「シスロデンって、何か変わった?」
ヴィスキントという限られた都市の中で過ごして数年、かつては世界のあちこちを旅したリンウェルも、今ではすっかり情勢に疎くなってしまった。未来のことを考える研究者としてあるまじき姿だなと自覚はしていながら、自分の専門は歴史分野だからと言い訳をしていたこともある。こうしてようやく殻を破って外に目を向けられるようになったのも、日々世界を駆けまわる恋人の存在があってこそだろう。
「色々変わったぜ。人が来るようになったせいか、店も増えたし市場もデカくなった」
「それは想像つくけど」
光を取り戻したシスロディアには、メナンシアほどではないが各地から移民が多く押し寄せた。ガナベルトの支配下にあった頃から小規模とはいえ商売が行われていたシスロデンでは、自治が始まってからすぐに市場に力を入れ始めたのもあって、そこを新たな拠点にしようと目を付けた商人が多かったのだとか。
「相変わらず雪は多いけど、前みたいに次から次へと降るってことも少なくなったしな。随分穏やかになって暮らしやすくなったって、ブレゴンも喜んでるぜ」
「へえ……」
気候の変動は星霊力の変化によるところが大きいのだろう。ダナの5つの領地で偏っていた星霊力は、レナとの融合によって今や均質化されつつある。
シスロディアの厳しい寒さが緩んだのならますます人々の往来も盛んになるだろうし、加えて商業が活性化すれば、より街は賑やかになり、都市の大きな発展が見込めるに違いない。暗闇でない空の下で、それは一体どんな風に広がっていくのか。
「いいなぁ、久々に行きたいな」
ぽろっと零れ落ちた言葉に、リンウェルはしまったと思った。
「あ……ちがうの。ブレゴンにもしばらく会ってないし、挨拶したいなって思っただけで」
何も違うことはない。言った通り、そのままの気持ちなのだが、ロウの前ではなんとなく、言ってはいけない言葉だった気がしてリンウェルは咄嗟に取り繕う。
「お前なあ、俺がいつまでも引きずってると思うなよ」
「んう」
考えていることなどお見通しだといわんばかりにロウがリンウェルの鼻をつまむ。
「もうあの時みたいな街じゃないぜ。本当にそんなことあったのかって思えるくらい、変わった。そりゃ忘れるのは無理だろうけど、初めて見た奴はきっと気づかねえぞ、あんな酷いことがあったなんてな」
その方が良い、と付け加えて、ロウは濃いめに淹れたコーヒーの残りを一気に飲み干すと、何かを思いついたように目を輝かせて言った。
「わかった、今度そっちで仕事だから一緒に行こうぜ。街、案内してやるよ」
「えっ」
「詳しいことわかったら連絡するからな! 準備しとけよ!」
「えっ、ちょっと、待っ」
じゃあ仕事戻るわ、とロウは席を立つ。昼休みと称した休憩時間だったが、時計は既に午後3時を回っていた。
シスロディアはメナンシアとは隣り合った領地であるとはいえ、とても一日で帰って来られる距離ではない。街中の観光を含めるとしたら、それは当然泊りがけでのことになるだろう。
急なロウの提案に戸惑いはしたものの、よく考えてみればリンウェルに断る理由などなかった。
そもそも行きたいと口にしたのは自分の方で、それに運良くロウの仕事が重なったというのだから、ここはその言葉に甘えるべきだろうと考えた。
そうすると、やるべきは上司に休暇取得の申請と、ある程度近しい研究者たちへの連絡か。とはいえ長い日程とはならなそうだし、研究所の業務に関しては特に問題はなさそうだ。とりあえずは申請の書類を取りに行かなくては。
あとは、服装も考えなくてはならない。
いくらシスロディアの気候が穏やかになってきたといっても、あたたかいメナンシアとは違い、日中でも気温は一桁台だろう。防寒着に加え、私服ももう少し温かいものを買った方が良いかもしれない。
あとは新しい下着も……と、そこまで考えて、自室に向かっていたリンウェルの脚がほんの少し鈍る。
これはいうなれば旅行みたいなものだ。ロウは仕事があると言っていたが、自分は観光に行くだけなのだから。
