大学生リンウェルがプー太ロウと出会ってただれた生活を送る話。現代パロ。なんやかんやでハッピーエンド。捏造/妄想/強めの幻覚/R15程度の性描写/喋るモブ/未成年の飲酒描写など不適切表現あり。本当に何でも許せる人向け。(約9,700字)

境界線上で待つ(3)

 高校生の頃、私は超が付くほどの真面目な学生だった。宿題はもちろん、授業の予習復習も欠かさない。部活にも入らず、放課後は塾に向かうか、あるいはまっすぐ帰って勉強するかのどちらかだった。
 そういう習慣が身についたのは、ひとえに父さんの影響が強かったからなのかもしれない。父さんは厳しい人で、幼い頃から私の教育に力を入れていた。評判が良いという塾の噂を聞けばすぐに体験入学させたし、家に帰ってみたら家庭教師の先生が部屋で待っていたこともある。通信教育の教材が月にいくつも届いていたこともあったけれど、いずれにしたってそれらのどれとも私の意思は関係なかった。
 テストで少しでも点数が落ちると、父さんは私を厳しく叱りつけた。どうしてこれくらいのことができない。お前はまだまだできるはずだ。うん、と頷いて、私は机に向かうしかなかった。
 それでも、私は父さんも勉強も嫌いではなかった。父さんは勉強以外ではとても優しかったし、読書が好きな私に本を買い与えてくれたのは父さんだ。本は知識そのものだからと、図鑑や伝記、小説などジャンルを問わず本を薦めてくれて、今や読書は私の大切な趣味の1つでもある。
 勉強だって、確かに机に向かっている時はあまり楽しいものとは言えないけれど、その分難問が解けた時の達成感といったらない。学校では定期的にテストがあってその成果も試せるし、自分の成長が分かりやすい。
 何といっても、勉強は努力を裏切らない。スポーツは努力をしたからといって必ず試合に勝てるわけじゃないけれど、勉強は違う。やればやった分だけ点数が伸びるし、必ず成果は目に見えて現れる。
 だから私は勉強が嫌いじゃなかった。むしろどちらかと言えば好きな部類であると思っていたのに。
 返ってきた答案を見て、私はさあっと血の気が引いていくのが分かった。すぐさまそれを折りたたみ、点数が見えないようにする。
「リンウェル試験どうだった? 結構難しかったよねえ」
 期末ヤバいかも、と言って、友人が机に答案を広げていた。点数は72点。あちこちでざわついている教室内の反応を見るに、友人の点数はごく平均的なものと言えるだろう。
 私は苦笑いをして、なんとかその場をごまかした。同じくらいと言って、すぐさま答案用紙をノートに挟み込んだ。
 とても言えそうになかった。まさか、その20点も下だなんて。
「60点以下は評価でいえば【不可】です。足りなかった人は期末で挽回してください」
 黒板の前で教員がそんなことを言い、何事もなかったかのように今日の授業に移る。クリスマスをあと3日に控えた午後のことだった。
 授業を終えた私は、その足で付属の図書館に向かった。隅の方の個別ブースが空いているのを見つけ、早足で席を確保する。
 鞄から取り出した答案を改めて見て、深いため息が出た。52点。何度見ても、それは52点だった。
 先週、試験を受けた時から覚悟はしていた。前日にノートの中身を必死に詰め込んだところでそれはほんの付け焼刃でしかない。あんなに手ごたえのなかった試験は生まれて初めてで、逆にそれでこれだけ取れたことの方が奇跡に近いともいえるけれど、平均点どころか単位取得にすら満たない点数で何を満足できるだろう。期末試験では今回のものも含め、より広い範囲から出題されるというのに。
 さらに恐ろしいのは、こういった科目が1つだけではないということだった。ほかの科目でも中間試験が行われたが、私はことごとく惨敗していた。平均点を割るか、越えてもほんの2、3点だけ。期末試験でのアドバンテージはほとんどないに等しい。そういう科目に限って必修なのだ。選択科目であれば数だけ余計に取ってある分、取捨選択できたかもしれないのに。
