学パロ。反抗期のロウが衝動で煙草に手を出す話。未成年の喫煙表現があります。ロウリン要素はほんのり。(約5,700字)

薄雲

 ふうっと吐き出した煙は、空にかかる薄雲みたいだった。
 目にははっきり映って見えるのに、実際は触れることもできなければ、雨を降らすわけでもない曖昧な存在。視界を遮るほど厚く見えても、気が付けば風に流されるまま、いつの間にか姿を消してしまっているところなどがよく似ていた。
 今夜の煙は一段と濃い、ような気がした。というのも、俺はまだその違いがわかるほど経験がない。まだ中身を数本減らしただけで、上手く煙を吐き出せるようになったのだってつい先日のことだからだ。
 まさかこれに手を出す日が来るなんて。手の中にある煙草の箱を見つめてみる。買ってからさほど経っていないはずなのに、そのパッケージはもう随分と汚れて見えた。
 何かきっかけがあったわけじゃない。しいて言うなら、ただ吸ってみたかっただけだ。
 ここのところ苛々していたというのもあるだろう。親に当たり散らすだけでは物足りず、家を飛び出した先のコンビニでたまたま視界に入ったそれに目を付けた。
 いつか見た映画かドラマだかの見よう見まねで火を点けたはいいものの、最初はひどくむせた。舌もびりびりするわで、世間の大人たちはどうしてこんなものを吸うのだろうと思った。
 数本吸った今でも美味いとは到底思えない。むしろ不味くて、飯もなんだか味が変わって、良いことなんか1つもなかった。
 それなのに、なんで俺はこれを止められないんだろう。止めようと思っていないんだろう。家から徒歩10分もかかる公園に通ってまで、わざわざこんな美味くもないものを吸っているんだろう。
 見つかればただでは済まされない。親にも、学校にも。
 もし親父に見つかったら、拳が飛んでくるんだろうな。顔も体もぼっこぼこにされて、それこそしばらく学校に出られなくなるかもしれない。教室ではあらぬ噂が流れて、担任から連絡が来て、将来をどうのこうの言われて――。
 ったく、めんどくせえなあ。なんでこう、ただ生きてるってだけでこんなめんどくさいんだろう。
 そんなことを思いながら、今夜もこの公園を訪れたのだった。使い道のない土地を埋めるように作られたそこには、塗装の剥がれたブランコと小さい砂場があるだけ。あとはフェンスに添うようにして置かれたベンチが1つと、役所の人間が間違えたのだろうか、ここの規模には到底見合わない大きさのゴミ箱が入口のところに置かれていた。
 俺は中に入るといつものようにベンチに腰掛け、煙草の先端に火を点けた。確かに味は美味くないが、吐き出した煙が宙を舞うのを見ていると不思議と気持ちが落ち着いた。理由もない苛立ちとか、漠然とした不安感とか、そういうものが煙と一緒くたになって空に消えていくような気がした。
 散った煙の合間からは星が覗いていた。月も一見するとまん丸のように思えたが、僅かに歪んでいるところを見ると満月というわけではないのだろう。もしそうだったら思い切り煙を吐きかけてやったのに。そんなふうに子供じみた考えをしてしまう自分が馬鹿馬鹿しくて、ふっと笑いがこみ上げた。
 と、その時だった。
「あれ、もしかしてロウ?」
 突然かけられた言葉に驚いて振り向くと、入り口のところにリンウェルが立っていた。
「げっ……!」
「どうしたの、こんなところで」
 俺は慌てて火を消そうとしたが、時すでに遅し。リンウェルの目線は俺の手元に注がれていた。
「それ、煙草?」
「あー、えっと……」
 言葉を濁しながら、ああ終わった、と思った。真っ先に思い浮かんだのは、親父にチクられる、ということだった。
 リンウェルは幼い頃からの幼馴染だ。家族ぐるみで付き合いがあり、親父とだって面識どころか互いの連絡先まで知っている間柄だった。信用度で言えば息子の俺なんかよりリンウェルの方がはるかに高い。それはもう富士山とそこの砂場で作った山くらい違う。
 俺が何を言い訳したところで許されるわけがなかった。それがリンウェルの目撃による現行犯であるなら、なおさら。
「いやまあ、その、これにはちょっと訳があって……」
 もはや処刑台送りは決まったも同然なのに、この期に及んでまだ言い訳を考えようとしている自分が滑稽だった。今さら何をどう申し開きするつもりなのだ。『未成年が煙草を吸った』という事実は何ひとつとして揺らぎようがないのに。
「訳って?」
「えっと、それは……」
「何よ、何にも考えてないんじゃない」
 くすくす笑ったと思うと、リンウェルは鞄を開けて何かを取り出した。
 まさか端末か。この場で早速知らせるつもりなのか。思わずたじろいだが、よく見るとそれはコンビニで買ったと思わしき菓子だった。