泊りがけならば、二人で初めて夜を過ごすことになるのかもしれない。
――それはつまり、そういうことなのだろうか。
リンウェルがロウと再び交際を始めてから4か月が経つ。
メナンシアにいるリンウェルにロウが会いに来るという形ではあったが、それは確かに続けられていた。
ロウがこちらに来たときは一緒に食事に行ったり、今日みたいに食堂や街のカフェで話をしたりする。買い物に付き合ってもらうこともあれば、研究所の自室の掃除を手伝わせたこともあった。
その中で、キスをしたり抱き合ったりというのはままよくある。もちろん人目を忍んで、自室や路地裏でこっそりと。だがその先に関しては何一つ進んでいない。
いや、何一つというのは嘘だ。一度だけ、そういう雰囲気になったことはある。
研究室の片づけをしていて、休憩がてらベッドに腰掛けたところでキスをしているうち、服の中に手が伸びてきた。驚いたリンウェルが「待って」と制止すれば、ロウは「悪い」とその手をひっこめてはくれたが、その後は会話もややぎこちなくなってしまった。
ロウが一度カラグリアに戻って再びこちらに訪れたときには、そんな気まずさはすっかり消え去ってはいたが、それ以来同じような状況にはなっていない。
18歳にもなれば、その伸びてきた手の先に何が起こるのかくらい、わかっている。
ロウとそういうことをするのが嫌なわけではない。多少抵抗や恐怖はあったとして、それが一時のものであるのだろうなというのもなんとなく感じてはいる。
ただあの時は心の準備ができていなかっただけで、次にそういう雰囲気になったらきっと、自分は ロウと一線を越えるのだろう。越えてしまうのだろう。
ロウのことが好きで、いずれ恋人としてそういう行為に及ぶというのも理解しているのに、この言い知れぬ感情は何なのだろう。
抵抗でも恐怖でもない、その先にぼんやりと浮かぶ、もやもやとしたもの。まるで掴みどころのないそれは、近づいてくる様子もなく、ただそこで待ち構えているように思える。
行為が嫌でないと自分では思いながら、実は違うというのだろうか。
それは実際にその時を迎えてみないとわからないな、とリンウェルは思った。
想像は想像でしかない。いざ直面した時、自分は一体どうなってしまうのだろう。
ロウから日程を知らされたのは、その数日後だった。
キサラ経由で告げられたのは来週後半の日付で、リンウェルが思っていたよりも早い。決して間に合わないということはないが、ちょっと準備を急がなければならない。
「急なお誘いだと思ったら、そういうことね」
「そうなの。買うものたくさんあって」
シャノンと街を歩きながら、リンウェルは小さなため息をつく。旅行の準備が面倒なわけではなく、普段から服や日用品を揃えておかない自分に呆れたのだ。
「でもなんか楽しそうね。上手くいってるみたいで良かったわ」
「うんまあ……そうなるのかな」
たかが4か月、されど4か月。決して長い期間ではないとはいえ、まだ終わる気配もない。
これまで交際してきた相手とは、もって2か月程度であったのを考えれば、かなり順調だと言えるだろう。
その理由の大きなところとして、遠距離恋愛であることが挙げられるのではないかと、リンウェルは思っている。
会いたいときに会えないのは寂しくもあるが、一緒にいる時間も増えればおのずと相手の欠点にも目がいくだろう。お互いのことを知りすぎた結果、相手が嫌になって別れたなんてよく聞く話だ。
「でもなんかこう、良くも悪くも落ち着いてるわよね。というか、落ち着きすぎ?」
「そう?」
「私は恋人ができたら、毎日会いたくてたまらないけど」
「シャノンはたしかにそれっぽい」
ふふっと、笑いながら自分はどうだろうとリンウェルは服を選ぶ手を止める。
毎日ロウに会えれば嬉しいことは嬉しいだろうが、今のこの状況で特に不満もない。
ロウも自分も仕事があるし、日中は会えないことに変わりはない。
