンに少しでも良いと思ってもらえるように。
「女の子はね、大切な人と出掛けるならできるだけおしゃれしたいって思うものよ」
大切、という言葉にロウが反応を見せた。ロウの気持ちは、こうして時間よりもずっと先に待ち合わせ場所に着いていることが示している。
「で、でもよ、本人が寝坊したって言ってんだぜ」
「そんなの照れ隠しよ」
リンウェルのことだ、どんな服を着るかで小一時間迷ったなどとは言えないのだろう。特に相手がロウとなればなおさら。
「会えばわかるわ」
「……そんなもんか?」
「だったら今日、なんで私がアルフェンと出掛けるって分かったの?」
「それは……」
例え当てずっぽうだったとしても、身なりや表情から少なからず何かを感じ取っていたはずだ。そういった雰囲気に気づいていたのならきっと、リンウェルのそれにも気づけるだろう。
「リンウェルもきっとあなたに会うのを楽しみにしているはずよ」
「……あんまり期待はしないでおくぜ」
そう言いながらもロウの表情は先ほどよりもずっとやわらかい。その言葉尻からも悲壮感が消えた頃、シオンはふと駆けてくる靴音に気づいた。聞き慣れたそれに振り向けば、丁度アルフェンが額に汗を滲ませてやって来たところだった。
「シオン! 悪い、結構時間かかって……って、ロウ! 久しぶりだな!」
アルフェンは息が上がってしまっているのにも関わらず「元気してたか? 調子はどうだ?」なんて矢継ぎ早に話すものだから、ロウの方もおう、大丈夫だ、となどとしか返せずにいる。しばらくぶりの再会で話したいこともたくさんあるだろうが、きっとこのままだと長くなってしまいそうだ。これをリンウェルが見かけたらなんとなく入りづらい雰囲気かもしれない。
「ほら、アルフェン行きましょう。ロウも用事があるのよ」
シオンがアルフェンの腕を引っ張れば、思ったよりも容易く引き剥がすことができた。
「ロウは今度家に遊びに来て。そのときたくさん話しましょう」
その方が良いか、とアルフェンも納得したところでその場を後にする。二人でまたね、と手を振れば、ロウもまたあの人懐こい笑顔で手を上げたのだった。
アルフェンの腕に今度は自分の腕を絡ませて、シオンはふふ、と微笑む。
「なんだ、機嫌良さそうだな」
何かいいことでもあったのか? というアルフェンの言葉に、シオンは先ほどのことを思い出していた。
「待ち合わせって、いいわね」
遊びに行く友人さえいなかった自分は、待ち合わせなどしたこともない。〈荊〉が解けた後もアルフェンとはすぐに同じ屋根の下で暮らすようになったため、結局叶わずじまいだ。
「なんだ、じゃあ今度仕事終わりにレストランにでも……」
「いいのよ、そこまでしなくても。それに今日、待ち合わせみたいな気分を味わえたし」
アルフェンが現れるまでのもどかしさといったら。自分のこととはいえ、傍から見たらその落ち着きのなさに驚愕していたに違いない。
その分会えた時の喜びもひとしおだった。ロウには悪いことをしてしまったかもしれないが、自分だってアルフェンを待ち焦がれていたのだ。デートも久々ということでどうか許してもらいたい。
「あれ、リンウェルじゃないか?」
不意にそう口にしたアルフェンの視線の先にいたのは、確かにリンウェルだった。通りを真っ直ぐ駆けてくるその後ろには必死に小さな羽を羽ばたかせるフルルの姿もある。
「おーい、リ――」
「ちょっと待って!」
シオンは咄嗟にアルフェンの口を塞ぎ、その視界に入らないような位置に腕ごと引きずり込んだ。
「シ、シオン?」
「いいから」
リンウェルがこちらに気付かず通り過ぎていったところで、シオンはようやくアルフェンから手を離す。
「リンウェルとケンカでもしているのか?」
「そんなわけないでしょ。そうじゃなくて、リンウェルは今急いでいるんだから、呼び止めたら悪いと思って」
ロウにもね、と付け加えると、アルフェンもようやく事態を理解したようだった。
「なんだかんだ仲良くしているみたいだな」
「ええ、一安心よ」
時間でいえばとっくに遅刻しているのかもしれない。それでもあの服装を見れば、きっと自分の予想は外れてはいなかったのだとシオンは胸を撫で下ろす。
「あとは、もう少しお互い素直になれたらね」
後ろを振り返りたい気持ちをぐっとこらえて、シオンは再びアルフェンと通りを歩き出した。
終わり