自分が味覚を失ったのはある日突然、というわけではなく、ある程度の段階を経てのことだったと思う。
はじめは風邪の引きはじめとか、体調不良からくる何かかとしか思っていなかったが、気づいた時にはもう、その匂いすらも完全に分からなくなってしまっていた。期間にして十日とか二週間とか、そのくらいだっただろうか。
光を奪われたシスロディアで過ごして数年、失うことにはもう慣れてしまっている。仲間や未来への希望、平穏な暮らし。それまでに亡くした家族も含めれば、手元に残ったのは心を殺す方法と、人よりも丈夫な体くらいのものだろう。とはいえ味覚を失ったのはそれなりにショックではあったのだが。
自分が【フォーク】になり果てたとはいえ、日々の生活は何一つとして変わらなかった。言われるがままに任地へ赴いて、素行の疑わしい人間を投光器へ送るだけ。〈蛇の目〉という組織からだけでなく、お互いを監視し合うような息苦しい生活を強いられている人々は、誰も顔を上げようとしない。行き場のない視線を彷徨わせたまま、ただ今日という一日が終わるのを待っている。
きっと自分も同じ顔をしていた。死んだような目で、どこを向いたらいいのか分からない。明日の自分すら想像がつかず、訪れる朝に辟易する毎日。
そんな時、瞳に強い光を宿した少女と出会った。少女はあろうことか〈蛇の目〉が保管する食料を盗もうとしており、隊員である自分にすらも怯えることなく鋭い睨みを返してきた。
正直驚いた。まだこんな目をする人間がこの街にいたなんて。
さらに少女は【ケーキ】だった。一瞬で甘い香りの虜になった自分は、少女に取引を持ち掛けたのだった。
「砂糖、ありがと。無理言ったのに」
いつものように取引を終えて部屋を出る間際、少女がそんなことを口にするものだから思わず面食らった。確かに持ち込む食料に注文をつけられるとは思っていなかったから、頼まれた時は驚いたが。
「まあそれくらいはな。つっても、いつもできるわけじゃねえぞ」
「わかってるよ。でも、ほんと助かったから」
いつになく真面目な表情に耐えかねて視線を逸らしてしまう。自分はそんな礼を言われるようなこともしていなければ、それに値するような人間でもない。
「砂糖なんて何に使うんだよ。あれか? コーヒーは砂糖なしじゃ飲めないお子様か?」
揶揄うような態度で照れくささを隠してしまえば、少女の眉間に皺が寄るのが見えた。
「コーヒーなんてぜいたく品、あるわけないでしょ。確かに甘いものは好きだけど、それだけじゃないよ。果物もジャムにしてしまえば日持ちするし。小腹がすいたらお菓子で誤魔化したりね」
そう言って少女は鞄のポケットから小さな缶を取り出す。蓋を開けると、その中には一口サイズのクッキーがいくつか入っていた。
「こんなの、いつも持ち歩いてんのかよ」
「そうだよ。携帯食料代わりにね」
流石にこれでは腹は膨れないが、空腹を騙すことくらいはできるのだと少女は得意げに言った。
「本当はバターがあればもう少し美味しいのができるんだけど。これは油で代用したやつだから」
その香りが分からない自分では、その辺で売っているものとほとんど変わらないように見える。いや寧ろ白い紙に包まれて缶に収められている分、高級で美味そうにも思えた。
「少し食わせてくれよ」
「えっ、味分かんないんじゃないの?」
「まあ、そうだけどよ」
クッキーの味がどうのこうのよりも、単に少女が作った食べ物に興味があったのだ。
その半分でもいいからと頼み込めば、少女は不思議そうな顔で缶を差し出す。
「別に普通の、何も入ってないクッキーだからね」
「おう」
一枚手に取ると、そのまま口へ放り込む。当然味はしないものの、サクサクとした触感が心地よい。街で売られているものはどちらかといえばもっとパサパサしていて、食べた後も歯に詰まって残る感じがする。
「けっこう美味いもんだな」
「どうせ味してないでしょ」
褒め言葉も適当な感想だと取られたらしい。
このまま少女の指を咥えたらちょうどいいのかもしれない、などと考えていればそれが表情に出てしまっていたのだろうか、少女からはやや白い目を向けられていた。
帰路につく少女の背を見送って再び部屋に戻ると、暖房の火は尽きる寸前だった。新たに薪をくべるのも面倒で、そのままベッドへと横になる。
自分がこうして些細な怠惰をはたらいている間にも、少女は雪深い道にせっせと足跡を作っているのだろう。再び雪がそれを覆ってしまうなんてことも気にせず、前へ前へと進んでいくのだ。
その生きることへの原動力は一体何から来ているのだろう。家にはたった一人の家族が待つというが、それにしたって表情一つ翳らせることはない。コーヒー程度の嗜好品も得られず、あらゆるものに制限の掛かった毎日に何の希望があるというのだろうか。
本来、生きることはそういうものなのかもしれない。先の展望など考えず、目の前をひたすら生き抜くだけ。ないものを強請るより、あるものだけでどう過ごすかを考える。一週間分の食料を願いはすれど、一生にあるかどうかも分からない革命を願ったりはしない。
そんなある意味盲目的にも思える少女は、生きることを誰かに背負わされているようにも見える。
少女に感じるこの気持ちは一体何なのだろう。羨望、憧憬、嫉妬と、どんな言葉を並べても当てはまるようでそうではない。高尚ですね、と嘲笑う気持ちもないわけではなかったが、それでは生を放棄しかけた自分がさらに惨めになるだけだ。
別に自分は死んでしまいたいと思っているわけではない。だがこのまま生きていても、死んでいるのと何ら変わりはないように思えた。なぜ生きていると問われてもきっと答えは決まっている。死ぬ理由がないからだ。例え死んでしまったとして、自分はダナにもレナにも還れない。死に場所もなければ還る場所もなく、それならばとりあえずこうして横になれるベッドがある現状が一番マシだと結論付けた。
生きたい少女と死ねない自分。まるで違うが明日の保証がないという点ではよく似ている気がした。たまたまとはいえ、お互いの不足分を補うような取引には、少なくとも自分は満足しているし、少女の方は不服かもしれないが、先一週間の食料を確約しているのだから割に合わないとは言わせない。
今夜持たせた食料にだってそれなりにいいものを入れてやったつもりだ。菓子類が携帯食料となっているなら、多少難しいが今度はバターを入れてやれば喜ぶかもしれない。恩を売りたいとか感謝されたいとか、そういうわけではなく、ただ、日々の生活に楽しみが一つ増えるのは悪いことじゃないだろう。
浅はかだったのは自分の方で、この時はこんな生活がいつまで続けられるかとか、そういった考えを持ち合わせてはいなかった。全くもって甘かった。あの時渡した砂糖瓶よりもずっと。