ロウリン悲恋。リンウェルの娘視点。全部捏造の妄想。救いも何もありません。完全自分用です。
昔、母さんが話してくれたことがあった。
「その人はね、優しくて真面目で、とても頭が良かったの。計算なんかも得意でね。勉強を教えるのも上手だった」
「せいれい術は?」
「たぶん、上手だったと思うわよ。皆の前で扱う機会はあまりなかったけれど、それでも彼の星霊力は強かったから」
「父さんよりも?」
「さあ、どうだったかしらね。何せその頃はまだ父さんと出会っていなかったから」
くすくすと、母さんは穏やかに笑った。
「じゃあその〈はつこい〉? のひとは、今どこにいるの?」
母さんは一瞬言葉を止めた後で、「もう、いないの」と言った。
「母さんの母さんと、父さんと一緒に死んでしまったの。悪い人に襲われたって、聞いたことがあるでしょう?」
「うん」
「だからもう会えないの。どこを探しても、この世界にはいないのよ」
そっかあ、とわたしは頷いて、「ほかには、いなかったの?」と訊ねた。
「え?」
「〈はつこい〉のひとのほかには、好きになったひとはいなかったの?」
母さんはあらあらと笑った後で、小さく「いないわ」とだけ答えたのだった。
それが今になって、こんなものを見つけてしまうなんて。引き出しの奥から出てきたのは、ぼろぼろになった日記帳と、それに挟まった一通の手紙らしきものだった。
らしき、と言ったのは、封筒の中に収められていたそれが、くしゃくしゃになったただのメモ用紙のようなものだったからだ。手のひらに収まる大きさの紙に書き殴るようにして記されていたのは4桁の数字と、名前のサインだけだった。お世辞にも上手とは言えないその文字は今にも消えかかっていて、端のインクが不自然に滲んでいた。
もはやほとんど暗号文のようなそれを、わたしは見てみぬふりをすればよかったのに、つい魔がさして日記帳まで開いてしまった。
内容を読んで思わず絶句した。そこには筆者の、誰かとの再会を待ち焦がれる日々の強い想いが記されていた。
この文字は母さんのもので間違いない。それでもこれに記されている人の特徴は、父さんのものとはまるで違った。
父さんは星霊術使いで前衛で戦うことはない。食べ物の好き嫌いもしないし、勉強も得意だった。本を読めと口を酸っぱくして言ってくるのは、父さんも母さんも同じだった。
これに記されているのは父さんとのことではない――? わたしはその時初めて、あの時の母さんの言葉が嘘であったことを知った。
その日記帳と手紙のことは胸に秘めていた。同じように引き出しの奥にしまい、何も知らないふり、気付かないふりをして日々を過ごしていた。
でも実際は、ずっと気になっていた。母さんが好きになった人。父さんとはまるで違うのに、強く想っていた人。果たして相手とはいったいどんな人なんだろう。
14歳になったある日のことだ。わたしはこっそり集落を抜け出して、その人に会いに行くことにした。それなりに星霊術も使えるようになっていたし、自分の身は自分で守れる程度にはなっていた。
とはいえ手がかりは名前しかない。それにその名前だってインクが消えかかっていたので、正しいものかもわからない。
それでも好奇心には抗えなかった。私は一番近くの村に向かうと、そこで道行く人に声を掛けた。
当然と言えばそうだが、なかなかその人を知っている人は現れなかった。一応推定年齢も伝えてはみたけれど、皆首を傾げるばかりだった。
半ば諦めも混じりつつ訪れていた商人に声を掛けた時、そこで初めて求めていた答えが返ってきた。
「ああ、知ってるよ」
「本当ですか!」
「きっとカラグリアのあいつのことだろうね。年齢もだいたい一致する」
ちょうどこれからその中心地のウルベゼクに向かうというので、わたしはその商人の一行についていくことにした。
初めて訪れるカラグリアはとても暑かった。これでも昔よりはましなんだよと言われて、信じられない気持ちがした。
「ほら、あそこにいるのがそうだよ」
商人が指さした先にいたのは、見慣れない格好をした男の人だった。がっしりした体型に似合わない笑顔を振りまきながら、彼は小さい子供たちと追いかけっこをしていた。
なんだか肩透かしを食らった気分だった。あの母さんが想うような人だから、それこそ父さんを上回るほど知的で、クールな人かと思っていたのに。
あれではまるで子供だ。彼が子供と一緒になって遊んでいるから余計にそう見えるのだろうか。
とはいえ確かにその特徴は日記帳に書かれているものと一致するような気もした。特に、勉強があまり好きではなさそうな点が。
あれこれ考えてはいたが、声を掛けるつもりははじめからなかった。遠目でその姿を一目見られれば充分だと、そう思っていた。
わたしがそこから立ち去ろうとした時、
「リンウェル……?」
彼が母さんの名を呼んだ。それに反応して、思わず振り返ってしまう。
