身を震わせながら歩き出した森には、今日も大粒の雪が降り注いでいた。
いまだ慣れない雪道に、視線は自然と足元に落ちる。一歩一歩確かめるように歩みを進めるが、その足取りは重たいままだ。
何せ辺りには水分をたっぷり含んだ雪が結構な高さまで積もっていた。それが足に絡みついて歩きづらいことこの上なく、体力は無駄に消耗されていく。病み上がりならぬ、ケガ上がりの身体にはなかなか辛い道程だ。
前方を行くリンウェルはといえば、相変わらずスムーズにその道を進んでいった。急な坂道であっても、道のど真ん中に巨木が倒れていても、気にも留めない。
さすがはシスロディア出身。この程度の雪は、雪にも入らないということか。ロウがその背中を見つめながら感心していると、
「もう少し歩くけど、大丈夫そう?」
リンウェルが振り返って言った。
「お、おう。任せとけ」
ロウは手袋に包まれた親指を立てて見せたが、その声はやや尻すぼみになってしまった気がした。
リンウェルの家を出たのは、もう半刻ほど前のことだ。着替えを済ませて寝室から出てきたリンウェルは、「あ、そういえば」と思い出したように言った。
「たくさん採るなら、カゴも持って行かなきゃね。手ぶらで行ってもそんなに持って帰れないし」
リンウェルはロウに「ちょっと待ってて」と言うと、いったん外へと出て行った。どうやら集落の方に行って道具を借りてくるらしい。
「へいへい」とロウが気のない返事をした矢先、ぱたぱたと駆けて行ったリンウェルの足音がほどなくして止まった。
「やあ、リンウェル。元気にしているか?」
「あ、おじさん……」
壁越しに聞こえてきたのは、リンウェルと誰かの話し声だった。その声に覚えはなかったが、おそらく集落の人間だろう。ロウは思わず息を潜めると、誰の目も無いにも関わらず、咄嗟に室内の物陰に身を隠した。
「今日もなかなか降るな。朝から随分冷える。薪は充分あるか? 寒さに凍えてはいないだろうな」
「う、うん。今のところは大丈夫だよ」
どうやら近くを通りがかったついでに世間話をしに来たらしい。リンウェルは朗らかに答えたが、その口調はなんとなくぎこちないようにも聞こえた。
「食材、今日も用意してあるからな。鶏がたくさん卵を産んだんで、多めに入れてある」
「ありがとう。手が空いたら向かうね」
ああ、いつでもいい、と中年男性らしき声が穏やかに答えた。
「足りないものがあったら言ってくれ。何でも用意するから」
「いつもお気遣いありがとう。じゃあ早速、カゴを借りたいんだけど、いいかな」
「ああ、もちろん。それなら倉庫の方に……」
2人分の足音と声が遠ざかって、ロウはようやく脱力した。存在を隠して暮らすというのは、存外大変なことだ。元々似たような生活をしていたはずなのに、それとはまた違った緊張感がある。
それにしても、と思った。2人の会話がなんだかよそよそしい気がしたが、気のせいだっただろうか。特にリンウェルの方は、どこか壁があるような話し方をしていた。気まずさというか、遠慮のようなものが滲んでいた気がする。
集落の誰かとケンカでもしたのだろうか。小さな集落であれば、それもすぐに噂で広まってしまうだろう。それであんなふうに、気まずい感じになっていたのかもしれない。
まあ近くで暮らしていれば、そんなこともあるよな。ロウは呑気に考えながら、外に出る準備を始めた。
戻って来たリンウェルはカゴのほかに、厚手の防寒着を持っていた。倉庫の中から使われていないものをこっそり持ち出してきたらしい。
「いつもよりも長く外に居るんだから、寒さ対策はしないと。骨折の次は風邪だなんて、そんなの嫌でしょ?」
そう言われてしまっては頷くしかなく、ロウは渋々分厚いコートに袖を通した。
リンウェルが向かったのは、集落とは逆の方向だった。ものの数分歩いただけで森はぐっと深くなり、道はたちまち闇に飲まれてしまう。
「いつも1人でこんなとこ歩いてんのか?」
ロウが訊ねると、リンウェルはううんと首を振った。
「1人じゃないよ。フルルと2人。フルル、あまり集落の人のこと得意じゃないみたいだから」
それもあって、遠くに行く時は極力2人で出掛けるようにしているのだという。確かに、誰かの気配を気にして長時間フードの中に隠れているというのもなかなか大変そうだ。
「フルルってば、木の実とかキノコとか見つけるの、ものすごく上手なんだよ」
「フルルなら暗いのも関係ないだろうしな。空からも探せるし、そりゃあ人間は敵わないだろ」
それでも傷んだ魚には気付けないのだから、完ぺきではない。賢いようでどこか抜けているという点も、フルルの愛される理由なのだろうと思った。
しばらく道なき道を進み、ようやくリンウェルの言う『秘密の場所』に辿り着いた。やっとか、と息を吐いたのも束の間、辺りを見回してみても、そこにはただこれまで歩いてきた道と何ら変わりない光景が広がっているだけだった。
「……本当にここか?」
心配になってロウは訊ねたが、
「そうだよ」
リンウェルは自信ありげに頷くだけだった。
「ちゃあんと目印があるの。ロウには見えないだろうけどね」
「ふうん」
疑い半分ながらもその辺をぶらついてみる。すると近くの木の根元に、ひっそりと生え揃うキノコたちを見つけた。
「それは食べられるやつだよ。早速見つけたね。やるじゃん、ロウ」
豚もおだてりゃなんとやらだ。すっかり気を良くしたロウは、持ち前の勘と運の良さで次々と食材を探し当てていった。
やがていっぱいになったカゴを見て、リンウェルは満足そうに笑った。
「これなら充分だね。みんなにもおすそ分けできそう」
みんな、と聞いて思い出したのは、出発前の出来事だ。ロウは「そういやさ、」と何の気なしに訊ねた。
「お前、集落の奴とケンカでもしてんのか?」
「……え?」
リンウェルが、驚いたように目を丸くした。「な、なんで?」
「さっきここに来る前、お前が外で誰かと話してるの聞こえちまってさ。なんとなく、壁があるようにも聞こえたからよ」
何かあったのかと思ってさ。そう言って顔を上げて、ぎょっとした。
「リ、リンウェル?」
「……ごめん」
リンウェルは俯いたまま顔を背け、か細い声で言った。
「……上手く言えない」