ネアズ×ネームレスオリ夢主。捏造とか夢いっぱい。ロウ視点+主人公視点。微ロウリン要素アリ。

4.いつか信じたサンフラワー

 俺がカラグリアに来たのは、単純に手伝いを頼まれたからだった。移民が増える一方で住居用の土地が確保できていないというのは以前から聞いていたことだ。なんでも辺りがはぐれたちの住処になってしまっていて、追い払うのに苦戦しているのだという。
「というわけでロウ、ズーグル討伐の依頼だ」
 報酬は弾むぜ、とそんな甘い囁きがなくとも行くつもりではいたが、結局それに釣られる形になった。ちょうど金が要りようだったのだ。
「よう、無事着いたか」
 カラグリアに着いた俺を出迎えてくれたのは依頼を出してきたガナルだった。
「どうだ、久々のカラグリアは。暑くて熱くてたまんないだろ」
「おまけに暑苦しいな。こんなに人増えたんだな」
 そこら中に飛び交う勇ましい声の太さといったら、聞いているだけで体感温度が上がってしまいそうだ。それだけ街が賑やかになったということでもあるが、それでも仕事はちっとも減らないらしい。末端の作業者が些か楽になったとはいえ、指示を出す側はむしろその管理に苦労しているのだとか。
「それに、いくら人が増えてもズーグルとやり合える人間が何人いるかって話だ。お前が来てくれて助かったぜ」
「逆にこっちはそれしかできねえんだけどな」
 鍛えているとはいえこの筋肉は力仕事用のそれにはできていない。トレーニングの一環としてなら参加もやぶさかではないが、おそらくそんな時間はほとんどないだろう。今回は頼まれた仕事をきっちりこなすだけだ。
 宿屋に向かう前に覗いた集会所にはネアズの姿があった。相変わらずこの暑さでも涼しい顔をしているが、書類を見つめる目は険しい。会うたびに同じ顔をしているので、状況が上手くいっているのかそうでないのか違いがよく分からない。
「お、来たか、ロウ」
 とはいえこちらに気が付いた時にはその表情も僅かに和らいだ。眉間にシワを寄せるのは単なる癖なのかもしれない。
「急に悪かったな。引き受けてもらえてとりあえずは安心したとこだ。お前と、そのほかの連中に頼むのじゃ話の早さが違うからな」
「またそういう物言いばっかするよな、お前は。素直に腕を買ってるって、そう言ってやれよ」
「それは言うまでもないだろう。そうでないと初めから依頼なんか出さん」
 ネアズとガナルのやり取りも相変わらずだった。カラグリアの解放以前から見てきた二人と何ら変わらない。これだけ環境が変わっても変わらないものもあるのかと少し可笑しくもなる。
「ネアズが嫌味言っても気にすんなよ。また寝不足で機嫌悪いのか、くらいに思っとけ」
「人聞きの悪いことを言うな。嫌味なんかほとんど言わん。仕事をこなしてる限りはな」
「ま、期待を裏切らないよう努力はするぜ」
 他愛無い会話に俺はほっと心を緩めつつも、同時に翌日から始まる依頼に向けて改めて気を引き締めた。
 指示された土地には確かに多くのはぐれがいた。どいつもこいつも群れを作るようなやつばかりだ。一匹一匹の強さは大したことはないが、囲まれては発揮できるものもできなくなってしまう。
 常に位置取りを気にしつつ、攻勢に出ることも忘れない。それでいて長期戦になることも頭に入れておかなければ。侮るつもりもないが一瞬たりとも気の抜けない戦闘は、思いがけず良い訓練になった。
 はぐれを倒しながら巣と思わしきものを破壊していく。ちょっと乱暴な手段ではあるものの生き残るためにはこちら人間側としても必要なことだった。襲い掛かってくるはぐれには容赦しないが、その代わり逃げた個体は深追いしなかった。棲み分けができるならそれに越したことはない。