帰ったらどちらかが出迎えてくれる、というのは魅力的でもあるが、食事の用意や掃除の当番などで揉めたりもしそうだ。
「それに、相手が向こうで何してるか気にならないの?」
「え、仕事でしょ?」
当然だという風に答えれば、シャノンは少し口ごもった後で「私が悪かったわ……」と小さく笑った。どこか遠くを見ているようでもあったその目からは、何か良くない過去が覗いた気がして、リンウェルは何も見なかったことにした。
「シャノン、もう一つ付き合って」
「いいけど、他にまだ買うものあるの?」
「えっと……下着、なんだけど」
みるみる小さくなるリンウェルの声に、シャノンはなるほど、と笑う。
路地に入ったところにある小さな店は、今ヴィスキントの女子に人気の下着屋だ。
ダナの自然素材を用いた下着は使い心地が抜群で、加えてレナのデザインを取り入れているためお洒落で可愛らしいと評判なのだ。
「わ、すごい」
並んだ商品はどれも目を引くものばかりで、カラーも豊富だ。
ついつい目移りしそうになりながら、リンウェルは特に気になったものを次々に手に取っていく。
「どんなのが良いんだろう……」
「何でもいいと思うわよ。男なんて中身にしか興味ないんだから」
「ちょっと」
元も子もないことを言わないで、とリンウェルはシャノンの腕を小突く。
それに、きっとロウはそうじゃない、と思いたい。
「ねえリンウェル、恋人として長続きするには、何が必要だと思う?」
「長続き?」
シャノンからの唐突な問いに、リンウェルは手を止める。
「関係を解消したいのに情が湧いてずるずる、とかそういうのじゃなくてね。お互いに相手を大事に思ったまま、その関係を続けるには、って話」
頭の中に考えを巡らしながら、リンウェルは要素を挙げていく。
相手と継続的に交際をするにあたっては、思いやりが不可欠だろう。相手を気遣う心と、相手を許せる心の大きさ。かといって、自分を押し殺して何も言わないのは良くないと思う。相手の話を聞きながら、自分の意見も通すバランスとでもいうのだろうか。
とはいえいくら相手のことを想っていても、うまくいかないという話も聞く。それは何が原因なのだろう。リンウェルが頭を悩ませていると、シャノンは穏やかに笑って一言、「努力よ」と言った。
「……努力?」
「運とかタイミングももちろん大切だけど、お互いの努力なしじゃ絶対に続かないものなの。頑張って相手を振り向かせたからといって、そこで終わりじゃないのよ」
リンウェルには心当たりがあった。その努力をしてこなかったからこそ、どの交際も長続きしなかったのだ。
「でも、それじゃ相手を好きで居続ける努力が必要ってこと?」
問いながら、それにはなんとなく違和感があるなとリンウェルは思う。相手を好きだと思う気持ちに努力が必要なら、多少無理をしなければならないような、そんなイメージが湧くのだ。相手を好きだと思う気持ちは自然と込み上げるものではないのか。
「きっと、それも必要なんでしょうね。具体的にどうするとかは難しいけど、相手の嫌なところばかり見ていては冷めてしまうでしょ? いいところも見るようにする、とかそんな感じかしら」
「なるほど……」
「偉そうなこと言っておいてあれだけど、私もあまり長続きしない方だから。話半分で聞いてくれていいわ」
自嘲とは違った美しい笑顔を浮かべながら、シャノンはこうまとめた。
「だからね、私からのアドバイスがあるとするなら」
「今日は3つ、下着を買いなさい」
自信に満ち溢れたシャノンの目に曇りは一切見えなくて、その勢いに飲まれるようにリンウェルはただうん、と頷いた。
交際に必要な努力と、可愛い下着に何の因果があるのかリンウェルにはわからなかったが、きっと間違っていないのだろうなと、謎の確信だけが胸に残った。
◇