彼はわたしの顔を見た瞬間、その目を大きく見開いた。
「あんた、リンウェルの……娘か?」
はい、と頷くと、彼は目じりを下げて優しく微笑んで見せた。
「ここまで結構遠かったろ」
彼は労いの言葉と一緒に、冷たい飲み物を持ってきてくれた。場所は相変わらず炎天下の街の広場だったが、ここからなら走り回っている子供たちの様子がよく見えた。
「それで、なんでまたカラグリアに? 偶然ってわけでもないよな」
わたしは正直にこれまでのことを話した。彼を通じてわたしがここにいることも知られてしまうかもしれないが、どっちにしたって怒られることは変わりないのだ。もはや半ば捨て鉢になっていた。
「ロウさんを知っているという商人の人にここまで連れてきてもらったんです。遠巻きに姿を見ることができれば、それでいいと思ってたのに」
「けどそこを予想外に俺に見つかったと」
「そういうことになりますね」
声に僅かに恨みがこもってしまう。口がへの字に曲がるのがわかる。
「それにしても、よくわたしが母さんの娘だと気付きましたね」
わたしはふと思ったことを言った。後ろ姿しか見せていないのに、それでも彼は迷うことなくその名を呼んだ。はっきりと、母さんの名を。
「そりゃわかる」
当然、というふうに彼は笑って、こちらを覗き込んできた。
「髪ですぐわかった。あとは、歩き方とかな。瞳は……少し違うか」
まるで慈しむような視線を向けられて、思わずどきどきした。家族以外にこんな優しい視線を向けられるのははじめてのことだった。
「あいつは……お前の母親は元気にしてるか」
「はい、元気です。今頃わたしの所在を追って怒っていると思います」
「はは、そりゃ怖いな」
「別に。いつも怒ってばかりですから」
そうか、と呟いた彼の口調はどこまでも優しかった。「それだけ聞けりゃ、充分だ」
荷馬車が通るというので、それに乗って集落の近くまで戻ることにした。わたしはロウさんに「お世話になりました」と礼を言い、頭を下げた。
「最後に、ひとつ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「どうして母とは別れてしまったんですか?」
別れの理由など様々で、時にはままならないものであることはわかっている。
それでも母のあの日記を見れば、ロウさんを強く想っていたことは明らかだ。気持ちだけではどうにもならないこともあると知りつつ、訊ねずにはいられなかった。
「何か理由があったんですか?」
わたしの問いにロウさんはゆっくり首を振り、微笑んで言った。
「俺が、約束を守れなかったんだ」
集落に帰ると、家の前で母さんが待っていた。これは早速雷が落ちるかと思ったが、意外にも母さんは大きな声を上げなかった。
「……引き出しのあれ、見たんでしょう」
わたしは頷き、「ごめんなさい」と謝罪した。
「いつ?」
「少し……ううん、かなり前」
「それからずっと黙ってたの?」
「うん。だって見ちゃいけないものだと思ったから」
そこまで言うと母さんは呆れたように笑って、
「まあ確かに見て欲しくはなかったけど」
「ごめんなさい……」
「でも、あんなところに置いておく私が悪かったの。見つけられたくないなら、相応の場所に隠さないとね」
悪戯っぽく笑う母さんはまるで子供のようだった。
「それで、会えた?」
「うん。なんか、思ってた人と違った」
「そう。でも会えたってことは、きっと元気にしてたんでしょうね」
「うん。小さい子供たちと一緒に外走り回ってたよ」
「簡単に想像つくわね。昔もそういう人だったから」
懐かしむように母さんは言った。
「母さんも元気にしてるって言ったら、良かったって言ってた」
「そう。他には何か言ってた?」
わたしは少し考えて、
「別れたのは、自分のせいだって言ってた」と言った。
「自分が約束を守れなかったからだって。それって、本当?」
私の問いに母さんは小さく笑った。
「さあ、どうだったかしらね」
母さんはそれ以降、その話をすることはなかった。
その夜のことだ。ふと寝床で目を覚ますと、母さんの姿が見えないことに気が付いた。外はいつの間にか激しい雨が降っていて、屋根に水滴が叩きつける音が響いていた。
わたしは母さんを探した。いったいどこに行ったのだろうと家じゅうを歩き回った。
小さい明かりも何もない部屋で、母さんは泣いていた。窓を開け、今にも水浸しになってしまいそうな部屋で、雨の音に紛れるようにして泣いていた。
手元には、あの手紙があった。これまで何度も握りしめてきたのだろう。あの手紙が不自然に滲み、くしゃくしゃになっていたのは、そういうことだったのだ。
母さんが泣くのを見るのはそれが初めてだった。どこか恐ろしいような、それこそ見てはいけないようなものの気がするのに、どうしてかわたしはその場から動けなかった。
何も考えられなかった。ただ母さんの慟哭だけが頭に反響していた。
終わり