翌日はこれまた拍子抜けするほどの晴天だった。
雲ひとつない空はどこまでも澄み渡っている。遠くのレネギスの残骸がくっきりはっきり見え、昨日はあれだけご機嫌ななめだったのに、まるで手のひらを返したような気の変わりようだ。
とはいえその名残も随所に見られた。便利屋の軒からは絶えず雫が滴っていたし、濡れた街路樹の葉は光が反射してきらきら輝いていた。
あちこちに残る水たまりもそのひとつだろう。今朝は嘘みたいに晴れているが、昨日の事は嘘ではなかった。夢幻とも思えるようなあの不思議な体験は、正真正銘、実際に起こった出来事だったのだ。
帰り道に見たあの虹は、便利屋に戻るとすっかり消え去ってしまっていた。5匹のダナフクロウたちが作ってくれた雲の切れ間もいつの間にか塞がっていて、空からは再び強い雨が降り注ぐようになっていた。
それがまあ一晩経ってこんな快晴になるのだから天候というものはまったくわからない。いつか誰かが、翌日、あるいは1週間後の天候を予測する機械などを発明してはくれないだろうか。そうすれば外出や仕事の予定を組むのも、もう少し楽になりそうなものなのに。
そんなことを一人考えながら、ロウは今日も便利屋の看板を出すため外に出た。黒い板に白い文字で「便利屋こちら」と書かれたお馴染みの看板だ。
それはいつも通りの時刻、いつも通りの場所だったが、いつもと比べて決定的に足りないものがあった。
(リンウェル、まだ来ないな)
いつもならこの時刻になればリンウェルはとうに便利屋に顔を出していて、奥の机に座っているはずだった。茶を淹れるための湯をミニキッチンで沸かしながら、わけのわからない書類を片手にうんうん唸っているはずなのに。
珍しい、と思うと同時に、とうとうやったか、とも思った。もともとリンウェルはどちらかといえば夜型人間で、朝にはめっぽう弱いのだ。便利屋を始める以前には寝坊をして約束の時間に遅れるなんてこともあったくらいだ。最近ではなかなか見なくなっていたが、今日になってついにその悪癖がぶり返してしまったらしい。
まあそれも仕方ないかもしれない。便利屋はそれなりに忙しいし、リンウェルは経理やその他雑務も請け負っている。さらに昨日は悪天候の中、街の外にまで出ることになったのだ。いつも以上に疲れが溜まっていてもおかしくない。
遅刻の1つや2つ、今日くらいは大目に見てやろう。とりわけ大きい依頼が入っているわけでもないし、急ぎの用事もない。時間を過ぎてリンウェルがひょっこり現れた時には「おうおう社長出勤か」とでも一言いじってやればいい。果たしてリンウェルは顔を真っ赤にして怒るのか、あるいはいたたまれなさに小さくなるのか。その辺の反応は少し楽しみだ。
例の看板を設置し終え、便利屋へ戻ろうとした時だった。通りの向こうから何か白いふわふわとしたものがこちらへ飛んでくるのが見えた。
はじめ、ロウはそれが蝶か何かだと思った。だがよく目を凝らしてみると、それは必死に羽をはばたかせて猛進してくるフルルだった。
「フル! フル!」
フルルはこちらの姿を見るなり大きな声で鳴いた。それがいつもとまるで違う様子であることにはすぐに気が付いた。
そこではっとする。
「リンウェルがどうかしたのか?」
「フル! フルル!」
聞き終わる前には駆け出していた。ロウはフルルを引っ掴み、自分の左肩へと乗せると、まだ乾ききらない通りの石畳を思い切り蹴ったのだった。
リンウェルの家の辺りはしんと静まり返っていた。フルルが僅かに開いた窓の合間から中に忍び込み、慣れたように玄関の鍵を開ける。
おじゃまします、と一応声は掛けるが、返答はなかった。フルルが示す先は寝室のドアで、フルルが抜け出した跡だろうか、僅かに隙間が空いていた。
「リンウェル、入るぞ」
再び声を掛けそっと扉を押し込む。その先には、苦しそうに呼吸を繰り返しながらベッドに横たわるリンウェルの姿があった。
「リンウェル!」
急いで駆け寄るが、リンウェルからの反応はない。やがて少し遅れて、リンウェルがゆっくりその目を開いた。
