「食材がないんだけど」
事務所にやってきて開口一番、リンウェルは言った。
ロウはその時、ソファーでのんびりくつろいでいる最中だった。片方のひじ掛けに頭をのせ、もう片方には足を投げ出した格好で、だらりと過ごしていた。
今日は依頼が入っていなかった。昨日は朝から夜まで商隊がらみの荷運びに奔走し、明日は宮殿近くの雑貨屋の引っ越しの手伝いが入っていたが、今日に限っては丸一日空いていた。スケジュールを組んでいるのは主にリンウェルだが、相手方の要望を聞いたり、移動の効率を求めると稀にこういう日も出てくるらしい。
だからといって休暇を与えられるわけではない。住民の中には急遽人手が欲しくなったとか、予定外のことが起きたとかで当日に便利屋に駆けこんでくる人もいる。そういう人たちは大抵切羽詰まっていて、藁にも縋る思いでこちらを訪ねてくる。
そういった人たちにも対応するため、ロウはなるべく店を開けるようにしていた。依頼の間の隙間時間や、急に予定がキャンセルになって手が空いた時も、看板は出したまま、ドアの鍵を開けたままで急な来訪者に備えた。たとえ疲れていようとも自分の体力が持つ限り、困っている人には手を貸したい。できるだけ多くの人の助けになることは、早く世界をより良くすることにも繋がるとロウは考えていた。
とはいえ今朝はまだ誰も駆け込んできてはいなかった。まだ時間が早いせいもあるだろうが、こんなにゆっくりできる朝は久しぶりなので、ついロウもぐうたら過ごしていた。
そこに降り注いだリンウェルの言葉だ。
「保存庫の食材がからっぽなの」
肩を落とすでもなく、それでいてちょっと不満そうにリンウェルは言った。
「保存庫って、どこの」
「どこのって、うちのしかないでしょ」
不機嫌を加速させてそうリンウェルは言い、口をへの字に曲げた。フードの隙間から覗くフルルはまだ眠たいのか、うつらうつらと舟を漕いでいる。
「そりゃあ毎日生活してりゃ、食いもんもなくなるんじゃねえの」
ロウは欠伸まじりに返した。食料も飲料も消耗品だ。食べて飲んでいれば物はなくなるし、勝手に補充されるということもない。生きるということは物を消費するということでもあって、衣服や住まいについても同じことが言える。形あるものはいずれ消えてなくなるのだ。もはや自然の摂理にも近いそれを、今更こいつはどうしたというのだろう。
ところが返ってきたのはちくちくと刺さるようなリンウェルの視線だった。
「あのね、誰のせいだと思ってるの? ロウがここのところ毎晩うちでご飯食べてるから、食材の減りが早くなっちゃったんだよ」
実際リンウェルはソファーの上のロウの脚を指で何度も小突いた。痛くもないが無視もできない。地味な攻撃が一番むず痒い。
「いつもならこんな減らないよ。まさか買い出しが追いつかないなんて」
ため息が落ちたと同時に、部屋に不穏な空気が漂い始めた。そこでロウはようやく理解する。もしやとは思ったが、リンウェルのその不機嫌は俺に向けられたものだったのか。
「そうはいっても、お前が食べに来ないかって誘ってきたんだろ」
ロウは間を置かず反論した。リンウェルが一瞬うっとたじろいだのがわかった。
確かにここ最近はリンウェルの家で夕飯を食べることが多かった。疲れた体を回復させるには美味い料理と充分な睡眠が必要だ。ロウは前者をリンウェルの家で摂取し、あとの休息を事務所の2階でとるという生活を繰り返していた。
とはいえ自分からそれを催促したことはない。「夕飯うちで食べる?」と訊ねてくるのはいつもリンウェルの方からで、自分はただその提案に乗っかっていただけだ。
ちょっとは遠慮しろ、などという文句は受け付けない。どこの世界に、料理も得意でなければそのための道具も揃っていないのに、仕事で疲れた体にムチ打って自分のためだけに夕食を作る人間がいるだろう。それも料理の腕が確かであるとわかっている人間からの「私が作ってあげる」などという甘い囁きを断ってまで。
「それにほら、あれが良くなかったんじゃねえの。特訓だとか言って、同じ料理ばっか作ってたろ」
このところのリンウェルはオムライスにハマっていた。初めて作る側に挑戦してみて、上手く皮が包めなかったことがどうにも悔しかったらしい。
「できるようになるまで付き合ってもらうから!」
米も卵もその他の具材も大量に使うそれを、リンウェルはいくつも作った。見るからに失敗したものも、比較的上手くいったものもあった。
大体2日に1回はオムライスが出てきた。いったい卵をいくつ自分の体に取り込んだのか、ロウはわからない。わからないが、どれもとても美味しかったことは覚えている。
