雨の日は、あまり好きじゃない。水は跳ねるし靴が汚れるし。何より、苦手なあの人たちが同じバスに乗ってくる。
はあ、と心の中でため息をついて、リンウェルはバスを待つ列に並んだ。未明から降り始めた雨は今でこそ大したことはないが、これから夜にかけて激しくなるらしい。
遠くにバスが見えてきた。今朝は珍しく時間通りだなと思っていると、にわかに列の後ろが騒がしくなった。
まじかよ! ありえねー!
ちゃらちゃらとした言葉遣いとその身なり。男子数人がつるんでいるそのグループは、哀しいことに同じ高校の生徒の集団だ。学校では見かけたことがないので、おそらく学年が違うのだろう。年上であんなに落ち着きがないなんて信じられない。
その中の一人と目が合った。整髪料で髪の毛を弄くり、制服の中にパーカを着込んでいる男子生徒。過去の出来事が頭の中にふつふつと蘇ってきて、リンウェルは思わず強く視線を逸らした。そしてそのまま傘を閉じ、目の前に停まったバスへと急いで乗り込む。
奴との因縁は約一か月前に遡る。
その日も似たような雨の朝で、リンウェルは同じ時間のバスに乗っていた。いつものようにひとり席に着き、手元の小説本に夢中になっていると、例の男子生徒が仲間たちとのおふざけの果てにこちらへ倒れ込んできたのだ。咄嗟に鞄を庇った結果、付けていたキーホルダーが紐のところからちぎれてしまった。「悪い」とその男子は狼狽えていたが、リンウェルの耳にそんな声は届かなかった。数あるキーホルダーの中でもかなりのお気に入りだったのに。市販のお菓子のオマケではあったが、シークレットのカラーが出るまでいくつも買い続けたものだった。その日以来、あの男子はリンウェルの目の敵となった。雨の日にだけ現れる、シークレットオマケの仇だ。
夕方になって一層強まった雨は、少し外に出るのも躊躇われるくらいだった。こういう日に限って両親は迎えに来られないと言う。リンウェルは仕方なくバスでの帰宅を選ぶと、雨の跳ね返る舗装路をとぼとぼと歩き出した。
最寄りのバス停でバスを降り、少し進んだ先にある公園に差し掛かった時、リンウェルは見覚えのある後ろ姿に気づいた。ビニール傘越しに見えるオレンジ色のパーカのフード。間違いない、あの男子生徒だ。こんな日にこんなところにしゃがみ込んで一体何をしているのだろう。
ふと気になって遠くから様子を窺ってみると、その足元にはミカン箱程度の段ボール箱があった。目を凝らすと中からは猫が数匹顔を覗かせていて、みゃーみゃーと甲高い声を上げている。捨て猫のようだ。
「参ったな、俺ん家じゃ飼えねえんだよ」
みゃー。
「ほんとごめんな。それにしても腹減ったよな」
みゃー。
「そうだ、ちょっと待っとけよ」
猫相手に何をブツブツ言っているのだろうと思っていたら、突然男子が傘をその場に置いてどこかへ駆け出していってしまった。この大粒の雨の中を。
「えっ、ちょ、ちょっと」
リンウェルの声にも姿にも気づかず、男子は行ってしまった。彼が角を曲がったのを最後に、リンウェルはその場に取り残されてしまった。
公園に入って確認してみると、傘は段ボール箱を覆うようにして置かれていた。どうやら猫たちが濡れないようにと考えてのことらしい。
「風に飛ばされたらどうするのよ……」
ビニール傘をどうにかしたところで大した強度にもならないだろうが。それでなくとも朝から降っている雨だ、猫たちは既にずぶ濡れになっている。
悪態をつきながらも、リンウェルはどうしてもそれをそのままにしておけなかった。猫も傘も放置して、ひとり家に帰る気にはとてもなれなかった。
とはいえこのまま箱ごと猫を持ち帰るというのも何か違う気がする。きっとあの男子は何かを取りに一旦家に帰ったのだろう。戻った時に猫がいなくなっていたら、無駄に雨に濡れてしまうことになる。
「おい、お前」
後ろから声を掛けられて、リンウェルは飛び上がりそうになった。いつの間にか例の男子生徒は公園へと戻ってきていたらしい。
「何か用――」
「た、たまたま見かけたから! 傘が飛ばされないか、猫と見ててあげたの!」