「ロ、ウ……?」
どうしてここに、と不思議そうな表情をしてみせる。
「フルルが俺のとこに来たんだよ。大丈夫か……って、そうは見えねえな」
額に手をかざしてみるが、思った以上にその体温は高かった。これでは相当辛いだろう。どうりでベッドからも起き上がれなかったわけだ。
「風邪か? もしくは疲れとか」
言いながら、心当たりのありすぎる胸がずきりと痛んだ。あの時、もっと強く引き留めておくべきだったか。あるいはもっとその後の気配りをするべきだったかもしれない。とはいえ今さら悔やんだところでリンウェルが体調を崩してしまった事実は変わらない。
「ごめんね……心配かけちゃって」
申し訳なさそうに言うリンウェルを、ロウは首を振って制した。
「いや、俺も悪かった。無理させたよな。後のことはいいから、お前はゆっくり休め」
うん、ごめん、と頷くリンウェルの身体に毛布を掛け直す。ベッドのヘッドボードに止まったフルルが心配そうにそれを覗き込んでいた。
リンウェルに話を聞く限り、どうやら昨夜から体調が悪くなりつつあったらしい。鼻水が出て喉が痛み始め、これはまずいなと思って薬を飲んで早々にベッドに入ったのだそうだ。
ところが症状は快復するどころか悪化してしまった。夜が明けてからは熱も出て、身体がうまく動かなくなってしまっていた。
フルルがいたのは幸いだろう。フルルは寝室を抜け出し、半開きになった窓を自分の身体で押し開け、必死になって便利屋まで飛んできたのだった。普段はリンウェルのフードに潜ったりどこかの物陰に隠れたりしているフルルだが、リンウェルのピンチとなれば話は別だ。あの通りの向こうから真っすぐミサイルのように飛んできたフルルはまるで別人(鳥?)のようだった。
とはいえ、もしフルルが不在だったらと思うと肝が冷える。リンウェルが便利屋に現れないことを不審に思った自分がここを訪ねたとしても、おそらくそれは昼以降になっていただろう。それまでリンウェルがベッドで誰にも知られず、長いことずっと苦しんでいたとしたら――。
「大げさだなあ、ロウは」
リンウェルはそんなふうに言って笑ったが、その笑顔だっていつもよりずっと元気がない。そうさせてしまったのはほかならない自分の判断ミスだと思うと、また胸がじくじくと痛んだ。
「とりあえず、水と薬、用意しておくからな。あとタオル。身体拭いて、着替えとけよ」
「うん、ありがと……って、便利屋戻るの?」
「一旦な。ついでに買い出しもしてくる。お前、普通の飯食えそうにねえし」
こういう時は消化に良いものを用意するべきだとキサラから聞いたことがあった。だからといって具体的に何を買うべきかは思いつかないが、せめてリンゴなど果物の類はあった方がいいだろう。
「その後また戻ってくる。今日はずっとここにいるつもりだぜ」
「えっ」
ロウの言葉に、リンウェルは驚いたように声を上げた。
「当たり前だろ。もしまた悪化したらどうすんだよ。お前のそれが落ち着くまで、俺が看てる」
「じゃあ、便利屋は」
「今日は休みだ。後で看板も片付けて、扉に貼り紙も――」
「だ、ダメだよ……!」
リンウェルは突然起き上がったと思うと、声を強くして言った。
「そんなのダメだよ。私のせいでお休みしちゃうなんて……!」
今日だって誰か困ってる人がいるかもしれないのに、とまるでリンウェルの方が慌てた口調だった。
「便利屋はロウが人助けするところでしょ。私はそのお手伝いなのに、その私のせいでロウがここに留まるなんて……」
リンウェルは肩を落として項垂れた。が、今度はロウの番だった。あのな、とベッドに近づき、その両肩を掴む。
「じゃあなんだよ。俺は目の前でお前が困ってんのに、それを放ってほかの困ってる奴助けろってのかよ」
それもおかしい話だろ、と言ってロウは続けた。
「俺は今、お前を助けたいんだよ。こうして苦しんでるお前を、何とかしてやりたい」
それはもはや便利屋であるとかそうでないとか、そういうことは関係ない。一人の人間として、ただリンウェルの力になりたいだけなのだ。
