じっとりと肌が汗ばみそうな夜のことだ。
ふと何かが覆いかぶさってくる気配で目が覚めた。
暗闇の中にぼんやり浮かぶシルエット。徐々にせり上がり、迫り来るそれが私の首筋に顔を埋める。
ふっと吹きかけられた吐息に、堪らず声を上げた。そしていまだ冴え切らない声で、呟くように問いかけた。
「ロウ……? どうしたの……?」
影からの返事はない。その表情も見えない。
ただ、香るのは確かにその匂いだった。それにこんなことをするのは、できるのは、同じベッドで眠るロウしかいない。
気配を探ろうとした指は絡め取られ、腕ごとシーツの上に縫い留められる。さらにのしかかってくる重みはまったくといっていいほど容赦がなくて、胸が苦しくなるくらいだった。
身じろぎひとつ許されない私は、ただなされるがままだった。深く口づけられている間に力は抜けていき、身体はすっかり言うことを聞かなくなってしまっていた。
再び霞みだした頭で思う。何が起こっているんだろう。何がどうなって、こんなことに。
たくし上げられた寝間着の隙間からぬるい外気が入ってくる。それよりはるかに高い熱を持った指が体中を這い回るのを感じて、私は思わず背中を震わせた。
与えられる快楽はよく知ったものだった。それでいて決して慣れることはないその感覚に、口端からは甘く声が漏れ始める。
あっという間に移された熱に、思考ごと溶かされてしまったのは仕方のないことだ。私はその指に、舌に、吐息に導かれるまま、とてもじゃないが穏やかとは言えない夜を過ごすことになった。
翌朝になって目を覚ました私は、すぐに頬に熱を上らせた。思い出したのは、真夜中に起きた出来事だった。
正直記憶はおぼろげだ。でも何をしたかははっきり答えることができる。できてしまう。
どうしてあんなことになってしまったんだろう。私は気恥ずかしさをこらえながらも、ロウに昨晩起こした行動の理由を問い詰めることにした。
「き、昨日のことだけど……」
朝食の際、そう切り出した私に、ロウが見せたのは意外過ぎる反応だった。
「昨日? 何かあったのか?」
ロウは歯型のついたトーストを片手に、きょとんとした表情で首を傾げた。
それを見た私は思わず「えっ」と大きな声を上げてしまった。
「何も覚えてないの?」
「覚えてないって、何が」
顔をじっと見つめてみても、特段その目が泳ぐことはない。何か隠し事をしていたり、知らないふりをしたりしているというわけでもなさそうだ。
私は戸惑った。じゃあ昨日のあれはいったい……?
「え、もしかして俺何かやらかしたか? すっげえイビキうるさかったとか」
「ううん、違うの。そうじゃないんだけど……」
どう説明したらと迷った挙句、私はとりあえず「気のせいだったかも」と言って誤魔化すことにした。もしあれが本当にロウの身に覚えのないことだとしたらかえって不安にさせるだけだろうし、仕事前に身に入らなくなるようなことを敢えて言いたくはない。
何より、私自身が確信を持てていなかった。もしかしたら、あれは寝苦しい夜が私に見させたただの夢だったのかもしれない。記憶は頭にこびりついていても、物的証拠は何1つ残っていないのだ。最中に乱された衣服も朝にはきちんと直っていたし、汚れたシーツを交換した形跡もなかった。
そうはいっても、あんな出来事が夢なんてこと、あり得るの?
