アラームが鳴る音で目が覚めた。感じた冷気に反射的に布団を頭まで引っ張り上げる。
ぼやけた視界に無理矢理端末の画面を映せばスヌーズと停止の二択を迫られていて、ロウは仕方なく停止の方に指をやった。アラームの画面を閉じても着信の知らせはない。メッセージが届いている様子もない。
「もういいよ」と言ってリンウェルがこの部屋を出て行ってから今日で四度目の日曜日になる。また カンシャクを起こしただけだろうと思ってロウはその背中を追いかけもしなかった。それ以来リンウェルはこの部屋どころかロウの目の前に姿を見せることもしなくなった。ロウからメッセージを送ったのは一度だけで、既読も付かないまま今に至る。
あっけないものだ。何年も一緒にいたのに、この世界から消えたのはほんの一瞬だった。
何の予定も入っていないのにロウがこんな時間にアラームを設定したのはせめてもの抵抗だった。お前がいなくなっても俺は塞ぎこんだりしないし、生活リズムを崩したりもしない。何一つ変わってやしないんだぞと主張するため、この不毛な早起きを続けているというわけだ。
寝起きのねばついた口内を流すためロウは洗面台に向かう。コップに刺さったままの二本の歯ブラシは、色違いのデザインでリンウェルと買ったものだ。色も形も同じものを買わないとカップルはうまくいかないらしいとリンウェルから聞いた。あの時は確か笑い話にするはずだったのになとロウは一人苦笑する。口に含んだ水を吐き出せばそんな思い出も一緒に流れていくような気がした。
付き合ったばかりの頃は、日曜日は毎回どこかに遊びに出かけていた。待ち合わせの場所に先についているのはいつもロウの方で、向こうの方から小走りでやってくるリンウェルを迎えるのが二人のデートのお決まりだった。それも慣れてくるといつしかロウの方が遅れるようになって、そのうち自分の住むワンルームの部屋にリンウェルを呼ぶようになった。金曜の夜から日曜まで過ごせば一緒にいられる時間も長く取れるし、どこかに行く手間もお金も掛からない。外出しようよと誘うリンウェルに「仕事で疲れたから」と便利な言葉を持ち出して自分勝手に振る舞って、かいがいしく世話を焼くリンウェルの姿に将来を描いていたのはロウの方だけだった。
冷蔵庫を開けると簡単に食べられそうなものはない。仕方ないかとカップ麺を取り出してきて、ロウはケトルにお湯を沸かす。朝からこんなものを食べても怒られないのはやっぱり一人だからだろう。
ロウが麺をすするテーブルは就職してここに住むときに、リサイクル品を扱う店で適当に買ったものだ。一人で食事をするだけなら何の問題もないだろうと思って買ったのに、リンウェルと出会ったばかりに急に窮屈な空間になってしまった。
リンウェルが作る料理はどれも自分好みで美味しくて、いつだってロウは全部きれいに平らげた。それに気をよくしたのかリンウェルが品数を増やしていくからロウはいつも満腹で、体重が増えたのもその時期だ。胃袋を掴んだのはリンウェルの方だったのに、まさか手放されるとは思わなかった。その感触を覚えたままのこの胃袋をどう慰めてやればいいのかロウにはまだわからない。
これだけリンウェルに会わないでいるのは初めてのことで、一人になるとつい考え事ばかりしてしまっている。当然その内容は自分の愚かさとか反省すべき点で、考えれば考えるほどリンウェルが離れていった理由しか見当たらない。だがそれはどれも小さなことで、決定打とも言うべきものはロウにはなかなか思い付かなかった。もしその小さなことが積み重なった結果があの日のリンウェルの行動で、それが今日この日に繋がっているとしたらもうそれは取り返しがつかないなとロウは思った。数年に及んで積み上げられたものは同じく数年を掛けて取り除くしか無いのだろう。今自分にはそのチャンスが与えられていない。もう姿を見ることも叶わなくなってしまっているのだから。
ロウが端末の画面を覗き込むと時刻は午前八時をさしたばかりだった。
メッセージの新着はないかと流れるようにアプリを開くが、過去に送った文言にもやはりまだ既読はついていない。何の気なしに昔のやり取りをさかのぼってみると、かなり頻繁にメッセージを送り合っていたのだなと気づいた。長文は少なくても、朝の「おはよう」だとか夜の「おやすみ」はほぼ毎日お互いが送っている。それがない日は、その日付から察するに一緒に過ごしていた週末だなとロウは思った。
ふとスクロールする指が止まる。ロウの目に留まったのはリンウェルが旅行先で撮った写真のアルバムだった。こっちからも見られるようにとアップロードしてくれていたらしい。
それを開くとずらりと画像が並んでいて、いつの間にこんな写真を撮っていたのかとロウは驚いた。
ほとんどが青空の下に輝く海の写真だったが、一枚だけ二人が写ったものがあった。折角来たんだから一枚くらい、とリンウェルが精一杯手を伸ばしながら震える指でボタンを押したのをロウも覚えている。自分で撮ったにしてはなかなかうまくいったとリンウェルが自画自賛したその写真には満面の笑みのリンウェルと、小さくピースサインをした自分が写っていた。
こんな表情もしていたのかと懐かしくなるくらい、リンウェルの笑顔を見ていなかったんだとロウは気づいた。だからといっていつも怒らせたり泣かせていたりしていたわけでもないが、リンウェルがこの部屋で見せていたのは心からの笑顔ではなかったのかもしれないと思えるほど、その写真の中のリンウェルは輝いていた。
やっぱりかわいいな、と声に出してみたところでそこには誰もいない。
冷めきったカップ麺のスープには白い油が浮き始めていた。
終わり