週末の朝、リンウェルは必ずここにいる。ヴィスキントの通りにあるベーカリー。ここのテラス席に座ってリンウェルは本を読んでいる。たまに紙に何かを書きつけていたり、ぼうっとしたりする様子も見かけたことがあったが、同じ店の同じ席に座っていることは変わらない。
それに気づいたのは、ここひと月ほどのことだ。仕事のために宮殿に向かう途中のこの道でリンウェルに会うことがあった。思い返してみればそれはいつも週末の朝で、平日や午後にはそういったことはほとんどなかった。宮殿や〈図書の間〉で会うことの多いリンウェルが、どうして週末の朝にだけここに座っているのだろう。
考えてみれば、その時のリンウェルはどうもいつもと様子が違うように思えた。宮殿に着てくるような服ではなく、なんというか余所行きの格好であるような気がする。女子の服装にはあまり詳しくないので断言はできないが、ちょっと気合が入っているような気がするのだ。加えて髪留め。あれも違っていた。普段付けている蝶の形のものでなく、色も形も毎回異なるものを付けている。近寄ると心なしかちょっといい匂いがするような気もするし、唇もつやつやとして思わず目を奪われる。声を掛けるたびどきりと心臓が跳ねてしまうほどには、その日のリンウェルは雰囲気が違って見えるのだった。
問いは初めに戻る。どうしてリンウェルがそんな格好をしてベーカリーに現れるのか。それは単にこのベーカリーのパンを気に入っているからというのも考えられるが、その可能性は限りなく低いと俺は見ている。理由としてリンウェルは朝に弱いし、毎週同じ店に通い詰めるような几帳面な性格でもない。好物のアイスクリームが相手でもないのに、それなりに朝早く、しかも週末にそんなことをするとは思えないのだ。
となると自ずと他の選択肢が浮かんでくる。待ち合わせだ。その相手は友人か、あるいは男か。友人相手に何をそこまで着飾る必要がある。ならば後者か。毎週リンウェルが早起きしてまで会いたい男とは一体どんな奴だろう。
偶然にも来週末の仕事は休みとなっている。そこで俺は、その待ち合わせ相手とやらを拝みに行くことに決めた。
作戦はこうだ。まずいつものように仕事に行くふりをしてベーカリーの前を通る。リンウェルがいつも通り店に来ているかをチェックするのが目的だ。そうして宮殿に向かったように見せかけ、リンウェルの視界に入らないところから例のお相手が来るのを待つ。完璧な計画だ。
直接聞かないのは、プライバシーというやつに配慮した結果だ。「ロウには関係ないでしょ」と一蹴されるのが怖いからではない。決して。
その実「恋人と待ち合わせなんだ」とでも言われでもしたら正直、正気を保っていられる自信はないのだが。
◇
週末の朝、ロウは必ずここを通る。ヴィスキントの広場前の、ベーカリーがある通り。ここを通ってロウは仕事のために宮殿に向かう。
自分と違って朝に強いロウは寝坊や遅刻とは縁遠い世界を生きている。普通の人なら休みになるはずの日であっても、ほとんどいつも同じ時間にベーカリーの前を通る。
そういう仕事を引き受けたと聞いたのはロウ本人からだ。その時はなんとも思っていなかったが、ひと月とちょっと前の週末に早起きをした日があった。なんとなく目が覚めてしまったのだ。そうはいっても特にすることもなく、暇を持て余した私はパンを買いに行こうと外に出た。ベーカリーなら朝早くから開いているだろうと思ってのことだ。パンを買って、ついでだからと外のテラス席でそれを食べている時、ここを通りがかったロウに会った。「珍しく朝早いんだな」と笑ったロウは二、三言葉を交わした後で、これから仕事なんだと言って宮殿の方へ去って行った。そこではたと思いついた。――週末ここに来ればロウに会える?