目を閉じると、昨夜の光景がありありと蘇ってきた。触れ合う唇。交わる吐息。溶けだしそうなほどの熱。
あれが夢であるというなら、むしろ恐ろしい。思い出すたび髄の奥まで痺れそうなそれは、まるで底のない沼のように抜け出せなくなりそうで。
とはいえそう心配することもないと私は結論付けた。同じ夢を見ることは極めて稀だというし、そうでないのならなおさら似たような目に遭う可能性は低そうだ。
あれはふとした夜に遭遇した幻だった。
そう思おうとしたのに――。忘れた頃に、それは再び現れた。
今度は、後ろからだった。横を向いて眠っていると、自分のものでない手が下半身を這い回っていることに気が付いた。そしてそれはあれよあれよという間に私の寝間着を捲り上げ、穿いているものを下着ごとひと息に摺り下ろしたのだった。
「えっ……! な、なに……!?」
抵抗する間もなくナカに指が挿し入れられる。ほとんど潤っていないそこは侵入者の気配を察して、無意識にも強く閉ざそうとする。
それがまたいけなかった。
「……あっ……!」
締め出そうとすればするほど、ナカで蠢く指をはっきりと捉えてしまう。
「やあ……っ……! ね……ま、まっ……!」
必死の訴えもむなしく、その手は私の体をまさぐることを止めようとはしなかった。一旦引き抜かれた指は熱を持ったまま、今度は胸元へと侵入してくる。布越し、寝間着越しだというのに的確に尖りを探り当ててくるそれは、何か探知機でもついているかのようだ。爪先で弾かれ、摘ままれ、やわく撫でられると、私の口からはひっきりなしに声が漏れた。止めようとしても止まらない。身体が自動的に反応してしまう。
背中に感じる体温には、やっぱり覚えがある。耳元で荒くなっている吐息にも、そこから香ってくる匂いにも。
顔を見なくとも、声を聞かずともわかる。相手がわかり切っているからこそ、今私はこんなふうになってしまっているわけだけれど。
それが秘部にあてがわれた瞬間、私の腰は電流が走ったように甘く痺れた。じわじわと肉を押しのけるようにして挿入ってきたそれに、もはや声も上がらなかった。
熱い。苦しい。それでもやめてほしいとは微塵も思わないのが不思議だった。こんな眠っている間に突然、それも半ば無理やりのような形で犯されているにも関わらず、私は身体も思考もどろどろに溶かされてしまっていた。あまつさえできることならもう一分一秒長く繋がっていたい、などと考えてしまっているのだから重症だ。
振り向こうとした唇はすぐに塞がれてしまった。息も絶え絶えになりながら、必死に舌を差し出す。咥内で混じり合った唾液からは、毎日使っている同じ歯磨き粉の香りが香った。
徐々に昂ぶってくる律動に、私の方も体を揺らしていた気がする。というのも、私の記憶はそこで途切れてしまっていた。
目覚めると、着衣は元の形にすっかり戻っていた。下着も寝間着も、ベッドに入る前の状態と何ら変わらない。何の変哲もない寝室で迎える、いつも通りの朝だ。
そしてやっぱり、ロウの様子もいつもと同じだった。寝起きのいいロウは私よりも早くに目覚め、朝食の用意を済ませてくれていた。
私はまた混乱した。あれは夢だったのか、あるいは違うのか。誰も、何もかも、自分でさえも信じられなくなりそうだ。
「大丈夫か?」
そんな私を見て、ロウは心配そうに言った。
「え?」
「いやだって、すげえうわの空だから」
具合でも悪いのか? と顔を覗き込みながら額に手を翳してくる。朝でもやたらと体温の高いロウの手のひらはあたたかくて、それがやけにほっとした。
「熱はなさそうだな。疲れでも溜まってんのか?」
「ううん、別にそんなことないよ」
「そうか? じゃあ寝不足とか?」
「それも違うかな。最近は夜更かしもしてないし」
じゃあなんだろな、と頭を悩ませるロウに、私は「大丈夫」と笑いかけた。
「心配しないで。ただちょっと考え事してただけだから」
「ならいいけどよ。あんまり無理すんなよ。体調悪いなら休んでろ」
