「これで終わり、と」
白い羽のついたペンを走らせてサインをする。
じわりと滲んでいくインクに窓からの光が差し込んだ時、リンウェルは夜が明けてしまっていたことに初めて気が付いた。
――またやってしまった。何度も繰り返してしまう悪い癖。
あともう少し、この章を書き終えたら。この部分の資料を読み終えたら。
そうやって先送りにされてしまった睡眠という体の休息時間は、いつも明るい日が差し込む時間になってしまう。それは良くないとキサラにも同僚にも何度も注意は受けてはいるが、なかなか治らない。
(また叱られちゃうかも)
インクが乾くのを確認してから、リンウェルは完成させた報告書をトントンと均すと、きれいに揃えて机の上に置いた。
上司に当たる研究員が研究所に来るまでまだ時間がある。それまで仮眠をとろう。
一仕事終えた途端に体は疲れを感じて、大きな欠伸が一つ出た。徐々に重たくなる瞼をかろうじて抑え込みながら、リンウェルは部屋に備え付けられたベッドへと寝転がる。薄い毛布を適当に引き上げて力を抜けば、いとも簡単に意識は眠りへ落ちていった。
「それで、また報告書ごときに徹夜したってわけ」
「うん、まあ……そうなるね」
言葉尻を濁すようにリンウェルはコーヒーをすする。
研究所内にある食堂は、昼時は混雑して会話もままならないが、朝は人がほとんどいない。こうして休憩と称して雑談をするにはぴったりの場所だ。
あのあとリンウェルは数時間仮眠をとったものの、まだ頭は冴えきっていない。完成させた報告書の提出は済ませたが、その場で質問をされていたらうまく答えられていたかどうか怪しいものがある。
「ばか」
「ぶっ」
軽い手刀が脳天に振り下ろされ、リンウェルは思わず口に含んだものを吹き零しそうになる。それでも反論しようという気にはならない。自分に非があるのはわかりきっているからだ。
「何度も言ってるでしょ、夜更かしは美容にも健康にも良くないって」
忠告をするリンウェルの同僚――シャノンは深くため息をついていた。彼女の肌は白く、淡い栗色の髪は艶が出ていて美しい。毛先がゆるくカールされたそれからは、心なしかいい香りもする。
「言われた。何回も」
リンウェルだって反省はしている。今夜こそ早くベッドに行く、と毎晩意気込んではいる。
だが気になることがあると、どうしてもそちらに気を取られてしまうのだ。
「朝になったら忘れちゃう気がして、解決しないと気が済まないんだよね」
「いいのよ、報告書のことなんて忘れても。あんなの、読んで喜ぶのはテュオハリム様くらいなんだから」
まあ否定はできないとリンウェルは苦笑する。
ヴィスキントにつくられたこの研究所では、ありとあらゆる分野の調査・実験が行われている。設立からまだ3年ほどではあるが、その多岐にわたる研究内容をすべて挙げられる人物などいないだろう。
リンウェルが主に携わっている古代ダナの文化についての研究も、その中の一分野に過ぎない。あの遺物について何かわかったか?なんて聞いてくるのは、似たような研究をしている研究員か、古代の遺物に心酔しているテュオハリムくらいのもので、報告書一つ遅れようと誰も気にも留めない。
それでもリンウェルが真面目に研究に取り組んでいるのは、ひとえに後世のためだ。
ダナは300年以上の昔、侵攻してきたレナ人によってすべてを奪われた。暮らしも文化も全部消され、レナの支配によって書き換えられてしまった。
一度消された文化をもう一度紐解くのは難しい。だが無かったことにはしたくない。
ならばできる限りその記録をきちんとつくっておこうというのがリンウェルの考えだ。
自分たちが今わかることを遺しておけば、その次の世代が何かを発見してくれるかもしれない。その繰り返しで古い文化と新しい文化が混ざり合う、いわゆる歴史が築かれていくのだとリンウェルは思っている。
だからできれば手は抜きたくない。自分の適当な解釈を真に受けた未来の研究者が困ってしまうなんてことはあってはならない。
