恋って難しい。特に、自分をコントロールするのが。
好きな人と二人で過ごす時間は楽しい。楽しいけれど、次第に心臓はどきどきしだして、顔が熱くなってきて、上手く声が出せなくなる。近づけば近づくほどそれは強くなって、頭の中が真っ白になる。
良いも悪いもわからなくなる。全部を拒否して、全部を許してしまいそうになる。
私は今、自宅でロウとのキスに夢中になっている。
帰り際の玄関前でのことだ。ロウはドアノブにかけた手を一旦引っ込めると、私の体を引き寄せ強く抱き締めた。苦しい、と口にする間もなかった。次の瞬間には唇は塞がれてしまっていたから。
初めは優しく重なるだけだったそれもあっという間に深いものに変わっていった。舌でこじ開けられたそこにロウが入ってくる。粘膜はことごとく絡め取られ、ロウの舌が中で縦横無尽に暴れ回る。
時折その手が私の耳や首筋に触れると、堪らず身体は跳ねた。頽(くずお)れそうな足に力を込め、その場に立っているのが精いっぱいだ。いつの間にか指はロウの服の裾を必死に握り込んでいた。
「かわいい……」
合間にそんな睦言を挟んで、ロウはなおも口づけを繰り返す。優しく、激しく、私の唇を飽きることなく嬲る。何度か小さく吸い上げるようなキスをした後で、甘く食まれた下唇に香ったのは、さっき夕食に食べたアイスクリームだった。
ふと昼間のことを思い出す。休憩がてら中庭で友人たちと談笑していた時のことだ。
私は半歩引いたところでそれを聞いていた。その輪に入りきれなかったのは、話題が話題だったということもある。けれど本当のことをいうなら、本当のことを言えなかったからでもある。
◇
「ありえないよね!」
中庭の高い天井に声が響いた。
「どこかで休みたいって言っただけで『じゃあ宿近いし、寄ってく?』なんて言う? 普通カフェとかそういうところに連れていくでしょ!」
「近いっていうのもなんか怪しいわね。そういう道に敢えて連れ込んだんじゃなくて?」
「昼間から何考えてるのかなぁ。初めてのデートでそれはないよねぇ」
ないない、と同意の声が上がる。友人たちが黄色い声を上げる一方で、私は周りから集まる視線の方が気になっていた。
年頃の女子が集って繰り広げる話題といえば、最近の流行りのものとか、新しくできたお店とか、そういうものが多い。でも何よりも彼女たちの興味を引くことと言えば、噂話――それも恋愛絡みのゴシップは毎度おなじみのトピックだった。
今日のは友人の友人の、そのまた友人にできた新しい恋人の話で、なんでもその彼は初めてのデートの途中で彼女を安宿に連れ込もうとしたのだとか。彼が手を引く先は賑やかな街の大通りではなく細い路地で、見え透いた下心に腹を立てた彼女は彼をその場に置いてデートを放棄してしまったのだという。
彼女からすれば彼が初めての恋人で、何もかも初めての相手になるはずだった。ところが蓋を開けてみれば彼はそういう男で、現在彼女は自分はなんて見る目がなかったのだとすっかり気落ちしてしまっているらしい。「人は見た目によらないのよ。特に男なんか、優しそうに見えても実は狼、みたいなのがほとんどなんだから」というのは長い髪の友人の言葉だ。
「ていうか初めてがその辺の部屋とか絶対イヤ! オシャレで眺めが良くて、雰囲気の良い宿とかじゃないと」
「さすがにそれは求めすぎじゃないかしら。私はそこまで言わないけど、いずれにしても雰囲気は大事よね。初めては記念なんだから、大事にしないと」
「でも男ってそんなこと考えてないよねぇ。大抵はヤれればいいって思ってるだけでしょ?」
「やっぱりそうなのかな。いい人を見つけるのはなかなか難しいってことかあ」
はあ、と連続したため息が聞こえてきて、私は小さく苦笑いをした。
