もしロウがカラグリアを出奔していなかったら、という本編ifのお話。全部捏造/強めの幻覚/何でも許せる人向け

赫く夜空は君のため

 日々は雪のように降り積もる。
 次第に腕を動かせるようになってきたロウは、トレーニングの傍ら、家事の手伝いにも加わるようになった。朝はリンウェルより早く起きて水汲みに行ったり、軽く部屋の掃除をしたり、あるいは木々の合間に隠れて薪を割ったりすることもあった。こうすれば身体も動かせて、ケガをしている間にみるみる失われてしまった体力を取り戻すことにも繋がる。
 何より、これまでリンウェルに掛け続けてきた苦労を自らの手で取り返したかった。いわばこれはロウなりの意地であり、恩返しでもあった。
 そんなロウの〈恩返し〉の〈恩返し〉に、リンウェルは何も言わなかった。はじめこそ驚いたように目を丸くしていたものの、あとは「ありがとう」「助かるよ」と微笑んでみせるだけ。
 そんな特別でない扱いが、ロウにはありがたかった。同時にほっと安堵もした。自分の存在を、ごく当たり前に在るものとして受け入れてもらえている気がして。
 誰かに求められ、感謝されること。長いこと遠ざかっていたそれが今、自分の心を底の方からじわりと温めていくのをロウは確かに感じていた。
 シスロディアでの生活にも随分馴染んできた頃だ。
 その日は朝から雪が降っていて、花弁ほどもありそうな雪片がひっきりなしに部屋の窓を叩いていた。
 どうりでこんなに冷えるわけだ。ロウは吐く息で指先を温めつつ、暖炉に薪をくべた。ここに来た当初はその使い方もよくわからなかったが、薪の選び方も、その重ね方も、リンウェルに習った今ならお手のものだ。
 部屋の温度が上がり始めたところで、ふといつも見かける姿がないことに気が付いた。普段、暖炉の近くの椅子で羽を丸めて温まっているはずのフルルが今日はいない。
「フルルはどうしたんだ?」
 ロウが訊ねると、キッチンからリンウェルが小さくこちらを振り返って言った。
「フルルならお散歩だよ。たまにこういう天気の日に外に出たがるんだよね」
 どうやらフルルは運動がてら、家の近くを散策しに行ったらしい。今朝のように大雪だと視界も取りづらく、外敵から身を守りやすいのもあって、フルルが外に出る時はこういった天候を選ぶようだ。
「そのうち帰ってくるよ。もうすぐご飯だしね」
 リンウェルはキッチン側の小窓を覗き込みながら言った。その小窓をよく見ると、端が僅かに、おそらくフルルの体格分だけ開いていた。
 寒いのはそのせいじゃねえか……!
 ロウは衝撃を受けながらも言いたい言葉は喉の奥にぐっと沈め、ただひたすらフルルが早く帰還することを願った。
 しばらくしてフルルは戻って来た。ロウがリンウェルの作った朝食プレートを運んでいると、羽角を雪で濡らしたフルルがテーブルの上に降り立つのが見えた。
「お、やっと帰ったか。どうだった、優雅な朝の散歩は。楽しかったか?」
「……」
 ロウの問いにフルルは何も言わず、ツンとした素振りでそっぽを向いた。
「なんだよ、無視かよ」
「そんなのいつもでしょ。はい、ミルク」
「ありがとな」とロウはリンウェルからグラスを受け取り、テーブルへと置きつつ席に着く。
「今フルルのご飯用意してるから。もうちょっと待ってね」
「フル!」
「それでリンウェルにはその態度かよ。これだけ一緒に居るんだぜ。もうそろそろ懐いてくれてもいいだろ」
「……フッ」
 相変わらず、フルルはロウの声には聞こえないふりをしたままだ。
「懐いてるっていうなら、もう充分だと思うけど」
 キッチンで話を聞いていたリンウェルが愉快そうに言った。
「フルルがこんなに遠慮なく振舞うなんて珍しいよ。ううん、もしかしたら、私も初めて見たかも」
「そうなのか?」
 訊ねても、フルルは顔を背けてしまう。これで懐いてるって言われてもなあ。どうにも信じがたく、気のせいじゃないのかとも言いたくなった。
「あ、さては照れてるとか?」
「……!」
「なんだ、そうならそうと早く言えよ。案外お前も可愛いとこあるんだな」
 ロウがからかうように言った瞬間、
「フルッ!」
「いって!」
 手の甲を突かれ、短く悲鳴を上げた。ようやく骨折も直りかけた腕に、新たな赤い傷がじわりと浮かび上がってくる。
「っ、お前っ!」
「フルッフ!」
「はい、ケンカはそこまでね」
 間に入ったリンウェルが、声だけで2人を制した。そうしてテーブルに置かれた小皿には、フルル用の食事がちょっとした山のように盛り付けられていた。
「はいこれ、フルルの分。お散歩の後だからお腹空いてると思って、少し多めにしておいたよ」