「まあ真面目なのはリンウェルの良いところよ」
シャノンは諭すように言葉を並べる。
「良いところなんだけど、その暴走を止めてくれる人が必要そうね」
暴走とは人聞きの悪い。でも確かに、自分じゃ抑えきれないという点ではその通りなのかもしれない。
「シャノンがいるじゃない」
「とてもじゃないけど、私だけじゃ足りないわ」
お手上げ、という風に目を細めたシャノンは、ほんの少し空に視線をやって考えを巡らせる。
「キサラさんの忠告でもダメなんでしょ? 彼氏は?」
「いないよ、そんなの」
重たいものを吐き出すようにリンウェルは言う。
「あら、こないだまで彼氏いなかった?」
こないだとはいっても、それはもう何か月も前のことだ。研究内容のつながりで出会った人だったが、付き合って2か月もしないうちに別れを告げられた。
「もうしばらく彼氏とかはいいかな。研究で忙しいし」
忙しいというのは本当だったが、嘘でもある。成果さえ上げられれば自分の好きなように時間を設定することのできる、ここの研究員であるリンウェルにとっては。
「そんなこと言うのは、リンウェルが本当の恋を知らないからよ」
「シャノンは知ってるの?」
「そりゃあね。私はいつでも恋してるから」
小さく投げられたウインクには、確かに男を惑わせるのに充分な威力があるだろう。
だがリンウェルは知っている。シャノンが今想いを寄せているのは別の棟の研究員だ。それもかなり年上の。おまけに既婚者でもある。基本的に女の研究員には優しく、気に入った子であれば食事にも誘ってくるらしい。
つまりシャノンは、こう言ってはあれだが、男を見る目がないのだった。
リンウェルはその日、久々に研究所の外に出た。主な用事は食材の買い出しだ。
基本的に研究員は食堂で食事を済ませるが、メニューは数種類に決まってしまっている。何度も同じものを食べていれば飽きが来てしまうし、リンウェルの場合はデザートのアイスクリームが用意されていないことが大きな問題だった。
かつての旅の途中でキサラやシオンに教わった料理の腕を忘れたくないというのもあって、リンウェルは基本的に夕飯は自炊するようにしている。自炊と言っても食べるのは自分一人だけだからそんなに量はいらないが、味付けのバリエーションは欲しいところだ。今日はアイスクリームにフルーツをトッピングしたい気分だったので、市場の新鮮なものを求めて賑わう街の方へと向かうことにした。
アウテリーナ宮殿と隣接する研究所は、大きなエントランスの他に、裏に主に関係者が利用する出入口がある。夜間も開いているのはこちらだが、街に向かう場合は圧倒的に前者の方が近い。ただ、研究所内で着用している白衣を着たままそこを通過するのはなんというか、リンウェルにとっては気が引けた。警備兵がドアの両脇に立っているだけで、これと言ってなにかあるわけではないのだが、なんとなく人目が気になるのだ。
立ち入りを制限している研究所には、一般市民は入ることが基本的にはできない。白衣であれば、戻ってきたときに研究員だと一目でわかるため、警備兵に身分を説明する必要はないが、私服だとわざわざその過程を経る必要がある。白衣でそのまま外へ出る研究員も少なくないが、どうもリンウェルはまだその領域に達せていないらしい。
リンウェルが簡単な私服に着替えてエントランスを抜けると、まだ高いところにある太陽が強い日差しを向けていた。それをまるで狙い撃ちされているかのように感じたのは、出不精であることを自分でも無意識のうちに責めてしまっているからかもしれない。
そのまま歩みを進めていくと、階段の下の噴水前で辺りをきょろきょろと見回す女の子の姿を見かけた。年は自分と同じくらいで、そわそわと落ち着かない様子を見るに、これはデートの待ち合わせだなとリンウェルは思った。キラキラとした髪飾りから散らばる光がまるで、彼女の期待をそのまま表しているようで、リンウェルにはそれが太陽よりもずっと眩しく感じられた。
本当の恋、か。
