濃紺の空は澄み渡っていて、星がいつもより輝いて見えた。
塾からの帰り道でのことだ。1本路地に入って街灯が少なくなったところでそれに気が付いた。手を伸ばせば届きそう、なんて言葉は今夜のためにあるのかもしれないな、などとひとり夜道を歩きながらぼんやり思った。
ふとコートのポケットから端末を取り出し、開いたのはメッセージの送信画面だった。
〈星がきれいだよ〉
そう打ち出してボタンを押そうとしたところで〈22:17〉という数字が目に入る。――ちょっと、遅いかな。
一瞬の躊躇は迷いに変わり、私は結局そのメッセージを送信しないまま端末を再びポケットにしまった。代わりにさっきコンビニで買ったホットココアの缶を開け口を付ける。甘くてあったかい、ほっとする味だ。
何を今さら、と思う。何を今さら、ためらうことがあるのだろう。
私とロウは付き合っている。つい先月から、私はロウの彼女になった。
告白してきたのはロウの方からだった。たまたま帰宅時間が重なった日に、一緒に歩いている途中でロウが突然そんなようなことを言うものだから私はひどく驚いた。
とはいえ、別に嫌だったわけではない。むしろその逆だ。その場ですぐさま頷く程度には、私も同じ想いを募らせていた。
同じ高校に通うロウとは頻繁に顔も合わせるし会話もする。今のところ大きなケンカなどもしていないし、相手に対して何か不満があるわけでもない。
そもそも私たちは幼い頃から互いのことをよく知る幼馴染なのだ。家も近所で部屋の家具の配置まで知り尽くしているどころか、家族ぐるみでの付き合いが続いている間柄で、何を今さら遠慮することがあるだろう。
――遠慮。意味合いとしては少し違う気もするが、言葉で表そうとするとどうしてもそうなってしまう。
ロウと付き合いだしてから、私はどうしてか行動をためらうことが多くなった。それはロウへのメッセージだったり電話だったり、あるいは些細な質問だったりと様々だ。
例えばロウに電話を掛けようとして、ボタンを押すのを躊躇してしまう。今はバイト中かな、もしくは帰り道の途中かも、なんて理由を探して、結局は端末ごと閉じてしまうのだった。
そうする理由に心当たりはない。ロウが何かを言ったわけでもなければ、他の誰かに忠告されたわけでもなかった。ただ単に自分に迷いがあるだけ。さっきのメッセージのように、途中で消してしまったものがどれだけあったか。
ロウと付き合う前はこうではなかった。朝だろうと夜中だろうとお構いなしにメッセージを送りつけたり、買い物に行きたいなどと誘い出したりしていた。ロウはといえば寝ぼけながら返信を打ったのか誤字だらけのメッセージを送ってくることもあったし、あるいは朝になって「寝てた」などとぼやけた声で電話を寄越してくることもあった。
だからといって怒ったり、不機嫌になったりということは決してなかった。せいぜい隣でいつもより大きな欠伸を吐き出すだけで、特に気にしている様子も見せない。それなのに、今になってどうして。
はあと吐いた息が白く濁る。冬が迫るこの時期の空気に晒された指は、随分とかじかんでいた。それをココアの缶に押し当て、小さく鼻をすする。
首をすくめ、マフラーに口元を埋めた時、背後から白いライトが照らされた。
「あれ、リンウェル?」
キキッという自転車のブレーキ音がしたのと私が視線を持ち上げたのはほとんど同時で、そこには同じくマフラーに顔を埋めたロウが立っていた。
「何やってんだよ、お前。こんな時間に」
「何って、塾の帰りだよ。そっちこそどうしたの」
「俺はバイト。本当は明日だったんだけど、シフト代わってくれって頼まれちまってさ」
先輩からの依頼で急遽ヘルプに向かったところ、さらに閉店までいるよう頼まれてしまったらしい。
「こんな時間までかかると思ってなくて、上着も持ってこなかったんだよな」
寒い寒い、と言いながらロウは自転車を降り、それを押して歩き始めた。コンクリートの道路がチカチカと覚束ないライトに照らされる。
「お前の方はなんだってこんなに遅いんだよ。いつもこんな時間だったか?」
ロウの問いにはううんと首を振った。
「先週から。言ったでしょ、科目増やすから帰りの時間も遅くなるって」
高校生になってからの授業が格段に速く、難しくなったことを痛感した私は、両親に頼み込んでさらに塾の授業数を増やしてもらうことにした。成績が落ちているわけではなかったが、こういうのは早めに手を打っておいた方が良い。学生の本分は勉強なのだから、というのは本心でもあったが、塾で集中した分、休みの日には思い切り羽を伸ばせるというのも利点だと考えていた。
「そんな勉強ばっかして頭おかしくなんねえのか?」
「失礼なこと言わないでよね。ロウの方こそ、もっと真面目に勉強すべきなんじゃないの?」
「俺は進路決まってるからどうでもいいんだよ」
羨ましいような、そうでもないような気持ちを抱えながら、私はロウの隣を歩いた。手の中の缶は冷めていたが、最後の一口を飲み干すとお腹の中はじんわり温まった。