 はああと、再び大きなため息をついて私は机に突っ伏した。言い逃れなどできない。こうなったのはほかの誰でもない、日々の努力を怠った自分のせいだ。どうしてもっと早くから勉強しておかなかったんだろう。体中に後悔という後悔がまとわりついて動けない。
 このままではまずいと、とうの昔に気付いていたはずだ。どうして見て見ぬふりを続けてしまったのだろう。その理由だって本当はわかっている。私は目の前の〈楽しさ〉を優先してしまったのだ。
 自分の弱さがイヤになる。いや、甘さというべきか。昔はこうじゃなかった。昔はもっと真面目な優等生だったのに。そんなふうに過去の栄光に縋ってみたところで、52点はやっぱり52点なのだった。
 重たい足取りで図書館を出ると、薄墨色の空には小さい雪の粒がはらはらと舞っていた。今年は初雪が遅れたが、一度降り始めたそれは止むということを知らず、凶暴ともいえる速度で街に冬景色を作り出していった。つい先週までは何台もの除雪車があちこちをせわしなく駆け回っていたが、それも今週に入ってようやく落ち着いたところだ。天気予報によれば、週末までずっと穏やかな天候が続くらしい。
 週末。クリスマス。
 本当なら、楽しめたんだろうな。踊るように舞う雪とは裏腹に、私の気持ちはどんより落ち込んでいる。
 何せ彼氏との初めてのクリスマスだ、浮かれないわけがない。ロウには内緒で可愛い服を買ったり、ブーツを新調したり、明日の午後には美容院の予約も入れてあった。
 でもそれも今は重たい枷のように感じられた。まともな成績も取れない人間がクリスマスなんか楽しんでいいわけがない。私の中の誰かがそう囁いていて、それは時間の経過とともにどんどん心の中で膨らんでいく。
 いやいや学生にだって息抜きは必要だ。――毎日息抜きみたいなものなのに? クリスマスくらいはしゃだっていい。――毎日はしゃいでるからこんな成績になったんじゃない。
 せめぎ合う気持ちを渦巻かせながら、私は寒空の下、とぼとぼと駅へと向かったのだった。
 バイトから帰ると、ロウが夕飯を作って待っていてくれた。コタツに入って食べるロウの野菜スープは優しくてあったかくて、冷えた体にじんわり染みわたった。
「そういや明後日なんだけどよ」
 ロウが切りだした言葉に、私は顔を上げた。
「午後から出発ってことじゃダメか?」
 明後日。クリスマスイブ。もともとは街にイルミネーションを見に行く約束をしていたが、具体的なことは何も決めていなかった。
 とはいえイルミネーションの点灯はおそらく夕方以降だ。午後から準備を始めても充分間に合うだろう。私はすぐに「いいよ」と頷いた。
「でも急だね。何かあったの?」
 するとロウは小さく息を吐いて言った。
「さっき、あいつから連絡来たんだよ。同じ高校の奴らで集まらねえかって」
 その言い方を見るに、あいつというのは童顔先輩のことだろうとすぐに察しがついた。先輩は思いついたら即行動の人でもある。
「なんだってクリスマス前にって思ったけど、しつこく誘ってくるから、つい行くって言っちまった」
 ロウはその気がないような言い方をしたが、まるきり気持ちがないわけでもないのだろう。呆れたような物言いは、むしろどこか嬉しそうにも見えた。
「いいんじゃない。友達は大事にした方がいいよ」
 同じ学校でもないのにそうして誘ってきてくれる友人の存在は貴重だ。私は自分の物寂しいアドレス帳を思い浮かべる。
「悪いな。集まり自体は明日の夜だって聞いてるけど、どうせ朝まで飲むんだと思うぜ」
 昼までには帰る、とロウは言った。夜から夜通し遊んで翌日の午後にはまた街に出かけるなんて、ロウの体力は凄まじい。とはいえ自分も似たようなことをしていたなと思い返し、去年の夏に思いを馳せながら残りのスープをすすった。
 イブ当日は、目を覚ますと午前9時を回っていた。ベッドにロウの姿はなく、そういえば友達と遊びに行っていたんだなと思い出す。冷蔵庫のパンを齧り、午後の外出に向けてぼちぼち準備でも始めようかと思った時だった。鞄の中身を移し替えようとして、ノートの隙間から滑り落ちた一枚の紙は、中間試験の答案だった。