それがどんなものか、確かに自分はまだ知らないのだろうなとリンウェルは思った。
リンウェルだって、交際を申し込まれれば誰彼構わず承諾してきたわけではない。会話をする中でちょっとでも好意がある人、もっとそれが大きくなりそうな人にだけ首を縦に振ってきた。
それでも、その誰とも長続きはしなかった。別れの理由を詳細に述べた相手はいなかったが、残念ながらリンウェルにはその心当たりが多すぎた。
デートの延期だとか、食事の約束をすっぽかしてしまうとか、決してわざとやっているわけではないのだが、つい文献調査とかそっちの方に気を取られてしまい、気が付いたときには予定の時刻を過ぎてしまう。ごめんと謝るが、誰もが「いいよ、また今度にしよう」と言うだけだった。
リンウェルは今年で18になる。研究所には設立当初から勤めているから、もう3年も働いていることになる。それなのに約束一つ守れない。そんなリンウェルを誰も怒らなかった。
きわめて自分勝手な話だが、自分が逆のことをされたら腹を立ててしまうだろうとリンウェルは思う。何度も続けば当然のことだ、真剣に謝ってもらえるまで口も利かないかもしれない。
――なぜ何も言わないのだろう。
リンウェルは、相手は、相手が思っているほど自分に興味を持っていないのだろうなと結論付けた。気を遣ってくれているのはわかるが、腫れ物をさわるみたいな扱いはどうにも気に入らなかった。深い関係になりたいからと気持ちを伝えてきたのではないのか。ならばどうして、敢えて距離が離れてしまうようなことをするのだろう。
自分が面倒な考えを持っていることもリンウェルには充分理解できていた。だからこそもう、しばらくは恋愛とか、そういうのとは距離を置いてしまおうと思った。
そんなリンウェルにも初恋はあった。あれが本当の恋かどうかはわからないが、淡くて儚い初めての恋。
シャノンと出会う前、この研究所が完成する前の話だ。
長いこと一緒に旅をしていた彼はメンバーの中で一番歳も近く、物事を深く考えずに直感で動くことの多い、自分とは反対のタイプの人間だった。悪気もなく無神経なことを吐いたりもするのに、意外と周りを見ていて人のために動ける人だった。
いつから好意を持ち始めたのかはわからない。それくらい自分にとってはごく自然に、彼に惹かれていった。
今でも覚えている。想いを打ち明けられた時は、まるで胸が焼けてしまうのではないかと思うくらいに熱くなって、その熱に随分と長い時間浮かされた。返事はやっと頷くのが精いっぱいで、相手の目も見られなかった。
右も左もわからない恋。まるで生まれたての赤ん坊のように無垢な恋。実際の赤ん坊のように、見たもの触れたもの、すべて受け入れられたら良かったのだろう。
でも、自分にはそれができなかった。
あれからもう3年も経つのか。今では懐かしくすら感じられる。
先ほど見かけた子は、後ろ姿すら光り輝いていた。シャノンだって、相手はともかく、恋のおかげか瞳がきらめいて見える。
なのに自分はどうだろう。ちょっとした外出といえど、着替えるのも億劫になってしまっている。伸びた髪の毛は前髪を自分で整えるだけで、最近は髪留めだってつけていない。
かつての自分が彼女たちのように輝いていたとは言わないが、少なくとも今よりは身だしなみにも気をつかっていたはずだ。〈本当の恋〉をしていないことの実害はこういったことにあるのかもしれないとリンウェルは思った。
買い物を終えて研究所に戻ろうとしたとき、ふとある建物が目に入る。
トラスリーダ街道から大門を抜けて街に入ってすぐの宿屋。アルフェンたちと旅をしていた時によく利用した宿屋だ。
街の規模が拡大するにつれてヴィスキントには他にも宿が増えたが、ここはわかりやすい立地と、主人の人柄が良いのもあって人気が絶えない。建物ごと新しくして、一層目を引くようになったのは昨年のことだ。各地から観光で訪れる客も多いが、なかなか部屋が取れないとの話もよく耳にしている。世話になった宿屋がこうして繁盛しているのは嬉しい限りで、今や顔見知りとなった主人にも挨拶に行きたいところだ。
