もしロウがカラグリアを出奔していなかったら、という本編ifのお話。全部捏造/強めの幻覚/何でも許せる人向け

赫く夜空は君のため

3.
 その日から、ロウのシスロディアにおける新生活が始まった。新生活といっても、折れてしまった右腕を庇ってのケガ人生活だ。
 ケガをしていると、やはり日常のあらゆることに苦労した。着替えや食事、身体を洗うのにも通常の倍は時間がかかる。鍛錬なんか当然できるはずもなく、できることといえばせいぜい身体が硬くならないよう柔軟をするくらいのものだった。
 せめて家事を手伝えないかと思ったが、少し力が入るだけで患部に痛みが走った。ロウは仕方なく、部屋の中でだらだらとした無為で無味な日々を過ごす羽目になった。
 リンウェルはそんなロウに文句ひとつ言わなかった。毎食食事は用意してくれるし、そのどれもが片手でも食べやすいように工夫されたものだった。さすがに着替えや入浴に手を出してくることはなかったが、いくら時間がかかってもいとわしさは見せない。簡単な手伝いさえできないことをロウは申し訳なく思ったが、リンウェルはそれをつゆほども気にしていないようだった。
「ケガ人が動けないのは当たり前でしょ」
 そんなふうに軽口を叩いては、リンウェルは笑っていた。ロウは恩を仇で返すまいと、食事に苦手な野菜が出てきてもぐっと歯を食いしばり、出てきた料理は残さず平らげた。
 どうやらここにカラグリアにおける労働のようなものは存在しないらしい。そう気付いたのは、リンウェルと過ごすようになって割とすぐのことだ。あまりにもすることがないので、ロウは部屋を動き回るリンウェルをじっと観察していたのだった。
 朝食を終えても、リンウェルが特にどこかに出かける様子はなかった。食器を片付けたら部屋の掃除をして、水汲みをする。暖炉の薪を数えつつ、ようやく外に出るのかと思ったら「食材を貰ってくるね」と言って、まもなくいっぱいの野菜の入ったカゴを持って戻って来た。あとは昼食の準備をしたり、フルルと戯れたりして、あるいは暖炉に燃え盛る炎をぼうっと見つめていることさえあった。
「仕事とかねえのか?」
 ロウが思い切って訊ねると、リンウェルはきょとんとした顔で首を傾げた。「仕事?」
「レナから働けって言われるだろ。カラグリアじゃ、鉱石掘りとかそれの運搬とか、いろいろさせられてたけど」
 リンウェルはロウの話に驚きつつも、自分たちの集落にそういうものは特に与えられていないと言った。
「あ、でも、自分たちの食料は確保しないとだけどね。集落でも畑とか、動物たちの世話はしてるよ。たまに森に食材を探しに行くこともあるんだ」
 そういうものか。ロウは思った。レナの目的は労働力というより、それによって生み出される星霊力なので、生きながらえるということはそれだけ長く星霊力を搾り取れるということでもある。労働もさせず、放置したところで星霊力を吸収できるのであれば、何ら問題はないということなのかもしれない。
 それにしても、同じレナでもこれだけ方針に違いがあるんだな。
「労働はないけど、何もしなかったらそれこそ飢え死にしちゃうから。人数が少ない分、人手は足りてないし、食材のやりくりにもいろいろ気を遣ってるんだよ」
 リンウェルの言葉を聞いて、ロウは「そうだ」と思い立った。部屋の隅にあった潰れた鞄を手繰り寄せ、まだ使えそうな食材がないか探る。どうせこのままにしていても全部駄目になるだけなのだから、可能な限り利用してもらった方がいいと思ったのだ。
 リンウェルは一瞬訝しげな表情を見せたが、渡した食材が無事であるのを確認すると、どこかほっとしたような顔をした。なんだその顔は。まさか俺がぐちゃぐちゃの食材を渡すとでも思ったのか。失礼な奴だな。ロウは一人心の中で憤慨した。
 数日もすると腕の痛みもかなり引いてきた。ロウが満を持して外に出ようとすると、
「……ちょっと待って」
 リンウェルに引き留められた。
「どうかしたのか?」
 首を傾げたロウに、リンウェルはやや逡巡した後で意を決したように言った。
「できれば、ロウがここにいることは集落の皆には伏せておきたくて……。確かにここの人は皆親切だし、仲も良いけど、やっぱり外から来た人にはどうしても警戒しちゃうと思うから」
 心底申し訳なさそうにリンウェルは言ったが、その言い分は充分に理解できた。以前訪れた村のことを思えば、この国で正体の知れない人物を受け入れることがどれだけ難しいかわかる。この集落では互いを信頼し合っているというが、あくまでそれは身内とわかっているからこそだ。自分のような部外者がいきなり現れたところで、住民たちが不審がるのも無理はないと思った。