 一瞬にして心に翳りがさす。同時に黒いものが腹の中に沸き立った。せっかく忘れられていたのに、今になってよくもまあ姿を現してくれたものだ。
 答案をぐしゃぐしゃにしたい気持ちをなんとか抑え、私は鞄から財布や化粧ポーチを取り出した。それを今日のお出かけ用バッグに詰め替えると、答案をノート類と一緒に部屋の隅に押しのけてやった。
 ロウが帰宅したのは私がシャワーを浴びている最中だった。浴室を出ると、随分くたびれた様子のロウがコタツに足を突っ込んで寝そべっていた。
「おかえり。思ったより早かったね」
「おー。けどやっぱ少し疲れたな……あくび止まんねえ」
 言いつつロウは大きな口を開け、続いて眠たそうに目をしばたたかせる。
「少し休む? 夕方に間に合えばいいんだし、時間はあるよ」
 私の言葉に、ロウは少し考えた後で「じゃあ少しだけ」とむにゃむにゃ言った。
「1時間も寝りゃあ充分だろ」
 そうしてその場で目を閉じようとする。
「え、ここで寝るの? ベッド行きなよ」
「えーめんどくせー……」
 渋るロウを何とか説得しようと思った時、ロウがふと目線の先のあるものに気が付いた。
「なんだこれ、ノート?」
 伸ばしかけたその手を遮って、私はそれを横から掠め取る。
「い、いいでしょ、これは。私の勉強道具だよ」
 来年まで使わないから、と言って、それをクローゼットの中に押し込む。ロウはふうんと言って特に気にする様子もなく、結局そのままコタツで眠ってしまった。
 家を出たのは夕方近くになってからだ。イルミネーションの会場には人が溢れていた。友達同士で写真を撮る人たちや、家族連れで来ている人もそれなりに見かけたが、やはりカップルが多い。イブだしな、と思いつつ、でもどうして前夜を祝う必要があるのだろう、などと考えたりもした。
 メイン会場に近づくと人はさらに増えた。ただでさえ足元の悪い道がさらに狭くなって歩きづらい。ロウに寄り添うようにして距離を詰めると手と手が触れた。ロウは一瞬だけこちらに気をやるような素振りを見せたが、特に何も言わなかった。そうして黙ったまま、顔色一つ変えることなくその手をさらうように繋いでくる。絡み合った指はこの季節にそぐわないほど温かかった。
 時間になって電飾が一斉に点灯すると歓声が上がった。あちこちでカメラのシャッター音がする。端末で動画を撮っている人もいるようだ。
 例に漏れず、私も声を上げていた。地元ではこんな大規模なイルミネーションは見られない。せいぜい駅前の街路樹がライトアップされるだけだ。
 こんな素敵なイベント、端から端まで楽しまないと勿体ない。その手を引いて奥へ奥へと突き進む私を見て、ロウは満足そうに笑うばかりだった。「急ぐと転ぶぞ」とブレーキをかけつつ、それでいて私の好きなようにさせてくれる。私は思うまま、好きなところに行くことができた。ロウと手さえ繋いでいれば。
 夕飯は通りから1本路地に入ったところのお店に入った。そこは私が友人から教えてもらったイタリアンのお店だったが、私の話を聞いたロウが予約を取っておいてくれたのだ。
 イブだけあって中はなかなかに混みあっていた。私はロウと友人に感謝しつつ、ちょっと背伸びしたコース料理を心ゆくまで楽しんだ。
 翌日のクリスマスは、街で互いのプレゼントを買うことにしていた。サプライズもいいが結局目的地は同じ場所だ。なら一緒に行って、その場で選んだ方が迷わなくて済むということで二人揃ってモールへ出かけた。
 私はロウに腕時計を買ってもらった。以前から目を付けていたそれは、ピンクゴールドのシンプルなデザインのものだった。
 一方でロウは何も要らないと言った。ギリギリまで考えてはみたものの、特にほしいものが思いつかなかったらしい。
「それじゃあプレゼント交換にならないじゃない」
 むくれた私は、ロウにも腕時計を買った。自分のとはお揃いではないけれど、デジタル式でちょっといかついシルエットがロウに似合うと思った。
「今の時代、時計なんか要るかよ」
 今度はロウがむくれたが、私はひとり満足した。
