押し迫る年の瀬にヴィスキントの街も慌ただしさを隠せない。
市場には朝から人が溢れ、売り子の威勢のいい声が響いているし、夜になってからも通りは騒がしいまま落ち着きを取り戻すことはなかった。
ここ数日はずっとそんな感じだ。どうやらヴィスキントに住んでいる人だけでなく、世界のあちこちから観光客が訪れているらしい。
宿屋もどこも部屋が埋まっているようで、連泊できているのは運がいいと店主から言われた。もちろん、今や顔馴染みとなった気のいい彼の厚意があることも重々承知している。
それも今日がピークだろう。あと数時間もすれば日付が変わる。この街は新しい年を迎えようとしている。
今夜の酒場は一段と人が多い。あらかじめ席を予約しておいて良かったとロウは心の底から思った。
とはいえ二つ確保したはずの席はまだ一つが空いている。指定した時間までもう少しだというのに、店内にその主の姿はいまだ無い。
カウンターの隅だとあまり目立ちはしないものの、空席があるのはなんとなく気が引けた。立ち見ならぬ立ち飲み客が出始めているこの時間帯ならばなおさらだ。
歓楽街の中にある飲み屋の中でも、ここはリンウェルと二人でよく訪れる場所だった。立地はそこまで良くはないが、何より入るのに気後れしない。店主も強面だが親切で、料理も美味い。
だからこそここを待ち合わせ場所として選んだわけだが、どうにも今日の騒がしさは今の自分の心持ちと釣り合わない。
いや逆か。落ち着かないこの気持ちを、周りの雰囲気にどうにかしてもらおうと目論んでいたはずが、逆に引っ張られてますます昂りそうになっているのだ。
落ち着け。冷静さを保て。
そう言い聞かせグラスを煽る。
残り半分ほどになったそれを傾け、氷の動向を探っていればなんとなく気が紛れる気がした。
やがて店に現れたリンウェルはこちらを見つけるなり手を上げた。ぱたぱたと駆けてくる姿は相変わらず少し危なっかしい。
「ごめん、ちょっと遅れちゃった」
時計を確認すると約束の時間から5分ほどが経過していた。遅刻常習犯にしてはまともな時間に現れたと言っていいだろう。
「仕事だったんだろ? お疲れさん」
「まあね……って、あー! もう飲んでる!」
肩越しにグラスを見つけたリンウェルは開口一番大きな声を上げる。どうやら何の気なしに頼んでいたドリンクがお気に召さなかったらしい。
「ちょっとくらい待っててくれてもいいじゃない!」
遅れたのは私の方だけど、と言葉尻を濁したところで、目ざとい彼女は中身の正体に気付いたようだった。
「あれ? それジュース? ロウ飲まないの?」
今年最後の日なのに? と首を傾げるリンウェルには、あらかじめ用意しておいた丁度良い文句を投げておく。
「まあな。まだ仕事の疲れも抜けてねえし、すぐ回りそうだからよ」
「ふうん……まあ別にいいけど」
リンウェルが見せたやや不満そうな表情には内心肝が冷えていた。だがどうやらそれ以上の言及はないようだ。
席に着き、注文したグラスをぶつけると二人での夜がようやく始まる。
「それにしても結構久しぶりだね。元気してた?」
「ああ。ネアズにこき使われてる。つか、カラグリアとこっちじゃ温度差激しいのなんのって」
「流石にロウでも厳しいか。でもシスロディアよりはマシでしょ?」
他愛もない会話は、まるで数日前に顔を合わせていたかのような錯覚に陥らせる。
リンウェルと会うときはいつもそうだ。不在の時間などまるで感じない。離れている間に募らせた想いも、一瞬にしてグラスの氷みたいになってしまう。ぎゅっと凝縮されたそれがじんわり溶け出しても、リンウェルには何も伝わっていないのだろうが。
「今日はこれから広場に行くんでしょ?」
「まあ、その予定だな」