「あ、ごめんねリンウェル。ちょっと過激だった?」
友人の一人がこちらを気遣うように覗き込んでくる。
「ううん、大丈夫」
どうぞ続けて、と促せば、長い髪の友人が思い出したように言った。
「そういえば、リンウェルにも彼氏がいたわよね。〈紅の鴉〉の人だって聞いた気がするけど」
「うん、まあ……」
「えっ、そうだったの? 何それ、初耳だよぉ!」
一番年下の友人が拗ねたようにぷくっと頬を膨らませる。
「ねえねえどんな人? いつから付き合ってるの? もうキスはした?」
「え、えっと……」
返答に困っていると、それを見かねたポニーテールの友人が、
「もう、その辺にしておきなよ。リンウェルを落とすような人なんだから、紳士に決まってるじゃない!」と言った。
「年上の大人な彼氏とか? やっぱり余裕のある人はいいわよね、憧れちゃう」
「私もそういう人と出会いたいなぁ。どこかにいい人いないかなぁ」
いいなあ、という友人たちの羨望の声を浴びつつ、私はまたぎこちない笑みを返したのだった。
◇
ふと腰に回っていたロウの手が動いた。服の裾を捲られ、素肌に熱い指が触れる。
「きゃっ」
身体を離したのはもうほとんど反射だった。続いてロウも視線を逸らし、頭を掻いた。
「わ、悪い……」
「ううん……」
気まずい沈黙が流れそうになったところで、
「じゃ、じゃあ、またな」
ロウが部屋のドアを開けた。
「うん、気を付けてね……」
おう、と手を振って、ロウが夜の闇に溶けていく。その背中を見送って、私は大きく息を吐いた。
ドアを閉めても、相変わらず心臓は高鳴ったままだった。顔が熱い。頬に当てた手のひらが冷たくて心地良い。
もう慣れてもいい頃合いなんだけどな。頭ではそう思っているけれど、身体はまだ適応できていないらしい。それもそうか、恋人と、ロウとキスだなんて一生慣れそうにない。
それでも以前に比べれば随分と成長したような気がする。初めて大人の、深いキスをした時はその強烈な感覚に腰が抜けて、ベッドから立てなくなったほどだ。回数を重ねるうち、こうして玄関先で交わせるくらいにはなった。それこそ慣れたといえばそうなのかもしれないけれど、いまだ最中の呼吸の仕方も腕のやり場も、舌の預け先だってわからないのだから、自分の思う「慣れ」とはまだ程遠い気がする。ロウとこういうキスをするようになってからはもうそれなりの時間が経過しているのに。
ロウと交際を始めてからもうすぐ二ヵ月が経とうとしている。友人たち曰く、「今が一番楽しい時期」なのだそうだ。
とはいえ私とロウの出会いに関してはちょっと特殊なところはある。旅の仲間として過ごして数年、その後も単なる「友人関係」だったかと問われると少し怪しい。何しろ私たちはきっと、お互いの気持ちに気付いていた。確信はあっても確証だけが得られていない状態で、どちらが先に一線を越えるのか、どちらが痺れを切らすのか相手の出方を窺っていた。
思いの外長く続いた我慢比べは、結局ロウの負けで終わりを迎えた。それもほとんど誤差のようなもので、私は返答もそこそこにその胸に飛び込み、その場で白旗を振ったのだった。
それからはもう、トントン拍子に事は運んでいる。相手の手に触れ、身体に触れ、唇同士を合わせるまでにほとんど時間はかからなかった。それまで募らせすぎた想いがかえって拍車をかけたのかもしれない。
こうして深いキスまでするようになった今、その先に待ち構えていることといえば、もう一つしかない。
今夜もそれは私たちに静かに迫った。ロウが伸ばした腕の先に、それは確かに見え隠れしていた。
おそらく友人たちに言わせたら「ありえない!」のだろう。自宅の玄関先でそんなことに及ぼうだなんて言語道断!
