その日は朝から雲行きが怪しかった。看板を出すため外に出ると、向こうの空からねずみ色の雲が顔を覗かせていた。
「これはひと雨来るかもね。やだなあ、髪が跳ねちゃう」
などとリンウェルが口にしたのも束の間、あっという間にその雲は重みを増しながら空を覆ったと思うと、たちまち強い雨を降らせ始めた。
バケツをひっくり返したようとはまさにこのことで、その激しさといったら地面で跳ね返った水滴が便利屋の窓にかかるくらいだった。
こんな日に外に出ようなどと思う人間はおそらくほとんどいない。きっと通りの向こうの市場でも、客足が伸びないことを考えて休業にする店が多いんじゃないだろうか。
便利屋にとっても依頼人が訪ねて来られないというのは残念なことだ。収入面でもそうだが、本来誰かが頼むつもりでいた仕事を天候という外的な要因によって邪魔されるのは本意ではない。そうでなくたって手が足りず依頼を断ることもあるのに、雨ひとつで道が阻まれるのはどうにも苛立たしい。
「なんだよ。ついてねえなあ」
思わずそんな言葉が出て、同時に深いため息も出た。
「そうはいったって仕方ないでしょ。天気は誰にも変えられないよ」
「それはそうなんだけどよ」
わかっている、と思いながらも口はへの字に曲がりそうだ。依頼も何もないんじゃ、今日一日こうして狭い部屋の中に閉じこもっているしかない。できることといえば部屋の端で筋肉トレーニングに勤しむくらいだが、そんな素振りを見せようものなら机で書類と向き合うリンウェルに「動きがうるさい! 気が散る!」と非難されるに違いなかった。
だからって何もせずに黙ってるってのもなあ。
性に合わないんだよなあ、とソファーに寝転がろうとした時だった。
ゴン、と鈍い音が部屋に響いて、咄嗟に身を起こす。
「な、なに!?」
リンウェルと2人、その音がした方向に視線を向ける。何とそこには、便利屋の窓に向かって頭突きをする1匹のダナフクロウの姿があった。
立派な体躯に見事な羽。メナンシアの星霊力を受けたのだろうか、その体色は美しい黄金色をしていた。
ダナフクロウはなおもこちらに向かって頭突きをしようとしていた。窓から少し距離を取り、勢いをつけようとする。
「おいおいおい! 待て待て待て!」
割れる! 危ない! と必死で訴えると、ダナフクロウはぴたりと動きを止めた。代わりにと便利屋のドアを開ければ、こちらの意図を理解したのか、巨大な羽を収めてそこへと降り立った。
「いったいどうしたってんだ?」
ロウが訊ねると、ダナフクロウは言った。
「フォル、フォル!」
「なるほど」
まったくわからない。その身振り手振り(羽振り?)から何やら焦っていることはわかるが、誰が何をどうしたいのかはほとんど理解できなかった。
すると背後で、フルルが何か呟くのが聞こえた。
「フル、フルル」
「仲間が洞窟に閉じ込められちゃったんだって。助けてほしいって」
それをリンウェルが翻訳する。そうか、その手があったか。
「場所はどこだ?」
「フルル、フル?」
「フォル、フォ、フォフォル」
「フル、フル」
「ディアラ山の方だって。雨宿りしてたら岩が崩れてきたみたい」
「なるほどな」今度こそロウは頷いた。
おおよそのことは把握できた。これはできるだけ急いだ方が良さそうだ。
ロウは壁に掛かっていた鞄を引っ掴み、手甲を身に着けた。岩が邪魔しているなら砕くことになるだろうし、ディアラ山の方にはズーグルも多い。鞄の中には万一のことを考えて薬や包帯の類を一式用意してあった。
「私も行く」とリンウェルは言ったが、そこは少し迷った。外は豪雨で視界も悪い。そんな日にあまり外に出てほしくない。
「でも、じゃあロウは、あのフクロウが言ってることがわかるの?」
「それは……」
「指示がわからないんじゃ困るでしょ。私がフルルの言葉を伝えるから」
リンウェルもどこか必死だった。フルルの仲間は自分の仲間も同然、ということなのかもしれない。
「わかった。けど、あまり無理すんなよ。途中でダメだと思ったら引き返せ」
「うん!」
リンウェルは笑顔で応えると、早速準備を始めた。鞄から余計なものを取り除き、代わりに薬やタオルなどを詰め込んでいく。
