その日はかなり冷え込んだ夜で、リンウェルは男の部屋に着くと真っ先に暖房に薪をくべた。やや湿気ていたのか火の点きが悪かったことを覚えている。四苦八苦して火を安定させると、リンウェルはようやく一息つくことができた。
他に場所もなく、躊躇いながらもベッドに腰掛けると小さな窓が視界に入ってくる。風の音は聞こえない。今夜は男の足音が聞き取れるかもしれないな、なんておよそ似つかわしくない考えを浮かべたリンウェルだったが、いつまで経ってもその気配が訪れることはなかった。
どれほど時間が経ったのかはわからない。突如聞こえた、ぎいというドアの音でリンウェルは目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたようで咄嗟に身体を起こすと、ドアの前には不規則な呼吸を繰り返しながら佇む男の姿があった。
「悪い、遅くなった」
男は腹のあたりを押さえながら口端には血が滲んでいる。壁に腕をついているところを見れば、立っているのも一苦労なのだろう。
「ちょ、ちょっと!」
リンウェルはすぐさま男に駆け寄ると今にも倒れそうな体を支え、ベッドへと座らせた。
「どうしたの」
問いかけながら男の体をあちこち見回し、黒い隊服の上から血が出ていないか確認する。幸い唇以外に出血はないようで、刃物による刺し傷等は見当たらない。
「ちょっと同僚にな」
「同僚って、〈蛇の目〉の?」
仲間内で暴行とは一体どういうことなのだろう。ただの喧嘩だったとしても派手すぎやしないだろうか。
「……」
何も言わずタオルで顔を拭く男を訝しんでいると、リンウェルはドアの前に転がる鞄が目に入った。
「……もしかして、気づかれた、とか?」
聞いてしまってからリンウェルは後悔した。あまり信じたくない可能性だったが、男が黙ったままでいることが全てを物語っていた。
「ごめん、私のせいで」
咄嗟に出たのは謝罪の言葉で、リンウェルは項垂れたまましばらく動けなかった。お互いに代価を払う取引であったとはいえ、まさか男がこんな風に怪我をすることになろうとは思ってもみなかったのだ。
「気にすんな。別に食料くすねてんのは俺だけじゃねえよ」
「皆こんな目に遭ってるの?」
「そうじゃねーけど」
「じゃあなんで」
「……色々あんだよ」
不貞腐れた男はベッドに寝転がり、全てを拒絶するようにこちらに背を向けてしまった。
そんな男の姿はリンウェルの心をちり、とひりつかせた。この期に及んで急に突き放すような態度を取られるのが気に食わない。なんだって自分もこんな男の挙動にいちいち腹を立てているのだろう。
リンウェルが行き場のない感情を抑えるのに必死になっていれば、部屋には物悲しい静寂が訪れる。
しばしの沈黙を破ったのは男の方だった。
「俺、ダナ人なんだ」
壁を向いたままの男の声は小さく、ぱち、と弾けた薪の音にすら掻き消されそうだった。
「軽蔑したか?」
その懺悔を含んだ告白が自分に向けられたものであると知って、リンウェルは驚くよりも先に安堵した。胸のつかえが取れたように晴れやかな気持ちだった。
「ううん、」
リンウェルは男の顔を覗き込み、目を合わせる。
「やっぱり、って思った」
ああそうか、出会った時から感じていた違和感に、ダナ人だと告げられてようやく合点がいった。街ゆくレナ人の兵士や〈蛇の目〉の連中に湧いてくる嫌悪感が、この男にはどうしても生まれなかった。
それどころか体に触れることさえも許してしまっていたのは空腹のあまり食料に目がくらんでいたからか、それとも自分が正気でないからかと思っていたが、そもそもの前提が狂っていたのだ。
「全然、レナ人ぽくないもんね」
ダナ人を蔑むような言動もなければ虐げることもない。振り返ってみれば疑問に思うところはたくさんあったのに、なぜ今まで気づかなかったのだろう。
「ダナ人でも、〈蛇の目〉なのは同じだ」
自嘲気味な男の声は暗く床に沈む。
「寧ろ同じダナ人相手に酷いことばっかしてんだぜ」
視線を再び壁の方へと投げ出して、男はきまり悪そうに言った。
「やりたくてやってる人の目じゃないよ」
少なくとも、街でダナ人の喧嘩を見て笑っている奴らとは違う。リンウェルははっきりと言い切って、タオルで男の汗を拭った。
「ダナ人だから、周りの人の罪も被せられたと」
「まあ、そんな感じだ」
男の話やその口ぶりから、きっと今回だけではないのだろう。あらゆる濡れ衣を着せてこられたことは容易に想像がついた。
リンウェルは「なんでそんな組織にいるの」と言いたい気持ちになる。だがその答えは分かりきっていて、他で生きられるならとうの昔にそうしているはずなのだ。
入りたくもない組織に入らされて、ダナ人に嫌われレナ人にも虐げられる。そんな生活をどれくらい続けてきたのだろう。そのことを誰にも告げられず、独りで抱えてきたのだとしたら。
大変だったねという一言さえも軽すぎるようで、リンウェルは何も言えなかった。男は慰めなんて望んではいないだろうが、他にどう声を掛けたらいいのか分からなかった。
ふと感じた肌寒さにリンウェルが振り返ると、先ほどまで煌々としていた暖房の火が消えかかっていた。薪は燃え切っておらず、単に火が回っていないだけのようだ。