努力の甲斐あって、今ではリンウェルのオムライスはとても美しく盛り付けられるようになった。ロウからすれば、あの食堂で出されていたものとほとんど遜色ないんじゃないかと思えるほどだ。その技術と引き換えにリンウェルは保存庫の中身を失った。
とはいえこちらを責めるのはお門違いだろう。そのことをリンウェルも理解しているのか強くは言わないが、「ねえ、なんとかしてよ」と今度は腕を揺さぶってくる。
「なんとかって、どうすりゃいいんだよ。金か?」
「失礼だなあ、そんなにケチじゃないよ。そうじゃなくて、買い出し付き合って」
「なんだ、そんなことか。いいぜ。2時間3000ガルドからな」
「そっちはお金取るの!」
「見てわかるだろ。今仕事中なんだよ。看板出してるし」
「全然わかんないよ」
不満を垂れるリンウェルのそばでいつの間にか目を覚ましたフルルもぶーぶー文句を言ってくる。
仕事が終わってからならいくらでも付き合うと提案したが、それでは新鮮な野菜が買えないらしい。だからといって今店を閉めるのはなんとなく気が引ける。
どうしたものかと頭を悩ませていると、便利屋のドアがドンドンと強めに叩かれた。
ドアを開けた途端、入ってきたのは土に汚れたエプロンを纏ったおばさんだった。
「野菜泥棒が出たよ!」
興奮気味に言うおばさんを見て、ロウは思わずリンウェルと顔を見合わせた。
おばさんに連れられて向かった先は、街道にある農場だった。そこで野菜を専門につくるおばさんはこの辺では比較的大きな農家で、日々大量の作物を収穫しては街に届けているらしい。
異変があったのは先月辺りからで、畑の一部が荒らされていることに気が付いた。収穫間近の作物がきれいに食い荒らされていたのだ。はじめは被害も僅かだったため無視していたが、徐々にその規模は大きくなり、とうとう看過できないほどになってしまったのだという。
「ズーグルの仕業だって気付いて兵士さんにも話をしたんだけど、人手が足りてないって言われちゃって」
ああ、とロウは納得する。ヴィスキントの兵士はよく訓練こそされてはいるものの、その数はまだまだ足りない。頭数が足りていないとなれば人命にかかわる事案を優先的に取り扱うので、結果的にけが人が出ていない農家の窃盗事件は後回しにされてしまっているのだろう。
「それでこの間、街に野菜を卸しに行った時に便利屋の話を聞いたんだよ。貼り紙を見ればズーグル退治もやってくれるって書いてあるじゃないか。1度話だけでもしてみようかと思ってたら、今朝になってまた畑が荒らされてるだろ。もう頭に来て、あんたのとこに急いで駆けこんだってわけさ」
タイミングが良いんだか悪いんだか、とおばさんは疲れ切った笑顔で言った。どうやら相当参ってしまっているらしい。
「それで、本当に退治してくれるんだね?」
「そりゃもちろん。便利屋って書いてあるけど、本当はこっちの方が得意なんだぜ」
ロウは胸を張って言った。むしろ本職といって差し支えない。自分の拳はそのために鍛え上げてきたといってもいい。
「ズーグルでもなんでも、何匹でも追っ払ってやるよ!」
「あら頼もしいね! うちの旦那があんたくらい頼もしかったら良かったんだけどね!」
おばさんが大きな声を上げて笑った。ばしばしと叩かれた肩が地味に痛い。
「盛り上がってるとこ悪いけど、ちょっといい? 料金のことなんだけど」
リンウェルがその後ろからひょっこり顔を出して言った。
「ズーグル退治ってことで割増しになるんだけど、いいかな」
「そりゃあもちろん。万が一ケガするってこともあるだろうからね。その辺はきっちり払わせてもらうよ」
これでもそれなりに稼いでるからね、とおばさんは冗談めかして言ったが、この規模の畑を見せられたらもはや冗談には聞こえないんだよなとロウは思った。
ロウがリンウェルと被害のあった畑に向かうと、意外な発見があった。星霊術を使った痕跡があったのだ。
野菜を食べるのだから、てっきり犯人は動物から派生したズーグルなのかと思っていた。だが辺りにはそれらしい足跡も見当たらない。
「これじゃあ兵士にお願いしても時間かかってたかもね。足跡も辿れないんじゃ探しようがないよ」
こちらには最終兵器、星霊力受信体リンウェルがいる。どんな僅かな星霊力でも感知して、それを辿ることができる。
リンウェルは畑や周辺に残った星霊力を感じ取りながらどんどん道を進んでいった。街とは反対の方向に橋を渡り、険しい山道に差し掛かったところで、とうとう探していた犯人たちと出会った。
