決して油断していたわけではない。そうでなくともひと月前、いや去年の夏からずっと考えてはいた。どうやったらリンウェルを祭りに誘えるか、案を練ってはいたのだ。
練っていただけで、いざ言葉にしようとするとどうにも口が上手く動かなかった。「二人で祭りに行こう」だなんて、もはやそれは告白にも等しい。高校生にもなればそのくらい誰にだって分かる。例え幼い頃から同じ時間を長く過ごしてきた幼馴染同士であっても、それは例外ではなかった。
夏休みももうすぐ終わるという時期になって、俺はあらゆるものに追われていた。残った課題にアルバイトのシフト。受験生ならではの模試ラッシュに、そんな事情お構いなしの家の手伝い。一部は自分がため込んだもののツケが回ってきただけとはいえ、その忙しさはまさに目が回るほどだった。おまけに日中は全身が足元から溶けてしまいそうなくらい暑い。いくら体力の有り余る年の頃であっても、さすがに疲れを感じずにはいられない。
一方で、自分の中には逸る気持ちがあった。カレンダーを見るたびにそわそわする。夏休み最終日の日付を見ては心が落ち着かなくなって、胸が熱くなるのを感じる。
毎年この時期に開催される祭りには道が埋まるほどの人出があった。それも当然と言えばそうで、この街の夏祭りといえばこれっきりだ。フィナーレには花火も打ち上げられて、夏を感じるには一石二鳥みたいな、お得感あふれる催しとなっている。
そんなどこの地域にもあるありふれた祭りとはいえ、今年は違っていた。それは主に自分の中の気合のことで、今年こそはリンウェルを誘って祭りに行くと心に決めていたのだ。もちろん二人で。それの意味するところはとどのつまり一つしかない。
そのために課題をできるだけ終わらせて、稼げるようバイトも多く入れた。家の手伝いもその日だけはなんとか免除してもらい、模試で休息をとった。あとはリンウェルを誘うだけ。そうやって一番大事な、根本的なところを後回しにしたのが良くなかったのだろうか。
自宅で課題の追い込みをしているとき、リンウェルが突然訪ねてきた。とはいえそれも珍しいことではない。家が隣同士というのもあって、リンウェルは連絡一つ寄越さずに勝手に家に上がってくることも多い。大抵は廊下を歩いてくる音で察知するが、今日はイヤホンで音楽を聴いていたから、気づくのが遅れた。
襖が開く音に驚いて振り返ると、リンウェルは興奮した様子で言った。
「ねえ、どうしよう。先輩に誘われちゃった!」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。先輩? 誘われた? 何に、と考えて、はっとした。この時期に誘う誘われると言ったら、あれしかない。
「誘われたって……もしかして」
「お祭り! 週末の!」
どうしよう! とまた声を上げたリンウェルの頬をよく見ると、ほんのり赤く染まっていた。
うそだ、と叫びたくなった。心の中で頭を抱え、床に転げ回りたい気持ちになったが、さすがにそんな見苦しいことはできない。
「せ、先輩って誰だよ」
動揺を隠しきれはしなかった。それでも精一杯平静を装いながらリンウェルに訊ねる。
「図書委員の委員長さん。今日図書室に行ったらたまたま二人きりになって、その時言われたの」
図書委員長、と言われて思い出すのに時間がかかった。あいつか。隣のクラスのメガネを掛けた奴。あまり目立つタイプではないから印象は薄いものの、かなり成績がいいのだとどこかで聞いたことがあった。
「なんでそんな奴がお前を誘うんだよ」
「し、知らないけど……もしかしたら、もしかしちゃうのかな……!」
頬に手のひらを当ててはにかむリンウェルは、完全にその気だった。なんてことだ。リンウェルはあいつが好きだったのか。ガツンと頭を殴られたような気分になって、俺は撃沈した。
その後のことは、あまりよく覚えていない。「報告しにきただけ! じゃあね!」とリンウェルが去っていき、部屋には沈み切った自分と中途半端になった課題だけが残された。夕食も食べられないまま、その日は真っ暗な部屋で失意の夜を明かした。
それからの数日間も同様だった。何せ失恋と、告白すらできなかったという後悔が同時に襲ってきたのだ。立ち直るにはかなりの時間が必要だろう。それほどには長く深い片想いだったのだ。
祭りにも、本当なら行く気はなかった。恋人のいない連中が家に押し掛けてきて「高校生最後の夏くらい遊ぼうぜ!」と半ば無理やり連れ出されるまでは。