うん、ありがと、と言って、私は仕事へ向かうロウを見送った。そしてその背中を見つめながら、ひとり思い直す。
やっぱりあれは夢だったんだ。だってあんなに優しいロウが、私のことを私より大事にしてくれるロウが、あんなふうなことをするはずがない。
いつも私をこわれものみたいにして触れるロウが、あんな乱暴に迫ってくるはずがないのだ。
それに、と思う。
あれが夢であるというなら、少なからず思い当たる節がないこともない。
夕方からしとしとと雨の降りしきる夜があった。星明かりすら射し込まない暗闇に、雨粒が屋根を叩く音だけが響いている。
「ランプ消すよ。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
明かりが消えるのと同時に、寝室には沈むような静寂が訪れた。
背後の雨音を聞きながら、私はぼんやり考えを巡らせていた。明日は何をしようかな、本でも借りに行こうかな。それから帰りに市場に寄って、あとはゆっくり部屋で過ごそうかな。
うつらうつらとしているうち、眠りに落ちてしまっていたのだろう。はっとしたのは、ベッドが大きく軋む音を聞いたからだ。
薄く目を開くと、そこにはやはり人影があった。ああまたか、と思う。またあの夢だ。
3度目ともなれば、心の準備は出来ていた。夢と割り切ればこそ、どう反応すべきかもわかる。
私は両腕を投げ出して、その影が覆いかぶさってくるのをただ受け入れた。首筋に這う舌の熱さに肩を震わせながら、その背中にそっと腕を回す。
馴染み、慣れ親しんだ匂いがする。同じ石けんを使っているのに、それでも少し自分と違うのは、生まれ持った体臭のせいかもしれない。
いつか本で読んだことがあったが、匂いとは番を見つけるための1つの指標でもあるのだそうだ。好ましい匂いがする相手は、自分の番となるのに相応しい素質を持っている。逆に顔を顰めてしまうようであれば、いくら気が合ったとしても番としては適切でない可能性が高い。
それはなんとなく正しいと思う。これだけ惹かれる相手の匂いがこんなに好ましく思えるのは、その説が正論であることの何よりの証拠だろう。
あるいはその反対ということもあり得るけれど。私はこの人と番になりたくて、その説を信じたいのかもしれない。
「…………ロウ……」
私の呼びかけに応えるようにキスが降ってくる。いつもとはまるきり違う、乱暴で荒々しいキス。まだ冴え切らない思考では大きく口も開けなかったが、それでも必死に舌を絡めた。ぬるりと歯列をなぞられる。溢れた唾液が僅かに糸を引きながら、口端から頬へと流れていった。
寝間着をたくし上げたのは、私の方だった。下着だけを身に着けた素肌を晒し、外気に小さく身を震わせる。
私はロウの手を取ると、自ら胸元へと導いた。そうして暗闇の中でぬらりと光る瞳を見つめながら、意を決して口にした。
「……触って」
だってこれは夢なんだから。夢の中でなら少しくらい、求めても良いよね?
あの日、自分が見た光景が夢だったとして、思いついたことが1つだけあった。――夢は願望を表す鏡。
私は心の中で、ずっとロウを求めていたのかもしれない。否、ロウに求められることを求めていたのかもしれない。
優しく、私を労わる指遣いを不満に思ったことは一度もない。むしろその度大事にされていると実感していたし、これ以上ない幸福に感極まって涙を流すことさえあった。
それでも、それ以外を望まなかったと言ったら嘘になる。きっと私の心の奥底には秘めておくべき浅ましい何かが湧いていて、それがどうしてか今頃、ああして夢となって浮かび上がってきたに違いなかった。
じゃなきゃあんなふうなこと、起こりうるはずがない。あんな、私の意思とは関係なしにロウが行為に走るようなことは。
逆にこれが夢だというのであれば、もう遠慮はいらないとも思った。普段はなかなか言えずにいることも、叶えて欲しい願いも、何だって口にすることができる。
