ネアズ×ネームレスオリ夢主。捏造とか夢いっぱい。

3.もう二度とないカンタロープ

 朝起きたら顔を洗って、朝食を摂って、身なりを整える。ここまでは以前と変わらない朝の習慣だ。
 最近はこれに加えて、鏡の前に立って最終チェックをするようになった。寝ぐせ、顔色、目の下のクマなどがないかひとつひとつ確認する。口元に食べ残しなんかが付いていたら恥ずかしいし、患者にも驚かれてしまう。
 そうしてすべて整ったら、一番最後に唇にリップクリームを塗る。これはメナンシアの商人から勧められたものだ。はじめはちょっと派手かもしれないと思ったけれど、「このくらいの方が可愛く見えますよ」なんて言われてつい買ってしまった。
 考えてみれば少し恥ずかしいことをしたなと思う。だってそれはつまり可愛く見られたい相手がいるということにほかならない。自分には今好きな人がいます、と公言しているようなものだ。まあ今更それを否定するつもりもなければ、きっと商人の人だってそんなことはちっとも気に留めていないのだろうけれど。
 準備が整ったら家を出る。もちろんドアの鍵を締めるのも忘れずに。
 ウルベゼクの集会所までは徒歩で向かう。と言っても10分足らずの短い通勤時間だ。
 家を出てすぐに差し掛かる農家のご夫婦にはいつもお世話になっている。採れたての新鮮な野菜だったり、多く作りすぎちゃったから、と夕飯のおかずをおすそ分けしてもらうこともある。
 私が畑の一画にヒマワリを植えさせてほしいと頼み込んだ時も、彼らは二つ返事で了承してくれた。野菜のついでだからと水撒きもしてくれていて、今ではその苗の大きさが遠目からでも分かる程度には大きく成長している。
 こちらは畑のプロが担当してくれているので安心できるが、集会所の花壇はといえばそうではない。作ったのは自分で種を蒔いたのも自分。責任を持って最後までお世話をしなければならない。とはいえ自分にできることといえば水撒きを忘れないことと、その生育を見守ることくらいだ。
 集会所前の階段を上ると、花壇の前に人影が見えた。それを覗き込んでいる見覚えのある背中に、私の心臓はどきりと跳ね上がる。
「お、おはようございます」
 思い切って声を掛けると、その人物がこちらに振り返った。
「おはよう。今朝も早いな」
「水撒きがあるので。って、ネアズさんの方が早いじゃないですか」
「今日は俺が掃除当番だからな。提案者がサボるわけにもいかんだろ」
 ネアズさんが小さく肩をすくめる。心なしかその声はいつもよりも呆けているような気がした。
「サボりたいんですか?」
「朝も掃除も得意じゃなくてな」
 とりあえず寝坊しなくて良かったとネアズさんは言った。寝坊して慌てる彼はどんなふうなのだろう。その姿を少しだけ見てみたい気もした。
「それにしても結構成長してるな」
 彼が示したのは花壇だ。太陽の光を目いっぱいに受けたヒマワリの葉が生き生きとして見える。
「そうですね。先日農家の方から肥料を分けていただいたのでそれも撒いてみたんですけど、なかなか効果があったみたいで。葉にも張りが出てきましたし、おおむね好評のようです」
 そこでネアズさんがぷっと噴き出す。
「好評って、ヒマワリにか? 君は面白い言い方をするんだな」
 あっと思って思わず顔を熱くしていると、
「いや、いいんだ。そういうのも俺はいいと思う」
 と言ってネアズさんは頷いた。
「おっと、そろそろ掃除しないとな。じゃあ、また」
「あ、はい、頑張ってください」
 私の言葉にネアズさんは片手で返事をして集会所の中へと戻って行った。
 その足音が遠くなったのを確認すると、私ははあと深い息を吐く。嬉しさと落胆とが混ざった複雑なため息だ。
 またやってしまった。せっかく朝から会えて、話もできたのに。どうしてこう笑われてしまうようなことを口にしてしまうのだろう。ネアズさんはフォローしてくれたとはいえ、変な奴だと思われたかもしれない。
 気付けば口の中がカラカラだ。話している間もずっと緊張していたし、無理もない。それなりに会話をする機会も増えたのに、どうもまだ慣れていないようだ。
 それでもそれを居心地が悪いとか、そんなふうに思ったことは一度もなかった。むしろ楽しくて嬉しい。上手く言葉を選べずに悔やむことはあっても、終わりごろにはやっぱり名残惜しいと思ってしまう。