ヴィスキントの広場ではこれから催しが開催される。新しい年を迎えるその瞬間を集まった人々で一緒に祝おうという目的らしい。
「楽しみ! 屋台も並ぶって言うし」
「大将も協力してんだろ? 結構人集まりそうだよな」
企画自体は市場界隈から提案されたものだったが、それを聞きつけたテュオハリムが街が盛り上がるならばと一部資金を個人で負担したのだと聞いた。メナンシアの正式な統治者としてはその座を降りた彼だが、いまだ絶大な人気を誇るのはこういったところからも窺える。
「じゃあなおさら楽しまなきゃだね!」
「お前は祭りが好きなだけだろ」
「ロウは嫌いなの?」
そりゃ好きだけど、と呟いた言葉はまるでそう言わされたかのように感じた。
軽く食事を済ませた後、二人で店を出ると空には満点の星が見えた。吐いた息がそれを白く煙らせて一瞬で天に昇っていく。
目線を下げると、ぼうっと明かりが灯る場所があった。人の賑わう声が少し離れたここにまでも届いている。
広場にはもう結構な人数が集まっているようだ。それもそうだ、年が変わるまであと半刻もない。
「ロウは、今年はどんな一年だった?」
広い通りを歩きながら、リンウェルはそんなことを言った。
「まあ、悪くなかったぜ」
特に深く考えることもせず口に出来たのは、心の底からそう思っているからなのだろう。
世界のあちこちを飛び回り色んなものを目にし、触れて、考えた。苦労もあったが何にせよ仕事は順調で、大きなケガも病気もない。
一日の終わりの酒が美味いと感じるようになったのは、酒場で背中を丸める男たちと並んだようで少し哀しくもなるが。
「お前は? どうだった、今年は」
「そうだなあ……」
空に散らばる星に視線を投げた後で、リンウェルはまるで屈託なく笑みを見せる。
「いい一年だったよ。健康だったし、これと言って悪いこともなかった。でも――」
「でも?」
「ひとつだけ」
心残りってわけじゃないけど、と前置きをした後で、リンウェルは言葉を並べる。
「今年の初めに、占いに行ったんだけどね。友達の付き添いで。その時私も一緒に見てもらったの」
占い、という言葉をリンウェルから聞くのは初めてだった。未来のことを教えてくれるなどと巷で噂になっていることは知っていたが、リンウェルがそれを信じる側であるとは思いもしていなかった。
「そしたら『待ち人が来る』って言われて、それからずーっと待ってるんだけど、結局来なかったなあ」
悲壮感はなく、リンウェルはただ「残念」と、そう口にした。
「『待ち人』ってなんだよ」
「さあ? 『待ち人』は『待ち人』でしょ」
待っている人、それ以上でもそれ以下でもない。
じゃあ、その「待っている」とは、どんな意味で。
そう問いたい気持ちがぐるぐると頭の中で渦巻いていく。
「どうしたの?」
無邪気に覗きこんでくるその瞳すら今は何か怪しく光って見えた。
辿り着いた広場は、思った以上に人で賑わっていた。
シスロディアほど寒くはないものの、この時期の夜はコートなしでは歩けない。冷えた体を温めるための飲み物や食べ物を売る屋台もあちこちに多く並んでいる。
「何か食べる? いっぱい種類あるよ」
「俺はいい。お前は? なんか要るか?」
「じゃあグリューワイン!」
「また飲むのかよ……」
この1年でリンウェルもすっかり酒の美味さを知ってしまったらしい。
自分の前では気兼ねなく酒を楽しんでほしいと思ってはいるが、こうも警戒心がないのはいかがなものだろう。
ワインの屋台にはほかにも数人客が並んでいた。人気があるのはやはり温かいグリューワインやスープの類のようだ。
カップに入ったワインを受け取って振り返ると、元居た向こうにリンウェルの後ろ姿が見えた。
広場の装飾や立ち並ぶ屋台をきょろきょろと眺めては、指を吐息で温めている。