――ここの前を待ち合わせに使っていたっけ。
リンウェルはそんなことを思い出す。
約束に遅れそうになって走って宿屋に向かえば、その入口脇の壁にもたれるようにして彼はリンウェルを待っていた。こちらに気付いて、一房垂らした髪の毛を揺らしながら駆け足で向かってくる彼に、自身も心を弾ませたものだった。
過去の幻影を追うように宿屋の入口に目をやっても、そこに彼はいない。当然だ、自分が彼といたのはもう3年も前の話なのだから。
何かに諦めをつけてリンウェルが通りの方へと目を戻すと、人波の中に彼がいた。
距離にしてほんの数メートル先。短く切った髪の毛と大きい瞳はそのままに、少し背を伸ばした彼が、そこにはいた。
「……ロウ」
小さな声が空気を震わせたのか、奇跡に近いようなタイミングで彼もこちらを見る。
「お、リンウェル。久しぶりだな」
一瞬、それが本当に自分にかけられた声なのかリンウェルにはわからなかった。
低くなった、というよりも落ち着いたといった方が正しいのだろう。それくらい、ロウの声は聞き慣れないものになっている自分にリンウェルは驚いた。
「ひ、ひさしぶり」
「元気してたか?またちょっと痩せたんじゃねえの?」
こちらに近づいてくるなり体のあちこちをじろじろとチェックするようなロウの視線から逃れるように、リンウェルは体を捩る。
どうしてロウがヴィスキントに。カラグリアにいるはずじゃないの。
普段は確かにそうだ。だが〈紅の鴉〉の手伝いをしているロウが、仕事や依頼でヴィスキントに来ていたっておかしくはない。
答えのわかりきった問いを浮かべてしまったのは、単に驚いたから。ロウのことを思い出しているときに、不意に本人が登場するとは露ほども想定していなかったからだ。
「ここで会えてちょうどよかったぜ。キサラに頼んで研究所に入れてもらおうかと思ってたところだ」
ロウはリンウェルの戸惑いなど気にする様子もなく、極めて朗らかにそう言った。
「なにか、仕事でもあるの?」
出来るだけ自然に、声が震えないようにリンウェルが問うと、ロウは意味ありげな視線をこちらに寄越す。
「いや、お前に会いに来た」
胸の中が詰まるような思いがして、リンウェルは何も言うことができなかった。
「飯行こうぜ。夜7時に、研究所前に迎えに行くから」
正門の方だぞ、と付け加えてロウは再び雑踏の中に消えていった。こちらはまともな返事もできなかったというのに。リンウェルのスケジュールなど、どうにでも調整できると知っていたのだろう。
時間になって恐る恐る外に出てみれば、ロウは既に待ち構えていた。研究所の壁にもたれかかって腕を組んでいる姿があの頃のロウに重なって、胸がぎゅうと締め付けられた。
数か月ぶりに入ったレストランに、リンウェルは緊張の色を隠せないでいた。
高級というほどでもないのだが、このレストランはそれなりに人気で、ランチはともかくディナーともなると予約は必須と聞いている。特にこういった週末の夜なんかは特に混んでいるらしい。
「予約、取ってあったの?」
「まあな」
なんでそこまで、とはリンウェルには聞けなかった。
大人しく指定された席に着くとウエイターがメニューを持ってくる。
「席はとったけど、料理とかは決めてねえから。好きなの食えよ。急な誘いに付き合ってもらったんだし、今日は奢ってやる」
別にいい、と断ってもどうせ押し切られることはわかっていた。ここは素直に従っておくとして、一体何を頼もうか。
リンウェルがメニューのページをめくっているうち、デザートの一覧が目に入る。アイスクリームをはじめとした数々の種類のスイーツ名についつい目移りしてしまう。アイスクリームは当然注文するとして、今日はフルーツが食べたい。そうなると盛り合わせになりそうだが、このフルーツパフェもかなり魅力的だ。
「デザートもいいけど、お前はまず飯食え。どうせ研究がどうのって、食事抜いたりしてるんだろ」