 花壇に水を撒きつつ、窓から集会所の中を盗み見る。中ではネアズさんがあっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返しながら部屋の掃除をしていた。時折ぼうっと宙を見上げたり再び欠伸を噛み殺したりしては、気怠そうに箒を動かしている。どうやら言っていた通り、朝も掃除も得意ではないらしい。
 そんな姿にさえ私の心は温かくなり、熱くなり、そうしてぎゅっと胸を締め付けられたみたいになる。またネアズさんのことをひとつ知ってしまった。彼の新しい一面を知ると、どうにも嬉しくなる。
 それでいて苦しくなるのは、この気持ちの大きさのせいだろう。日々成長を続けるそれはあっという間に膨らんで、今や私の心の中をいっぱいに占めていた。
 彼を見るたび、言葉を交わすたび、胸が詰まる。今にも溢れ出しそうな想いを抑え込みながら必死で笑顔を作る私に、彼はきっと微塵も気付いていない。
 ずっとこのまま、と思うこともある。彼と親しくなって、毎日他愛もない会話を交わせたら。それこそ日々が彩られたみたいになって、どこまでも幸せな生活を送れそうだ。
 だけど、だからこそこのままではいられない。彼と話すということはすなわち彼のことを知ることで、近づくということだ。知って、近づいて、気持ちが膨らまないわけがない。より膨らんでしまった想いを隠し続けることはもっとできそうにない。
 この想いの容量は如何ほどか、いつ溢れ出してしまうのか。
 まさかその時がこんなにも早く訪れるなんて、一体誰が想像できただろう。

 その日は朝から頭痛がしていた。頭の奥底の方で鈍い痛みが響いているようだった。
 こういった不調は珍しい。体はそれなりに丈夫な方で、風邪すらほとんど引いたことがなかった。この健康さだけは自分の中で唯一自慢できるところと言っていい。
 それが覆されるのは嫌だという変な意地もあって、私は半ば無理やり出勤した。今日はティルザ先輩が各地に往診に向かっていてウルベゼクにいるのは自分ひとりというのもあった。
 幸いにして午前中に医務室を訪ねてくる人はほとんどいなかった。いても軽いケガをしたとかその程度のことで、消毒や包帯の処置で済んだ。
 午後もできれば楽がしたい、と願ってしまったのがいけなかったのかもしれない。昼を過ぎて少し経った頃、一人が体調不良を訴えて訪れたのを皮切りに、医務室には次々と患者が現れた。それぞれ熱や咳、頭痛や裂傷など症状は様々で共通性もないことから何かの集団感染とは違う。ただ単に体調のすぐれない人が重なってしまっただけようだ。
 皆重症でないことは良かった。薬を用意して、ケガの処置をする。病状をノートに書き留めて、記録が終われば患者一人の診療はおしまいだ。
 最後の一人が医務室を後にしたところで一気に肩の力が抜けた。治療にあたっている間は忘れられていた頭痛が再びぶり返してくる。
 それを堪えつつ、脱力した体を椅子にもたれさせていると、集会所側の扉が開く音がした。
「お疲れ。随分忙しそうだったな」
 入ってきたのはネアズさんで、その姿を視界に入れた瞬間、私は咄嗟に背筋を伸ばした。
「外にあれだけ並んでるの久々に見たぞ。揃って食中毒にでもかかったのか?」
 ネアズさんは冗談半分でそんなことを言う。
「違いますよ。たまたまそういう人が重なっちゃったみたいです。ひどい症状の人はいなかったので安心しました」
「そいつは良かった。食中毒だの感染症だの集団でかかる病は厄介だからな」
 彼に言わせてみればそれはきっと病そのものよりも、薬や人手不足が大きい理由なのだろう。
「それで、何か用でもあったんですか?」
「そうそう、疲れてるところ悪いんだが、こないだ貰った薬のリストをもう一回確認したくてな。どこにあるか教えてくれるか」
「ああ、それなら……」
 こっちです、と立ち上がろうとした時だった。急に目の前が真っ白になって、足元がふらつく。踏みとどまろうとした足には力が入らなかった。視界ががくんと揺れて、バランスを崩す。そうして支えを失った私は、その場にあっけなく倒れてしまったのだった。
 目を覚ますと私はベッドの上にいた。どうやら診療所の隣の休憩室のようだ。