 地図と、情報を書き込んだ報告書を一日の終わりにネアズに提出しに行くことはほとんど日課となっていた。これらを見ながら状況を整理したり今後の計画に修正を加えたりしていく。安全第一ではあるものの計画を遅れさせるわけにもいかないので、ネアズの判断はかなり重要になってくる。責任ある立場というのは実に面倒そうだなとも思うが、それを日々こなすネアズはよくやっているなと感心してしまう。能力に加え、人望がなければ到底できないことだ。
 ネアズはいつも渋い顔をしている気がする。少なくともこちらに来てから、集会所を覗いた時はいつも似たような表情をしていた。昔はそうでもなかったはずだが、今はこういった役回りをしている以上仕方のないことなのかもしれない。これまでの経緯や現状を踏まえてもカラグリアの復興についてはあまり心配はしていないが、それでもネアズ個人のこととなると別だ。ガナルはこちらにいるが、ティルザも今はガナスハロスにいるというし、ネアズの支えになってくれる人がやや少ない気がする。組織のまとめ役となれば抱える心労も相当なものだとは思うが、まさかネアズはそれを一人で抱え込んだりはしていないだろうか。愚痴を聞かせる相手はガナルで足りているとして、他に仕事とは関係のない話ができる相手がいればな、なんて思ってしまう。自分も仕事が上手くいかなかった時はよくそうして気を紛らせたりする。取り留めのない会話が良い気分転換になるのだ。
 そこでふと頭に思い浮かんだのは数日前、あいつ――リンウェルと交わした会話だった。メナンシアを発つ前、一緒に食事を摂りながらどうでもいい話をいくつもした。記憶力のよくない自分ではあるが、その内容は今でもはっきりと覚えている。天気のこと、最近読んだ本のこと、おすそわけでもらった食材のこと。そして最後にあいつが口にした言葉も。
 拳には自然と力が入っていた。ぐっと握り込んだ手のひらに爪の痕が残る。
 あの言葉を思い出すたび背筋が伸びる。何が何でも成果を上げて、それでいて無事に戻らなければとまた決意を強くするのだった。
 あれ、と思ったのはこちらに来てから数日が経ったある日のことだった。いつものように地図と報告書を携え集会所に向かうと、中からネアズの声が聞こえてくる。穏やかな声色とかすかな笑いに混じるもう一人の声は、紛れもなく女性のものだ。
 そのまま何の気なしに足を踏み入れたのが良くなかったのだろうか、二人の視線がこちらへと向いたと思うと会話がぴたりと止んだ。そこに流れた沈黙はほんの数秒のことだったが、どうにもぎこちない。
「す、すみません、お仕事中に。私はこれで失礼しますね」
 女性の方がそう口にして、奥の部屋に逃げるようにして引っ込んでいってしまった。止める隙もないその速さは顔も確認できないほどだった。
「今のは、」
 言いかけた言葉をネアズの小さい咳払いが遮っていく。
「さて、用件を聞こう」
「あ、ああ、今日の報告だけど……」
 書類を手渡すと、ネアズは何事もなかったかのようにそれに目を通し始めた。その目つきはやはりいつものように鋭いものだ。
 ご苦労、と言った言葉にも何ら変化はなかった。その後の意見交換も何事もなく進んだ。
「じゃあ、明日もまたよろしくな」
「おう」
 そうして集会所を後にしたものの、不自然なほど自然な流れには首を傾げたくもなる。なんだこの違和感。何か触れてはいけないものに触れてしまったような後味の悪さ。もしかしてあの時自分は二人の邪魔をしてしまったのではと気づいたのは、宿の部屋に戻ってからだった。
 その後もそういう場面に何度か出くわした。さすがに再び会話に水を差したというわけではなく、ネアズが女性と話をしているところを見かけたというだけだ。
 それが仕事絡みのことであったなら気にも留めなかった。見かけても、また気難しい顔してるな、くらいにしか思わなかっただろう。
