降水確率50%。今朝の天気予報でそんなことを言っていたなと、ロウは家を出るときになってようやく思い出した。ドアを押し開けると確かに暗い雲が空に覆いかぶさってはいたが、それに負けじと居場所を主張するように太陽が隙間から淡く光を覗かせている。外に出るなら雨粒が落ちてこない今のうちだと手早く鍵を掛け、ロウは古いアパートの階段を駆け下りた。待ち合わせまではあと15分、充分に余裕はある。
「早いじゃん」
ロウが時間よりも早く待ち合わせの改札前に現れたとき、リンウェルは既に到着していた。太い柱に背中をもたれ、気だるそうに端末をいじっていた。
「お前こそ」
「だって、雨降りそうだったから」
左手には紺の傘が握られており、先端でカツンと小さく音を立てる。それは昨年一緒に買いに行ったもので、空梅雨だったためにあまり差す機会がないとリンウェルが嘆いていたことを思い出した。傘なんて出番が少ない方が良いに決まっている、と思うのは自分だけだろうか。
ロウが「行くか」と歩き出せば、リンウェルも小さく返事をした。改札を離れ人もまばらになったところでリンウェルがようやくロウの隣に追いついた。久々にこうして一緒に過ごす休日の今日は、映画を観る約束をしている。
チケット売り場には何組かのグループが並んでいた。昼過ぎとはいえ休日で混みあうことも予想していたが、思っていたほど人は多くなかった。
リンウェルが観たいと言ったのは流行りの恋愛映画だった。当初は何の話題にもならなかったが、王道ながら泣けるストーリーや新人俳優らの自然な演技が口コミで知れ渡り、公開からひと月近く経った今でも人気を博している。友人たちに勧められたはいいものの、なかなか時間が取れずにいたから丁度良かったとリンウェルは言っていた。
席は空いているだろうかと電光掲示板を見上げた時、隣でリンウェルが「あ」と小さく呟くのが聞こえた。
「機材不良だって」
「まじかよ」
目線を追ってみれば13時からの回のところが赤いバツ印で中止と記されている。
次回はおそらく約3時間後、その次ともなれば夜遅い時間の回しかない。
「どうする?」
「うーん、このままじゃ暇だよね。時間的に都合のいいやつない?」
リンウェルと再び掲示板を眺めれば、先週公開されたSF映画は座席が空いているようだった。なんでも有名な監督の最新作らしく、話題に上がっているのは知っていたが評判はどうなのかは全く知らない。
「それくらいしかねえけど」
「いいんじゃない? SFも好きだよ。ロウは? いい?」
「俺はまあ、どっちでも」
自分はものすごく映画にこだわりがあるというわけでもないし、寧ろ恋愛モノよりはそっちのほうが興味はある。他に時間を潰せるものも思い当たらず、このまま解散というわけにもいかないので、大人しく代替案に乗っかることにした。
ところが映画はなんだか拍子抜けだった。ストーリーこそ分かりやすくて痛快なものではあったが、我の強い主人公になかなか感情移入できず、ことごとく振り回される親友には同情した。予算を掛けた爆破シーンは良かったが、映画にそこまで詳しくない自分でも安っぽいと思ってしまうほどのCGには正直がっかりさえした。それでも完全なる駄作とも言えず、気のせいかもしれないが後ろの方からは鼻をすする音さえ聞こえたので、ロウはなんとも言えない気持ちのままシアターを出ることになった。
「あー、お腹空いたなぁ」
リンウェルの言葉に時計を確認すると、時間は15時を回りそうな頃でおやつ時と言えばそうだ。だがリンウェルに限ってはそうではないとロウは知っている。
「お前、さてはまた昼飯抜いたな」
「えへへ……時間なくて」
リンウェルは食事を摂り忘れることに関しては常習犯だった。理由として読書や趣味に没頭しているからと言うが、生理的欲求を無視してまですることなのだろうか。せめて腹に何か入れろとロウは口を酸っぱくして言い聞かせてきたが、いまだに治る気配はない。
「だって、映画の後にカフェに行くって言ってたじゃん」
「だからって飯抜いて来いとは言ってねえよ。大体映画中は? 腹空かなかったのかよ」
「ポップコーン食べようと思ってたんだけど」
急遽観る映画が変わり、その結果時間ギリギリになって買えなかったというわけか。そこに気付かず飲みものすら買ってやれなかったのは、ある意味こちらにも非があるように思える。
「大丈夫、空腹には慣れてるから」
そんなものに慣れるなと言いたいところだが、どうせ聞かないのだろう。取り急ぎコンビニに寄ろうかとも思ったが、次の行き先はここからなら数分で着く。