 上体を起こした時、額から何かが転げ落ちた。それは水に濡らしたタオルで、誰かが私の額にあててくれたらしい。一体誰がと考えていれば、ふいに部屋のドアが開いた。
「お、起きたか」
 入ってきたのはネアズさんで、これと似たような光景を最近どこかで見たような気がした。
 そこでふと思う。あれ、そもそも自分はどうしてここにいるんだっけ。
「驚いたぞ。急に目の前で倒れるとは思わないだろう」
 そう言われて記憶がみるみる蘇ってきた。そういえば私はさっきまで診療所の方にいたのだった。そこで長時間の診療が終わって、ネアズさんが現れて、薬のリストを渡そうと思って立ち上がった時にくらっときて――。
 倒れた瞬間のことを思い出し、さあっと血の気が引いていく。
「他に誰もいなかったから、とりあえずここまで運ばせてもらった。大丈夫か? 頭打ったりとかしてないよな」
「は、運んだって、あなたがですか?」
 ああ、と頷いたネアズさんを見て、今度はかあっと顔に熱が上った。私の身体は重くなかっただろうか。いや重かったと思う。
「熱があったようにも思えたんだが、どうだ」
 その言葉からおそらくこのタオルも彼が用意してくれたものだろう。体調は、と問われてみれば、確かにまだ頭にはじくじくとした鈍い痛みが残っていた。体温は上がってはいるが、そこまで高くはない。微熱程度だろうか。咳や喉の痛みなどはないから、風邪とはまた違う気がする。原因とすれば過労とか、その辺だと察しがついた。
「すみません、手間掛けさせてしまって」
 そう言うと、ネアズさんは小さく首を振った。
「なに、手間というほどでもない。掛かったとすれば心配くらいだ」
 その言葉に胸がじわりと熱くなる。心配? ネアズさんが私を心配してくれた?
「なんにせよ、医者の不養生ってやつだな。気を付けてくれよ、医師が不在の時ほど怖いものはない」
 その言葉にハッとした。そうだ、私は見習いといえど医師なのだ。ただでさえ人手不足のこの街では私の代わりはいない。己の体調管理に関してはティルザ先輩にも口酸っぱく言われていたことだった。
 それなのに体調を崩すどころか倒れてネアズさんにまで迷惑をかけてしまうなんて。己の未熟さに強く恥じ入るばかりだ。
「そう肩を落とさなくてもいいさ」
 ふとネアズさんが言った。
「私、肩落としてましたか?」
「ああ、がっくり来てたな」
 からりと軽い調子で彼は笑った。
「情けないですよね。医者なのに自己管理もできないで」
 弱音を吐くのは自分らしくない。それでも今日はなぜか零してしまっていた。体と同時に心も弱っていたからかもしれない。
「頭も今朝から痛かったのに、薬も飲んでませんでした。自分の体を過信して、放置していたんです。そんなの、医師なのに患者を放っておいたのと一緒です」
「医者も人間だからな。疲れたら身体も悲鳴を上げる。そうなった時、休むのは悪か?」
 いいえ、と首を振る。
「君も休んでいいんだ。もっとティルザに仕事を押し付けてもいい。あいつはちょっと休みすぎだ」
 そんなことない、と言いかけて口ごもった。休みすぎ、ではないと思う。ティルザ先輩は手の抜き方が上手いのだ。
「それに君の努力は相当のものだ。それは俺もそれなりに見ているつもりだぞ」
 ティルザほどじゃないけどな、とネアズさんは笑った。
 その言葉と笑顔にぎゅっと胸が締め付けられる。その反動みたいにして、心臓が一層音を立てるのが分かった。
「それじゃ、休みたいだけ休んでくれ。今日は診療所は閉めておく」
 部屋を出ていこうとするネアズさんに向かって、私はつい、
「あ、あのっ」
 声を掛けて引き留めてしまった。
 どうした、とネアズさんが振り返った瞬間、思わぬ言葉がついて出た。
「好きです」
 一瞬、時間が止まったようにして沈黙が流れる。
 好きです。その言葉が部屋の壁を跳ね返って耳に戻ってきた時、私は自分が何の言葉を発したのか、発してしまったのかようやく気が付いた。
 途端に顔に熱が上っていく。頬、耳を通り越して額まで熱い。先ほど感じた微熱とは比べ物にならないくらい。
「あっ、え、と、ちが、違うくは、ないんですけど……」
 違うことは何もない。ないけれど、今その言葉が言いたかったのかと言われるとそうではない。頭と心がバラバラになってしまって、もはや何かを取り繕うこともできない。