「それにしても、さっきまでバイト中だったんだね。やっぱりメッセージ送らなくてよかった」
「メッセージ? 何のことだ?」
首を傾げるロウに、私は先ほどの出来事を話した。
「塾出たら星がきれいだったから、ロウにそう送ろうとしたんだけど、寸前でやめたんだ。時間も気になったし、よく考えたらどうでもいいことだなって思って」
忙しかったならやっぱり送らなくてよかった、と私は言った。ロウも「なんだそんなことか」と言って笑い話にしてくれると思ったのに、
「なんでやめちまったんだよ」
ごく真剣な声で、ロウは言った。
「……え?」
「なんで送るのやめたんだよ。別にやめなくたっていいだろ。その場で見れなきゃ後で返すし」
「で、でも、別に大したことじゃないし」
「大したことじゃなくたっていいだろ。話題とか内容とか、そういうのは何でもいいんだよ。俺はお前とやり取りすんのが楽しいと思ってんだけど」
まるで拗ねた子供のような声でロウは言った。
「それになんだかもったいないだろ」
「もったいない?」
「せっかくお前が俺のこと考えてくれてんのに、それがわかんねえのはなんつーか、もどかしいっていうか」
みるみる言葉尻を小さくした後で、
「とにかく、今度からそういう遠慮はナシだからな! なんでもいいから送りたいときに送って来いよ。美味かったアイスでも駄菓子でも、ケーキの写真でも」
「可愛い猫ちゃんでも?」
「犬でも鳥でもいいぜ」
「うん、わかった」
私は大きく頷いた。「送りたい時は、遠慮しないで送るね」
おう、とロウも頷いた。
「へえ、ロウって私とメッセージのやり取りするの、好きなんだ」
「わ、悪いかよ」
「ううん。そうじゃなくて、ちょっと意外だなって」
てっきりロウは文章を書くのは面倒だとか、直接話した方が早いとか、そういうふうに思っているのだとばかり思いこんでいた。ロウの方から用事がある時は電話がかかってくることが多かったし、説明に時間がかかりそうなときは家まで直接訪ねてくることもあった。
「別に、嫌いってわけじゃないぜ。時と場合によるっつうか、ふと声が聞きたくなる時だってあんだろ」
「それで電話かけてくるの?」
「まあ、そういう時もある」
ロウのもごもごと口に何かを挟んだような口調には思わず笑った。今どんな顔をしているのだろう。星がくっきり見えるほどの暗さが、かえってロウの表情を隠してしまっているのが残念でならなかった。
「つーか、こんな時間に一人歩きとかやめろよな。迎えに来てもらえないなら俺に連絡しろよ」
「ええ……だってたったの10分くらいじゃん。もう子供じゃないんだし」
「子供じゃないから、だろ。そこんとこもっと自覚しろっての」
呆れたように息を吐くロウの横顔を、私は穴が見つめるほど見つめた。
「な、なんだよ」
「ロウってば、私のこと相当好きなんだね?」
「えっ、な、っ……」
ロウはあちこち視線泳がせ少し口ごもった後で、「悪いかよ」と呟いた。
私は「ううん」と首を振って、
「嬉しい。すっごく」と笑った。
「だって私も同じだから。ちゃんと両想いで嬉しい」
たぶんずっと前からそうだった。ロウが気付くより、自分で気付くより前からロウを想っていた。
だから気を引きたくて、メッセージを送りつけていたのだ。構って欲しくて、電話をかけていた。
でもあの日から、ロウの言葉に頷いた時から余計な理由はいらなくなった。会いたい時に「会いたい」、声が聞きたい時には「声が聞きたい」と言える関係になった。
それなのに自分は何か正しい言い分を探してばかりだった。理由なんかたったひとつで充分だったのに。
それに気が付いた途端、ふっと肩の力が抜けた気がした。同時に湧き上がるこの高揚感、無敵感。
無駄に遠慮して、行動を躊躇って、もしかしたらロウにはちょっと寂しい思いをさせたかも、なんて思ってみる。明日からはまたどうでもいいことでメッセージを送るようになるのだろう。『このお菓子美味しいよ』とか『可愛い猫見つけた!』とか。
その根本にあるもの。たったひとつ、それでいて決して揺らぐことのない自分の真ん中にあるもの。
「きっとロウが思ってるより、私はロウが好きだよ」
「へ、へえ……」
唐突な「好き」に驚いたのか、ロウはその後何の言葉も発さなかった。ただマフラーの中にすっぽり顔を埋め、無言で自転車を押し歩くだけ。
なあに、その態度。せっかく勇気を出して言ったのに。
内心むくれた私は、その口元を覆うマフラーの端をぐいと自分の方に引っ張った。そうしてロウがバランスを崩した隙を窺い、その頬に小さなキスをお見舞いする。
「えっ、ちょっ、おま、」
「うわ、ロウのほっぺた熱い! なんだ、やっぱり照れてたんだ?」
「べ、別にそういうわけじゃ……ってか今の!」
「今のは、親愛の証だよ。私からロウへの」
メッセージを送るより、電話を掛けるより強い親愛の証。これよりもっと強いのは、今後のお楽しみということで。
そんなふうに気取った私の頬も、自覚する程度には熱かった。さっき飲んだココアの缶より、唇で触れたロウの頬より、ずっとずっと熱いかもしれなかった。
終わり