何よ、もう。
内心むくれながら、リンウェルは机の資料と向き合った。
少し身を乗り出して覗き込む先にはソファーで仮眠をとるロウの姿がある。性格に見合わない穏やかな寝息を立てる様には、ますますお腹の底のものがぐつぐつ煮えたぎる思いがした。
事の発端はロウが先ほど受けた依頼だった。「恋人のふりをしてほしい」との女性の言葉に、ロウはさほど悩む素振りも見せず首を縦に振ってしまったのだ。彼女から詳しい事情も聞かないままで。
ロウを詰めれば「前金を多く貰ってしまった」「今更断れない」などと言ったが、どうせ相手がきれいな女の人だから手助けしたいと強く思ったのだろう。彼女は美人であることに加え、出るとこがきちんと出ているスタイルの持ち主でもあった。おまけに妖艶な眼鏡女子。いかにもロウの好きそうなタイプだ。
そもそも嘘の苦手なロウが演技などできるわけがない。2人で男性の前に姿を現した途端、相手の男性に「嘘だろ!」と見破られるのがオチだ。
それなのにホイホイ依頼を受けるロウについ腹が立ってしまった。気が付けば余計なことまで口走ってしまい、部屋にはあからさまに険悪な空気が漂った。
フルルにも悪いことをしたなと思っている。気まずさのあまり狸寝入りまでさせてしまうなんて。今ではすっかり本格的な昼寝に入って、大きな鼻ちょうちんを作っているが。
――でも、ロウが悪いんだもん。心の中で独り言ちて、息を吐く。
本当はわかっている。自分がただひとりでもやもやしているだけだと。ロウが彼女をどう思っているかは別として、その根底には人助けの精神があることも。
わかってはいるけど、でもなんかもやもやするんだもん……!
このもやもやを振り払うためにも、今はやるべきことに集中しよう。それでなくともこなさなければならない業務は多いのだ。
リンウェルは頬を軽く叩くと、改めて椅子に深く腰掛けた。机の上の資料を見つめ気合を入れ直すと、早速経費の計算に取り掛かることにした。
しばらくすると、ロウが目を覚ました。上体を起こすだけで覚醒するとは、さすが寝起きの良さには定評がある。
「起きたんだ。今起こそうと思ってた」
発した声は思いのほか低いものになってしまった。
「……そうか」
そう言って身なりを整えるロウを見つめていると、再び胸にもやもやとしたものが渦巻くのがわかった。
――行ってほしくない。
心ではそう思っているのに、どうしても言えなかった。
「行ってくる」と呟いたロウの背中に「気を付けて」とだけ声をかけるので精いっぱいだった。ドアが閉まり、静寂の中にベルの音だけが響く。
「はあー……」
フルルと二人きりの部屋で、大きく息を吐いた。
あれは仕事。依頼。人に頼まれて、恋人のふりをするだけ。
何度も同じ言葉を頭の中で思い浮かべては、自分に言い聞かせる。
でもこれをきっかけにロウがあの人と仲良くなったりしたら? 「恋人のふり」が「ふり」じゃなくなったら?
「ああー! もう!」
ぜんっぜん仕事にならない! こんな状況で集中しろという方が難しい。
こうなったら、直接確認しに行けばいい。幸いなことに現在の時刻は夕方で、店を閉じる時間までもうすぐだ。
このくらいは誤差! と己に言い聞かせて、リンウェルは外に出た。寝ぼけ眼のフルルを構わず肩に乗せ、看板をしまう。
確か待ち合わせは広場で、その後は宮殿近くに移動すると言っていた。先回りして、その仕事ぶりをじっくり観察させてもらおう。
もはや宣戦布告するような気持ちでリンウェルは通りを歩いた。誰に何を宣戦布告するのかは、自分でもよく掴めていなかった。
宮殿前にたどり着くと、リンウェルはフルルと2人、隠れられそうなところを見つけて身を潜めた。
少しして1人の男性が現れ、その数分後にロウと例の女性が現れた。時間帯もあってか辺りに人はまばらで、この様子なら会話もそのまま聞き取れるかもしれない。
食い入るように見つめていると、いきなり女性がロウの腕を取った。
「この人がわたしの恋人なの」
その言葉が聞こえた瞬間、胸に棘が刺さったようにちくりと痛む。
「だから、あなたとは付き合えません」
ロウは一瞬動揺したようだったが、すぐさま視線を正面に戻した。仕事とわかってはいるけれど、その腕に女性の腕が絡んでいるのを見るのはとてもつらかった。
「そうか」
男性はそう呟いた後で、
「なら一つ聞かせてもらいたいが、君たちはどこで出会ったんだ?」と訊ねた。
「そ、そんなこと、あなたに教える必要はないわ」
「答えられないのか? じゃあ彼女の好きな食べ物は? 花は? 恋人だというなら答えられるだろう?」
その声色から男性がとても切羽詰まっている様子なのがわかった。今にも2人に縋りつくんじゃないかと思ったほどだ。
「君は本当に、彼女の恋人なのか……?」
「いや、違う」
彼の問いに、ロウは首を振ってそう答えた。
「本当は、頼まれただけなんだ」
「どうしてそんな依頼を……」
「それくらい困ってたんだよ。見ず知らずの俺に頼んでくるくらい」
ロウの声は真っすぐその場に響いた。
「あんたが彼女を好きだって気持ちは痛いほど伝わってくる。けどそれで彼女を困らせて、それは本当にあんたが望んでることなのか?」
ロウの言葉に、男性がはっと表情を変えるのがわかった。
「好きな相手には笑っててほしいもんだろ。あんたも悩んだんだろうけどさ、目的をはき違えちゃダメだと思うぜ」
ロウはそう言って、ふっと優しく笑った。からかうでも嘲るでもなく、相手の心に寄り添う笑顔だった。
それを見た瞬間、そういえば、ロウはそういう人だったなと思い出した。嘘がつけなくてどこまでも真っすぐ。自分が正しいと思ったことをやり遂げる人。
別にロウは彼を説得したかったわけではなかったのだろう。ただ思ったことを口にしただけで、そこに他意はなかった。それが結果的に彼の心に響いて、事態は解決の方向へと向かっている。何かを必死に考えこんでいる彼の表情を見れば、きっと悪いことにはならないだろう。
なんともロウらしい「仕事ぶり」だなと思った。なんだ、はじめから心配する必要なんてなかったんだ。
自分が信じたロウは、手伝いたいと思ったロウはきちんとそこにいた。揺らぐことなく人助けをしていた。
それだけわかれば充分。
「……帰ろっか!」
「フル!」
小声で笑って、フルルと2人帰路についた。ロウが戻ってくる前に書類を片付けて、一仕事終えたロウを笑顔で出迎えてあげよう。
出迎えて、何よりもまずは言い過ぎたことを謝らなければ。これは絶対。そしてお疲れさまと労ってあげたい。
もちろん覗き見をしていたことは秘密だ。ここにずっといた体にして、知らん顔を決め込むのだ。まあ、鈍いロウを騙すことくらいわけないけれど。
リンウェルはひとり口元を緩めながら便利屋の机に向かった。
時計は午後6時を指そうとしている。ここからはこちらの演技力が試される番だ。
つづく