「へっくし!」
今夜は冷える。冷えすぎて、目が覚めてしまった。
ついて出たくしゃみに鼻をすすりながら起き上がると、沈むような暗闇の向こうにオレンジの明かりが見えた。そこに誰かいるのか。焚火の火は就寝前にきちんと消したはずだ。
その答えはすぐに分かった。辺りを見回せば一つだけ空になった寝床がある。位置から察するにその主は、シオンだ。
「あら、ロウ」
起こしてしまったかしら、と視線を寄越したシオンは、焚火に木の枝をくべていた。燃え上がる炎の上には夕食で使った鍋が吊られている。
「いや、寒くて起きちまった」
「今夜は少し冷えるものね。私も夜食で身体を温めようとしていたところよ」
なるほど、シオンは身体を温めるのに夜食を食べるらしい。自分ならちょっと鍛錬したり身体を動かしたりするだろうが、そんな方法もあったのか。シオンらしいといえばそうだ。
「あなたも食べる?」
「いいのか?」
「ここで独り占めするほど強欲じゃないわ」
椀に一杯のそれを受け取ると、手のひらからじんわりと熱が伝っていく。湯気からほのかに香るのは、ほんのひとつまみ加えたスパイスだ。こうすると味が引き締まる、ような気がする。
「今日の夕食はロウが担当したのよね」
「おう、肉がねーからただの野菜スープになっちまったけど」
分量を大幅に間違えてキサラに叱られたが、その後シオンと何か話をしていたのは知っている。おそらく自分が夜食にするから問題ないとでも申し出ていたのだろう。それをフォローと呼ぶべきなのかは分からないが。
「私たちもジルファに野菜スープを習ったのよ。たしか、シスロディアに着いてすぐだったわ」
親父はその時、〈紅の鴉〉定番のメニューだと言って自らそれを振る舞ったらしい。シスロディアの寒空の下ではその温かさがやけに染みたとか。
「ロウのスープも美味しいわ。スパイスを入れるとこんなに香りが良くなるのね」
こんなふうに面と向かって褒められると照れくさい。あまり料理は得意ではない上に、目を細めたシオンの言葉に嘘がないと分かるからこそ、余計に。
ふと椀の中を見つめると、スープに泳ぐ野菜たちは形も大きさもバラバラだった。野菜を切るのにまだ慣れていないからだ。
いつか親父が作ってくれた料理の野菜も似たような形をしていた気がする。もしかしたらその頃は、今の俺と同じように包丁の扱いに慣れていない時だったのかもしれない。そんな親父がついこの間、誰かに料理を振る舞っていただなんて少し可笑しい気もする。
「シオンから見て、親父はどんなだった」
そういえばシオンにはこうして訊ねる機会が無かった。アルフェンやリンウェルからは聞くこともあったが、シオンの目には親父はどう映っていたのだろう。
「そうね」
一瞬だけ視線を宙に向けた後で、シオンは口元に緩く弧を描く。
「変わり者だと思ったわ。レナの私にも対話を求めてきて、初めは私を侮っているのかとも思ったけど、違ったのね。それがジルファのやり方で、当たり前のことだった」
「話ができる奴とはそうするってだけだろ。いちいち武器振るってちゃ身体が持たねえよ」
「そうだとしても、彼の私に向ける視線は他の人のそれとは違ったわ。憎しみだって当然あったはずなのに、それを表立って示そうとはしなかった」
言われてみれば親父はそういう人だったかもしれない。誰かへの恨みを他の誰かにぶつけるような事はしなかった。
「結局それがきっかけになったのだと思うわ。ダナ人にもこういう人間がいるんだって。それまでの私のダナに対する価値観を変えてくれたの」
「それはアルフェンも、だよな」
親父が入れたヒビに、アルフェンがとどめを刺した。それでシオンの中の壁が壊れて、今こうして笑って俺たちと話すようになった。
「そうね。でも、あなたもその一人でしょう?」
「俺?」
「あなたほど突飛な人は初めてよ。荷物に紛れて国を出るなんて、普通出来ないわ」
「……なんか馬鹿にしてねえ?」
ふふ、と笑ってシオンは真っ直ぐな視線を向けてくる。
「その無鉄砲さがシスロディアを解放したのよ」
「別に、俺は何も……」
それは結果としてそうなっただけで、自分が何かを果たしたとは思っていない。むしろやらかしたことの方が大きくて、俺があの時シスロディアに居たからガナベルトの奴を倒せたとか、そんなふうに考えたことなんて一度もなかった。
「たまたまだろ。別に俺でなくても、きっとこうなってたぜ」
「まったく、その卑屈さは一体誰に似たのかしらね。ジルファなら誉め言葉として受け取っておこうって、笑い飛ばしてるところよ」
卑屈、ジルファなら、と手痛い言葉を並べられてますます身が縮こまる思いだ。いまだ癒えない傷は自分の想像よりも深いものであったらしい。
そんな俺の様子に気づいたのか、シオンは柔らかく笑った後で、
「比べるのは良くないわね。ロウはロウなんだもの」
と言った。
「でも、もう少し胸を張りなさい。堂々としてる方がかっこいいわ」
ジルファやアルフェンみたいになりたいんでしょう? と言われてしまえば、もう逃げ道はない。
「背中を丸めて歩く息子の姿なんて、父親が見たいと思うかしら」
「ま、丸まってねえし」
つい反射的にそう口にして、臍の下、指三本分のところに力を込める。
「そう、その意気よ。そうやって背筋伸ばしていればいいの」
スープの残りを静かに飲み干して、シオンは満足そうに笑った。
「シオンさ、」
そんなシオンを見てふと思う。
「人を励ますの上手くなったんじゃね?」
「手近な練習台がいるおかげかしら」
助かるわね、と寄越した視線はなんとも得意げだ。
それにしても【手近な励ましの練習台】とは。こんな不名誉な称号を与えられてしまったことは、親父にはあまり知られたくない。
終わり