畑を荒らしたのは、丸っこくて宙に浮くズーグルだった。やたらと目つきが鋭く、地の星霊術に長けている。かつて似たようなやつを街のマスコットにしたいと言っていた人間がいたが、あれよりいくらかサイズは小さめだろうか。
どんな見た目だろうと、どんな攻撃方法をしていようと、今の自分らに敵うズーグルはほとんど存在しない。それにこいつらはもう何度もやり合った相手だ。間合いも攻撃タイミングも、情報は充分頭に入っている。ロウは「いくぞ」と隣のリンウェルに声を掛けた。
決着には10分とかからなかった。畑を荒らした盗人たちはいともあっけなく倒され、ついでにその住処と思われる巣からも追われることとなった。
「元はといえば人間のせいなんだろうけど、こればっかりは仕方ないね」
辺りの安全確認をして、服についた土埃を払いながらリンウェルは言った。
「それにしても、どうして野菜なんか食べたんだろう。主食はもっと違う気がするんだけど」
「主食って?」
「予想だけど、その辺の星霊力とか。ほら、岩っぽい見た目してるし、地の星霊力吸ってたんじゃないかと思うんだよね」
「なるほどな。俺はてっきり、歯がギザギザしてるから肉食なのかと思ったぜ」
その可能性もなくはないけど、とリンウェルが呟く。
「もしかしたら、この辺は星霊力が豊富だから、それが野菜にも伝わってたのかも。あるいは試しに齧ってみたら、美味しくて好きになっちゃったとか?」
お試しで畑を荒らされたのなら堪ったものじゃない。そうでなくたってここで採れる野菜は農家たちの生活はおろか、街の住人の食卓まで背負っているのだ。それを守れたのであれば今回自分たちが果たした役目は大きい。
「まあそれだけあそこの野菜が美味しいってことかもね。ズーグルも夢中になる野菜!」
「さすがにその売り文句は流行らねえだろ。買うのがズーグルならともかく、俺なら惹かれないだろうな」
「ロウが惹かれないのは野菜だからでしょ。ズーグルでさえ好き嫌いしないのに、まったくロウときたら……」
呆れたリンウェルのため息に合わせてフルルがフッ、と小さく笑ったのが聞こえた。
農場にておばさんに事の顛末を説明すると、それはもう大層驚いていた。
「もう終わったのかい! こんなに早く済むなら悩まずにさっさと頼めば良かったね!」
比較的楽な相手だったことも伝えたが、おばさんは依頼は依頼だからときちんと指定した通りの料金を支払ってくれた。それどころか大きなカゴにいっぱいの野菜を用意して、
「これは気持ちだよ! あんたたちには世話になったね。またよろしく頼んだよ!」
とそれを自分たちに持たせてくれたのだった。
帰り道を歩きながら、ロウは達成感に浸っていた。ようやく自分の得意分野で誰かの役に立つことができた。感謝されて、おまけにこんなたくさんの野菜まで貰って、食堂や花屋で手伝いをした時とはまた違った充実感だ。
そんな自分に気付いてか、リンウェルがカゴの隙間からこちらを覗き込んでくる。
「機嫌良さそうだね。久々に戦う仕事して楽しかったんでしょ」
「まあな。ちょっと歯ごたえはなかったけどな」
「もう、戦闘狂なんだから。そういう油断がケガに繋がるんだよ」
わかってる、とロウは言ったが、それにしたってリンウェルこそノリノリで星霊術を放っていた気がする。あんな奴らにサイクロンまで出す必要があっただろうか。
「それに、ロウはもう忘れてるかもしれないけど、まだやるべきことは残ってるんだからね」
「やるべきこと?」
ロウは首を傾げた。何かこの後仕事が控えていただろうか。
「やっぱり忘れてる。言ったでしょ、買い出し付き合ってって」
そういえば、今朝そんな話をしていたのだった。仕事が終わってから行くか、あるいは仕事として行くかでひと悶着あった。
「なんだ、それならもう解決したろ」
ロウは自分の持っているカゴいっぱいの野菜を示す。
「ほら、これやるよ。料理しない俺が持ってったって意味ないしな」
「いいの?」
とリンウェルは言った。「そんなこと言ったら、全部持ってっちゃうよ?」
「持ってけよ。俺が持って帰ったってせいぜい朝起きてトマト齧るくらいだしな。それじゃ勿体ないだろ。まあ全部食いきれないっていうなら、手伝ってやってもいいぜ」
とびきり美味いの頼む、とロウが言うと、リンウェルは呆れたように笑った。
「ちょっと釈然としない部分もあるけど、結果は同じだからいっか。新鮮な野菜は新鮮なうちに食べたいし、早速手伝ってもらおっかな」
「よしきた、オムライスでもなんでも任せとけ!」
「オムライスはもうしばらく作らないよ。この一件で懲りたから」
そんなすげなく吐かれたリンウェルの言葉にロウは心の中で泣いた。何の罪もないオムライスに同情して泣いたのだった。
つづく