とはいえパーッとやりたい気持ちも嘘ではなかった。せっかくバイトで稼いだ金もある。この際悔いのないほど遊んで、この夏と叶わなかった恋に別れを告げて来ようと、そう考えて家を出た。
祭りの会場は思った通りすごい人出だった。昨年より露店の数も種類も増えているように思う。これは混雑するわけだ。
人混みを掻き分けて適当にその辺をぶらついた。あいつ、いや、あいつらには鉢合わせませんようにと願いながら。
幸い、それは無事に避けられた。それもそうだ。この人の数ではたとえすれ違っていても気が付かなかっただろう。道の右側と左側である程度の流れは出来ているものの、まともに前には進めない。すぐ後ろにいる友人の声だって聞こえづらいほどだった。
それも終盤になるといくらか落ち着いた。皆が花火を見るために河川敷の方へ移動し始めたのだ。
花火が始まる前には帰ろうと決めていた。それこそ二人で仲睦まじく空を見上げる場面に出くわしなどでもしたら、また傷口が開いてしまう。失恋に心を痛めるのは一度だけでいい。
露店の並ぶ通りを抜けると、案の定河川敷には大勢の人が集まっていた。浴衣姿の人も多い。祭りに花火に浴衣、まさに夏の風物詩だ。
それを横目に通り過ぎようとした時、見覚えのある浴衣が目に入った。紺の布地に朝顔の柄。あれはいつかリンウェルが着ていたものとよく似ていた。
そんな柄はいくらでもあると言い聞かせつつ視線を上げる。黒髪に黄色の蝶の髪飾り。やっぱり間違いない。リンウェルだ。
心がざわつくのを感じる。逃げたくなる。それでもその動向から目が離せない。どうやら一人のようだが、これから例の委員長と待ち合わせているのだろうか。
ところがどうにも様子がおかしかった。リンウェルは辺りを見回すふうでもなく、時折寂しそうに俯いていた。そして数歩前に進んでは、何か足元を気にするような素振りを見せた。
「俺、用事思い出したわ」
咄嗟に友人たちにそう言い残して、俺はリンウェルの元へ駆けた。リンウェルの小さい頭が人波に呑まれていく。
「リンウェル!」
それを見失う前に伸ばした手は、すんでのところでリンウェルに届いた。
「えっ、ロウ!?」
振り返ったリンウェルは俺を見るなり目を見開いた。どうしたの、なんでここに、と戸惑うリンウェルの言葉はとりあえず無視をして、人混みの外へと引っ張っていく。
道から外れると、俺はすぐさま跪いた。
「ちょ、ちょっと」
狼狽えるリンウェルの声も聞かず、下駄を脱がせてみて合点がいった。やっぱり。鼻緒で擦れたのか、リンウェルの足の指の間は赤くなっていた。
「足痛いんだろ。歩きづらそうにしてたのはこのせいか」
俺の言葉にリンウェルは視線を逸らしたまま小さく頷いた。
生憎ばんそうこうなどは持ち合わせていない。このまま歩いて帰るのは難しいと判断した上で、俺はリンウェルに言った。
「家まで負ぶってく。裸足で歩いて帰るよりマシだろ」
リンウェルは少しためらいながらも頷いた。しゃがみ込んだ俺の肩に手を掛け、体重を預けてくる。首に回った手の指には先ほど脱がした下駄を掛けてやった。
立ち上がって、人だかりから離れるように歩き出す。「花火はいいのか」と訊ねると、リンウェルは「うん」と小さく返事をした。
「なんでロウはあそこにいたの」
帰り道の途中でふとリンウェルが訊ねてきた。
「クラスの奴らと来てたんだよ。帰ろうとしたら、お前に似た奴がいるなと思って、それで」
「ふうん。よく分かったね、私だって」
「その浴衣、去年も着てただろ。覚えてたんだよ」
「こんなの、誰でも着てるのに」
お前が一番似合ってるからな。そんな言葉を言えたらどんなに良かっただろう。そんな勇気も出ず、ただ沈黙で返すことしかできないのが悔しい。
「お前こそ何してたんだよ。先輩とやらはどうしたんだ」
俺がそう問うと、リンウェルは黙り込んでしまった。大体のことは察するが、それ以上のことは聞かないことにした。
「なんか、こうしてるの懐かしいね」
突然リンウェルがそんなことを言った。
「昔もよく負ぶってもらった気がする。ケガした時とか、じゃんけんで勝った時とか。もう歩けないーって駄々こねたこともあったよね」
「そうだな」
言われてみれば、そんなこともあった。懐かしむほど年は食っていないはずだが、それでも随分と遠い昔のことのようだ。