 私は思わず俯いてしまった。怖くて、彼の顔を見ることができなかった。
 どれくらいの時間が経っただろう。それは数分に及んだかもしれないし、ほんの数秒のことだったかもしれない。
 やがて聞こえてきた声は、やはり静かなものだった。
「……すまん」
 沈黙に滲む声はどこか温度がないようにも感じられた。
「そんなことに心を割いている暇はないんだ」
 ドアの閉まる音が部屋に響いた。窓から差し込む光の向こうでは、空がオレンジ色に染まり始めていた。

   ◇

 朝、集会所に向かうと弟子の姿はなかった。隣接された診療所の方にもいない。はて、今日は休みだったかと勤務表を見ても、そうは書かれていない。
 おかしい、とティルザは首を傾げる。あの子は基本的には勤務表通りに仕事をする。休むなら前日までにそう言ってくるし、私がいないなら言伝を頼んだりメモを置いたりなんなりするはずだ。今朝だって花壇にはきちんと水が撒かれていたから、てっきりもう来ていると思ったのに。
 まさか具合でも悪いのか、と考えていると、そこにもう一人、弟子の動向に詳しそうな男が現れた。
「ねえネアズ、あの子今日来てた?」
「……いや、見てないが」
 ネアズが静かに首を振る。一瞬間を感じたような気がしたが、気のせいか。
「来てないのか?」
「そうなの。おかしいわね、あの子が無断で休むなんて」
「昨日具合悪そうにしてたからな。診療所で倒れたんだ」
 聞いてないのか、と言われ驚いた。そんなの初耳だ。
「そういうことは早く言って。今からあの子の家行ってくるわ」
 そう言って準備に向かおうとすると、ネアズが「まて」と小さく声を上げた。
「何? どうしたの?」
「あ……いや、いい。早く行ってやってくれ」
「何よ、気持ち悪いわね。言いたいことがあるならさっさと言って」
 苛立ちながらそう急かしても、なかなかネアズは次の言葉を吐こうとしない。何か言いたげな素振りは見せるものの、その視線は気まずそうにあちこちを泳ぐばかりだ。
「……何かあったの?」
「いや、別に、そういうわけではないんだが」
「言いづらいようなことがあったのね」
 それだけでおおよその事態に察しはついた。ネアズの反応、その表情。弟子と何か気まずいことがあったとなれば、その可能性は自ずと絞られてくる。
「告白でもされた?」
 告白、の言葉にネアズがぴくりと反応する。やっぱり、そういうことか。
「それで、断ったと」
「なんで分かるんだ」
「そりゃあ、そんな顔されればね」
 少なくともその顔は昨日恋人ができたばかりの人間の顔ではない。ともすれば逆に振られたのはネアズの方なのではと思うくらい翳った表情だ。
「事情はなんとなく分かったわ。頭に入れておく」
「何も言わないのか」
「別に、私が関わることじゃないでしょ。子供じゃないんだから」
 それでいてティルザは一歩前に出ると、強い視線をネアズに向けた。
「ただしそれはあなたがちゃんと誠意を持った答えを出したなら、よ。あなたのことだから、どうせほとんど反射で突き返したんじゃないの?」
 図星を突かれたような顔をして、ネアズは言葉を詰まらせた。
「何言ったか知らないけど、あなただって多少の自覚があるからそんな辛気臭い顔してるんでしょう?」
 その表情が全てを物語っている。彼はきっと、弟子の告白に対してそれなりにすげない返事をしたのだろう。それでいてそれを後悔している。なんて自分勝手な男だ。そんな些末な罪悪感を抱くくらいなら初めからきちんと考えれば良かったのだ。良心が咎めるからといって代わりに花壇のヒマワリに水をやるくらいじゃ何の罪滅ぼしにもならない。
 とはいえあの子が姿を見せないのは自分のせいだと思っているなら、それはやや自意識過剰というものだ。振られて仕事を休むなんて、あの子はそんなヤワじゃない。今朝は本当に調子が良くなかったのだろう。
 この事実は彼には黙っておくことにする。可愛い弟子を心無い言葉で傷つけたのなら、深く深く反省してもらわないと。
 やっぱり自分は弟子には甘いなと思っていると、窓からひょっこり顔を出す影があった。
「あ、やっぱりネアズここにいたんだな。ちょっといいか?」
 これは好都合だ。にやりと笑って声を掛ける。
「ガナル、ちょうどいいところに来たわね。昼休憩はここに集合して」
「お、どうした?」