真実の愛だというなら、よりロマンチックで雰囲気のいい場所を選び、こちらの嫌がることはしない。優しく丁寧に気遣い、身も心も大切に扱ってしかるべき。
だって女の子にとって〈初めて〉は特別なんだから。それにふさわしい相手と場所と雰囲気でないと。――もう何度も耳にした友人たちの言い分だ。
彼女たちは、初体験がまるで世紀の大イベントのような言い方をする。それを経験した途端あたかも違う人間に変化するかのように、世界がひっくり返ってしまうかのように言い、身近に噂を聞いたなら木にとまった小鳥たちのように騒ぎ立てる。
私はその空気感が少し苦手だった。彼女たちの主張がまるきりわからないわけでも、それを否定するつもりもないけれど、それでも往々にして恋人に触れたくなる時は、ある。噂話で聞いた彼のことを庇う気はなくても、場所も時間も関係なしに、相手にもっと近づきたい思う瞬間は必ずあるはずなのだ。
きっと今夜のロウもそれゆえだった。帰り際の熱い抱擁も、キスも、その後私の服を捲り上げたことだって。
決して嫌ではなかった。むしろ、私に対してそう思ってくれたのなら、ちょっと嬉しいとさえ思う。
それでもその手を払ってしまったのは、私の心のどこかにある恐怖心がそうさせてしまったのだろう。ロウと抱き合って、キスをして、いろんなところに触れて、その先に進んでしまったら――。その後どうなるのか、まるで想像がつかない、わからない。わからないから怖い。あるいはそれを経験したことでロウにどう思われるのか、ロウの気持ちに何か変化は起こるのか。考えれば考えるほど不安は募る一方だった。
そうはいっても私はまだどこか楽観的に考えてもいる。それが起こるのは今日明日でもなければ、来週でもない。もっとずっと先のことなのだ。
いずれその日はやって来るにしても、その頃にはロウともっと一緒に時間を過ごしていて、深いキスにも慣れているはずだ。だからきっと、そういう雰囲気になってもきちんと対応できるに違いない。
私は油断していた。まさかこんな早くその日が訪れるなんて、思ってもみなかった。
次にロウに会ったのは、その二週間後だった。宮殿での仕事を終えたらしいロウは夕飯を食べに今夜も家にやってきた。
「お前さ、来月辺り時間取れるか?」
テーブルに着くなり、ロウはそんなことを言った。
「来月? 取れると思うけど、なんで?」
「いやさ、久々に何日か休み貰えそうだから、どっか行かねえかと思って」
どこかと聞いて真っ先に思いついたのは遺跡だったが、それは違うとすぐに気が付いた。
「それって、旅行に行くってこと?」
「まあ、そういうことになんのかな」
そう口にしたロウの視線が不自然に逸らされるのを私は見逃さなかった。
旅行ということはつまり、お泊りってことだよね。お泊りってことはつまり……?
敢えて聞くことじゃない。聞くことじゃないけれど、その態度はそういうことだよね?
内心動揺しながらも、私は「いいよ」と頷いた。
「ほんとか?」
「うん。私はいつでも、何日でもいいよ。基本的に自由だしね。あ、でも旅行先は遠くが良いかも。知ってる人がいたらゆっくり楽しめないし」
「その辺は考えてあるから安心しろよ。じゃあ、日にち決まったら知らせる」
楽しみにしてる、とその場ではごく自然に答えたつもりだったが、ロウが帰ると緊張が体の内側からじわじわと滲んできた。
旅行かあ。どこに行くんだろう。何を見て回るんだろう。そんなありきたりの想像を膨らませつつも、最後に行きつく先は一つだった。――夜は、どうするんだろう。
もちろんそれだけが目的じゃない。ロウは私を楽しませたくて、二人で休暇を楽しみたくてそんな提案をしてきたのだと思う。
とはいえそれが目的じゃないわけでもない。あの時、不自然に逸らされたあの視線。僅かに上ずった言葉尻を考えても、ロウの頭に〈それ〉が浮かばなかったわけがない。そして、それは私も同じだった。
――どうしよう。
突然降ってきたような『お泊り旅行』に私の頭の中は混乱しつつあった。持ち物は? 服装は? 新しい下着は必要? 寝室のクローゼットから旅行用の大きな鞄を引っ張り出し、中に衣類を詰め込んでは何か違うなと取り出すのを繰り返す。考えもまとまらなければ、迷いも拭いきれない。
それでもこれは誰にも頼れない。こんなことを相談すること自体恥ずかしすぎるというのもあるけれど、そもそもこれは私とロウの間のことなのだ。誰に訊ねようと正しい答えは誰も知らない。私たち二人以外には。
迷いも恐れも不安もある。だけど目を逸らすわけにもいかない。
覚悟を決めつつ、私にできることといえばたった一つだけ。
もうすぐ訪れるであろうその日、その時のために、できる限りの準備をしておくということだけだった。