 リンウェルは入り口のフェンスに背を持たれると、菓子の封を破ってその場で食べ始めた。ぽりぽりと小気味よい音が夜の静寂を噛み砕くように聞こえてくる。
「あ、ごめん。塾帰りでちょっとお腹すいちゃって」
 リンウェルはごく呑気な様子でそんなことを言ったが、もしかしてこれは自分に与えられた最後の猶予期間なのだろうか。これを食べ終える前にきちんとした言い訳を考えてみせろ、そういうことか。手元で徐々に縮まっていくわずか10cmにも満たない煙草の白筒が、俺の人生に結わえ付けられた爆弾の導火線のようにも思えた。
 だがそんな考えはまるきり的外れだった。リンウェルは菓子を食べている時も食べ終わった後も、特に何かに言及してくるということはなかった。
 むしろその沈黙が痛いほどだ。リンウェルが近くの自動販売機で買った飲み物に口を付け始めた時、俺はとうとう我慢ならなくなった。
「何も、言わねえのかよ」
 自分でも拗ねたような声だなと思って気恥ずかしくなる。
「言うって、それのこと?」
 リンウェルが俺の手元に視線を落とし、小さく顎をしゃくった。
「すげえ罵られるかと思ったけど」
「別に、そこまでしないよ」
 まあ、体には悪いよとは思うけどね。リンウェルはそう言ってまた一口、ジュースの缶に口を付けた。
「でも、そんなふうに言うってことは、ロウだって悪いことだってわかってるんでしょ? 悪いと思っててするなんて、きっとそれなりの理由があると思うんだけど」
「別に、理由なんか……」
「そう思い込んでるだけじゃない? もしくは理由がないことが理由」
 リンウェルの言うことは難しくて、俺にはよくわからなかった。ただ、リンウェルは俺が煙草を吸っていたことに関して、怒っても悲しんでもいないようだった。
「この年になるといろいろ面倒が続くよね。人間関係とか将来のこととか。私もたまに、そういうことあるよ」
「えっ、お前も吸いたくなんのか」
「ならないよ。ロウと一緒にしないで」
 あからさまに不機嫌な顔をしてリンウェルがむくれた。
「私の場合は、もう嫌だ! って叫びたくなるかな。主に学校とか塾で」
 意外だった。リンウェルは街で見かける時も友達と楽しそうに笑っていたし、辛いことなど何もないように見えた。
「失礼しちゃうなあ。私だっていつもそれなりに悩んでるんだから」
「そんなこと言ったってお前頭いいし、学校も仕事も選び放題だろ」
「何もしないでそれが保たれてるとでも思ってるの? ちょっとでもサボってみてよ。私の成績なんかすぐコロコローって落ちてっちゃうんだから」
 はああ、めんどくさい、とリンウェルは息を吐いた。
「だからね、たまに悪いことでもしないとやってられないなあって思うことはあるよ」
「悪いことって?」
「買い食いしたり、間食したり。頭使うとお腹すくんだよね。でもほら、家で食べると見つかっちゃうじゃない?」
 だから証拠隠滅。リンウェルは悪戯っぽく笑って、今食べた菓子の袋とジュースの缶を公園のゴミ箱に捨てた。
「ロウのことも黙っててあげるから、私のこれも黙っててよね。それでおあいこ」
「けど……」
「何か文句あるの? それともバラしてほしい?」
「そうじゃねえけど……」
 喫煙と買い食いでは明らかに釣り合わないだろう。そんな俺の意見は、不敵に微笑んだリンウェルにはとても受け入れられそうになかった。
 その日はそれで解散となったが、その後も俺たちはその公園でよく顔を合わせた。俺が家を飛び出す日と、リンウェルが塾に行く日が偶然にもよく重なったのだ。
 リンウェルは公園のベンチで煙草をふかす俺を見て「また吸ってる」などと呆れ半分に笑っていたが、結局愚痴を垂れ流すのはリンウェルも同じで、受験がどうのとか、塾の先生がどうのとか零しては、コンビニで買った菓子を頬張っていた。
 俺はといえば紫煙を燻らせつつ、リンウェルのよくわからない話をわからないなりに耳を傾けていた。リンウェルの話を聞いていると自分がどれだけ将来のことを考えていないか身につまされる思いだったが、その一方でどこか諦めにも似た感情が生まれた。リンウェルほど優秀であっても悩むのだから、人間というのは生きているうちは始終悩みが尽きないものなのかもしれない。だったら1つの悩みを深く考えることよりも、あまり気にせずに楽観的に生きた方が得なんじゃないか。
「それができたら苦労しないよ」
 俺の考えに、リンウェルはそんなふうに言った。
「けど、悩むのも悪いことばかりじゃないと思うんだよね」
「そうか? 時間無駄にしてる気がして、すげえ嫌なんだけど」
「だってすぐに出した答えより、悩んで出した答えの方が大事にできそうな気がしない? テストに適当に書いた答えより、悩んで書いた答えの方が合ってたら嬉しいじゃない」