「それにしても便利屋の名前もここまで広がったか。まさかダナフクロウから依頼が来るとはな」
「なに悠長なこと言ってるの! 助けられなきゃ意味ないでしょ!」
ほら行くよ、とリンウェルに背中を押される。
ダナフクロウに道案内を頼むと、ロウはリンウェルとフルルと連れ立って、大雨の降りしきるヴィスキントの街中を急ぎ足で駆けだしたのだった。
雨の勢いは弱まることを知らない。むしろいっそう強くなるばかりで、視界はますます悪くなっていく。
城門を抜けてからは風も吹いてきた。どうやら街中は建物によってそれが遮られていたらしい。時折吹く強い風に体を煽られながらも、ロウは必死に足を動かした。今はただひたすら、前に歩みを進めることしかできなかった。
とはいえ、前を行くダナフクロウを視界に収めつつ、背後の気配にも気を配った。リンウェルとフルルもこの激しい雨の中、必死に前に進んでいた。小さい体で、それでも足取りは自分よりもしっかりしているようにも見える。こういう時のリンウェルは本当に肝が据わっていて、誰より頼もしく思えるのだ。
タルカ池を横目に進み、険しい山道に差し掛かったところで、大きな土砂崩れの跡を見つけた。普段人が往来する道にも大きな岩がごろごろ転がっていて、どうやらこれらは上から斜面を滑り落ちて来たらしい。
「フォル、フォル」
「フル、フル」
「そこだって。そこの、大きな岩で埋まっちゃってるところ」
ダナフクロウの示す先にはひと際大きな岩が転がっていた。言われた通りその奥には洞窟のような空洞があるのがわかるが、岩と一緒に崩れ落ちてきた土砂も邪魔をしていた。腕一本通らない隙間では、ここから彼らを救出するということは難しいだろう。
「フォウ、フォル……」
「フルルゥ……」
「仲間があと4匹、中にいるって。助けてほしいって」
「そりゃあもちろん。そのために来たんだからな」
ロウは鞄をリンウェルに預けると、拳を叩いて大きな岩の前に立った。大きく息を吸い込んで右の拳に力を込め、それをひと息に岩のただ一点へと叩きつける。
「――――おらあっっ!」
鈍い音とともに、岩はあっけなく割れた。続けてガラガラと音を上げながら、砕けた破片が周囲に転がっていく。
ロウはその瓦礫や空洞を埋めている土砂を丁寧に取り除いていった。やがて奥に挟まっていた大きな石を取り払った時、ようやくそこに人の顔の大きさほどのぽっかりとした穴が空いた。
穴から空洞の奥を覗き込んでみると、中は真っ暗だった。瓦礫を取り除いてさらに穴を広げ、外の光を取り込んでやる。そうして奥に見えたのは、恐怖に怯え互いに身を寄せ合って体を震わせているダナフクロウたちの姿だった。
「いたぞ!」
ロウが声を上げると、外にいたダナフクロウとリンウェルたちがすぐに飛んできた。
「大丈夫!? ケガしてない!?」
「フォル! フォル!」
ロウを押しのけ、リンウェルとダナフクロウが穴を覗き込む。その声が聞こえて安堵したのか、中にいるダナフクロウたちも次々に声を上げた。
「早く出してあげようよ!」
リンウェルは言ったが、外に出そうにもここには建物もなければ雨を凌げる屋根さえない。外に出たところで雨に濡れ続けるのであれば、冷え切った体をさらに冷やしてしまうことになる。
そこでふと思いついたことがあった。
「お前ら、ちょっと隅に固まってろよ」
ロウは穴から中のダナフクロウたちに声を掛けると、今度は今ある空洞の横の壁に向かって拳を叩きつけた。
「ちょっと! 何してるの!」
「何って、拡張だよ」
ロウは得意げに答えた。
きちんと加減はした。ダナフクロウたちがいる空洞は崩さないように、それでいてもう少しスペースを広げられるように、力を調整して壁を砕いた。どうやって調整したかと問われると、そこは答えられない。なんとなくこんな感じかな、という具合になんとなく腕を振るった。
予想よりも大きく壁は砕けたが、おおよそロウの思い描いた通りにスペースは広がった。空洞はだいたい元の倍くらいの大きさになり、これならダナフクロウも自分たちも揃って雨宿りができるだろう。