 だがそうではなかった。なんというか、その時のネアズの表情は仕事の時とはまるで違う。満面の笑みではないにしてもどこか穏やかというか、硬さが少しも感じられない。内容が聞こえなくとも仕事の話をしているのではないことくらい、すぐに分かった。
 まさか、という衝撃と、ついに、という期待。
 それらが抑えきれなくなったある日、昼食を摂りながらとうとう俺はガナルに訊ねることにした。
「なあ、ネアズって彼女できたのか?」
 その言葉にガナルは「お、」と声を上げた。
「気付いたか」
 にやりと笑ったその顔は、待ってましたと言わんばかりだ。
「気付いたかって、やっぱそうなのか」
「いや、厳密にいえば違う。けどもうあれは彼女みたいなもんだな」
「はあ? どういう意味だよそれ」
 ガナル曰く、少し前ネアズはそのお相手の女性に告白されたらしい。一度は断ったものの、その後いろいろあって今は返事を保留にしているのだとか。
「保留? 待たせてるってことか?」
「そうなるな。けどあの様子見てたら、もうほとんど返事は決まってるようなもんだろ」
 確かにガナルの言う通り、例の女性に対するネアズの態度は満更でもない。逆にあれで断るようなことがあったとしたら、女性の方もかなり衝撃を受けてしまいそうだ。
「じゃあなんでとっとと言わないんだよ」
「さあな。あいつのことだからまた難しく考えてるんじゃないか」
 最初に告白された時もそうだったらしい。自分の立場とか余計なことを考えて相手の告白を失礼にも無下に扱ったのだそうだ。
「それでもまだあいつのことを好いてくれてるとかなかなかだぞ、あの子は」
 くくっとガナルが喉で笑う。 
「そういやその相手って、どんな人なんだ」
「なんだ、見てないのか? ティルザの弟子で、医者なんだ。医務室にいただろ?」
「医者ぁ? そんな人いたか?」
「確かにちょっと地味というか、派手ではないしな。印象は薄めかもな」
 それでも腕は確かなんだ、とガナルは太鼓判を押していた。理由としては腹を壊した時、すぐに処方してもらった薬がよく効いたらしい。命の恩人なのだとガナルは言った。
「あんな真面目でいい子が好きになったのがなんでネアズなんだって思わないこともないけどな。人の好みってのは理解しがたいぜ」
 そうは言うものの、その表情はどこか嬉しそうでもある。当然だ、あのネアズに恋人ができようとしているのだから。自分以上に長らく苦楽を共にしてきたガナルからすれば、喜びもひとしおだろう。
 それにしても、ここまで皆に祝福されるようなネアズの相手とはどんな人物なのか。できることなら帰る前にきちんと顔を見てみたいし、言葉も交わしてみたいと思った。それはまたネアズをよく知るアルフェンへの土産話になりそうだ。
 そんな願いは思いがけない形で叶ってしまった。ヴィスキントに戻る日を翌日に控え、俺は腕に傷を負ってしまった。それはズーグルとの戦闘による勲章、ではなく、帰り道で石に躓いて派手に転んだ結果負ったものだった。
「受け身が上手だったみたいです。骨に異常もなさそうですね」
 俺の腕に包帯を巻きつけながら、彼女は穏やかにそう言った。
「しばらくは傷口を清潔に保ってくださいね。くれぐれも包帯を外して戦闘なんかしないよう。ばい菌が入ったら大変ですから」
 塗り薬出しておきます、とノートに何かを書きつけ、薬をてきぱき用意する彼女は、どこからどう見ても普通の女性だった。普通に可愛らしい、大人しそうな人だ。
 はじめは本当にこの人なのか疑った。あのネアズと話すくらいなのだからもっと気が強いとか、クセのある人なのかと思っていた。だが他に医師らしき人は見当たらない。それに以前ネアズと話していた女性の声とよく似ている気がした。
 おまけにこの人からアタックしたのだというからますます想像がつかない。ネアズの方から言い寄ったというならまだしも。ガナルの言う通り、人の好みというのはよく分からないものだ。