「喜びなさい。あなたが待ちに待ったネアズの浮いた話よ」
「まじかよ!」
 おい! とネアズが声を上げる。
「同性からの意見も聞くといいわ。きっとガナルも同じことを言うと思うけど」
 それじゃあね、と言ってティルザは往診のため改めて準備へ向かった。背後からは興奮した様子でネアズに迫るガナルの声だけが聞こえていた。

   ◇

 体が重たい。頭痛もまだ少し残っていて、目に光を入れるのも辛い。
 起きなくちゃと頭では分かっているのに、体がいうことを聞かない。ベッドから起き上がれないまま、もう数時間が経とうとしている。
 おかしい、昨日は薬も飲んだはずだ。確かに飲んだ、飲んだと……思う。その記憶さえ曖昧でよく思い出せない。
 薬のことだけじゃない。昨日のことはあまり覚えていない。思い出せるのは断片的な記憶だけで、その間のことは靄がかかったように霞んでいる。
 どうやって家に帰ってきたかも分からない。気が付いたら自宅にいて、こうしてベッドの上にいた。何か食べたっけ。薬はいつ飲んだっけ。やっぱりよく覚えていない。
 一つだけ覚えているのは、休憩室での出来事だ。はっきりと覚えすぎていて、そこだけ何度も脳内で再生されてしまう。
 震える自分の声と、冷たい色の彼の返答。
 そのたびに、ああ自分は振られちゃったんだなと思った。恋って残酷だな、とも。それなりの期間にわたってじわじわと想いを温めてきたのに、終わりはほんの一瞬だった。
 でも意外なことに涙は出なかった。悲しい気持ちもショックを受ける気持ちもあるのに、それらはなぜか涙としては零れなかった。
 自分の気持ちなんてその程度だったのだろうか。いや違う。違う気がする。あれだけ膨らんだ気持ちが見掛け倒しだったなんて思わない。思いたくない。
 それにその気持ちはまだ私の中に確かに存在していた。彼を思うと胸がドキドキするし、同時に苦しくもなる。彼を見かけたら、きっとまた自分はその姿を目で追ってしまうだろう。
 これは失恋とは違うと思った。だって、まだ私はネアズさんが好きだ。そうはっきり言えてしまうくらいには、恋を失ってはいない。
 とはいえやっぱり気まずいことには変わりない。あんなふうに言われてしまって、今後どう顔を合わせたらいいか分からない。
 せっかく話せるようになったのに、それも途絶えてしまうのかと思うと急に悲しくなってきた。振られたこととは違う、ある意味寂しさのようなものがこみ上げてくる。
 でも自分が口にしたのはそういう言葉なのだ。今までの関係に終止符を打つ、別れの言葉。続くかどうかは相手次第だったわけだが、それはものの見事に拒絶されてしまった。はあ、とまた小さくため息が漏れる。
 どうしよう。これからどんな顔でネアズさんに会えばいいんだろう。そもそも今日は家を出られるだろうか。とっくに出勤の時間は過ぎているけれど、せめて午後からでも顔を出した方がいいのだろうか。
 ぐるぐる頭の中で考えていると、部屋にノックの音が響く。
「もしもーし、生きてるー? 医者が来たわよー」
 この声はティルザ先輩だ。もしかして心配してわざわざ出向いてくれたのだろうか。
 鍵を、と思ったところでドアが開いた。ティルザ先輩も開くとは思っていなかったようで、少し驚いた顔をしていた。
「さすがに無施錠はまずいんじゃない?」
「すみません……」
 無理くり体を起こそうとしたのを、先輩が手で制す。
「聞いたわ。昨日倒れたんだってね。なんで言わないの。メモくらい残してよ」
「すみません、昨日のことあまりよく覚えてなくて」
 先輩は額に手をかざすと、「少し熱があるわね」と呟いた。その手のひらが冷たくて心地いい。
「他に症状は?」
「頭痛が少し。食欲もあまりないです」
「風邪ではなさそうだけど、薬持ってきたから。水分摂って寝て、今日は休みなさい」
「いいんですか?」
 私の言葉に、ティルザ先輩が呆れたようにため息を吐く。
「さすがにこんなになってまで働かせないわよ。悪かったわ、あなたの身体の頑丈さを過信してた。もう少し人員も休みも増やしましょ」
「でも……」
「でもじゃないの。またこうなったら大変でしょ」
 そう言われてしまうと何も言い返せない。私は黙って頷いた。
「あとはこういう緊急時の連絡方法を確立させないとね。専属の伝書鳩でも飼おうかしら」