「う……」
考えている内容どころか最近の私生活まで言い当てられ、リンウェルは閉口する。
「相変わらずみたいだけど、いつまでもそんなんじゃ心配するだろ」
「わ、私だって少しは気にしてるよ。普段は自分でご飯作ったりもするし」
嘘と本当が入り混じった言葉を口にしても、すべて見抜かれてしまっているような気がしてリンウェルは落ち着かない。
「どうせロウは料理とか、あんまりしてないんでしょ。野営の時困るよ」
「お、俺はいいんだよ、宿に行くし!」
推測半分で言った言葉だったが、どうやらロウの図星を突いたようだった。誤魔化そうとメニューを奪い取る姿がなんだかおかしくて、リンウェルは自分の肩から力が抜けていくのが分かった。
食事の中で会話を交えているうち、リンウェルはいつの間にかロウと普通に話せている自分に気が付いた。ここへ来るまでは気後れすら感じていたというのに、全く不思議なものだと氷の入ったアイスティーを飲みながら思う。
ロウとは別に3年もの間、全く会わなかったというわけではない。当然仕事でこちらに来ることもあれば、キサラやアルフェンたちと一緒に食事する機会もあって、何度かは顔を合わせている。
だがこうして、二人きりでというのは今回が初めてではないだろうか。それも、ロウの方から声を掛けてくる形は。
ふとロウの方を見やれば、皿の上はすっかりきれいに片づけられており、揃えて並べられたナイフとフォークに、リンウェルは時間の経過を感じ取った。
(もう、あの頃とは違うもんね)
苦手にしていた野菜も、かけらも残さず食べられるようになっているのを見て、母親でもないくせに何故かほっとする。背も伸びて、体つきも随分たくましくなったロウは、自分が知っている姿とはどこか違うのに、ふと覗く笑顔はやっぱりあのロウだなと思わせた。
店を出て、研究所まで送ってもらう途中の空には星が輝いていた。最近は、夜はほとんど外に出ていなかったこともあって、いつも空に瞬いているはずの星にどこか懐かしさすら感じられる。
入口付近までたどり着いたとき、リンウェルが口にしたのは「ありがとう」の言葉だった。
食事代を払ってもらったことも含めて、色々な感情を詰め込んだそれを丁寧に、はっきりと発する。
「色々あったけど、今日こうやって普通に話せるとは思わなかった」
あの頃は確かに苦しい思いもしたが、楽しかった時間があったこともまた紛れもない事実だ。できれば、いつまでもそれを苦い思い出のままにしておきたくはなかった。
「ありがとね」
リンウェルから自然と笑みがこぼれたのは、あの頃の自分にようやく踏ん切りをつけられると確信したからだ。今ならすっきりと、幕を引くことができそうだと思った。
そう思って口にした、素直な感謝の言葉だったはずなのに。
「俺はまだ忘れてない」
今まで黙っていたロウが、ぴしゃりとそう言い放つ。これ以上ない否定の言葉に、リンウェルの心臓は一瞬動きを止めた。
「俺はまだお前が好きだ」
真っ直ぐな瞳はあの頃のままに、ロウは顔色一つ変えず言った。それがロウにとって当たり前の、変わりようのないことであるかのように。
「なんで今更そんなこと言うの……?」
動揺したのはリンウェルの方だった。
「3年も経ってから、なんでそんな……」
傷口を穿り返されたような気分だった。治りかけのかさぶたを無理やり引き剝がしてしまわれたような、鈍い痛みが胸に走る。
「ロウのそういうとこわかんない! なんでそんなこと言えるの? やっと、終わりに出来そうだったのに……!」
自分勝手な主張だとわかっている。それでもリンウェルは顔を背けたまま、言葉を吐き捨てた。
「やっと、次に進めそうだと思ったのに……」
「一人で勝手にキレイな思い出にすんなよ」
リンウェルが無理やり下ろした幕を引き裂くように、ロウははっきりと拒絶する。
「俺の中ではまだ終わってない。だから今日、こうして会いに来た」
「俺ともう一度、やり直してほしい」