久々のシスロディアは思った通り寒く、厚着をしてきて正解だったなとリンウェルは思った。ヴィスキントからは定期的にシスロディアへの荷車の便が出ており、リンウェルはそれに乗ってここまでやってきた。使役されたズーグルが引くそれの乗り心地は決して良いとは言えなかったが、しばらく引きこもり生活をしていた自分の体力を考えればありがたいとしか言えない。料金もまだそこそこかかるが、給金の使い道が貯金以外にないリンウェルにとっては安いものだった。
「お待たせ」
「やっと着いたか。疲れたろ?」
荷車の停車場付近で既に待っていたロウは、リンウェルの荷物をひょいと持ち上げるとその背に背負う。
「え、いいよ。自分で持つから」
「そんな重くもねえし、俺が自分のとまとめて持っとく」
確かに着替え程度しか入っていないそれが、鍛えているロウにとって重いということはないだろうが、だからこそ持たせるのは悪いというのに。
「これから両手、埋まることになるだろうしな」
そう言ったロウの表情はリンウェルからは見えなかったが、やけにその声色が楽しそうだったので、ここはその言葉に甘えて荷物を預けることにした。
シスロデンの石造りの建物群はあの頃と変わらない。鈍色のそれは冷たい印象で、まるでここに住む人々の心をそのまま映したようだった。
だが今はどうだろう。門をくぐったリンウェルの目に飛び込んでくるのは、かつてのシスロデンとは全く違って見えるほどの美しい街並みだった。
道には街灯が置かれ、まだ昼間だというのにそこには火が灯っている。植え替えられた木々は整然としていて、装飾を施されたものもあった。建物の前や広場には花が飾られており、どことなくヴィスキントの街を思い出す。
「街灯はお前んとこの研究者が設計したらしいぜ。寒さに強い花のヒンシュカイリョウ?とか、そういうのもやってるって聞いたな」
「そうなの? 全然知らなかった」
同じ研究所とはいえ分野は多岐に渡りすぎていて、そのすべてを把握はできない。だがこうして成果を目の当たりにすると、顔も知らぬ同僚とはいえ誇らしくもなるものだ。
一番変わったのは街の人だろう。その表情は、疑われないように俯いていたあの頃とはまるで違う。道行く人と談笑を楽しみ、明るい笑顔からは小さい子供からお年寄りまで皆が生き生きとしている様子が伺えた。
「ロウの言う通り、変わったね」
「そうだろ? まだまだ大きくなるぜ、シスロデンは」
その言葉には確信が込められていて、リンウェルもそれはきっと正しいのだと思った。
街並みだけでなく、住む人がはつらつとした街が発展しないわけがない。それに、世界を見てきたロウが言うのだ、間違いない。
ここで起きた悲しい事件を知っているからこそ、リンウェルにとってこの街の変化は尊いものに感じられる。
積もった雪をじんわりと溶かすような街灯の火に、ほんのすこしだけ寒さを忘れることができた。
その後リンウェルは、ロウに案内されるままシスロデンの街を回って歩いた。
市場には様々なお店が出ていて、ヴィスキントとはまた違う品揃えに興味をそそられる。
食べ物の屋台が並ぶ一画では見慣れない料理の数々に好奇心が湧いた。手当たり次第に気になったものから購入していくと、あっという間に両手は塞がってしまい、リンウェルはロウが言っていたことの意味をようやく理解したのだった。
「あー楽しかった!」
「そりゃよかった」
旅をしていた頃に比べてリンウェルの体力は確実に減ってはいただろうが、今日はそれを忘れるくらい歩き回った。連れ回してしまったロウの方が疲れたんじゃないかと心配したが、そんな様子をおくびにも出さないロウに少しホッとした。
気が付けば空がオレンジ色に染まっていて、リンウェルははっとする。
宿は、どうするのだろう。
そういえば何も聞いていなかったなと思ったが、敢えて聞くことでもないような気もする。
何でもない風に問えばいい話なのだが、リンウェルにはこの微妙な気持ちをうまく隠し通せる自信がなかった。
そんなリンウェルを知ってか知らずか、ロウが再び荷物を持って立ち上がる。
「じゃあ、宿行くか」
「えっ」
「疲れたろ? それともまだ見て回るか?」
