青々とした木々が風に揺れている。空は透き通っていて、ずっと遠くの果てまで見えるんじゃないかと思うほどだ。
ここにひとり立つ私の足元には、黒々とした闇が広がっている。夜の海のような、機械から流れ出た油のような。あるいはどこかに流れついた汚泥か。どろりとしたそれは私に深く絡みつき、これより一歩も先に進ませてはくれない。
長い雨だった。降り注ぐ雫は作物や花々に大いなる恵みをもたらしたが、それも長く続けばどうにも疎ましくなるというものだ。食材を買いに行くときも街で友人に会うときも、どこへ出かけようと空は一面鈍色だった。人々の足は水を吸い続けたかのように重たくなり、街からひとつ、またひとつと影は消えていった。空が流し続けた涙は、人々の心をも鈍らせたのだ。
だからこそ、この青い空が待ち遠しかった。雨音のしない朝など久しぶりだった。鳥の鳴く声で自然と目を覚ました私は揚々と支度を済ませ、まだ日も昇りきらないうちから家を出た。
通りを歩いていると、店の扉が次々と開いた。看板を出す店主たちの表情も晴れ晴れとしていて、皆がこの青空を望んでいたのだと改めて思った。
私は自慢ではないが、朝に弱い。毎晩のように夜更かしをしていればこそ当然のことなのだが、ここ最近は天気のせいか、それも億劫になって早寝を決め込んでいた。その矢先に訪れた晴天だ、気分良くならないはずがない。具体的な予定も立てないままこうして外へと出てきてしまった訳だが、さて今日は一体何をしよう。市場を見て回るのもいいし、屋台で甘いものを買うのもいいだろう。普段入ることのないお店に足を運ぶのも一興だ、何か新たな発見があるかもしれない。
弾む心を抑えられず、スキップ半分にヴィスキントの通りを進んでいく。その先の広場で、私は思いがけないものと遭遇した。
ロウと、その隣にいる女の子。にこやかに会話を交わし、微笑み合う二人にはなんとも穏やかな雰囲気が漂っている。その近しさは腕に絡んだ綺麗な指が証明していた。
そんな甘い二人に目を奪われたのが良くなかった。視界に入った瞬間に引き返すか、あるいはそのまま知らないふりをして通り過ぎれば良かったのだ。
「お、リンウェル」
こちらに気づいたロウが「久しぶりだな」と歩み寄ってきた。後ろに少し小さな影を引き連れて。
「ロウ! 久しぶりだね。元気してた?」
敢えて明るい調子で声を張ると、緊張も和らいだ気がした。ロウの背後からこちらを窺う女の子にも軽く会釈をして、「こんにちは」と微笑みかける。
「天気のせいでしばらく引きこもってたけどな。お前の方はなんだ、買い物か?」
「そう、そんな感じ。新しい本欲しいなって」
それらしいことを言い、本屋の方向に指を差す。まるでその気はなかったが、ついそんなことを口走ってしまった。二人が現れそうにない場所を挙げたのは、咄嗟の防衛本能というやつだろう。
「そっちはデート? ちゃんとエスコートしなさいよ。連れ回しすぎて疲れさせないようにね!」
「わーってるっての」
ロウが頭を掻いた。小さなため息とともに見せた呆れ顔に、思わず目を伏せる。
「もう行くね。邪魔しちゃ悪いし」
ひらひらと手を振り、私は広場を後にした。そのまま賑やかな街を通り抜け、城門を出た私が辿り着いたのは、ディアラ山に続く山道だった。ここならほとんど誰も通らない。
ひとりになった瞬間、私は大きく息を吐いた。肺の奥底で澱んでいたものが身体の外に流れ出ていく感じがした。
何もこの青空を望んでいたのは私や店主ばかりではなかったのだ。ロウとあの子も、外で会える日を楽しみにしていたのだろう。市場を見て回ったり屋台で何かを食べたり、店を回ったりして気兼ねなく青天の下で笑い合えるのを心待ちにしていたに違いない。
そう思うと、急にこの空が恨めしくなってくる。今日も明日も、雨であれば良かったのに。私の気が滅入るくらい、あの二人が外に出られないくらい、激しい雨が降れば良かったのだ。
空はそんなことも知らず、気持ち良いほど澄んでいる。爽やかな風がすぐそばを通り抜け、私だけを置いて行く。漂った木々の香りは新芽の息吹を感じさせた。まるで何もかもが、あの二人を祝福しているかのようだ。
馬鹿みたいだ。いつまでも終わった恋を引き摺って、忘れられなくて。呪ってばかりいるからロウはこちらを向いてくれなかったのだ。どこかに滲んだそれをきっとロウは感じ取っていて、あの子を選んだ。そしてその判断はきっと、正しかった。
道端には昨日までの雨で出来た水溜まりがあった。空を見上げるばかりのそれは、鏡みたいに青一面を映している。
覗き込んだ私の顔は、酷かった。嫉妬に塗れた、この上なく醜い顔だ。
思わずそれに小石を投げ入れる。広がった波紋が私の顔を崩し、輪郭をぼかしていった。やがてしずまったそれにまた一つ、小さな波が立つ。私の心はまだ、晴れそうにない。
終わり