 そんなことをぼうっと考えていると、
「あの、」
 驚くことに、彼女の方から話しかけられた。
「ロウさん、ですよね」
「あれ、俺、」
 名乗ったっけ、と言おうとしたところで、
「皆さんから名前は伺っておりました。……ジルファさんの」と彼女が小さく言った。
 なるほど、とそこでようやく合点がいった。ティルザの弟子であり、ガナルやネアズとも親しいのなら当然俺のことも知っているわけだ。
「一方的に知っていたみたいでごめんなさい。まだ最近〈紅の鴉〉に入ったばかりでジルファさんには直接お会いしたことはなかったんですが、息子さんが近々手伝いに来ると聞いていました。ずっとご挨拶しようと思ってはいたのですが、なかなかできなくて……」
 この間も、と言って、彼女は小さくなった。ああ、あの自分が二人の邪魔をしてしまった時か、と思いつつ、確かにあの状況だと話しづらかったかもしれないなと納得する。
「いや、別に気にしなくていいっつーか、わざわざ挨拶とか気遣う必要ないっつーか、むしろ気ぃ遣わせちまったみたいで悪かったっつーか」
 俺は手を振りながら言った。こんな丁寧な話し方をする相手とは会話し慣れていないので、どう言葉を紡げばいいかよく分からない。
「そんなかしこまらなくていいんだ。俺の方が年下だし、またこっちに来る機会もあるだろうから、世話になる時はよろしくってことで」
 俺がそう言うと、彼女はふふっと小さく笑った。
「そうですね。できればそういう機会は少ない方が良いんでしょうけど」
 冗談交じりにそう言われ、思わず笑ってしまった。真面目ながらも話の通じる人ではあるらしい。
「思ってたより話しやすいんだな。驚いたぜ」
「思ってたより?」
「ちょっと話には聞いてたんだ。ほら、ネアズの」
「……!」
 そこまで言ってから、しまったと思った。途端に彼女の顔がみるみる赤く染まっていく。
「俺が、なんだって?」
 ほとんど同時に後ろのドアが開く音がして、低い声がした。さあっと血の気が引いていくのが分かって、背筋が凍りつく。
「ほら、治療が終わったらとっとと宿に帰れ。明日ヴィスキントに戻るんだろう」
 半ば追い出されるように医務室を後にすると、後ろからネアズの視線が痛いほど刺さった。依頼の請負人かつケガ人の扱いにしてはぞんざいにもほどがあるが、それ以上に圧が強く感じられたのは気のせいではないだろう。
 夜になって宿を訪ねてきたのはガナルだった。「最後くらい一緒にメシ食おうぜ!」と奴は言ったが、カラグリアの滞在期間の半分くらいはガナルと食事を摂っていた気がする。
 よく通った食堂に連れられると、そこにはネアズの姿もあった。席に着いてメニュー表を眺めている姿は集会所にいる時とほとんど同じで、せめて食事の時くらいもう少し穏やかな表情ができないものだろうかと思わず苦笑してしまう。
 3人で食事をしつつ、会話には花が咲いた。数週間滞在したとはいえ、アルフェンのことや他領の状況など話題には事欠かない。それでなくともおしゃべり好きのガナルもいるのだ、仕事の愚痴からどこで仕入れたか分からない噂話までみるみる話が広がっていく。
「ところでロウ、今回の給金は何に使うんだ?」
 その言葉が出た時、俺はうっと言葉を詰まらせた。
「装備はまだ新しかったし、あれか、賭けか? 酒はまだだもんな。美味いもん食ったって釣りが出るだろ」
「あー、そうだな……」
 何と答えようかと必死で考えを巡らせるが、その沈黙を訝しく思ったガナルがこちらの顔をぐいぐいと覗き込んできた。
「その顔はもしかして、女か! 女に貢ぐんだろ!」
「ち、違うって! そんなんじゃねえから!」
「そんなんじゃないってことは、つまりそれに近しい間柄ってことなんだよ!」
 俺にはお見通しだからな! と吐いたガナルからは微かに酒精の香りがしていた。