「あっ、うん。いや、もういいよ。明日もあるし」
よくわからない返事をしながら、リンウェルはロウについていく。
シスロデンにはいくつか宿があるが、以前はブレゴンが用意した隠れ家を主に休憩場所として使っていたため、そのどれもリンウェルはよく知らない。所在すら曖昧だが、よく仕事でここを訪れているロウなら知っているのだろう。
ところがロウが向かっている先は、どこの区画でもない。どう見ても街の外へと向かう門だ。
「ねえ、本当にこっち?」
不思議そうに尋ねるリンウェルのことを気にもせず、ロウはただ「合ってるって」としか言わなかった。心配はいらないのだろうが、見当もつかない行先にただ付いていくだけというのは不安にもなる。
門を出てしばらくすると、坂を上った先から新しい建物が見えた。
「もしかして、ここ?」
「ああ。驚いたろ?」
建物の陰から白い湯気がもくもくと立ち込めている。
この独特の匂いは、昔、皆で入った温泉のものだとリンウェルはすぐに気づいた。
ロウ曰く、あの後すっかり評判になった温泉には各地から観光客が訪れ、シスロデンの名物となった。こうなったらいっそ宿でもおったてちまうか! という主人の思い切りで、世にも珍しい温泉宿が出来たらしい。
「知らなかった……」
「結構有名なんだけどな。部屋取るのも一苦労だったぜ」
案内された部屋は広く、二人で使うには充分すぎるほどだった。凝ったデザインのテーブルにソファ。カーテンの掛かった大きめの窓からはシスロデンが見える。
そして、ダブルベッドが一つ。
それを目の当たりにして、一瞬リンウェルの動きが止まる。
緊張するなといわれても、到底無理な話だ。
シスロディアに着いてからはすっかり忘れていたが、今夜はロウと初めて夜を過ごすことになる。
何も起こらないという可能性だってもちろんあるが、それを少し寂しいと思ってしまうのは我儘だろうか。一度そうなりかけたのだから、ロウに全くその気がないとは思えないが、自分が体を許さない女だと思われている可能性は大いにある。かといって自分で説明するようなことでもないし、何もしないの? と聞けるような勇気も流石にない。
「おーいリンウェルー、聞いてるかー?」
「えっ、な、なに?」
「だから風呂どうする? 飯の前でも後でもどっちでもいいけど」
考え事に集中しすぎていて、ロウの呼びかけにも気づかなかったらしい。
「ロウはどうするの?」
「俺は……少し寝るかな。明日も午後から仕事あるし」
「そっか……じゃあわたしお風呂入ってこようかな。ご飯の後にも、もう一回入りたい」
「わかった。じゃ、鍵預けっから」
「うん」
そういえばロウは仕事の合間にこうして付き合ってくれているのだ。
今日だって、リンウェルがシスロデンに着くまでは次の仕事の打ち合わせをしていたと聞く。
二人で居られるこの時間を大切にしないでどうするのか。
リンウェルはあまり深く考えないようにしようと心に決めて、部屋を出たのだった。
温泉も食事もどれも大満足だった。
湯加減といい、料理の見栄え、味といい、どれをとっても申し分ない。
昔はあんなに食料に困った地域であったのに、今は肉も魚も何でも出てくる。市場が栄えたことの恩恵がここにもあったというわけだ。
二度目の温泉から戻ると、ロウは既に部屋で寛いでいた。例の大きなベッドの上で。
「よお、遅かったな」
「うん、ちょっと混んでて」
嘘だ。自分の他に客は2人だけだった。
心拍数が一気に上昇するのが分かって、リンウェルは思わず足を止める。
ここでソファに行くのは、ロウと距離を取りたがっているようで、なんだか不自然な気がした。とはいえどんな顔でベッドに向かったらいいのだろう。自分からそこに飛び込んでいくのは、積極的だと思われはしないだろうか。
いろいろと考えた後で、リンウェルが出した結論は「どっちにしたって寝るのはベッド」という身も蓋もないものだった。
いざ覚悟を決めて、リンウェルはロウのいるベッドの端に腰掛ける。
ベッドの軋む音でまたほんの少し、鼓動が加速した。