駅近くの小洒落たカフェには、これまで二人で何度も通っていた。細い路地を抜けた先にあるせいか、訪ねるときはいつも席が空いていて、経営状況が心配になることもあるが、「スタッフ募集!」のポスターが扉にあるうちはまだ大丈夫だろうと安心している。
ところが今日は見慣れないチラシが貼ってあった。
『店長不在のため臨時休業』
「まじかよ……」
心の中だけでは到底抑えきれない声が漏れたところで、リンウェルからも「そんなあー」と落胆の声が聞こえてきた。
臨時休業なんて聞いていない。いや、だからこそ臨時休業なのだが、よりによって初めて遭遇する臨時休業が今日このタイミングだなんて思いもしなかった。今までの実績があっただけに、他の候補なんて考えてもいなかった。
どうする。自分はともかく、昼食を抜いたリンウェルは空腹で今にも限界を迎えようとしている。
焦るあまり端末で検索するなんてことも頭からすっぽり抜けてしまっていたが、ふとロウは先ほどここへ来る前に通りでカフェを一軒見かけたことを思い出した。外観どころか店の名前も覚えてはいなかったが、外に出ていた黒板のメニュー表を見て、こんなところにもカフェがあるんだなあとぼんやり思ったことを思い出したのだ。
「なあ、行ったことない店だけど、そこでもいいか?」
「え? うん、いいよ」
唐突な提案ではあったがリンウェルも他に選択肢もないからか、すぐに頷いた。
それならばとロウが今来た道を戻ろうとしたとき、鼻先にぽつりと何かが当たる感覚がする。
「……降ってきた!」
リンウェルの声にロウが反応するよりもずっと早く、次々に空から降り注ぐ雨粒はあっという間にTシャツを濡らし始めた。その冷たさに急かされるようにロウは身に着けていた鞄をこじ開けると、折りたたみの傘を取り出した。就職活動用にと最近購入した真っ黒い地味な傘だ。
「少し急ぐぞ!」
歩幅を大きくしてリンウェルの前へと出ると、路地の道幅は黒い傘で一杯になった。幸い他に人はおらず、誰ともすれ違うことはなかったが、急いだおかげでスニーカーには泥が飛んだ。
路地を抜けて通りに出ると、遮るものも少ないからか、先ほどはあまり感じなかった横風に髪がなびいた。
駅へ戻る方向に体を向ければ今度は向かい風になる。
このとき、リンウェルの空腹とこの雨からの脱却しかロウの頭にはなく、少しでも急ごうと傘を少し前に傾けたのが良くなかった。
急に吹いた逆方向の風に煽られ、傘が吹き飛ばされそうになったのだ。反射的にハンドルを持つ手にぐっと力を入れれば、一瞬のうちに傘を支える骨組みはぽっきりと折れてしまった。
「うわっ」
「え、なに、どうしたの」
途端に支えを失った傘は原型を留めていられず暴れだす。咄嗟にロウはそれを無理やり閉じ込み、元の小袋に収められていた形へとなんとか収束させた。
「え、壊れたの? 大丈夫?」
傘は大丈夫ではなかったが今はそれどころではない。
ふと顔を上げると、遠くに先ほど見かけたあの黒板のメニュー表が見えた。
「あそこだ。走るぞ!」
靴だけでなくボトムスの裾を濡らしてまで辿り着いた喫茶店は、いわゆるレトロな店だった。メニューを見てみるとコーヒーの種類が豊富で、店内からも豆のいい香りがする。
「あっ、パフェある! パフェにしよっと!」
はしゃぐリンウェルにはフルーツパフェ、自分用にブレンドコーヒーを注文すると、一気にロウの体の力が抜けた。
やや古びた革のソファに体重を預け、深く息を吐く。足元にはついさっき壊れた折りたたみ傘が床に寝そべるように転がっていたが、立たせる気にもならなかった。
今日が最後になるはずだった。
付き合ってもうすぐ2年。空くことがないと思っていた二人の間にも、いつしか冷たい隙間風は吹きはじめた。
倦怠期だのすれちがいだの、それらしい理由を挙げればキリがない。就職活動で忙しいからと会う機会を減らせば、その答えに辿り着くことも難しくなっていった。
一緒にいる意味を見出せないとようやく結論を出したのは先週末のことだ。特に強く言い争うでもなく、自分たちは別れを決めた。お互いに悪いところはあったかもしれないが、それを敢えて責めることもなかった。一番悪かったのは強いて言えばタイミングだったのかもしれない。
最後に映画でも見て、一緒に食事でもするかと提案したのは自分の方からだった。別れるからといって他人になるつもりは毛頭なく、いい友人として関係を続けていきたいと思ってのことだった。二つ返事で了承したリンウェルもきっと同じだったのだろう。
それなのに今日は何から何まで散々だった。予定していた映画とは異なるものを観る羽目になり、内容は微妙。二人で何度も通ったカフェは今日に限って休みときた。これまで堪えていた雨がとうとう降り出し、ついには新調した傘も壊れた。