「ネアズもロウもいいよな……俺も恋人欲しいぜ……」
 はあ、とため息を吐いてガナルが項垂れる。
「だから俺のはそういうんじゃねえからな。どっちかっつーとネアズの方だろ」
「お、俺だって別に……」
「あとはお前の返事次第のくせに、よく言うぜ」
 追加で頼んだ酒がテーブルに置かれると、ガナルはそれを大きく煽った。半分ほどまで減ったグラスが水滴を零す。
「それにしたって返事ももうほぼほぼ決まってんのに、何をそんな悩んでんだよ」
「俺もそれ気になるな。何でなんだ?」
 向けられた視線から逃げるようにしてネアズが顔を背けた。
「別に、悩んでるってほどじゃ」
「じゃあもう返事すんのか?」
「いや、それはまだ……」
 視線を落としながらネアズは自分のグラスに手を付けたが、誤魔化すような素振りはまるで煮え切らない。昼間の時とは別人であるかのようだ。
「おいおいそんなんで大丈夫かよ。これは彼女持ちのロウ先輩にアドバイスもらった方がいいんじゃねえの?」
「だから違うって」
 そう言うものの、ガナルは聞く耳持たずだ。彼女もいないし、貢ぐわけでもないと主張してもやはり聞き入れてもらえないだろう。酒が入っているならなおさら。
 実際リンウェルは彼女じゃない。俺が一方的に想っているだけで、給金であいつの欲しがっていた本を買おうとしていることだって俺の勝手な計画なのだ。頼まれたわけでも、強請られたわけでもない。
 それでも俺がメナンシアを発つ時、あいつが言った「待ってる」の一言は大きかった。それだけで無事に帰ってみせると毎日気合が入った。最後の最後に油断が祟ってしまったが、逆にもう一度背筋が伸びた。あとは明日の帰路にてやらかさないようにするだけだ。
 待っている人がいるというのは心強い。だがそれは同時に待たせているというプレッシャーにもなる。どちらを強く感じるかは、受け取った人次第なのだろうが。
「俺はネアズとあの人のこと、詳しく知らねえからなんとも言えねーけど」
 ネアズとガナルの視線がこちらに向く。
「待たせてるのって怖くねえか? 明日には気が変わってるかもしんねえし、急に理由ができて待てなくなることだってあるかもしれねえだろ」
 リンウェルの場合でいうなら、急用でどこかへ出かけなくちゃいけなくなったとか、メナンシアを空けることになってしまうとかだろうか。ネアズの場合ならそれこそ待てなくなったとか、急に他に好きな人ができたとか、あまり考えたくはないことだが、そういう可能性がゼロだとは言い切れない。
「だからってこっちから待つなっていうのはなんか違うし、だったら、できるだけ待たせないのが一番なんじゃねーかって俺は思うんだけど」
 そう口にした瞬間、ネアズが急にその場に立ち上がった。
「……悪いが、先に帰らせてもらう」
 引き止める間もなく、ネアズはそのまま店を出て行ってしまった。俺はただただその去っていく背中を呆然と見ていることしかできなかった。
「やべ、俺なんか怒らせたか?」
「いいや、ナイスだぜ、ロウ」
 ガナルは親指を立ててにやりと笑った。
「お前の一言が効いたんだろ。あのくらい言わねーとダメなんだよ、あの石頭は」
 そうして店主に声を掛けると、追加でまた二人分の飲み物を注文する。
「むしろ感謝してるのかもしれないぜ。やっと踏ん切りがついたってな」
 不器用だよな、あいつも、と言ってガナルが何かに気付く。先ほどまでネアズが腰かけていた椅子を引くとそこには、彼のものと思しき財布が残されていた。
 
   ◇

 珍しく夜風の涼しい夜だ。いつもはほとんど熱風なのに、今宵は肌を撫でる風が心地よい。とはいえきっと他領の人からしたらこれも熱風と変わらないのかもしれない。
 残業、というほどでもないが、今日はいつもより長く集会所に残っていた。医務室の片付けや整理をしているうちに時間は過ぎ、あっという間に夜になってしまっていた。