「別に時間を確認するのは端末だってなんだっていいよ。ロウがそれを大事にしてくれればそれでいいの」
 なるほどな、とロウは言った。私の独りよがりな親切をロウはすんなり受け入れてくれた。
 その後はケーキを買って早めに退散した。夜になれば街はいよいよ混んでくるだろう。人ごみに流される前にと、足早に電車に乗った。
 自宅に帰ってからはまったりと過ごした。私は買ってもらった時計を眺め、それを何度もクロスで拭いた。ロウはコタツに寝転がり、どこからか借りてきた漫画を読んでいた。その腕には私の買った腕時計が覗いていて、それを見て私はまた満足した。
 夕飯の後、ケーキを食べているとロウがぼんやり言った。
「なんか、クリスマスって普通だな」
 どうやらいつもとあまり変わらない、と言いたいらしい。
「そう? イルミネーションきれいだったよ」
 イタリアンも美味しかったし、プレゼント交換も楽しかった。目の前にあるケーキだって可愛くて美味しくて、クリスマスというイベント気分になる。
「そりゃそうだけど、楽しいのはいつも変わんねえなって」
 ロウがそんなことを言うので、私はついからかってみたくなって、
「それって、私といるから?」と聞いてみた。
「そうかもな」
 そう言ってにやりと笑い返してきたロウは、そのまま私にキスをした。と思うとそれはみるみる深くなり、舌が咥内へと押し入ってくる。吸われ、なぞられ、たちまち身体から力が抜けた。ほのかに香るクリームは私が食べたものか、ロウが食べたものか、その区別さえつかなかった。
 私はその場に押し倒されながら、昨日もしたのになと思う。帰ってきた後、ベッドで眠ろうとした私をロウは許さなかった。今日はそういう日だろと笑って、それこそ起き上がれなくなるくらい激しく抱いた。今朝目覚めた時には既に時刻は朝ではなかった。
 今日もまたそうなるのかな、と思って、せめてベッドに行きたいと訴えた。朝のまま乱れたシーツに転がされ、覆いかぶさってくるロウに鼓動を大きくしつつ、私はその背中に両腕を回したのだった。
 行為の後で私を後ろから抱きながらロウが言った。
「年末は帰るのか?」
 私は首を振り、「帰らないよ」と答えた。大学生の冬休みはそこまで長くない。加えて急に天候が荒れてしまったら帰れなくなって、授業にも出られなくなってしまう。今の時期にそれがあると単位にも差し支えそうだ。
 授業。単位。
 嫌なことを思い出したなと思った。父さんの怒った顔が浮かぶ。
「どうかしたか?」
 ロウはこういう時になぜか敏い。後ろを向いていて表情なんか見えないはずなのに、私に起こった異変をレーダーのように感知してしまう。
 なんでもない、と言いたかった。ただ実家のことを思い出しただけ、と。
 でも誰かに聞いてもらいたかった。私が抱えている悩み。苦しい気持ち。それは多分、家族にも友人にも言えない。誰よりも身近で、それでいて外の人間であるロウにしか打ち明けられない。
 私は寝返りを打ってロウの方を向いた。顔を上げると、ロウと目が合う。それだけでなぜか少し泣きそうになった。
「実はね、成績が落ちちゃってるんだ」
 意を決して告白すると、語尾が震えるのがわかった。
「授業についていけてないの。何がわかんないかもわかんないから、質問にも行けない。こんなこと今までなかったから、友達にも言えなくって」
 父さんのことも話した。成績次第ではこちらに来ることになると告げると、さすがにロウの表情にも焦りの色が見えた。
「勉強しなくちゃいけないってわかってるのに遊んでばかりで……中間試験も悪かったし、それで最近落ち込んでたんだ」
 吐き出すだけ吐き出すと、少し心が軽くなった気がした。荷物を1つ下ろすことができたような、そんな気分だった。
 とはいえそれで事態が好転するわけでもない。そのことは誰よりも自分が一番よく理解していた。
 ロウはというと、黙って私の話を聞いていた。聞き終わると「そうか」と言って、私の髪を優しく撫で始める。次に何を言われるかと私は内心ドキドキしていたが、ロウの口から出たのは思わぬ言葉だった。