「あの頃は楽しかったなあ。負ぶってもらうと、ロウのこと負かしたような気持ちになってたの。自分がじゃんけん負けてもロウを負ぶったりしないのに」
狡いよね、という言葉には笑った。確かにリンウェルに負ぶってもらったことなんか一度もない。どうせ負けても、自分が勝つまでじゃんけんするに決まっているのだ。
「ただロウに甘やかされてただけなのに。一人で勝った気になって、バカみたいだよね」
そんなつもりはない、と言おうとした言葉は、どこか自嘲気味なリンウェルの声に搔き消された。
「今日も、一人で浮かれてただけだった」
リンウェルは呟くように言った。
「昨日になって友達連れて行くって言われた時にあれ? ってちょっと思ったんだけど、それでもまだそんなに疑ってなかったんだよね」
「急遽クラスの友達に声掛けて一緒に来てもらって、その友達も気を利かせて二人きりにしてくれたんだけど、先輩は全然そんな気ナシ。花火の前に『じゃあまた委員会で』って帰っちゃって、がっくり来ちゃった」
「足痛いのも我慢してたのに。あーあ、明日友達になんて報告しよう。まあ、私が勝手に舞い上がってただけだったんだけど」
早口なのは、虚しさを誤魔化すためだろう。あるいは涙をこらえているのかもしれない。リンウェルを負ぶったままのこの格好では、そのどちらとも判断がつかなかった。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
「俺ならそんなことしない」
「……え?」リンウェルの不意打ちを食らったような声が聞こえる。
俺は真っ直ぐ前を向いたまま、歩みを一歩も止めることなく言った。
「俺ならお前のこと迎えに行くし、帰りも家まで送る。家が隣同士だからじゃねえぞ。駅がいくつ離れてたってそうする。好きなやつとはできるだけ一緒に居たいって思うだろ」
好きなやつ、と口にしたところで、リンウェルが息を呑むのが分かった。腕に力が入って、下駄を持つ手が固まる。それでもお構いなしに俺は続けた。
「足が痛いのもすぐ気づくと思うぜ。お前のことばっか見てきたんだ。いくら無理して隠そうったって無駄だからな。まあ、俺相手にお前が遠慮するとも思えねえけど」
昔みたいに駄々をこねたりするのかもしれない。それもいい。それが自分だけに向けられるのなら、そんな美味しいことはない。想像して、思わず口が緩みそうになる。
「とにかくだ。俺ならお前をそんなふうに置いて行ったり、我慢させたりしない。俺の方がもっとお前を大事にする」
他に誰もいない静まり返った路地に自分の声だけが響く。
「だから、俺にしとけよ」
その言葉と同時にどこか遠く、ずっと後ろの方で花火の上がる音がした。
◇
「俺にしとけよ」
その声は花火の音に紛れながらも、はっきりと私の耳に届いた。
俺にしとけって、どういう意味? 単に祭りに一緒に行く相手とかそういうことじゃなくて、そういう意味でってこと?
ロウはさっき、「好きなやつとはできるだけ一緒に居たい」と、そう言った。それって私のこと? 聞き間違いでない、聞き逃しがないならきっと、そういうことだ。
どうしよう。心臓が爆発しそうだ。ロウが、私を好き? そんなまさか、ちょっと信じられない。だって私たちは幼馴染で、小さい時からずっと一緒で、家だって隣同士で――。
分かっている。そんなふうにあらゆる言い訳を挙げてみたって、どれもこれもロウの気持ちを否定する材料にはならない。どんなに近しく過ごしてきたからといって、恋心を抱かない理由にはなれないのだ。
でも、だからといって、はいそうですかと受け入れるわけにもいかなかった。つい数時間前まで自分は図書委員会の先輩と祭りに行けることに浮かれていて、もしかしたらその先もあるのかも、と胸を躍らせていた。結果は惨敗。そんな都合のいいことは起こるはずもなく、がっくり項垂れていたところにロウからの急な告白だ。正直頭が追い付かない。
それでも逃げ場はなかった。足を痛めてロウの背中に負ぶわれている今、私はどこかに逃げることも隠れることもできないのだ。
ロウは、私にとっては兄でもなければ友達でもなかった。兄ほど近しい存在ではない。でも、友達ほど遠い間柄でもなかった。
親同士の仲が良く、幼い頃からロウとはよく一緒にいた。昔の写真を見てもそうだ。私の隣にはいつもロウがいた。笑って泣いて、時にはケンカをしてここまで成長してきた。
2歳なんて年齢差はあってないようなものだった。小学生の頃は私の方が姉であるかのような気すらしていた。ロウが二年早く学校を卒業するのが不服で仕方なかった。