「触って。それから……舐めて……。もっと……」
気恥ずかしさは募ったが、それでも躊躇わなかった。夢は夢。明日になれば消えてしまうのだから、そうする必要もない。
私の希望を1つずつ、そして同時に叶えるようにロウは動いた。片方は舌先で転がしながら、もう片方を指で弄ぶ。くるくる、ころころ、何がどうなっているかはわからないけれど、おおよそ指や舌で可能なことはできる限り尽くしてくれた。
それはもう、玩具を手にした幼子のように。加減も容赦も知らないそれは、思う存分好きなだけ私の尖りを嬲り尽くした。
私は胸にロウの頭を抱え込みながら快楽に酔い痴れた。声を隠す余裕もない。そうしようと口を閉ざしたところで、ロウの動きがいっそう激しくなるからだ。
たまらない、と思う。感じすぎるそこはもはや痛いほどなのに、私は霞む思考の中で止めないでほしいとだけ願っていた。このままひと息に頂点を迎えたい気もするし、一晩中こうしていたい気もする。楽になりたいようで、なりたくない。快感とは恐ろしい。私が私じゃなくなってしまう。
ただ、さらなる飢えを感じている部分があることにも気が付いていた。ロウはそれを察したかのように私の下半身に手を伸ばすと、下着の中にそっと指を挿し入れてきた。
自分でもわかるくらいに濡れそぼったそこは、今か今かと訪れを期待していた。愛液で滑らせた指が陰核に触れるたび、視界が眩みそうなほどの痺れが全身に走る。
もう我慢ならなかった。
「お願い……もう挿入れて……」
暗闇の中で衣擦れの音が聞こえたのを合図にして、私も毛布と脱ぎ捨てたものをベッドの下に追いやる。
ほとんど間を置かずに覆いかぶさってきたロウを迎え入れた途端、私の背中は骨ごとどろどろに溶け落ちるようだった。
こんなの初めてだ。螺旋の階段を転がり落ちるようにして、私はすぐに1度目の絶頂を迎えた。
当然それだけでは収まらない。激しい律動は少しの容赦もなく私のナカを責め立てた。
「あっ、あ、っ、あ、だめ、あっ、ああっ……!」
声にならない声が途切れてはまた夜に溶けていく。ぐちゅぐちゅと聞こえるいやらしい水音は紛れもなく自分の一部から聞こえてきているのに、それさえもどこか遠く感じられるようだった。
今は何も目に入らない。目の前のロウ以外には。
転がされ、手をついた状態で下半身を突き出す格好にさせられる。後ろから貫かれ、反りかえった背中に再び何度も衝撃が走った。
激しい。激しさしかないのに、どうしてこんなに甘やかなんだろう。獣みたいな吐息しか聞こえてこないのに、どうしてそれさえ愛おしく思うんだろう。好きだからこうしているのか、こうしているから好きなのか、もはや訳がわからなくなってくる。
どっちだっていい。今はもう少しだけ長く、この快楽に浸っていたい。そう思って腰を揺らすと、また下の方から気持ちいいものがふつふつと湧き上がってくるような感覚がした。途端にナカがきゅうっと狭まって、深く咥え込んだロウのそれを締め上げる。
苦しそうにロウが呻いたのは、その時が初めてだった。再び表に転がされた私は、正面からロウのそれを受け入れた。
「ロウ……、すき…………」
ほとんどうわごとのように呟く。すき、すき、と何度も訴えながら、必死でロウの身体にしがみついた。
そうでもしないと、快楽の波に流されてしまいそうだった。流されてもいい、けれど、その時はできるだけロウと一緒がいい。
揺蕩うようなこのひとときがどうか夢であってほしい。そう思いながら、夢でないことを祈る自分もいた。だってこれがなかったことになるなんて、あまりに勿体ない。できることならいつまでも覚えていたいくらいなのに――。
スパートがかかるその腰に、私は足を絡めた。ロウのそれが最奥を抉った瞬間、こみ上げてきたものに私は身を委ねた。
「ロウ、好き……」
明滅を繰り返す視界が徐々に狭まっていく。遠ざかる意識の中で、私はロウが何か優しいことを呟くのを聞いていた。
終わり