「……良かった」
 ――良かった? 思わず強い視線をロウに向ける。
「あ、いや、そういうんじゃなくて」
 ロウは慌てて否定し、弁明し始めた。
「最近お前が何か悩んでるのはなんとなく気付いてたんだけど、理由がわかんなかったんだよ。もしかして俺がまた何か言っちまったのかなって思ってたけど、違ったんだな」
 正直ほっとした、良かった、とロウは胸を撫で下ろした。
「良くないよ。このままじゃ父さんが来ちゃう」
 その言葉にはロウはあっけらかんと言った。
「いや、それは何とかなるだろ。お前賢いし、本気で勉強すりゃなんとかなるって」
 な、と呑気にロウは笑った。
 買い被りすぎだよと、私は小さく口を尖らせる。でもそんなロウの能天気さが今の私にはありがたかった。
「あ、だからあの時、ノートとか隠したんだな」
 思い出したようにロウは言った。
「だって知られたくなかったんだもん。テストの点数知られたら、デートもなくなるかもって」
「んなこと俺が言うかよ。クリスマスくらい遊んだっていいだろ」
 そう言ってロウは再び手を持ち上げ、私の髪を撫でる。
「もう、すぐそうやって甘やかすんだから。少しくらい叱ってよね」
「俺が甘やかさねえでどうすんだよ。それが俺の役目だろ」
 そういえばロウは自分が背もたれになると言っていた。あの夏のファミレスでのことだ。それが私たちが付き合うきっかけにもなった。
 思えばあの時からずっと、私はロウに甘え続けてきたのだ。ロウが何も言わないのをいいことに、楽な方へと流され続けてきた。のらりくらりと、海に漂う浮き輪のように。
 でもそれももう終わりだ。今度こそ現実と向き合わなければならない。自分のため、ロウのために変わる時が来たのだ。
 私ならできる。ロウも言ってくれた。なんとかなると。
 この時の私はそれを疑わなかったし、何より信じたいと思っていた。でも実際はそう簡単には進まなかった。人が変わるためには並大抵の努力をしただけでは足りないのだ。

 成績を取り戻すためにはひたすら勉強するしかない。私は、机に向かっている間は邪魔をしないようにとロウに言いつけた上でノートを開いた。
 はじめはよかった。授業の内容を最初からゆっくり嚙み砕いていくと、難解だと思っていた数式の意味もわかるようになってきた。私に必要だったのは一瞬でそれを理解できる卓越した頭脳ではなくて、単に順を追うための時間だったのかもしれない。
 それでも一度つまずくと後を引いた。悩みだすと沼にハマってしまい、苛立ちが募ってくる。気が付けば机の上にやたらと消しゴムのカスが散らばっていた。そんな些細なことすら気になってきて、指はひたすらにシャープペンの芯を出したりしまったりを繰り返していた。
 そうして切れた集中力の隙間から視界の端に映り込んでくるものがあった。ロウだ。
 別に話しかけられているわけではない。ロウがこちらに視線を送ってくるわけでもないのに、その存在が気になってしまう。自分のこれまでの習慣として1人で黙々と机に向かうのが常だっただけに、同じ空間に誰かがいると途端に集中できなくなってしまうのだった。
 だからと言ってロウを追い出すわけにもいかない。この部屋を好きにしていいと言ったのは私だ。でもロウがいるとなんだか落ち着かない。
 耳からの情報を断つためにイヤホンを着けてみる。音楽を流しても、音量を大きくしても、その背後の気配をどうにも掻き消すことができない。
 最終的にはこんなことを考えている自分がイヤになって、私は「図書館行ってくるね」と部屋を出た。まるでそこから逃げ出すかのように。
 そんな私の様子にロウも気付いていたのだろう。翌日、ロウは朝から外出の準備をしていた。
「どこか行くの?」
「おう、ちょっとな」
 明るい様子でロウは言ったが、おそらくどこに行くのかは決まっていないのだろうなと思った。決まっているのであれば、ロウは必ず行先を口にする。
 でも私はそれ以上何も聞かなかった。ロウが家を出るのを見送り、静かに息を吐く。ロウがいないことに安堵を覚えるなんて、交際を開始して以来初めてのことだった。