原因を作った張本人である自分にそんなことを言う資格はないのかもしれない。それでも、いや、だからこそ、今は傍にいたい。罪滅ぼしなどとたいそうなことは言わないが、せめて自分にできることは何だって尽くしたかった。
「それをお前が迷惑だっていうなら、話は別だけど……」
結局は尻すぼみになる自分はやっぱり少し、いやかなり情けない。それでもリンウェルはそれを笑うことなく首を振ってくれた。
「そんなこと、ない。嬉しいよ。嬉しいから、ちょっと不安になって……」
「不安?」
「だってそうでしょ。具合悪くなった時に心配してくれて、それで看病してくれる誰かがいるって、幸せなことだもん」
独り占めしていいのかなって。罰が当たりそうだなって、そう思ったの。
そんなことを言いながら、リンウェルはふにゃりと笑った。
「バーカ。余計な心配してないで、とっとと寝とけ。後で医者呼ぶから、それまで待ってろ」
「はーい」
やや掠れた声で返事をして、リンウェルは再びベッドに横になった。それから毛布を引き上げて、口元を隠したままで言った。
「ロウ、ありがとう」
その後、リンウェルの家を出たロウは1つ1つやるべきことをこなしていった。まずは医者に声を掛けに行き、往診の予約を取る。午後には手が空くということで、時間が出来次第来てもらうことになった。
あとは便利屋に立ち寄り、朝に出したばかりの看板を中へとしまった。『臨時休業』の貼り紙を扉に貼っておけば「せっかく便利屋を訪ねたのに何も知らされず放っておかれた」などと変な苦情が来ることもないだろう。
市場で買い出しをする前に、以前便利屋で手伝いをした食堂に顔を出した。事情を説明すると、食堂の店主は快く粥のレシピを教えてくれた。
「へえ、あの嬢ちゃんが風邪ねえ。お前もわざわざ介抱するなんて、なかなかやるじゃねえか」
俺ほどじゃないけどな、と笑う店主は、ついでにとアレンジしたレシピまで書き留めてくれた。
「火加減には気を付けろよ。火加減は愛情だからな」
何を言っているかはよくわからなかったが、どうやら強くしすぎるな、ということらしい。
ロウは貰ったレシピを見ながら、市場で材料を買い、加えてリンウェルが食べられそうな果物なども買い込んでいった。
午後になってやってきた医者曰く、リンウェルの高熱は風邪と過労が原因のようだった。やっぱりな、とロウは密かに落胆する。
「しばらく休めば良くなるでしょう。薬も飲むのを忘れずに」
お大事に、と言って医者は帰っていった。とりあえず重症ではないと知って安堵したが、それだけで済まないのがなんとも複雑なところだ。
リンウェルは疲れていたのだ。本人の心持がどうであれ、少なくとも身体は悲鳴を上げていた。それが運悪く昨日の一件と重なり、とうとう目に見える症状となって顕れてしまった。
それは果たして知らなかった、気付かなかったで済むことだろうか。一応立場上はリンウェルの雇用主であり、なおかつ普段からリンウェルと一緒に過ごしている自分が気にかけるべきことだったのではないか。己の不甲斐なさ、余裕のなさに改めてため息が出そうになる。
それともう1つ、気付いたことがあった。それは今回リンウェルの寝室に入って、初めて知ったことだった。
リンウェルの枕元に積まれている本。てっきりそれらはリンウェルの好きな歴史だとか、星霊術に関するものなのだろうと思い込んでいた。
確かにそれらしきものもいくつか見受けられたが、積まれている本のほとんどが「経理の基本」「経営のコツ」「はじめての商売」などというタイトルがついているものだった。ページのところどころには付箋が挟み込まれていて、その付箋も端が傷つき、よれていることから、真新しいものでないことはすぐにわかった。
リンウェルは家に帰ってからも勉強していたのだ。便利屋で書類を片付けるだけでなく、さらに知識をつけるためベッドに入ってからの時間さえ努力に充てていた。他でもない、便利屋のために。