「リンウェル」
呼ばれた声に反応してそちらを向くと、唇が重ねられる。
今日一番の接近に、リンウェルの身体が思わず跳ね上がった。
「なんか、顔赤くね?」
のぼせたのか? と額にかざされた手の下で、頬にはますます熱が籠っていくのが分かった。
大丈夫、と言いながらもその目を見られないでいると、ロウがリンウェルの肩を掴む。
「もしかして、緊張してんのか?」
「……!」
図星を突かれると、沈黙は肯定だとわかっていてもリンウェルはもう何も言えなくなってしまった。
恥ずかしい。まるでこれから先を期待してしまっているようだ。
自意識過剰な自分を覆うような、すっぽり収まる穴に入ってしまいたい。
「あー……まあ、なんだ、その」
ロウの方も言葉を選んでいるようで、頭を悩ませているのが伝わってくる。
「俺はお前とそういうことしたいと思ってるけど、別にしなくてもいいとも思ってる」
「そういうのは、勢いでやるもんじゃねえだろ」
こないだみたいに、と小さい声が聞こえて、リンウェルはハッとした。
やはりロウはあれを気にしていたらしい。
「お前に無理させたくねえし、嫌なら――」
「いやじゃない!」
思ったよりも大きな声が出て、驚いたのは自分の方だったが、リンウェルは決してその気持ちが嘘ではないとロウの腕を強く握り込む。
「嫌じゃ、ないから」
どうしてもその瞳を見つめることは叶わなかったが、ロウから額に落とされた口づけによって、リンウェルは夜の始まりを知ることになった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
唇から頬へ、頬から首筋へと落ちていくキスは、いまだロウに見せたことのない部分へと続いていく。
リンウェルが身に着けていたのは宿の方で用意されていた寝間着だったが、いつの間にかロウの手によって乱されて、既に上の下着が覗いてしまっていた。
恥ずかしさにぎゅっと目を瞑っていたリンウェルだったが、ふと視線を感じてロウの方を見ると、あろうことかその下着へと目が向いている。
リンウェルが選んだ濃紺のそれには星をイメージした模様がちりばめられていて、派手すぎないデザインが気に入ったものだった。
「と、友達とね、買いに行ったの」
沈黙を誤魔化そうとして、リンウェルはつい入手経緯を説明してしまう。
ロウの好みではなかったのだろうか。あるいはシャノンが言っていたように、そんなものに興味はないのかもしれない。
「新しいの買ったってことか?」
「う、うん……」
ゆっくり頷くと、ロウは照れたように笑ってリンウェルの身体をぎゅうと抱きしめる。
「かわいい。これもそうだけど、そうやってわざわざ買うのとか、すげーかわいい」
「今日着てた服も見たことなかったし、買ってくれたんだろ? よく似合ってた」
「お前が頑張ってるとこ好きなんだけど、それが俺に向けられてると……なんかうまく言えねーけど、すげえかわいいし、嬉しい」
うん、とかありがと、とか一言を挟むたびにロウの甘い言葉が降ってくる。
嬉しいやら恥ずかしいやらで、リンウェルはただそれを受け入れるので精いっぱいだ。
そうやって心が追い付かない状態でされるがままになっていると、不意に素肌に触れたロウの手に体がびくりと震えた。
「後でまたゆっくり見してもらうけど、今はちょっと余裕ねえわ」
ぐい、とそれをたくし上げられて露になった膨らみに、ロウの手が掛かる。
あっ、と漏れた声はもう遅くて、咄嗟に手で口を覆っても、隙間から零れてしまう。
「はずかし……」
「なんでだ? きれいだし、かわいい」
それはロウの主観でしょと言いたいのに、硬くなった先端を擦り上げられては反論もできそうにない。
「声、聞きたい」
ロウがそれを口に含むと、ひと際高い声が出る。
舌で転がされて、吸われて、舐めとられて、そんな風に愛されてしまうと、甘く啼くことさえ許された気がして、リンウェルはただ為すがままに声を上げた。
「あ、あのね……」