「……」
リンウェルは無言で手のひらを見つめた。男からの視線を感じても気に留めることなく、意識を集中させ続ける。
瞬間、暗がりに光が集まったかと思うと、リンウェルの手のひらを中心にしてやわらかな風が起きた。それはゆっくりとリンウェルの元を離れ、暖房の薪の隙間に入り込んで再び火を大きく盛り立てていった。薪が再び音を立て始めたのを確認すると、リンウェルはようやく息をつく。
「今のって」
男の言葉に、リンウェルは苦笑いを返した。大げさにも、あの時男に放てなかった風をこんな形で披露してしまったのはやや気恥ずかしくもあるが、他に機会もないと思えば致し方ない。
「星霊術だよ。私はダナ人だけど、星霊術が使えるの」
かつては魔法使いと呼ばれていたらしい。今やレナ人にしか扱えない星霊術を操ることのできるダナ人の生き残り。そしてさらにその末裔の生き残りが、自分だ。
親も仲間もレナ人に殺された。突然現れたどこかのレナ人は一瞬で全てを奪っていった。一人残された自分は、生きるしかなかった。逃がしてくれた親のため。生きられなかった仲間たちのため。
ただ前だけを向いて生きてきた。食べるものが無い時は木の実を拾い、井戸の水だけでやり過ごすことだってあった。あちこちの村を点々としては空き家を借りて生活した。生い立ちなど詳しい素性を明かすことはなかったが、村の手伝いをしていればそれなりに暮らすことができた。
さらに安定した生活を求めて街の近くに身を寄せるようになったが、物価の高騰は誤算だった。まさか農村にいた頃より食料に困ることになるとは。
「運が悪かったの」
引っ越した時期も、食料が尽きるタイミングも。
もう少し下調べをすればよかったのだろうかとか、備蓄を増やしてから行くべきだったとか後悔は多々あれど、どうせ役には立たない。そんなことより明日の飲み水をどこから確保するかを検討した方がよほど建設的だ。
「そんなこと言うなら全部運が悪かったんだろ、俺たち」
ようやくこちら側に向き直った男は、横になったままでそう言った。
「確かに、そうだね」
これがあらかじめ決められていた運命だったとは思わない。自分たちはほんの少し運が悪くて、道を逸れてしまっただけなのだ。
「こんなこと言ったら怒るかもだけど」
「私たち似てるかもね」
「どの辺が?」
「レナにもダナにも歓迎されないところ」
ダナ人でありながら〈蛇の目〉に加担する男。そしてダナ人の身で星霊術を使う自分。
どちらの人種にも好かれないであろうことは火を見るよりも明らかだ。
「そんなの、似たくはなかったな」
「じゃあ他に何が似ればよかった?」
「そうだな……好きな食べ物とか」
「それは無理だよ」
私【フォーク】じゃないから、とリンウェルが意地悪く笑えば、その言葉に含まれた嫌味に気づいたのだろうか、男も小さく笑ったのだった。
「それで、いまさらなんだけど、今日は……どうする?」
【フォーク】という単語で、この部屋を訪れた理由を思い出したリンウェルは、やや言葉を濁しながら男に問う。
「どうするって?」
「……ああもう、〈食事〉の話!」
大きい声で誤魔化してはいるが、まるで自分が「私のこと食べないの?」と言っているようなもので、もう耳まですっかり熱い。
男はそんなリンウェルの様子を気にもせず、「ああそういえば」なんて間の抜けた声を出すものだから、血圧は上がる一方だ。
「今日は流石にそんな元気ねえよ。来てもらって悪いけど」
「別に、それは気にしてないけど」
自分も勿論、男だってまさかこんな怪我をする羽目になるとは思っていなかっただろう。
「食料も持ってけよ。せっかく持ってきたんだ」
男は目線だけで鞄を示すと、事も無げにそう口にする。こんな目に遭っても懲りないというか、抜け目がないと言えばいいのだろうか。
「いいの? 代わりに渡せるものなんて―」
「真面目か! いいって、こないだクッキー貰ったろ。それのお返しってことで」
あんな小さいもののお返しがこんな一週間分の食料でいいのだろうかと、いまだに躊躇うリンウェルの様子を見て、今度は男の方が痺れを切らした。
「そんな食われたいんだったら、来週たっぷり味わってやるよ」
「ば、ばっかじゃないの⁉」
そんな軽口を叩けるくらいなら大丈夫だろうと、リンウェルは急いで荷物をまとめ、男の部屋を後にする。もちろん、食料の入った丸い鞄を背負うのも忘れずに。
帰り道を歩きながらリンウェルは、先のことに思いを馳せていた。
想定していなかったわけではないが、男との取引で食料を得られる生活は思ったよりも早く終わりを迎えることになりそうだ。食料の備蓄、万一〈蛇の目〉が来た際の逃走経路、安全な引っ越し先。これから検討しなければならないことは山ほどある。
一方で、リンウェルの脳裏には男のことがどうしてもちらつく。
あの怪我の具合だって本当はあまり良くないものなのではないか。骨の何本かは折れてしまっているかもしれない。回復力を高める術には覚えがあると言ってはいたが、再び暴行を受けない保証もない。
自分はこれまで男に命を繋いできてもらったのに。リンウェルは寒空の下、唇を少し噛む。
また一週間後、無事な姿で会えたら。
せめてそれを願うくらいでもしないと、この心は落ち着きそうになかった。