本当にとんでもない奴だと思う。あんな文字の小さい本を読めるというだけでも驚かされるのに、それを毎日、いつまでも続けられる根性と好奇心の強さには感心を超えて感動すらしてしまう。同じことをしろと言われたって自分には到底できないだろう。それこそそういう依頼だとしても。
とはいえ本当に自分がすべきことは感心でも感動でもなく、感謝なのだろう。リンウェルがいなかったら便利屋を続けられるどころか、そもそもはじめから存在すらしなかった。便利屋として仕事を請け、今ではそれなりに周知されるようにはなったが、ここまでヴィスキントで上手く生活できているのはリンウェルのサポートあってこそなのだ。
そりゃあリンウェルだって疲れもする。毎日の雑務に加えて時折仕事も入ってくる上、雇用主はポンコツなので家に帰ってからも勉強しなければならない。本来ならやらなくていいはずのことに時間を割かなければならず、それを恨めしく思われたって文句は言えない。
でもリンウェルはそうじゃない。そうじゃないから、すげえんだよなあ。
リンウェルはこれまで一度もそんな恨み節を吐いたことはなかった。「任せて」と胸を張り、苦労している様子をおくびにも出さない。
それはきっとこの先もそうなのだろう。おそらく、便利屋がこの街で続いていく限り。
ロウが用意した夕飯の粥を、リンウェルは「美味しい」と言ってすべて平らげた。
「あそこのおじさんが教えてくれたのなら間違いないね」
「おい。作ったのは俺だぞ」
「すごいすごい。レシピ通り作るなんてやるじゃん」
馬鹿にされているようにも聞こえたが、リンウェルは「お粥の火加減って難しいから」と言った。ここでもまた火加減か。まだ鍋を焦がしたことのない自分にはどうも実感しづらい感覚だ。
薬を飲んで眠りにつくリンウェルの寝顔を眺めながら、ロウはベッドの縁に腰かける。その呼吸は穏やかで、今朝の状態と比べるともう随分と快復したように見えた。あれだけ高かった体温も今は微熱くらいまで下がってきていて、加えてあの食欲なので完全復活までそう時間はかからないだろう。
ロウはほっと胸を撫で下ろしつつ、同時に申し訳なさも募った。もっと早く気付いてやれれば。もっと気遣ってやれれば。これほどリンウェルを苦しませることもなかったのに。
「……ごめんな」
漏らした言葉が聞こえたのだろうか、リンウェルがふと目を開いた。
「なんで? 私はすごく助かったのに」
「お、起きてたのかよ」
リンウェルはふふっと小さく笑って、「まだ薬が効いてなくって」と言った。
「こうなったのはロウのせいじゃないよ。私が単に体調管理できてなかっただけ」
「けど……」
「ああもう、気にしないでよ。気になるなら今度ちゃんとお休みちょうだい。それでいいから」
わかった、約束する、とロウは頷いた。
「いつがいい?」
「え、そんなの急には決められないよ。手帳も見ないとだし」
「なら、決まったらすぐ言えよ。絶対だぞ」
「わかったってば。もう、やっぱり大げさなんだから」
くすくすとリンウェルが笑う。肩が揺れるのに合わせて、ベッドも微かに揺れた。
「それとさ、リンウェル」
「何?」
いろいろありがとう。そう言おうとしたのに、それはなかなか声にならなかった。どうしてこの言葉は改めて伝えようとすると、どこかに逃げるようにすり抜けていってしまうのだろう。
「えっと……」
「なあに、変なの。もう眠くなってきちゃったんだけど」
「え、あ、悪い」
寝てもいい、むしろ寝てくれと言うと、リンウェルはまた小さく笑った。じゃあおやすみ、と呟いて再び目を閉じる。数分もすると、規則正しい寝息が聞こえてきた。
まったく、ままならないことばかりだ。ロウは心の中でため息を吐く。伝えたい、伝えなければならないことほどなかなか伝えられないのは何故なのか。大事な相手ほど、大事なことはきちんと伝えなければならないのに。
その理由にもおおよそ見当はついていた。
(――大事、だからなんだよな)
ロウはもう一度リンウェルの寝顔を見やると、握りしめた拳にぐっと力を込めたのだった。
つづく