「誰がお世話するんですか?」
「もちろん、あなたに決まってるでしょ」
「やっぱり」
 二人でくすくす笑っていると、そこでティルザ先輩の表情がふっと和らいだ。
「体調はあれだけど、心は元気そうね」
 その言葉に、うっと胸が詰まる。
「……昨日のこと、聞いたんですか?」
「聞いたっていうか、察したっていうか。あなたのことを聞いたら彼、ものすごく微妙な顔をしたから、何があったのって問いただしただけよ」
 何も教えてくれなかったけど、と言ってティルザ先輩が肩をすくめる。
「……私が、我慢できなかったんです」
 昨日のことを打ち明けると、ティルザ先輩は黙って話を聞いてくれた。
「それで、そんなことに心を割いている暇はないって言われてしまって……」
 その言葉を聞いた途端、先輩の表情が曇り始めた。
「ちょっと待って、本当にそう言ったの? ネアズが?」
 はい、と頷くと、先輩はますます憤慨する。
「そんなことに、って……信じられない。ちょっとあなた、ここは怒っていいところよ」
「やっぱり、そう思いますか」
 ネアズさんの言葉には自分も少し引っかかっていた。彼が忙しいことは分かる、分かるけれど、それにしてもこの気持ちを「そんなこと」扱いされたのは少し悲しかった。
 もしかすると振られたことよりそっちの方が悲しかったのかもしれない。確かに毎日を慌ただしく過ごすネアズさんに、自分のことにも時間を割いてほしいとは言えない。それでも他に言い方はなかったのか。
「でもやっぱりネアズさんにとってはその程度のことなんだろうなって」
 言い方を考えるまでもないだけのことだったのかもしれない。私はそういう対象でもなければ、あるいはそういう対象など初めからこの世に存在しないかのような態度だった。
 花壇の前で彼と話した日々が今は遠く感じられた。お世辞にも愛想が良いとは言えない彼の周りには一見壁があるように見えて、実はそうではない。近づいてみればただそこにはほかの誰とも変わらない穏やかな空気があるだけだった。
 それなのに今度は突然本物の壁を突き立てられたみたいで困惑してしまう。彼はそんな物言いをする人ではなかった。少なくとも、私の知る限りでは。
「多分だけど、それはネアズの本心ではないと思う」
 ティルザ先輩は静かな口調で言った。
「本心じゃないと思いたい、が正解ね。確かに、そう思ってる時期もあったと思うけど、今は違うでしょ? みんな自由になったし、そもそも人の心は誰かに縛られるものじゃないんだから」
 誰かを好きになるのも、ならないのも自由。それはレナに支配される前も後も、今も同じで、私たちはそれを繰り返して命を紡いできたのだ。
「それを彼が無下に扱うとは思えない。そういう人の背中を見てきてるんだから」
 そういう人、というのは以前の〈紅の鴉〉のリーダーのことだと察しがついた。彼のことは先輩からも、他の人からもよく聞いている。情も厚く、頼れる彼は皆の父親みたいな存在だったのだとか。
 実際に彼には息子がいたらしい。彼の奥さんや、その病気にまつわる悲しい話も聞いた。それを間近で、隣で見てきたネアズさんが人の気持ちを軽んじるはずがない。
「昨日のは思わず出ちゃったものだと思うの。でもあなたは怒っていいのよ。どっちにしたって言ったことには変わりないんだから」
 はい、と頷く。うっかり出てしまったのだとしても、きっと昨日の言葉はネアズさんの本心ではない。私もそう信じたい。
「……でも、もし本心だったら?」
「そんな男に価値はないわ。次よ、次」
 そう言って拳を突き出した先輩には思わず笑ってしまった。
「そういえば」
 帰り際になってティルザ先輩はふと足を止めた。
「絶対、100%とは言えないんだけど、夕方には一度着替えておいた方がいいかもしれないわね」
 どういう意味ですか、と私が訊ねても先輩はそれ以上のことを言わなかった。そして「一応ね、一応」とだけ言い残して去って行ってしまった。
 ひとり部屋に残された私はその言葉の意味をよく考えてみた。着替えた方がいい。もしかして、自分は随分臭っていただろうか。すんすんと身体中を嗅いでみるが、よく分からない。
 そうしているうち薬が効いてきたのか、睡魔に襲われた。自然と重たくなる瞼に逆らわずいると、あっという間に意識は深く落ちていった。