 満面の笑みでリンウェルは言った。いや、さすがにそれは『少し』とは言わないんじゃないか……。ロウがちらりと横目にフルルを見やると、
「フル……!」
 フルルのまん丸な目はさらにまん丸になっていた。
 異変があったのはその後だ。ロウがいつものように部屋で筋力トレーニングに励んでいると、リンウェルがじっと何かを見つめていることに気が付いた。
「なんだ? どうかしたか?」
 ロウが声を掛けると、リンウェルは「しっ」と人差し指を口元に当てた。そうしてロウの耳元で声を潜めて、
「フルルの様子がね、少しおかしいの」と言った。
「おかしい?」
「たぶんだけどね。なんだか、私を避けてるような気がして」
 いつもなら、フルルはリンウェルのそばを決して離れない。食器を洗う時も、掃除をする時も目の届くところにいるし、集落に食材を取りに行く時にはフードに潜り込んでまでついていく。
「それなのに、今日はずっと朝からあそこにいるんだ。水汲みにもついてこなかったし、どこか上の空だし」
「知らないで怒らせちまったんじゃねえのか? 何か失礼なこと言ったとか」
「ロウじゃあるまいし。それに、話しかければ返事はしてくれるんだよ。怒ってるってわけじゃなさそうだけど」
 リンウェルの瞳は、窓際でぼうっと外を見つめるフルルの姿を映し続けていた。それはフルルを心から心配しているような、それでいてどこか寂しさも感じているような、そんな色をしていた。
「どうせ虫の居所が悪いだけとか、そんなもんだろ」
 ロウは肩をぐるぐる回しながら、呑気に言った。
「急に俺に対するみたいな態度になったわけでもねえし。お前だってなんとなく放っておいてほしい時くらいあるだろ?」
「まあ、多少はあるかもしれないけど……」
 リンウェルは小さくむくれつつ、口をへの字に曲げた。
「大丈夫だって。そのうち気が付けば機嫌も直ってるだろ。いざとなったら、俺が取っ組み合いになってでも聞き出してやるからよ」
「なあに、それ」
 そこでようやくリンウェルは安心したように笑った。「でも、ありがとう。その時は頼んだよ」
 とうとう事件は起きた。
「いたっ!」
 夕飯前のことだ。ソファーでうつらうつらとしていたロウは、突如キッチンから上がった悲鳴に飛び起きた。
 急いで駆け付けると、そこには右手を押さえるリンウェルと、気が立ったように羽を広げたフルルの姿があった。
 すぐに状況は察した。「フルル、お前……」
 リンウェルの手の甲についていたのは、今朝ロウの手についたものと同じような傷だった。白い素肌に、赤く血の滲んだ筋が浮かび上がっている。
 どうして、と思いつつ、心のどこかではまだ目の前の光景を信じられないでいた。誰よりリンウェルを慕っていたはずのフルルが、そのリンウェルを傷つけるだなんて。
 リンウェルは俯いて手を押さえたまま何も言わない。フルルがリンウェルの手に傷を負わせたことは明らかなようだった。
「いったい何があったんだよ」
 ロウはリンウェルでなく、フルルに向かって訊ねた。フルルは羽を広げたまま、荒く呼吸を繰り返している。その瞳はいまだ混乱の最中にあるようで、怒りとも恐怖とも取れる色に染まっていた。
 普段見るフルルとはまるで様子が違った。こちらに向ける視線は敵意を隠さず、羽は鋭い刃物のようだ。そのあまりの変わりようにロウは一瞬、目の前にいるのはまったく違う生き物なんじゃないかとさえ思った。
 いったいどうしたんだ。お前は何にそんなに怯えているんだ。
「なあ、何があった」
 ロウはもう一度呼びかけた。
「お前は理由もなく、そういうことはしねえはずだろ」
 それはロウに対してもそうだったはずだ。フルルがロウを攻撃する時、そこには必ず理由があった。たとえ「気に食わないから」とか「腹が立ったから」だとか、ごく一方的なものだったとしても、フルルがただ単に気まぐれでロウを傷つけるようなことはなかった。
 ましてやリンウェルに対して、はっきりとした理由もなく牙を剥くわけがない。
「なあ、どうなんだよ」
 ロウがフルルに近づこうとした時、
「違うの……」
 リンウェルが首を振った。
「私が悪いんだ。フルルが嫌がってるのに、聞かずに触れようとしたから……」
「……そうなのか?」
 ロウが再び問うと、フルルはか細い声で鳴いた。その滲んだ真っ黒な夜のような瞳からは、今にも涙が溢れそうだ。
 でも、もしそうだとして、それだけでリンウェルを傷つける理由になるだろうか。相手がロウや他人ならともかく、手を伸ばしてきたリンウェルを傷がつくほど突くなんて。
 もっと違う原因があるんじゃないのか。ただ虫の居所が悪いからといって、フルルがそんなことをするようにはどうしても思えない。
 待てよ。ふと思った。虫の居所……虫……腹の虫……?