止まっていた時間はもう一度、違う形で動き始めようとしていた。
◇
ロウに初めて想いを告げられたのはヴィスキントの街中でのことだった。
買い物に付き合ってもらった後で、当時借りていた部屋に帰る途中だったと思う。オレンジと紫が入り混じった夕暮れの空がとても綺麗だった。
すきだ、と言ったその声が震えているのを、ロウらしくないとおかしく思ったのに、返事をしようと思っても自分の声が出ないことにリンウェルは驚いた。うん、と頷くことしかできなかったが、ロウはそれを見て心底安心したのか、脱力してその場にしゃがみ込んでしまった。耳まで赤くした顔を見ても、からかう気にはなれなかった。きっと自分も同じ顔をしていただろうから。
だけど、ロウとの交際は結局うまくいかなかった。
はじめこそ二人の間の距離に一喜一憂しては、胸のときめきだとかそんなものを感じていた。初めて手を繋いだ時は、心臓の音が手のひらを通して伝わってしまうのではないかと思うくらいに緊張して、ロウの顔すらまともに見ることができなかったのを覚えている。
そんな初々しさも次第に指の隙間から零れ落ちていくと、垣間見えてくる〈その先〉に不安を覚えるようになった。
お互いを気にするあまり、相手の知らない側面が許せなくなっていった。
悪い部分を指摘しては、非があるのはそっちだと無意味に傷つけ合った。
ロウの言う「夜道を一人で歩くな」とか「徹夜はやめろ」とか、そういった心配さえリンウェルには過保護に思えた。「束縛しないで」なんてそれらしいことを言って、自分を正当化したこともあった。
本当に子供だったのだ。自分の小さな世界だけで生きる、哀しい子供。
そんな些細なことの言い争いを繰り返し、意地を張ったまま許しを請うことも、相手を許すこともできず、ただ距離だけが離れていった。
「別れよう」の言葉と一緒に口から出たのは、他でもない安堵だったことを覚えている。
リンウェルは逃げ帰るようにして研究所の自室に戻ってきた。机の上の昼間買った果物を見て、すべてが本当に今日一日で起こったことなのかと疑いたくなった。
やり直したい。ロウは確かにそう言った。
期待していなかったわけじゃない。自分に会いに来たと、昼間はっきりそう告げられたとき、確かにこの胸は高鳴った。
だがそれ以上に、自分がそうなってはいけないとどこかで思っている。
あんな風に傷つけて、ひどいことを言って、再び隣に立つ資格などあるわけがない。
それにロウには恋人がいたはずだ。風のうわさでそんな話を聞いたことがあった。
まさか別れたからこちらに来たとか、そういう可能性だってあるんじゃないのか。
まるで手探りで鞄の中を探るようにして、リンウェルは断る理由を考えていた。
次から次にそれを手に取っても、まともな答えはいつまで経っても出てきそうになかった。
ロウはその日から、度々研究所に現れた。
キサラが手を回したのかは知らないが、基本的には関係者しか入ることのできない内部にもロウは姿を見せた。「一応仕事で来てるんだぜ」とロウは笑ったが、リンウェルにはその瞳の奥に何かが光って見えるような気がしてならなかった。
「ねえ、彼知り合いなの?」
こういったことに鼻が利くのはシャノンだ。ロウがリンウェルに声を掛けているのを見かけたらしい。
「……まあ、そうだね」
「随分と親しげだったじゃない! なあに~? 新しい恋人とか~?」
頬をつんつんと突かれるのを堪えていれば、そのうち諦めてくれるだろうとリンウェルは沈黙を決め込む。
「でもそれにしては彼からの矢印が一方的だった気もするわね。まあリンウェルの場合珍しくもないけど……それにしてはなんだかリンウェルの表情が違ったような……」
シャノンの恐ろしいところはこの観察眼だ。研究者にとっては恵まれた才能であるといえるだろうが、今のリンウェルには尋問に使われる拷問器具にも等しい。
「元カレ、なんてことはないわよね」
そしてこの勘の良さ。存在もチラつかせたことは無かったのに、今ここで言い当ててくるとは。