 次に目覚めると、空はオレンジ色へと変わっていた。それを背景に窓の外を鳥たちが数羽連れだって飛んでいく。どうやら自分はかなり長い時間眠ってしまっていたようだ。
 熱はすっかり下がっていた。あれだけ長く続いた頭痛ももう感じられない。先輩の薬の処方が良かったのだろう。あとで何をどれだけ用意したのかノートを見て確認しておかなければ。
 汗に濡れた肌をタオルで拭っている時、先輩に着替えておいた方がいいと言われたことを思い出した。その真意は分からないが、一日中寝間着で寝転がってばかりいるというのも良くない。とりあえず動きやすい服装に着替えて、ついでに洗顔なども済ませておいた。
 空腹を感じて保存庫のパンを齧っていると、ふと家の扉がノックされた。
「はーい」
 適当に返事をするが、それに対しての応答はない。少し訝しく思いつつ、先輩が忘れ物でもしたのかな、なんて思いながらドアを開けると、そこにはネアズさんが立っていた。
「……」
 呼吸が一瞬止まった。どうしてネアズさんがここに。口に風が入り込むのが分かって、そこで初めて自分の口が開いたままだということに気が付いた。
「……少々お待ちください!」
 思わず扉を閉めると、そのまま洗面台に向かう。真っ先に櫛を手に取り、急いで髪を梳かした。
 そこでようやく合点がいった。先輩が言っていたのはこのことだったのだ。だったらもっと詳細を伝えておいてほしかった。かろうじて着替えてはいたものの、今の自分は髪も寝ぐせだらけでみっともないことこの上ない。
 髪を整えた後は鏡で簡単に身なりをチェックするだけだった。リップクリームを塗ることなんて頭からすっぽり抜け落ちてしまっていた。
「お待たせしました!」
 再び扉を開けると、ネアズさんはさっきと変わらない位置、表情でそこに立っていた。
「……大丈夫か?」
 弾んだ息を整えつつ答える。「はい、ちょっと驚いただけです!」
「急に訪ねてすまない。今いいか?」
 話がしたい、という彼だったが、この掃除も何もしていない部屋に入れるわけにはいかない。その辺を散歩しながらでもいいですか、という私の提案をネアズさんはすんなり受け入れてくれた。
 周囲にあまり人の姿は見当たらなかった。夕暮れ時というのもあって買い出しや夕飯の支度をしている人が多いのかもしれない。
 二人並んで家の近くを歩き出すと、ふと思い出したようにネアズさんが言った。
「そういえば、間引きしたヒマワリは近所の農家に見てもらってるんだったな」
「そうです。お隣さんの畑に植えさせてもらいました」
 そう言って私が指し示した先にはそのヒマワリたちがいた。もう人の背丈の半分ほどになった彼らは日々目に見えるくらいに成長を続けている。
「花壇のよりも大きいな」
「やっぱりプロの手にかかると違いますね」
「あっちも充分成長していると思うが」
「大きいものだと2メートルを超えるものもあるらしいですよ」
「それは大きいを通り越してもはや恐怖だろう」
 いつも通りの会話には正直ほっとしていた。以前と同じように話せている。少なくとも昨日の最後のような冷たい空気ではない。
「体調の方は大丈夫か」
「はい、ティルザ先輩にも診ていただきましたし、一日休んだらもうすっかり良くなりました」
「そうか。それは良かった」
 心底安堵したようにネアズさんが言う。
「心配していたんだ。昨日は随分具合が悪そうだったし、……俺は君に酷いことを言った」
 酷いこと、と言われて思わず体がこわばった。心臓がどきりと音を立てる。
「君は勇気を出して気持ちを伝えてくれたのに、それを無闇に突き放すようなことを言った。まずは謝りたい。すまなかった」
 そう言って申し訳なさそうに頭を下げたネアズさんを見て、そこで私は彼がこのために来てくれたのだと気が付いた。
「言い訳みたいになってしまうが、昨日の俺は何も考えていなかった。君からそんなことを言われるとも思っていなかったし、驚いて、咄嗟に思いついたことを口にしてしまったんだ」
 失言に気が付いたのは少ししてからだったらしい。謝るべきかと悩んでいるうち、集会所から私が姿を消していることに気が付いたのだという。
 おそらくその時にはもう、私は重たい体を引きずりながら自宅へと向かっていたのだろう。それすらも記憶にはほとんどないのだが。