別に平日であってもロウに会えないわけじゃない。仕事で宮殿をよく訪れるロウは〈図書の間〉にいる私にわざわざ声を掛けに来てくれることもある。
それでも週末となれば宮殿に用事のない私がロウに会う機会はない。ロウがこうして朝早くから仕事を受けているならなおさら。
だったら、この店のこの席に座っていれば、ロウがこの道を通るときに会えるんじゃないか。それに気づいた私はそれ以降、週末の日は早起きしてベーカリーに通うことにしたのだった。
せっかく早起きしたのだからと鏡の前で服を当ててみたら、これが思いの外楽しかった。あからさまにならない程度に服装に気を遣って、髪留めも変えてみる。このくらいなら分からないかなと香水を使ってみたり、色付きのリップを買ったりもした。
別にロウのためにオシャレをしているわけじゃない。休日に早起きをして、気持ちが高揚しているだけ。それにロウは仕事に向かう途中なのだから話す時間だってあまりない。こちらの服装や身なりを気にかける暇もないだろうし、そんな短い時間の中でちょっとでも印象に残りたいとか、そういうことは考えていない。全く。
そう、これはついでなのだ。早起きをしてベーカリーに行くついで。ロウに会えたらラッキー、そうでなくとも美味しいパンが私を待っている。
どうしてロウに会えることがラッキーなのかについては、ええと、いわゆる言葉の綾というやつだ。
◇
作戦を実行する日が来た。いつもの時間に宿を出て、通い慣れた道を歩く。
角を曲がって通りに出ると、奥のベーカリーの前に人影が見えた。切り揃えられた黒髪。リンウェルだ。
リンウェルはパンと飲み物をのせたトレイを手にちょうど外に出てきたところだった。こちらには気づいておらず、いつもの席に腰を下ろす。
「よお」
後ろから声を掛けると、リンウェルはちょっと驚いた様子で顔を上げた。
「ロウ、おはよう。今日もお仕事?」
「あ、ああ、まあな」
普段ならそうだが今日は違う。吐いた嘘に思わず視線が泳いでしまったが、リンウェルは何も疑っていないようだった。
ふと視界に入れたリンウェルの格好は今朝もそれなりに――いや、かなり可愛かった。カジュアルで動きやすそうなのに女子らしいというかもう可愛い、その一言に尽きる。あるいはスカートか。あまり見慣れないそのスカート姿がそう感じさせるのか。
会話を交わしながら早まる鼓動をひとり鎮めようとしていると、
「あれ、ロウ。お仕事はいいの?」
とリンウェルが言った。
「あ、そ、そうだった。じゃ、またな」
「うん、気を付けてね。ケガしないでよ」
おう、と手を上げてその場を去る。危ない、服装に気を取られて作戦を忘れるところだった。
仕事に向かうように宮殿の階段を上り、リンウェルからは見えない位置まで来たところでぐるりと方向を変える。闘技場のあたりから広場を見下ろすと、ベーカリーの看板が見えた。店先のテラス席にはリンウェルがまだ座っている。
ここからなら気づかれまい。今日はここでそのお相手とやらを見させてもらおうではないか。
意気込んで食い入るようにリンウェルを見つめた。後ろから感じる兵士たちからの訝しげな視線には気づかないふりをした。
ここでひとつ誤算があったことに気が付いた。
(――いつ来るんだよ!)
自分は、待つということに関してはことさら苦手であったことをすっかり忘れていたのだ。
待てども待てどもリンウェルにもその周囲にも変化はない。いくら辺りを見回してもそれらしい姿も見かけない。もうどのくらいの時間が過ぎたのかと広場の時計を見上げると、驚いたことにここへ着いてからまだ半刻も経ってはいなかった。
もうダメだ。先に音を上げたのは自分の方で、階段を下りて再びベーカリーへと向かう。
こちらの姿を視界に捉えたリンウェルは驚いたような顔をして言った。
「あれ、どうしたの。お仕事は?」
「ああ、今日は人手が足りてるって言うからよ。休みになった」
咄嗟にそんなことを言い、取り繕う。リンウェルはまたしても疑わず「そういうこともあるんだね」と小さく首を傾げた。
「お、お前はここで何してんだ? 誰かと待ち合わせか?」
思い切って訊ねた言葉には少し動揺が出てしまった。それでもただ待つよりはこちらの方が性に合っている。
変な汗が首筋を伝う中、リンウェルは少し考えるような素振りを見せた後で、うんと頷いた。
「待ち合わせではないけど、人を待ってるっていう意味では、そうかな」