「……」
「……えっ、嘘。ホント?」
リンウェルが微妙に落とした視線に確信を得ると、シャノンは興奮したように鼻息を荒くしたが、キョロキョロと辺りを見回すと声を潜めて問いだした。
「なんで元カレがここにいるのよ。仕事にしたって、今までここに来たことなんてあった?」
「うーん……まあないわけじゃないけど」
多分、とリンウェルは付け加えて、次に続く言葉を選ぶ。
復縁を迫られていると、言ってもいいものか。言えば昔のことも聞かれるかもしれない。
それはそれで過去のことではあるが、どうにも古傷を暴かれるような思いがして躊躇われた。
「ヨリ戻したいとか、そういう展開じゃないでしょうね」
「……」
打ち明けるよりも早く、傷をこじ開けられてしまって、その痛みにリンウェルは目線を泳がせた。たしかに元カレが突然現れる理由を考えれば、それが一番妥当かもしれなかった。
「え、本当? どうするの?」
「まだ考え中」
「なんで?」
「ちょっとね……」
リンウェルの言葉に何かを察したのかシャノンはそれ以上のことを聞かなかった。
ただ、「デートがあれば服でも何でも貸してあげるから」と頭を撫でてくれた。そんな気遣いのできるシャノンに、リンウェルは先ほどまでの自分の懸念が恥ずかしくなった。
◇
ロウがもうすぐカラグリアに戻ると聞いたのはそれから数日経ってのことだった。
ロウに再会したのが1週間前のことだから、おおよそ10日ほどの滞在予定なのだろう。
おそらく、帰るまでにもう一度答えを問われるのだろう。
だがリンウェルの中では何も決まっていなかった。ロウに告げる言葉も、取るべき態度も。
3日程度なら逃げられるかもしれないと、リンウェルは思った。研究が忙しくて、それどころではないと誰かに取り次いでもらって、自分は自室に引きこもる。そうすれば、ロウの顔を見ることなく、さよならができるかもしれない。
――また先送りにするの?
心の中で誰かが囁く。
答えを引き延ばしたところで、ロウにも自分にもメリットなどない。
ならばはっきり言えばいいのだ、「ロウとは付き合えない」と。
そんな簡単なことなのに、ロウの顔を見るとその言葉が出てこない。あの瞳に真っ直ぐ見つめられてしまったら、もう逃げ場がなくなってしまう。
つまるところ、リンウェルにはイエスと言う勇気も、ノーと言う覚悟もないのだった。
そのとき、部屋のドアがノックされる。
訪問者の予定はないはずだけどな、と訝しく思いながらも、リンウェルが駆け寄ろうとした瞬間、勢いよく向こうからドアが開かれる。
「ロ、ロウ……?」
「おい、無施錠かよ。気を付けろって言ってんだろ」
こともなげにロウが放った言葉は、あの頃と何も変わらない。ただ、リンウェルの身を案じての言葉だ。
あの頃と同じ気持ちを持ったまま、ロウは変わった。大人になった。
「もう、うるさいなあ」
それなのに自分はどうだろう。幼かった過去の自分を責めたままで、何か成長しようとしてきただろうか。
ひたすら自分の好きなことに打ち込んでは、周囲の心配もないがしろにしてきた。
今だってそうだ、ロウの言葉に「気を付ける」とも言えない。我儘で、いつまで経っても子供のまま。
いくら気持ちがあの頃と同じだからと言っても、心が大人にならなくては意味がない。またあの頃のようなことを繰り返してしまう。
しばしの沈黙が流れる。
ロウがここを訪れた理由も、リンウェルが逸らす目線の意味も、お互いに理解しているから何も言えなかった。
それを先に破ったのはロウの方だった。
「リンウェル」
優しい声色はロウのものなのに、全く知らない人のものみたいだなとリンウェルは思った。
「昔は、悪かったよ。子供だった。どうしたらいいかわからなくて、お前に当たった」
――謝らないで。
ロウは何も悪くない。そんなことを言われると、ますます惨めになるだけだ。
じわりと滲んできた涙が視界を曖昧にする。
思わず俯くと、「でもお前も悪いぞ」というロウの声が降ってきた。