この先何度も今日の日のことを思い出すのだろうか。
映画館に行く度に、雨が降る度に、傘を差す度に、別れたあの日は酷い目に遭ったなと、思い出し続けるのだろうか。
「こちらブレンドコーヒーと、フルーツパフェになります」
大きいため息を吐く代わりに、ロウは運ばれてきたカップに口を付けた。口の中にコーヒーをすこし含ませてからゆっくり飲み込むと、荒立った気持ちもやや落ち着きを取り戻せたような錯覚に陥る。
一方で、向かいに座るリンウェルは、大きなフルーツパフェを上から”攻略”し始めていた。大きくカットされたフルーツをせっせとスプーンで掻き分けながら、アイスと生クリームでできた城塞へと潜り込む。退けられたフルーツたちは今一度その白い城壁に取り込まれ、絡められ、次々にリンウェルの口へと運ばれていった。あっという間に陥落していく様はそれはもう、見事なほどだ。
「おいしー!」
顔が緩む、とはまた違う。満面の笑みを「花が開く」なんて表現した人は、きっとこんな表情を見て思いついたのだろうなとロウは思った。
その花が今、自分の手を離れようとしている。
そう思うと、いつの間にか勝手に口が動いていた。
「なあ」
「うん? なに?」
「別れるって言ったけどよ、あれ、やっぱやめねえか」
リンウェルのスプーンを持つ手が止まる。詰まることなくすらすらと紡がれた言葉には、リンウェル同様、自分でもかなり驚いていた。
「いや、今日はその、最後のつもりで来たんだけどよ。映画もさっきの店も、予定通りにいかねえし。傘も壊れちまうし」
「うん」
「本当なら、最悪だなって疲れるとこなんだけど。お前がパフェ食ってんの見て、全部どうでもよくなった」
取り繕う余裕なんてない、それでもこれが今の正直な気持ちだった。
「あの時の俺も、お前のその顔が見たくて、付き合って欲しいって言ったんだよな」
リンウェルはアイスクリームやパフェが何よりも好きだ。アルバイト先のレストランにて、客として現れてはパフェをオーダーしていたことを思い出す。シフト外に、しかも一人きりで。後から聞けば「バイト価格で食べられるから」という理由で働いていたらしいが、それが二人の出会いになるのだから全く人生とはわからない。
交際が始まってからも変わらず、リンウェルはカフェでもファミレスでも、パフェやアイスクリームをよく頼んだ。何度同じものを注文したってそのたびに表情を輝かせるものだから、よくもまあ飽きないなと笑ったものだった。それがそっくりそのまま自分に刺さる言葉であるとは、今になって気づいたが。
「どんだけツイてなくても、お前といればまあいいかって気持ちになる」
「きっと、お前じゃなきゃそうはならないんだろうなって」
これはただの直感めいた予感で、それでいて確信だ。少なくとも、今の自分にとっては。
「俺は、そう思ってる」
一瞬流れた沈黙は、ロウを現実へと引き戻した。
自分勝手なことを言った自覚はあった。今更何を言っているのと言われても仕方ない。
だが口にした言葉に嘘も後悔もない。例えこの先の友情を途絶えさせてしまったのだとしても、言っておかなければならないと、そう思った。
とはいえ、今リンウェルの表情を確認するのは些か勇気のいることだった。苦し紛れにカップに手を伸ばし、ロウは冷めきった中身を飲み干してみても残念ながらその味はよくわからない。
ロウが視線をテーブルの上に置いたとき、リンウェルの手が動いたのが見えた。
「今日観る予定だった映画、あれの結末知ってる?」
そんなことを口にしながらリンウェルはスプーンを手に取ると、再び城への侵攻を開始する。
「あれ悲恋モノだよ、多分。お互いに好きだけど、色々あって結局別れることになっちゃうの」
フライヤーの煽り文句とか主題歌で察しちゃった、なんて言いながらリンウェルは容器の底をスプーンで突いていた。生クリームと混ぜ合わさったコーンフレークを順調に口に運んでは小気味いい音を漏らしている。
「観ないで良かったかも。観てたら、好きなまま別れちゃうときもあるよねって、納得してたかもしれないし」
――納得、とは。
ほんの一瞬浮かんだ都合のいい未来にリンウェルが小さく笑った気がして、ロウはそこで初めてリンウェルの顔を見ることができた。
「とりあえず、今日はロウの家に行こうかな」
そう言ってリンウェルが見せた笑顔で返事は充分だった。
二人が店を出てもまだ雨は降り続いていた。
「はい」
リンウェルの傘を受け取って左手に持つと、右手にリンウェルの手が重なる。ほんの少し肩がはみ出て、雨が当たるのも今は気にならなかった。ただ、駅まで徒歩5分のアパートがほんの少しだけ、恨めしかった。
終わり