 とはいえ謝罪は昨日でなくて良かったのかもしれない。振られた後にすぐ謝られるだなんて、そんな惨めなことはない。
 今はまた違った気持ちで話を聞いていられた。それはたとえネアズさんの答えがどうであれ、自分の気持ちには何も変化はないと整理が付けられたからかもしれない。
「さすがに、幻滅させたよな」
「はい、ちょっと見損ないました」
 私は正直に思ったことをそのまま口にした。ネアズさんの視線が落ちる。手で押さえた口元から小さく息が漏れるのが聞こえた。
「君にそう言われるのは、なんというか……こう、くるものがあるな」
「もし心からそう思っていたのであれば、の話です」
 少し笑ってそう付け足すと、私は改めて訊ねた。
「そうじゃない、ということでいいんですよね」
「もちろん違う」ネアズさんが断言する。
「君の気持ちを蔑ろにするつもりはなかった。ただ……その、こういったことは経験がなくて、ついあんなことを」
 え、と間の抜けた声が出た。
「もしかして、初めてだったんですか。告白されるの」
「……ああ」
 ネアズさんは気まずそうに視線を逸らして言う。
 嘘でしょう、と言いそうになった。疑うわけではないけれど、その事実は随分と現実離れしているように思えた。
「じゃあ恋人とかは」
「いない。いるはずないだろう」
 それを聞いて今度は私が安堵した。思えばこれは想いを告げる前に確認すべきことだったのかもしれない。
「そもそも、自分はそういう相手を作るべきでないと思っていた。抵抗組織の一員で、いつ命を落とすかも分からないんだ。心残りはない方がいいと思っていた」
 どこか遠い目をして彼は言った。
「でもそうじゃないと教えてくれた人がいる」
「ジルファさんですね」
 ネアズさんは小さく頷くと、静かな口調で言った。
「それに世界も変わった。変わってなかったのは俺の方なんだ。いつまでも古い考えのままで、変わろうとしてなかった。そういう意味では、あれは本心だったのかもしれない」
 そうしてこちらに向き直ると、彼の瞳が私を真っすぐに捉えた。
「でも変わろうと思っている。そう思わせてくれたのは、君なんだ」
 ネアズさんは言った。
「君に頼みがある」
「私に?」
「もう一度、俺に考えるチャンスをくれないか」
 そんなことを言われて、私は面食らった。
「もう一度よく考えた上で答えを出したい。いつまでにとははっきり言えないが、それでも君とのことをきちんと考えてみたい」
 真摯な声だった。そこには昨日とは全く異なる確かな熱が感じられる。
 思わず笑ってしまいそうになった。そんなの、答えを聞くまでもないというのに。
「はい、いいですよ」
 私の即答にネアズさんは急に声を小さくする。
「答えを出すのがいつかも、それがどうなるのかも分からないぞ」
「いいですよ。待ちます。ネアズさんが考えてくれるというなら、いつまででも待ちます」
 待つくらい楽勝だ。その先で白か黒かはっきり決着がつくのなら。
「それに、チャンスを貰うというなら私の方ですよね。もう一度考え直していただけるんですから」
「そ、そうなるか」
「嬉しいです。まだ諦めなくっていいってことですもんね」
 そうして隙だらけの彼に向かって、私は宣言する。
「あなたが好きです、ネアズさん。私の恋人になってください」
 今度こそその目を見て口にすると、心の中に風が吹いたようだった。そうだ、私はずっとこうして真正面に伝えたかったのだ。あんな何かのはずみみたいな言葉では育ててきた気持ちに示しがつかない。膨らんだ想いの1割も吐き出せない告白なんかで終わらせたくなかったのだ。
 私の言葉にネアズさんが息を呑んだのが分かった。
「……時間をくれ」
 口元を手で押さえ、呟いた言葉はお世辞にも丁寧とまでは言えないものの、もう冷たさは感じられない。そこには不慣れながらも向き合おうという意思が確かにあった。
「待ってますね」
 見上げた空は見事なオレンジ色だ。昨日も見たはずのそれは同じなようで、まるで違う。
 待てると、そう確信した。彼のためならいつまでだって待てる。待ってやる。
 それでもこの色の空は、きっといくら待ってももう二度と見られない。ならばこの空と、その下で困ったような表情を浮かべる彼を今のうちにできるだけ目に焼き付けておきたいと、そう思った。

つづく