ロウが仕事から戻ってきたのは空がオレンジ色になってからだ。ドアが数回叩かれる音に続いて「おーい」と聞き慣れた声が聞こえた。
ドアを開けると、ややくたびれた姿のロウが立っていた。ズボンの裾は少し土を被っている。
「おかえり。お仕事お疲れ様」
「ただいま。はあー、今日も疲れたぜ」
首やら肩やらをぐるぐると回しながらロウが部屋へと入ってきた。
「……あれ?」
ロウは辺りを見回すと、小さく首を傾げた。鈍感なロウといえど、見慣れている部屋の変化にはすぐに気が付いたらしい。
「なんか様子変わったか?」
「えへへ、分かった? ロウがいない間にちょっと掃除しちゃった」
私はどうだ、というふうに胸を張り、見せびらかすようにした。部屋はきっとそれなりに実感できる程度にはきれいになったはずだ。
ところが、ロウの反応は思ったものとはずいぶん違った。
「お前、勝手に……! な、なんか変なモンとか無かったよな!?」
私の言葉を聞くなり、ロウは急に焦り始めた。この顔を見たのは今日二度目だ。こんな短時間でよくもまあそんなに何度も慌てられるものだなと思う。
それとも何? 何度も慌ててしまうような何かを隠しているの? 私の訝しげな視線にはロウはまったく気付いていない。
「特になかったけど。この部屋、物自体が少ないし」
「はーびびった。焦らせんなよな、ったく」
ほっとしたような、その中に少し苛立ちも混ざっているような口調でロウが言った。
「そんで、お前ら夕飯はどうすんだ?」
「あ、それなんだけどね」
私は部屋を掃除しながら思いついた妙案を口にした。
「私が作ってあげようかなって」
急に訪れた私たちにロウが店を予約しているとは思えない。夕飯をどうするか訊ねてきたあたり、ロウもまだ考えあぐねているのだろう。
だったら私が腕を振るうというのもやぶさかではない。部屋を使わせてもらったお礼代わりと言っては何だけど、夕飯の用意くらいなら私にもできる。ロウはきっと仕事終わりで疲れているだろうし、これからわざわざ街まで逆戻りさせてあちこち案内させるというのも気が引けた。
「作るって、場所はどうすんだよ」
「それはここでいいんじゃない?」
「狭いだろ。それに道具もねえし」
「鍋とか無くても作れるものにすればいいじゃん。サンドイッチとか」
昼間も食べたばかりだったが、それは具材を変えれば問題ない。ハムや卵など選択肢はいくらでもある。
「包丁かナイフくらいあれば作れるよ。買うのが面倒なら借りてきてもいいし」
「それこそ面倒だろ」
ため息を吐きながらロウは言った。
「いいから、どっか外に食いに行こうぜ」
その表情には明らかに煩わしさが滲んでいた。この顔を見るのも二度目だ。ここへ着いて休みたいと言った私たちにこの部屋を案内してくれた時に続いて。
ロウと再会してまだ半日も経っていない。それなのに私はもう何度もロウにそんな顔をさせてしまった。
今までこんなことはあったっけ。いや、心当たりはない。少なくとも、私の記憶の中では。
ロウはいつも笑っていた。時折私の不摂生に怒ったり呆れたりすることはあっても、それが長く尾を引いたことはなかった。
私だけでなく、誰に対しても明るく朗らかに接するのがロウだ。なのに今日は違う。ほかの人には穏やかにしていても、私にはそうじゃない。私だけに笑ってくれない。
その時、あまり考えたくなかった可能性が頭を過った。見ないふり、知らぬふりをしてきたそれが今、とうとう私の眼前に突き立てられる。
「私、来ちゃダメだった……?」
ぽろりと零れ落ちたのは、心の片隅にあった消えない疑念だった。
「来たら迷惑だったかな……?」
そんなことを口にする私を見て、ロウがぎょっとしたように大きく目を見開いた。
カラグリアに着いた時から、ウルベゼクでロウに再会した時からうすうす感じてはいた。
もしかして、私歓迎されてない? ここに来たらまずかった?
「ち、ちが……!」
ロウは慌てて何かを言おうとするけれど、その口から次の言葉は出てこない。何も言えないならつまりはそういうことじゃないの?