 集会所の戸締りをしようと思って外に出てみて、星空が美しいことに気が付いた。いつもよりはっきり星が見える、ような気がする。いつも見上げているわけではないから、確信は持てないけれど。
 花壇には微かに揺れるヒマワリがあった。つぼみを付けてからもうどれくらい経っただろう。咲きそうで咲かない。開きそうでまだ開かない。もどかしいような、でも楽しみは先に取っておきたいような、見ているとそんな不思議な心持ちになる。
 このヒマワリたちもひと月前と比べたら随分背丈も伸びたと思う。その頃はまだつぼみもなくて、高さも自分と同じくらいか、それよりももう少し小さかったような気がする。そんなことを覚えているのは、ひと月ほど前からより一層ヒマワリの観察をするようになったからだ。
 ひと月。一か月。
 生まれて初めての告白からそれだけの時間が経った。ふとこみ上げてくる記憶には、思わずふふっと小さく笑みが零れてしまう。このひと月は本当に毎日が楽しくて、充実していた。
 貰ったチャンスは活かさなければ、ということで私は勇気を振り絞ってできる限りのアタックを開始した。そうはいっても何をすべきかよく分からない。思いついたのは単純ながらも分かりやすく、見た目を変えることだった。
「化粧を教えてください」
 と、ティルザ先輩に頭を下げると、怒られた。
「どうしてもっと時間のある時に言わないの!」
 ティルザ先輩は数日後にはガナスハロスへ戻らなければならなかったのだ。
 それでも先輩は懇切丁寧に化粧を教えてくれた。自分が使っていたもののお下がりまで譲ってくれて、明らかに医術を教える時より熱が入っていたように思う。
 服装にもアドバイスをもらい、変わっていく自分にわくわくした。可愛いかどうかは分からなくても、少なくとも変わっていくことそのものが楽しかった。
 どういう流れでそうなったのかは分からないけれど、なぜかその翌日にネアズさんと食事に行くことになった。とはいえいきなり二人は厳しいでしょう、ということでティルザ先輩の見送りもかねつつ、ガナルさんと4人で食事に行った。
 当然緊張はしたが、すぐにそれも解れた。ティルザ先輩やガナルさんが話を振ってくれて、それなりに自然に会話に入れていたと思う。
 食事の時のネアズさんは仕事の時とも、私の前とも違う顔を見せた。それはおそらく気心の知れた二人の前だったからなのだろう。特段口数が多いわけでもないけれど、心が緩んでいるのは私にも分かった。その関係性が少しも羨ましくないと言ったら、嘘になる。
 帰りはネアズさんが家まで送ってくれた。そうしろと言ったのはガナルさんだったけれど、すぐに応じてくれたあたり、少しも気持ちがないわけではないことは分かった。
 長くはない帰り道でも交わした会話は楽しかった。その時の表情はやっぱり食事の時とは違ったが、よく考えたらそれはすごいことなのかもしれない。仕事の顔でもなく、親しい友人に見せる顔でもないということは、自分はちょっと特別なのかも? というのはほとんど自惚れではあるけれど、それをどう受け止めるかは自分次第なのだから、できるだけ前向きでいようと思った。
 それからも機会を窺ってはネアズさんに話しかけるようにした。決して仕事の邪魔にはならないよう、それでいて自分も仕事をおろそかにしないよう注意しつつ、アピールは欠かさない。先輩なら「駆け引きくらいしなさいよ」とでも言いそうだが、そのやり方を私は知らない。たとえ知っていたとして、実行になんか移せる気がしなかった。ただでさえ彼の前では緊張してしまうのに、そこからいろいろと企みを働かせるなんて自分には到底無理なことだ。
 そんな中、ジルファさんの息子がカラグリアに手伝いに来た。彼がこちらに着いた当初から機会を窺ってはいたが、なかなか話しかけられなかった。今日になってようやく話せたと思ったらもうメナンシアに帰ってしまうのだという。