動揺のあまり、口にした言い訳は随分と可笑しなものになってしまった。次いで込み上げてきた恥ずかしさに顔が熱い。なんだ、こんなに早く戻ってくるなら、さっさと帰ってしまえば良かった。
「そっか、ありがとな」
そんな事は気にもせず、男子生徒は再び先ほどと同じ場所にしゃがみ込んだ。その手には魚肉ソーセージの束が握られていて、一本ずつその包装を剥がしていく。
「ほら、これなら食えるだろ」
差し出されたソーセージに猫たちが群がる。ものすごい勢いでそれが無くなっていく様子を陽気に笑いながら、彼はまた一本新しいものを取り出していた。ふとその足元を見やると、白いスニーカーが泥で汚れている。
「ねえ、靴」
「あ、ああ。汚れちまったな」
急いだからな、と言ったその口元は、何故か柔らかい弧を描いていた。
「私の家すぐそこなの。数日なら、猫ちゃん置いておこうか?」
そんな言葉が自然と出た自分に、自分が一番驚いた。
「このままじゃ猫ちゃんも私たちも風邪引くよ」
「本当か?」
「親に頼んでみる。でも飼うのは無理だと思うから、貰ってくれそうな人、探しておいてよね」
「おう、任せとけ! ありがとな!」
その顔を見て、随分と子供みたいに笑うんだな、と思った。自分も大人ではないが、これだけ無邪気な笑顔をまさか年上の男子から見せられるとは思いもしていなかった。
数日経って、猫たちは皆貰われていった。例の男子の同級生だとか、駅で声を掛けられたとかいう人たちが、次々に我が家に猫を受け取りに来たのだ。どうやら男子生徒はきちんと役目を果たしたようだ。そうする約束だったと言えばそうなのだが、彼はどこか思っていた人とは違うのかもしれない。
今朝はよく晴れていて、空には雲一つ見つからなかった。
バス停にはあの男子がいた。珍しく一人だ。
「おはようさん」
「お、おはよう」
まさか声を掛けられるとは思わず、声が上ずってしまった。
「こないだはサンキュな。助かったぜ」
「……別に。ただ一時的に預かっただけでしょ」
元はといえば、あの猫たちを見つけて保護しようとしていたのはそっちの方だ。公園で姿を見かけていなかったら、私はきっと猫の存在にも気づかなかっただろう。
「それでも助かったんだよ。あいつらもそう思ってると思うぜ」
あいつら、というのはどうやら猫たちを指しているようだった。まるで通じ合っているみたいな言い方がどうにも可笑しい。
「それと」
急に真面目な顔をしたと思うと、男子が鞄から何かを取り出した。差し出されたのは、あの日引きちぎられたものと同じキーホルダーだった。
「あの時は悪かった。ずっと謝ろうと思ってたんだ」
そう口にした彼の瞳には深い反省の色が見えた。あれからずっと気にかけてくれていたのだろうか。キーホルダーは色も形も、自分が持っているものと同じだ。
「これ、どうやって」
「調べたら菓子のオマケだっていうから買ったんだよ。この色、シークレットなんだってな。出すのに苦労したぜ……」
苦笑いから見て取れる奮闘は相当なものだったに違いない。自分自身もそうであったからこそ痛いほどよく分かる。
「あの時めちゃくちゃ悲しい顔してたから、すげえ気に入ってたんだろうなって。ほんとごめんな。これで許してくれとは言わないけど、こうしねえと俺の気が済まねえから」
やっぱり自分は、どこかでこの人を誤解していたのかもしれない。騒がしい連中の一人ではあるけれど、思っていたような人ではないのだろう。
「うん、ありがと」
それを受け取って、その場で鞄に付ける。今度は引きちぎられないように、内ポケットのファスナー部分に下げた。
「大事にするね」
せっかく当ててくれたのだ、大切に使わせてもらおう。そしてその真心も、大事に受け取ることにする。
「それで、本題なんだけどよ」
指でキーホルダーを弄りながら、リンウェルはその言葉を聞いていた。やっぱりこのフクロウの目が黄色なのが可愛いな、と思わず口が緩みそうになったところで、本題? と思い始めた。男子は少し動揺した様子で「いや謝るのも本題だから、本題二つ目ってことになんのかな」などと呟いている。
「あのさ」
顔を上げたところで、ちょうど視線がかち合った。
「……名前と連絡先、聞いていいか?」
頬に立ちのぼる熱はきっと、目の前の彼から伝染したに違いない。
終わり