土砂と瓦礫を取り除き、空いたスペースに腰を下ろす。思いのほか空洞は深く窪んでいて、座る位置にさえ気を付けていれば、雨にも風にもほとんど当たることはなかった。
「もう、驚かせないでよね」
隣に腰を下ろしたリンウェルは、あからさまにほっとした顔をしてみせた。
「気でも触れたかと思ったじゃない」
「んなわけねえだろ。どんだけ考え無しだと思われてんだ」
「それはロウの日頃の行いによるものでしょ。まあ、でも、私たちも助かったけど」
リンウェルはそう言って鞄からタオルを取り出すと、濡れているダナフクロウたちの体や羽を拭い始めた。ダナフクロウといえば警戒心が強いことで知られているが、なぜかリンウェルには気を許しているようで、恐れることも怯えることもなくリラックスした様子でその体を預けていた。
「はい、これ。ロウの分」
手渡されたタオルからは石けんの良い香りがしていた。真っ白でふわふわなのは、キサラの指導あってのことだろう。
「終わったらフルルも拭ってあげて」
「え」
「フル……!」
驚いたのはフルルも同じだったようだ。ロウは仕方なくとフルルを膝の上に乗せると、白いタオルで白いフルルの羽を撫でた。できるだけ優しく、丁寧に撫でつけたつもりだったが、
「フルッ!」
「痛っ!」
フルルのお気に召すことはなかった。
ひと通りフクロウたちの体を拭った後で、リンウェルがその体調を確認していった。多少岩にぶつかったり、土砂に羽を擦ってしまったということはあったが、大きなケガは見当たらないようだった。
「飛べそうか?」
「フォル、フォルル」
便利屋に来た一番大きなダナフクロウが翼を広げてアピールする。大丈夫だ、と胸を張っているようだった。
「フォル、フォー、フォロルル」
「フルル、フルゥル」
「お礼がしたいって。何でも言ってくれって」
予想外の言葉にロウは驚いた。だがダナフクロウは案外、懐いた人間には義理堅いところがあるのだ。以前ニズでもそんなような光景を見た気がする。
お礼と言われて真っ先に思いついたのがガルドだったので、ロウはそんな自分に少し失望した。いやいや、と考え直して、思いついたことを口にしてみる。
「じゃあせめて、帰り道くらいは晴れてほしいなー、なんて」
はあ? とリンウェルが訝しげな視線を寄越す。
「いくらなんでもそれは難しいでしょ。さすがに天気を変えてもらうなんて、そんなこと――」
「フォルル」
「フル」
「できるの!?」
フォル、と羽と羽の間を寄せて見せたのは、「少しの間だけなら」という意味だったらしい。
5匹のダナフクロウたちは何やら揃って上を見上げると、いまだ分厚い雲のかかる空に向かって羽を広げ始めた。
するとどうだろう、彼らの視線の先の雲がたちまち割れていく。降っていた雨が止み、そこから降り注ぐ日射しが舞台の照明のように辺りを明るく照らしだした。
「すげえ……」
「フォー、フォロルル」
「フルル、フル」
「少しの間しか持たないから、今のうちだって。急ごっか」
おう、とロウは洞窟を後にし、雨上がりの山道に出た。
振り返ると、洞窟の中からダナフクロウたちが翼を広げていた。「フォー」と鳴く声の意味ならわかる。きっと「ありがとう」だ。
ロウは彼らに手を振り、山道を下りて行った。できるだけ急ぎつつ、それでいて足元を滑らせないように注意する。
もう少しで街が見えるというところまで来て、
「ねえ、ロウ!」ふとリンウェルが声を上げた。
「ほら、向こう見て!」
リンウェルが指さす先には、大きな虹がかかっていた。境界はくっきり、色ははっきり、背景の山々はぼんやり透けて見えていたが、端がどこにかかっているのかわからないほど大きな虹。
一見今にも消えてしまいそうに儚げながらも、その描く弧はどこか力強くも感じられた。
「なんかちょっと、気分いいね」
リンウェルが嬉しそうに笑う。
「なんだかちょっと得した気分かも」
その顔を見て、そうだな、とロウも笑った。
服は濡れて、髪もぺしゃんこ。あちこち泥塗れで今すぐ帰ってシャワーを浴びたいのに、今ここで足を早めてしまうのは勿体ないと思えるほどの光景だった。
つづく