 ロウさんと医務室で少し会話をした時、「思ったよりも話しやすい」と言われ、驚いた。自分のことを知っていたのはもちろん、その理由に彼の名前が出てきて一層驚いた。誰に何を聞いたのかなんて、おそらくガナルさんの仕業だと思うけれど、一体どんな説明をしたら第一声に彼の名前が出てきてしまうのか。
 しかもその後、ロウさんとの間に気まずい空気が流れようとした時、その場を収めてくれたのはなんとネアズさんだった。噂話をしていたわけではないけれども、まさか彼に聞かれてしまっていたなんて。
 今思い出しても顔から火が出そうだ。夜風は涼しいけれど熱を冷ますのには少し足りないようで、当てた手の甲が心地良く感じられる。
 思えば最近、自分はこうして頬を熱くしてばかりいるような気がする。それは恥ずかしいことだけでなく、嬉しいことや楽しいことの後にもこみ上げてきていた。
 その理由なんか一つ、いや一人しかない。彼のことばかり考えているからそうなってしまうのだ。
 恋は人を欲張りにさせる。ほんの数時間前に彼と会ったばかりなのに、また会いたくなっている。明日が来たらまた会えるのに、今会いたいと思ってしまっている。
 こんな時ばかり空に瞬く星を見つめて、星に願いを、なんて考えてしまう自分は本当に都合が良い。そこに一筋流れるものがあったとして、それが彼を連れてきてくれるわけでもないのに。
 諦めをつけつつ、花壇のヒマワリを見やる。その高さにはごく最近どこかで触れたような気がした。
 ――ネアズさんと同じくらいかな。
 そばに寄ってそっと手のひらをかざそうとした時、背後から声がかかった。
「まだ帰ってなかったのか」
 振り向くとそこには今の今まで思い浮かべていた彼の姿があった。心臓がどきりと飛び跳ねる。
「ネアズさん、どうしたんですか。こんな時間に」
「いや、ちょっと用があってな。済んだらすぐ帰る」
 用とは? と思いながらも、忙しい彼のことだ、何か思い出した仕事でもあったのだろう。
「つぼみ、できてからもう随分経つな」
 視線をヒマワリに向けながらネアズさんが言った。
「つぼみを付けたらすぐに咲くと思ってたんだが、そうじゃないんだな」
「私もそう思ってました。以前部屋に飾っていたものも数日で咲いたので、そのくらいかと思っていたんですけど」
 品種によるのかそうでないのか、このヒマワリはつぼみを付けてからとうに一週間は経っている。ここにきて咲かないまま枯れるなんてことはないと思いたいが、そうは言い切れないのがこのカラグリアの気候だ。
「毎朝水を撒きながら今か今かと待ちわびているんですけどね」
 その瞬間に立ち会えたらどんなに素敵だろうと起床時間までやや早めてはいるものの、まだそれは叶わないでいる。雲の行方と同じくらい、開花は予測できないものなのかもしれない。
 指でつぼみを撫でていると、すぐそばに気配を感じた。隣に立ったのはネアズさんで、その背丈はやはりヒマワリと同じくらいだ。
 その横顔を見て、やはり惹かれるものがあると思った。整った顔立ちはもちろん、花に向ける視線も、彼を形作る輪郭も、その出っ張った喉仏にだって引き込まれてしまう。
 許されるならいつまでだって見つめていたい。そう思って惚けている私を引き戻したのは、ネアズさんがぽつりと呟いた言葉だった。
「君は、まだ待ってくれているか」
 え、と気の抜けた声はたちまち宙に消えていく。すると彼は小さく俯き、首を振った。
「いや、さすがにこれは狡いな」
 聞かなかったことにしてくれ、と言ったネアズさんの視線が今度はこちらに向いた。暗がりでも分かるくらいに強い熱を感じて、思わず息を呑む。
「俺の、恋人になってくれないか」
 聞こえてきた言葉には一瞬耳を疑った。恋人になってくれと、今、彼はそう言ったのだろうか。