喜ばれるものと思っていた。
だって私はロウに会えると嬉しいから。ロウが会いに来てくれるのをいつも心待ちにしているから。
だからきっとロウも同じだと思っていた。
でもそれは思い込みで、大きな勘違いだ。自分がそうだからといってロウも同じ気持ちであるとは限らない。自分にとっては嬉しいことでも、ロウにとってはそうでないかもしれない。
メナンシアを出る前によく考えるべきだったのだ。ロウがどうして自分に会いに来ないのか。
忙しいから、時間が取れないから。それ以外にだって理由はあるかもしれない。例えば、他に好きな子ができたからとか。
それこそすぐに思いつきそうなものなのに、数日前の私はまったくそんなこと考えもしなかった。ロウが会いに来ないのは単に仕事のせいだとばかり思い込んでいた。
だったら自分が会いに行けば解決する。ロウはきっと喜んで私を迎えてくれて、前みたいに一緒にご飯を食べながらおしゃべりできるはず。
それも私の浅はかで考えの足りていない思いつきに過ぎなかった。なんて自分勝手で自意識過剰なんだろう。ひどく恥ずかしい。おまけに惨めで情けなくて、今すぐこの場から消えてしまいたい。
それなのになかなか体は動こうとしない。まるで足が鉛にでもなってしまったかのように、靴の底が床に貼りつけられてしまったかのように持ち上がらなかった。
「……帰るね」
ようやくそう口にして、私は自らの呪いを解いた。手早く荷物をまとめ、鞄を手にして立ち上がる。
部屋を出ようとした時、かくんと視界が揺れた。腕を後ろに強く引かれる感覚。
「待てって!」
振り返ると、ロウがこちらを見つめていた。困ったような、悲しそうな、あらゆる感情が混ざった顔だった。
「違うんだ、迷惑なんかじゃない。ただ、どうしたらいいかわかんなくて、俺……」
ロウはそこまで言うと言葉を選びながら、ぽつぽつとそれを並べ始めた。
「お前がいきなり来て、すげえ驚いたんだよ。会うのも久しぶりすぎて、何を言えばいいのかわかんなかった」
「せっかく来たんだからなんとか時間作ろうとも思ったんだけど、仕事もあるだろ。とりあえず部屋使えって言ったけど狭いし汚えし、おまけに放置しっぱなしでこれでいいのかって思って……」
「全然余裕なくて、イライラしてた。お前にじゃなくて、自分に。なのに俺、お前に当たり散らして最低だよな。お前は部屋も掃除もしてくれたし、メシまで作るって言ってくれたのに」
本当に悪かった、とロウは頭を下げた。そのあまりの勢いに、私からはロウのつむじどころか後頭部さえ覗くことができた。
そんなロウの謝罪に対し、
「なんだ、そうだったんだね」
あるいは、
「ひどい、傷ついたじゃない!」
そんなふうに言えれば良かったのに、私はロウの言葉を聞いてもまだ何も返せないでいた。納得や怒りよりもなお寂しさや悲しみの方が勝っていたのだ。
何か言わなくちゃ。そう思っても、上手く言葉が出てこない。
言葉を胸につかえさせているうち、ふと視界に飛び込んでくるものがあった。
「フルッフー!!」
「いでえっ!」
同時に上がるロウの悲鳴。フルルがロウの頭に鋭い頭突きを見舞ったのだ。
「フル! フル!」
続いてその後頭部に憑りつき、髪をむしろうとする。その勢いはいまだかつて見たことのないものだった。まるでロウの頭がカラグリアのようにはげ上がってしまおうとも一向に構わない、といった様子で。
フルル、いくら何でもやりすぎ! と止めに入ろうとしたところで、さらにそれを制したのはなんとロウ本人だった。
「いや……お前が怒るのも当然だよな」
ぴたりとフルルの動きが止まる。
「そんくらい俺はリンウェルに酷いこともしたし、酷いことも言った。お前の気が済むまでそうしてくれていい」
頭を下げたままでロウは続けた。
「けど、リンウェルに会えて嬉しかったのは本当なんだ。迷惑だなんてそんなこと、あるはずないだろ。ずっと会いたいと思ってたんだぜ」
その時、ふっと心が軽くなった気がした。
会えて嬉しい。ずっと会いたいと思っていた。その言葉をようやくロウの口から聞くことができた。
「フルル、もういいよ」
一歩近づいた私に、ロウがゆっくりと顔を上げる。
「もう一回聞いてもいい?」
もうほとんど言わせているようなものだと思いながら、私はロウに訊ねた。どうしてももう一度聞かずにはいられなかったのだ。
「私、ここに来て良かった?」
私の言葉にロウは表情を緩めて言った。
「あたりまえだろ」
それを聞いて私はやっと心の底から笑うことができた。