「こっちは心配して言ってんのに、過保護だとか束縛だとか、あの態度はねーだろ。いくら戦えるっていっても大人数相手だったらどうすんだよ」
「夜更かしだって、お前次の日フラフラして歩いてんだぞ。川に落ちる一歩手前までいったこともあっただろうが。そういうのなくしてから大丈夫って言葉使えよな」
一息に不満をまくしたてられて、リンウェルは面食らった。これ以上ない正論に反論する気も起きず、「そうだね」としか言えなかった。
「まあ、どれもこれも今になって気づいたことだけどな」
あの時言えてたら、とそう思っているのは自分だけではなかったらしい。
だからこそ、なおさら独りよがりの自分が許せなかった。
「……わたし」
「私全然、ロウに釣り合わないよ」
こんな風に誰かを大切に想い続けられるロウが、憎らしいほど格好良い。
その想いを寄せられている相手こそ自分だと知ってなお、それを素直に受け止められない。
「ロウの気持ちに応えられるほど、私ちゃんとしてない」
「あの時と何も変わらないままなの」
自分の言葉に情けなくて、申し訳なくて、堰き止めていたものが溢れた。
こんな時まで本当に自分勝手だなと自分自身に呆れすら込み上げてくる。
「馬鹿」
それなのに、髪を撫でるロウの手は優しくて、あの頃と同じくあたたかかった。小さく吐き出した息で笑ったのが分かる。
「変わってない方がいいだろ。同じ気持ちのままってことなら」
ロウはしっかりと瞳を合わせながら、小さい子をあやすように言った。
「今釣り合うとか考えるなって言っても、無理なんだろうな」
「じゃあ、そう思うなら、これから変わってくれりゃあいいからさ」
「変わるって……どうやって」
「何でもいい。俺のために、おしゃれしてくれるとか?」
「おしゃれ……」
「まあ例えば、な」
そのまま肩を抱かれて、ロウの腕の中にすっぽりと収められると、リンウェルはもう何もできなかった。ただその腕のあたたかさを全身で感じて身を委ねるほかに、必要なことは何もなかった。
「……またケンカしちゃうかも」
「そりゃするだろ」
「デートの約束も、忘れちゃうかもしれないし」
「俺が迎えに行けばいい」
一層強まる腕の力に、とうに逃げ場などなかったのだなとリンウェルは思った。
とくん、とくん、と聞こえるロウの鼓動の心地よさに、もう一歩もここから出たくないと思ってしまう。
もう一度、リンウェルは顔を上げて問う。
「本当に、私でいいの?」
「ああもう、」
乱暴に言葉を吐きながら、ロウは優しくリンウェルに口づけた。
かつてはすることのできなかったキスを、今のロウはこんなにも簡単にやってのけてしまう。
「ロウ、違う人みたい」
「嫌か?」
「ううん」
首を横に振って笑うと、やっとリンウェルはロウの背に腕を回すことができた。
◇
朝の研究所は静かだ。静まり返った廊下にコツコツと靴音が響く。
シャノンは窓の外に目をやりながら、食堂へと向かっていた。肩で跳ねる栗色の髪は、どんなに時間がなくても毎朝巻いている。この時間なら人もまばらだが、気は抜けない。いつどこで彼と会うかはわからないのだから。
「おはよう、シャノン」
後ろから掛けられた声に振り替えると、白衣を着たリンウェルがぱたぱたと駆け寄ってくるのが見えた。珍しく眠たそうには見えない。どうやら昨晩はきちんと睡眠をとったらしい。
「おはよう。リンウェルもコーヒー飲むでしょ?」
「うん」
シャノンが食堂の片隅に設けられた飲み放題のコーヒーメーカーに手を伸ばす。
すると、先に席についていると思ったはずのリンウェルの影が隣にあった。
「どうかした?」
いつもと違う様子にそう声を掛ければ、リンウェルは恥ずかしそうに目をゆっくりと合わせる。
「シャノン、あのね」
「服、選んでほしいの」
その意味するところは、きっと彼だとシャノンにはわかった。
「もちろんよ!」
返事と一緒にぎゅっとその体を抱きしめて親友の恋を祝福すれば、揺れた髪が朝日に輝いて見えた。
終わり