ロウの手が下の方に伸びてくると、リンウェルは小さな声で告白する。
「わたし、その……はじめてだから……」
その後に続く言葉が思いつかないまま、ただ事実だけを告げると、ロウは「わかった」とだけ答えた。
ロウが触れなくとも、リンウェルは、自分のそこがどうなっているかはよくわかっていた。
経験がないとはいえ、知識だけはなんとなくある。ロウを受け入れるには、そうなっていないといけないのだから、どちらかといえば安堵すらしていた。
「きつかったら言えよ」
その言葉に続いてロウの指が挿し入れられると、息苦しさがリンウェルを襲う。
体の中を何かが這いまわる感覚は、他のものでは形容しがたい。呼吸は不規則になるものの痛みはなく、所在なさにロウの手を引けばすぐにキスが降ってきた。
異物感にやや慣れた頃、ロウはどこからともなく取り出した避妊具を装着していた。
一切の淀みも惑いもないその仕草に、リンウェルは顔も知らない子の影を見た。
だが不思議と、嫌悪感も嫉妬心もない。
自分がだれかと交際したように、ロウにだってそういうことがあったというだけのことで、今ロウの瞳に映っているのが誰かはちゃんとわかっている。
それを確認するかのようにキスを一つ強請って、リンウェルは心の中で少し微笑んだ。
「挿入れるぞ」
覆いかぶさってきたロウの首に手を回すと、先ほど感じた指とは比べ物にならない質量のものが中に入ってくる。
ぴりぴりと痺れるような痛みと波のように押し寄せる圧迫感に、リンウェルは声にならない声を上げた。
ロウが苦しそうな息を吐いたのと、二人の体がぴったりと重なったのはほとんど同時で、それが分かった途端、鼻の奥がつんとした。
キスもハグもたくさんしてきたけれど、それよりもずっと深く繋がっていることに胸がはちきれそうだったのだ。
今自分の中に感じるロウの熱がたまらなく愛おしい。
じわりと滲んだ視界は痛みのせいでないと知って、それまで感じていた苦しさを逃がすようにリンウェルは唇を薄く開く。
「すき……」
まさに零れたといってもいい。
「すき、ロウがすき」
「リンウェル」
ほとんどうわごとみたいになった声を、宙に消える寸前でロウが唇ごと奪い去っていく。
誘い込むように口を開いてそれに応えれば、上でも下でも繋がっているという事実が再びリンウェルの身体に熱をもたらした。
ロウとのキスが好き。
ロウの意外と長い指が好き。
ロウは気にしているけど、夏場の汗の匂いも好きだ。
名前を呼んでくれる声も、撫でてくれる手も、肌に掠めてくすぐったい髪の毛も、ぜんぶぜんぶ、愛おしい。
気持ちいいとか、そういうのはわからないけど、離れがたくて、ずっとこうしていたいという気持ちが、確かにある。
素肌を晒して、自分でも見たこともないようなところを見られて、あられもない声を上げてしまっているとわかっているのに、今こうしているのがどうしようもなく幸せなことであると思えた。
「すき」
今はそれだけしか言葉に出来ないでいる。
一番短いけれど、一番自分の気持ちをよく表している、たった二文字。ロウからは、もっと短い返事のキスが山ほど返ってきた。
行為の余韻とでもいうのだろうか、少し怠い体をロウにぴったりと預けながら、リンウェルはぼんやりと宙を眺めていた。
ほんの少し気が緩めば今にも眠ってしまいそうなまどろみの中で、ロウから感じる体温と鼓動が心地よかった。
「もう少し先になるとは思うんだけどよ」
リンウェルの髪を撫でながらロウが口にした声には、何か決意が込められているようにも思える。
「金が貯まったら、ヴィスキントに部屋でも借りようかと思ってる」
「そしたら、一緒に暮らさねえか」
ぼやけた頭で聞いていたロウの話が急に自分事になってしまったことにリンウェルは驚いたが、次の瞬間には思考は別の方向へと切り替わっていた。
「もう少し先って、どのくらい?」
「多分だけど、半年とか、そのくらい」
「そっか……」
「ねえ」
「それ、もうちょっと早まらない?」