中学、高校に入ってようやく、ロウが年上であることを認識したように思う。体格もそうだけどなんとなく、ロウが大人っぽく見えるようになった。
だからといってロウを男の人だとか、そういうふうに見たことはなかった。今の今まで。ロウに好きだと言われる、この時まで。今この瞬間、初めて私はロウを『男の人』として意識した。
意識した途端、何もかもが変わった。変わってしまった。こんなふうに負ぶわれていることがひどく恥ずかしい。いや、これは緊張というべきか。とにかくドキドキしていたたまれない。だからといって降ろしてというわけにもいかない。裸足で街中を歩けるほどの勇気も根性も私にはなかった。
それに今考えるべきはそういうことじゃない。私はロウにどういう返事をすべきか。イエスなのかノーなのか。昨日まで、ついさっきまで先輩に熱を上げていたのに? 脈がないと分かったら乗り換えるの? 私の中の誰かが耳元で囁く。
言い訳するつもりはないけれど、先輩とのことにはさほど落ち込んでいない自分もいた。ショックはショックだけれど、やっぱりそうだよねと納得している部分もあるのだ。先輩は恋とかそういうのではなく、憧れに近い感情だったのかもしれない。
じゃあロウは? ロウに対してはどうなの? ロウに同じことをされたら、ショックを受けてしまうのだろうか。
いいや、と頭の中でかぶりを振る。ショックを受けないんじゃない。そもそもロウが私に対してそんなことをするとは思えない。
『俺ならそんなことしない』
先ほどロウが口にした言葉はロウより他の誰より自分が一番信じているのかもしれなかった。
ぐるぐると考えているうち、もう自宅の角を曲がったところまで来ていた。
家の前に着くと、ロウは私の手から下駄を取って地面に並べた。その上にゆっくり私を降ろすと「大丈夫か」と言った。
「うん。そこまでなら歩ける」
「そうか」
「……」
「……」
視線が合わないまま、沈黙だけが流れた。数秒経った後で、
「じゃ、またな」
ロウはこちらに背を向け、自宅へと帰ろうとした。
「待って!」
私は思わずその手を取って、引き留めてしまった。何かロウに言わなきゃいけないような気がした。今言わないといけないような気がしたのだ。
「今日は、その、ありがとう」
振り絞った声は自分でも分かるくらいに小さかった。視線を合わせられないどころか、顔すら上げられない。ロウを前にこんなことになるのは初めてだ。
「ロウが来てくれて良かった。助かったし、嬉しかった」
ひとつひとつ確かめるように言葉を並べていく。そう、私は今日、ロウが来てくれて嬉しかったのだ。
そうして頭の中を整理しながら私は言った。
「……でも、さっきの、俺にしとけっていうのには、応えられない」
ロウの身体が一瞬、こわばるのが分かった。自分の手のひらからも汗が滲むのが分かる。
それでも手を離したくはなかった。今離したら一生後悔する。
ようやく上げることのできた顔は、きっと赤くなっていたと思う。それでも構うもんかと、私は言葉を続けた。
「だってそんな、片方が駄目だったからそっちにいくみたいなこと、ずるいし、ロウに対して失礼だよ」
ロウは何も言わなかった。ただちょっと驚いたような顔をして、私を見つめるだけだった。
「それに、俺にしとけなんて、消去法みたいなこと言わないでよ」
今夜私を見つけてくれたのはロウだった。先輩でもそのほかの誰でもなく、ロウだったのだ。そんなロウを、誰かと比べて仕方なく選ぶなんてそんなこと、できるはずがない。したくない。
だったらもう、私の答えはひとつしかない。鳴り止まない鼓動を抑えて、ロウを見つめる。
「……だから、待ってて。ロウがいい、ロウじゃなきゃダメだって心から思えるまで、待っててほしいの」
「それって……」
私は改めてロウの手を取ると、両手でぎゅっと握りしめた。
「そんな長くは待たせないから」
言い終わるや否や、その手がぐっと引かれる。気が付けば私の身体はロウの腕の中にすっぽり収まっていた。
「ちょ、ちょっと……!」
「やべ、すげえ嬉しい」
肩越しに聞こえた声には熱が籠っていた。まだ付き合っていないんだけど。まあいいか、今日くらい。今度こうする日もそう遠くはない。両腕をロウの背中にそっと回す。
目を閉じると、ロウの匂いがした。遠くの花火の音はいつの間にか聞こえなくなっていた。
終わり