 歯車が狂い始める瞬間というのはこういう時を言うのだろうか。それでもその直し方は知らない。いや、知っていても直すことができない。特に今は。
 直してしまったら最後、その歯車ごと崩れ去るのがわかっているから。今はただじっと耐えるしかないんだ。私は自分にひたすらそう言い聞かせた。
 その日はちょうど図書館が年末休みに入る日であったことを私はうっかり失念していた。入り口に貼り出されていたお知らせにがっくりしつつ、来た道をすごすご引き返す。
 自宅に戻って玄関のドアを開けると、誰かと話すロウの声が聞こえてきた。私は咄嗟に「ただいま」と言いかけた声を飲み込んだ。
「……だから、……って……」
 閉ざされた寝室から聞こえてくるのは間違いなくロウの声だった。でもほかに誰かがいるような気配はない。どうやら話し相手は電話の向こうにいるようだ。
「…………からな! ……ああ、…………わかってる……」
 ロウはいつになく感情的になっているようだった。珍しい。ロウは普段あまり声を荒げたりはしないのに。
 相手は誰だろうと思う一方で、盗み聞きは良くないと気を紛らす。コートを脱いでハンガーにかけようと思ったところで、寝室の戸が開いた。
「なんだ、帰ってたのか」
「あ、うん。図書館休みなの忘れてて」
 そうか、と言ったロウはどこか浮かない様子だった。
「電話してたみたいだね。何かあったの?」
 私の問いにロウは首を振った。
「いや、なんでもねえよ」
 この顔は、と思った。この顔は、あまり事情を話したくない時のロウだ。
 私はそれ以上問い詰めなかった。ただ「少し勉強するね」と言って、鞄からイヤホンを取り出したのだった。

 年末は風のごとく過ぎ去った。年が明けて早々に授業も再開し、私はまた必死の思いで大学に通った。
 授業は進むものの復習は追いついていない。加えて期末までのタイムリミットは刻一刻と迫る。私は空きコマもできるだけ図書館や食堂で勉強しようと決めた。
 昼食を摂りながらノートを眺めていると、「久しぶり」と声が掛かった。顔を上げると、童顔先輩が向かいの席にトレーを置いたところだった。
「ここ、いい?」
「あ、はい。もちろん」
 私は答えると、ノート類を自分の方へ引き寄せる。筆記用具も必要なものを残して片づけた。
 先輩とは上手く顔を合わせられなかった。というのも、私は昨年秋以降のサークル活動に顔を出していなかった。活動を知らせるメッセージは届いていたものの、何かと理由をつけて断っていた。
 もしやそれについてのお叱りを受けるのではないかと内心怯えていた。だが先輩が口にしたのは、意外な言葉だった。
「ロウと付き合ってるんだって?」
 私はひとつ遅れて「はい」と返事をする。
「ロウから聞いたんですか?」
 私の問いに、先輩は「いや、」と首を振った。
「少し前、街でたまたま二人が歩いてるのを見かけたんだ。それでこの間、ロウに確認を取ったら否定しなかったから」
 この間、と聞いて思い出す。そういえばクリスマスイブの前日、ロウは高校の同級生の集まりに行くと言っていた。その主催者は確か先輩だった。
「いつから?」
「えっと……去年の夏です」
「もしかしてあの祭りの時?」
「そうなりますね」
 やっぱりなあ、と先輩は笑った。どうやらロウはこれらの質問には答えなかったらしい。意外と照れ屋なんだ、というのは先輩の言葉だ。
「ロウは良い奴だよ。裏表がないし、面倒見もいい。だからついこっちも放っておけなくなる」
 先輩の言っていることはなんとなくわかる気がした。ロウには人を惹きつける不思議な力がある。
「けど1つ、弱点がある」
 先輩は大皿のカレーをスプーンですくいながら言った。「欠点とは違うんだけど、それでもあいつの唯一の弱みだ」
「ロウから聞いてる?」
 私は「いいえ」と首を振った。思い当たることは何もなかった。
 その後、先輩からの話を聞いた私は図書館に寄ることもなく、まっすぐ自宅へと戻ったのだった。

つづく