 リンウェルらしい考えだなと思った。でも、じゃあ俺は、いつかそんなふうに思えるようになるだろうか。
 この胸のもやもやはいまだ消えない。何から生まれて、どうして消えないのかもわからないこれを、悩んで良かったなどと思える日がやって来るのだろうか。
「きっと来るよ。それに感謝する日も来るかもね」
 吸殻を灰皿に突っ込んだ俺に、リンウェルは「じゃあ帰ろっか」と声を掛けた。俺はベンチから立ち上がると、うるさいほどの星空の下、リンウェルを家まで送った。
 終わりは気が抜けるほどあっけなかった。箱の中身が半分ほど減った時だった。
 俺はいつものように公園のベンチに腰掛けながら、煙草をふかしていた。リンウェルも毎度のごとく菓子を鞄から取り出し、満足そうな表情を浮かべてそれにかじりついていた。
「そういやさ」
 俺はふと気付いたことをリンウェルに訊ねてみた。
「お前、なんでそっちにいるんだ?」
 リンウェルが口を動かしながら、きょとんとした顔を持ち上げる。
「中まで入ってくりゃいいだろ。他に誰もいねえんだし」
 リンウェルはいつもそうだった。公園まで訪れても、決して中には入ってこようとしない。愚痴を言うのも菓子を食べるのも入り口付近で、敷地内に入ってくるのはせいぜいゴミをゴミ箱に捨てる時だけだった。
「なんなら隣来るか? 別に、汚れてないぜ」
 そう言って座る位置をずらそうとした時、
「えっ、嫌だよ」
 とリンウェルは言った。
「えっ」
「当たり前でしょ。だってニオイ移るじゃん」
 俺はその日、公園を出る際に煙草の箱を残りの中身ごと捨てた。
 リンウェルは「え、なんで捨てたの?」「どうしたの急に」などと焦っていたが、俺は笑って「もう満足した」と答えた。咄嗟に出た言葉ではあったが、あながち嘘でもなかった。
 そもそも、こんなものに頼っていたのが間違いだったのだ。この心のもやもやは煙として吐き出せるものでもなければ、すっとどこかに飛んでいくものでもなかった。解決するにはそれ相応の時間と、己と向き合う勇気が必要なのだ。こんな、何も考えないまま公園でだらだらと過ごしてすっきりするようなものではなかった。
 それに――。
「大丈夫? なんか怒ってる?」
 近くで話もできないんじゃ、また違うもやもやが生まれそうだ。
 心配そうにこちらを覗き込んでくるリンウェルに、俺は首を振って言った。
「大丈夫だ、怒ってねえよ。言ったろ、満足したって」
「でも……」
「なんだよ。体に悪いんじゃなかったのか」
 俺がそう言うと、リンウェルは「ロウがいいならいいんだけど」と引き下がった。不意に腕に鞄が当たって、それほどの距離にリンウェルがいることに俺は強烈な安堵を覚えた。
 リンウェルを送った後、自宅の玄関を開けるのには何故か少し緊張した。鍵はかかっておらず、俺が家を出た時のままのようだった。
「ただいまー……」
「おう」
 居間からそっけない声が聞こえて、俺はそのまま廊下を素通りしようとした。が、その時、
「おい」
 突然かかった声に、俺は肩をぶるっと震わせた。
「な、なんだよ」
 何を言われるかと咄嗟に身構えたが、親父が発したのは意外な言葉だった。
「リンウェルを、塾の帰りに家まで送ってやってるらしいな」
「……え? あ、いや、まあ……」
「最近物騒だから助かるって、親御さんから礼を言われたぞ。お前にしては気が利くじゃないか」
「お、おう……」
 話はそれで途切れ、俺は自室へと戻った。扉を閉め、今朝から乱れっぱなしのベッドに寝転がる。
 天井を見上げながら、なんだか不思議な気持ちが胸の中に広がっていくのを感じていた。きっと少し前なら親父にあんなことを言われても口汚い返事を吐いていただろう。鬱屈した気分を発散させる方法を他に知らず、手当たり次第撒き散らしてばかりいたのに。
 今は、胸のもやもやが少し薄まったような気がしていた。明日目覚めた時にはすっかり晴れていそうな、そんな予感さえする。
 所詮自分の悩みなどその程度のことだったのだ。いつの間にかやってきて、いつの間にかいなくなる。まるで空にかかった薄雲みたいなやつ。
 でも、悩んだのは無駄じゃなかった、はずだ。少なくとも今はそう思う。公園に居た時間も、少し害されたであろう俺の健康も、多少は役に立ったに違いない。
 ならいいか。生きているうちは面倒ごとが続くだろうが、それも生きるということ。たまにやりきれなくなった時は、ちょっと悪いことでもしてやり過ごすとしよう。今度は煙草なんかじゃなく、リンウェルと一緒にコンビニで好き放題買い食いでもしてみようと思った。
 考えているうち、俺はいつの間にか眠りに落ちていたらしい。照明を落とした覚えはなかったが、朝になってきちんと消えていたのは、果たして俺の思い違いだっただろうか。

 終わり