そうして伏せられた瞳はこれまであまり見たことのないものだった。艶めく唇が緩い弧を描く。
ますます疑念は強まった。一体誰なんだ、お前にそんな顔をさせるような奴は。
「俺もここに座っていいか?」
ついて出た言葉に、リンウェルは一瞬大きく目を見開いた。
「いやほら、せっかく休みになったしよ。街ぶらつこうにもその辺の店が開くまでもう少し時間あるだろ」
言い訳がましくなってしまったことはこの際置いておいて、俺は随分と必死になっていた。
それはそうだ。ここまで来たらもう後には引けない。何が何でもリンウェルを待たせている相手をこの目で確かめなければ。
「腹も減ったし、パンでも食おうかなーって。ここの美味いっていうだろ。天気もいいし、外で食ったら気持ちいいだろうし」
言い訳に言い訳を並べる自分の声が段々小さくなっていくのが分かる。最後はしどろもどろになってしまったが、リンウェルは笑って「いいよ」と言ってくれた。
ベーカリーで買ったパンを頬張りながら、街を見渡すふりをしてリンウェルを盗み見た。リンウェルは相変わらず文字のぎっしり詰まった本を捲っていて、視界にはそれ以外の何ものも入っていないように見える。それの何がそれほどお前を惹きつけるのかと問うてやりたいが、集中しているところを邪魔するのもアレなので、黙ってその姿を目に焼き付けておくに留めておいた。
その後も特段変化はなかった。リンウェルの様子も、街の景色にも。確かに街を歩く人の数は増えつつあったが、こちらに向かってくる人も、気にかけるような人もいない。リンウェルがそいつを探す様子もないし、本を読む以外にすることと言えば時折飲み物に手を伸ばしたり自分に話しかけたりするぐらいで、本当に誰かと待ち合わせているのか疑わしくなるほどだった。
やがて広場の鐘が鳴った。時計の長針が天上を指したのだ。
「お店開くね」
辺りが少し騒がしくなる。表に看板を出しながら客引きをする店主の姿もあちこちで見かけるようになった。
徐々に街が街として目覚めはじめる中、リンウェルが本を閉じた。
「じゃあ、私は帰ろうかな」
「……え?」
リンウェルが本を鞄にしまい込んで立ち上がる。引いた椅子がぎぎっと鳴いた。
「おい、ちょっと待てよ」
思わず声を掛ける。
「誰か待ってる奴がいるんじゃないのか?」
「うん、そうだけど」
表情一つ変えずにリンウェルが答えた。
「……会わなくていいのか?」
自分は何を言っているのだろうと思った。リンウェルの待つ相手は、言ってしまえば自分のライバルでもあるのに。
そいつに嫉妬しないと言ったら、嘘になる。リンウェルの可愛い恰好も早起きの努力も、全部そいつのために捧げられているのだとしたら、正直悔しくてたまらない。
とはいえそれをそいつに見せることすら叶わないのは納得がいかない。リンウェルの努力が無駄骨になるのは何より悔しかった。
俺の問いにリンウェルは小さく笑った。
「いいんだよ」
そして満ち足りたような表情で、
「もう会ったもん」
と言った。
――会った? 頭が混乱する。
自分の知る限りそれらしい奴は現れなかった。リンウェルだって本に視線を落としているだけで辺りを確認する様子もなかったし、ただ遠くから誰かを見つめていたというわけでもないだろう。この席に着いてから今この瞬間までにリンウェルと会った奴なんて一人も――。
いや待て。いるぞ、一人だけ今日リンウェルと会った奴が。
「……リンウェル!」
立ち去ろうとするリンウェルを引き留めて、俺は声を振り絞る。
「こ、これから時間あるか?」
振り返ったリンウェルが大きく目を見開いた。
「あるなら、一緒に街見て歩かねぇか。休みになったし……まあ、お前が良けりゃなんだけど……」
せっかくの誘い文句なのに、どうも格好がつかない。おまけに頬は熱くなるわ胸が痛いわで、とても落ち着いてはいられない。こんなとき、スマートに誘うってのはどうしたらいいんだ。
いたたまれなさに頭を掻けば、それを見ていたリンウェルがふふっと笑った。
「いいよ」
リンウェルはゆっくりとこちらに歩み寄ってくると、
「ロウのお休みに付き合ってあげる」
と目を細めた。
その表情が心底嬉しそうに見えたと言ったら、怒られるだろうか。「自惚れないで」と叩かれるかもしれない。
それでもいい。そんな痛みも今なら幸福を味わうためのまたとない好機となるだろうから。
終わり