 いち早くその意味を捉えた心臓が途端に鳴り響く。だがいくら血液を送り出しても私の頭は働かない。何か夢を見ているみたいにして思考はぼやけたままだ。
 そうして数秒が経ち、何も言えないでいるとネアズさんが小さく肩を落とす。
「やっぱり、手遅れだっただろうか」
「ち、違います!」
 自分の口から出た言葉は予想外に大きくて、顔に一気に熱が上る。
「待っていました、ずっと。ただ、驚いてしまって」
「驚いた?」
 返事の内容もそうだが、何よりこんなに早く答えが出るとは思っていなかった。
「もっと待つのだと思っていました。それこそ半年とか、一年とか」
「それはさすがにやりすぎだろう」
「そのくらいの覚悟でいたってことです」
 どれだけでも待つと言ったのは自分だ。それを言葉だけ、うわべだけとは思われたくなかった。
「正直、俺もまだ迷っていた。返事云々より、何をどう伝えるかあれこれ考えていたんだ。でもロウに、待たせるのは怖くないかと言われてしまってな」
 苦笑いでネアズさんは言った。
「君が待ってなかったらと思うと、怖くなった。決して君を疑ったわけじゃない。俺が勝手に怖くなったんだ」
 彼の口からそんな言葉が出てくるのがどうにも不思議に思えた。ネアズさんでも怖いものがある。それがまさか私のことだなんて、ちっとも想像がつかない。
「待ってます。約束したじゃないですか」
「ああ、君は約束を違えない」
 私よりもずっと確信に満ちた声色でネアズさんが頷く。
「そんな君が待てなくなったなら、それこそ一大事だろう。そうなる前に君に伝えておきたかった」
 もう一度こちらを正面に捉えた瞳は、真っすぐ私を貫いた。
「君にそばにいてほしい。できればこの先もずっと」
 頷いた後で「はい」と呟いた声は、声にならなかった。ドキドキと喜びと、安堵と興奮とが、ない交ぜになって押し寄せてくる。
 悲しくないのに鼻の奥が痛い。酷い顔になっていることは鏡で確認しなくても分かった。こんな顔、いくら化粧で多少整えているとはいえ彼には到底見せられない。
 思い切って胸に飛び込むと、ネアズさんはちょっと驚いた様子を見せながらも受け止めてくれた。動いた右腕の行先は背、ではなく、私の頭だった。大きい手のひらで、そっと髪を撫でられる。
「い、至らない点も多いかと思うが、努力する。できれば、長い目で見てくれ」
 戸惑ったような口調には思わず笑ってしまいそうだった。それでも、すぐそばで聞こえる声に安心する。こんな時でもやっぱり低くて弾まない、滲むような声。どうあっても惹かれてしまう。いつまでも聞いていたくなる。
 私の耳は、頭は、最初からこの人を好きになると分かっていたのだ。私の心が気付くよりずっと先に。
 顔を上げると、すぐそばにネアズさんの顔があった。あまりの近さにまた緊張するけれど、今度からはこれが私たちの距離になる。
「これからよろしくお願いします」
「ああ」
 小さく微笑む彼の隣でまだ咲かないヒマワリが揺れた。彼と同じ背丈のそれが星空の下で次の朝日を待っている。

 大輪が開いたのは、そのほんの数日後のことだ。光を受けて光り輝くそれはまさに太陽のように眩しかった。
「本当に咲いたな。立派なもんだ」
 目を細めて花を眺めつつ、賛辞を送る彼もまた私には眩しい。
「花もきれいだが、葉も茎も丈夫そうだ。ちょっとやそっとの風じゃ折れないだろう」
「愛情込めて育てましたから」
 胸を張る私に彼が言う。
「よく頑張ったな」
 辺りの気配を窺った後で、その手のひらが私の頭をそっと撫でた。こみ上げてくる気持ちは色とりどり、種類も様々で、果たして何と名前を付けよう。
 目の前の黄色が燦燦と笑う。そうだ、まずはあなたに心からの感謝を。
 信じれば花は咲く。
 そう教えてくれたのは他でもない、あなただったから。

終わり