時折彷徨わせる視線は確かに何かを、誰かを待っているように見えた。
待つ。
――リンウェルの「待ち人」って誰なんだ。
ふとそんな疑問が過る。
リンウェルは先ほど、「待ち人が来ない」と言った。そんな人いないよ、などと否定もしなかった。
きっとリンウェルには「待ち人」がいる。誰かを待っている。
だがそれを自分だとするのはあまりにも烏滸がましくないだろうか。
あの時リンウェルの瞳が怪しく輝いて見えたのも気のせいだったのかもしれない。
あるいはああいう話をしたことで、他に待っている人がいるのだということを暗に[[rb:仄 >ほの ]]めかしたのかもしれない。
考えれば考えるほど思考は良くない方へ向かう。段々と深くなっていくシスロディアの雪のように、気が付いたら抜け出せなくなってしまいそうだ。
リンウェルが待つ方へ歩みを進めると、立ち上るカップの湯気が視界を煙らせた。眩みそうな程酒精が香る。
その向こうでリンウェルがこちらに振り返ったのが見えた。
「ロウ」
花が咲いた。この街に飾られているどんな花より可愛くて、綺麗な花だ。
――何のためにここに来た。
数日前に休暇を無理やり押し込んでヴィスキントに戻って来たのも、その足で真っ直ぐ酒場に予約を入れたのも、一年の終わりに酒を飲まずにいたのも、全部全部今この時のためだろう。
「もう、遅いよ。カウントダウン始まって――」
リンウェル、と呼んだ声に白い吐息が混じる。
「好きだ」
はっきりとそう告げる。背後で上がった歓声も今はどこか遠く感じられた。
「俺の恋人になって欲しい」
心臓は確かに高鳴っていた。だがそれももう自分の中には無いような、そんな不思議な感覚だった。
大きく見開かれたリンウェルの瞳がこちらを捉えると、途端にそれが自分の中に戻ってきた。今にも飛び出そうな鼓動を必死で抑えつけ、一息に呑み込んでやる。
リンウェルの目がふにゃりと歪んだ。それ以上に緩んだ頬がまた胸を痛いほど打ち付ける。
「今年こそなんとかする、って言ってたのに」
もう去年になっちゃったよ、と笑いながら、リンウェルは湯気の立つカップをこの手から攫っていった。
記憶を遡るまでもない。その台詞はちょうど一年前、酒の席で自分が口にしたことだ。
「……覚えてたのかよ」
「当然でしょ」
リンウェルは拗ねたように口を尖らせたと思うと、今度はこちらの左手を取った。
「ずっと待ってたんだから」
それに指を絡め、嬉しそうに笑う。
手袋もないのに、繋がれた手は何故だかワインのカップよりも温かいように感じられた。
広場からの通りを並んで帰る。相変わらず手はしっかりと握られたままだ。
時折それをぶんぶんと振って歩くリンウェルは誰がどこから見ても上機嫌だった。
「お前酔ってるだろ」
あれだけ飲んだのだ。足取りこそしっかりとしているが、頭は追いついていないのかもしれない。
まさかその状況で告白を受け入れてくれたのかとも思ったが、あれはまだワインに口をつける前だったはずだ。そもそも記憶が飛ぶような体質でも飲み方でもないだろう、と自分を諭しているとリンウェルから爆弾が飛ぶ。
「酔うのはロウの前だけだもん」
なるほど、これまでの良き飲みっぷりはそういうことか。
決して自分を侮っていたわけではなく、むしろ許容のアピールだったというわけだ。
狡い、さすがに狡い。そんな可愛いことを夜道で言われるこっちの身にもなれ。
自分の中で牙をむきかけた狼を追いやって鍵をかける。ここで堪え性がないといわれては格好がつかないと思ったのだ。
――俺はお前の待ち人か?
そんなことを問う必要もない。繋がれた手とその強さが答えだ。
だがひとつ今年の抱負を挙げるとするならば、もうできるだけ待たせることはしたくないなと、そう思った。
おわり