「お前、もしかしてどっか悪いんじゃないのか?」
「……!」
 ロウの言葉にフルルの目が大きく見開かれる。
「そうなの……?」
 今にも泣きだしそうなリンウェルの声に、フルルは広げた羽ごと俯かせた。そしてすべてを白状するように小さく声を上げた。「……フル」
「もう……!」
 駆け寄ったのは、リンウェルの方だった。
「心配したじゃない……!」
 リンウェルがそっと伸ばした手のひらを、今度はフルルも受け入れる。おずおずと摺り寄せた羽は頼りなく、まるで「ごめんなさい」と心から謝罪しているようにも見えた。
 どうやらフルルの体調不良は腹から来ているようだった。リンウェルが聞いたところによると、朝の散歩の途中からすでに異変を感じ始めていたらしい。
「川の近くで見つけたお魚が傷んでたのか、それから体調が悪くなったんだって。気のせいだって我慢してるうちに、もっと悪化しちゃったみたい」
 できるだけ心配をかけまいと過ごしたのが仇になったようだ。確かに、腹の調子が良くない時にさらにあれだけの朝食を摂ったら、良くなるものもならないだろう。
 フルルは申し訳なさそうにリンウェルの手の甲についた傷を何度も撫でた。あの時は体調不良のピークだったのか、咄嗟に身を守ろうとした結果、リンウェルを攻撃してしまったらしい。元は野生で暮らしていた頃の記憶のような、いわば動物的な本能だったのかもしれない。
「ほら、やっぱり私が悪かったんだよ。フルルが具合悪いのも知らないで、いつもみたいにじゃれようとして」
「フル……」
 フルルはまた悲しそうに目を伏せた。
「でも、フルルも悪いんだからね。体調不良を隠すなんて。今度からは正直に言うこと。何かあってからじゃ遅いんだから」
 フルルは何度も頷いた。そして嬉しそうに羽を広げては、リンウェルの手のひらに頭を摺り寄せていた。
 翌日になって、リンウェルはロウに「一緒に森に行かない?」と言ってきた。
「森?」
「うん。食材がね、少しずつ減ってきてるんだ。ついでに集落のみんなの分も採ってこようかと思って」
 いつもならフルルと出かけるはずが昨日の今日だ。いまだ調子が悪そうにしているフルルに代わって、今回はロウを助手にということらしい。
「なるほどな。俺は別に構わねえけど……本当にいいのか?」
 ロウの言わんとしていることを察して、リンウェルは「大丈夫」と大きく頷いた。
「みんなも知らない秘密の場所を知ってるんだ。そこなら誰も来ないだろうし、気付かれないよ」
 自信満々に言うので、ロウもそういうことならと請け合った。
「ありがと。じゃあ早速準備するね」
 笑顔で寝室へと引っ込んでいくリンウェルの後ろ姿を見て、ロウはほっと胸を撫で下ろしていた。どうやらリンウェルが落ち込んでいる様子はない。昨夜あんな事件があったとはいえ、すっかり気持ちは持ち直したようだ。
 思えば、あれだけ動揺したリンウェルを見たのは昨日が初めてのことかもしれない。出会ってからのリンウェルはいつも笑っていて、ロウを怒ったり叱ったりすることはあっても、落ち込んだ様子を見せることはほとんどなかった。
 てっきりそういう性格なのだと勝手に信じ込んでしまっていたが、そんなはずはない。人間、生きていれば誰しも嫌なことの1つや2つ、必ずあるはずなのだ。他人相手に隙を見せまいと気を張っていたとしても、同じ屋根の下で暮らす者同士、そういう気配を一切感じさせずにいられるだろうか。
 そんなリンウェルが見せた初めての涙。フルルを思い、心から心配し、募る寂しささえ堪えて、そうしてすべてが解けた後に流れた美しい涙だった。
 本当に家族思いなのだなと感心する一方で、頭に過ったのは小さな疑念だった。リンウェルのフルルへの愛情は確かなものだ。確かではあるが、あれは一種の執着にも近いような――。
 そこに至るまでの過程を、ロウは知らない。2人がどこで出会ったのか、どれくらい一緒に居るのか。どうして今この家で2人で暮らしているのかも。
 聞けそうで、聞けない。リンウェルが拒んでいるわけでも、そういう雰囲気を醸しているわけでもないのに、何故かそうするのは憚られた。自分なんかが踏み込んではいけない領域のような気がして、躊躇ってしまうのだ。
 こっちは根掘り葉掘り聞かれてるっていうのに。
 ロウは自分の生まれがカラグリアで良かったと密かに安堵した。もしシスロディアに生まれていたら、こんなおしゃべりはすぐさま密告されていただろうから。