 何よりリンウェルに迷惑をかけるわけにはいかない。ロウは「わかった」と短く頷き、ドアノブに掛けた手を下ろした。
「そうはいっても、ケガが治るまでずっと外に出るなっていうのも難しいよね」
 リンウェルはうーんと頭を悩ませた後で、
「だったらこういうのはどうかな。昼間は集落の人も動き回ってるし、何処に誰の目があるかわからないから、極力外出は避ける。逆に夜間とか早朝ならほとんど人はいないはずだから、その時を見計らって外に出る」
 加えて、昼間にどうしても外に出たいのならリンウェルと一緒の場合に限る、という条件付きでロウは外出を許してもらった。どうやらシスロディアの住民はいつまでも空が真っ暗なのにも関わらず、きちんと朝昼晩の区別をつけているようだ。リンウェル曰く、「そうでもしないと生活リズムが崩れて、体調も壊しやすいから」ということらしい。
「どういうわけか、ズーグルたちも夜の方が活発になるしね。視界も取れないし、気温も低いし、夜間に外に出る人はほとんどいないよ」
 ロウはふとリンウェルと出会った日のことを思い出した。あの時は昼夜の区別がついていなかったが、遡って考えれば、あれも立派な真夜中だったのではないか。
 でも、だったらなぜリンウェルはあの時あそこにいたのだろう。偶然という割に、あまりに危険過ぎやしないだろうか。ズーグルもいるというのに、武器ひとつ持たず暗い夜道を一人で歩いていたなんて無防備過ぎる。あの日リンウェルが身に着けていたものといえば、腰のあたりにぶら下げた小さなランプと不思議な輝きを放つペンダント、そして刃物でも簡単に切れそうにない分厚い本1冊だけだった。
 まさか、本でズーグルを殴りつけて――? 一振りで群れを薙ぎ払う本の威力を思って、ロウは背筋を凍らせた。一方のリンウェルはそんなロウに気付くことなく、昼食の準備を始めていた。
 夜になって、ロウはようやく外に出ることができた。空は相変わらず暗いままだったが、長いこと吸っていなかった外の空気は身体中に染み渡るようだった。
 外から見るリンウェルの家は、とても立派な建物だとわかった。太い丸太でできていると思っていた壁はそのほとんどが装飾で、玄関にはご丁寧に庇までもが取り付けられていた。労働がないとはいえ、奴隷の住む家がこんなに豪華でレナは何も言わないのだろうか。あるいは気付いていないだけかもしれないな、となどと思いながら、今度は遠くの方に目を向けると、空に何本かの煙がたなびいているのが見えた。あれはおそらく例の集落から出ているものだろう。それにしても、リンウェルの家とはこんなに距離があるのか。
 あれこれ考えながら、ロウはじっくり身体を温め始める。ケガでおろそかになっていた鍛錬をようやく再開できると思うと、胸が弾むようだ。
 ゆっくり膝を曲げ伸ばしすると、全身を新鮮な血液が駆け巡るのがわかった。この感覚も久しぶりだ。逸る胸を抑えながら、ロウは徐々に慣らすように身体を動かした。
 部屋に戻ると、リンウェルが温かいお茶を淹れて待っていてくれた。
「お疲れ様。好きなんだね、身体動かすの」
 どうやら窓からこっそり様子を窺っていたらしい。
「まあな。言ったろ、これしか能がないって」
「そういえばそうだっけ。まあ今は、それも使い物にならなくなっちゃってるけど」
 リンウェルはからかうように笑った。
 淹れたてのお茶からは甘く香ばしい香りが漂っていた。一口啜ってみて目を丸くする。後味に少し苦みがあって、これまでに飲んだことのない味だ。
 リンウェルは飴色に塗られた椅子を暖炉の前まで引っ張ってきた。そうしてマグカップにふうふうと息を吹きかけ、
「きっかけは? なんで身体を鍛えようと思ったの?」と訊ねてきた。
「なんでって、自衛のためだよ」
 ロウはソファーに背中を預けながら、ごく当たり前のように言う。「親が抵抗組織なんかやってりゃ、自然とそうなる」
「え、じゃあロウが入ってたのって」
「ああ、親父の組織だよ」
 ロウは苦笑いで肩をすくめた。それはどこまでも意思のない自分に対してか、あるいは身勝手な父親を思ってか。
 確かにあの時自分は組織の一員とはなっていたが、自ら志願したわけではなかった。ガナルとネアズに人手が足りないからと、仕事をしこたま押し付けられたのがきっかけだ。
 だからといって、それを拒絶することもなかった。求められればどこへだって赴くし、そうでなければ何もしない。自ら意欲を持って何かを始めるということはほとんどなかった。
 それでも組織のメンバーたちは快く歓迎してくれた。右も左もわからないロウに仕事を一から教えたり、敵の情報を詳細に説明してくれたり、あるいは時間があれば一緒に食事を摂ることもあった。まるで初めから在籍していたかのような扱いに、ロウは心に温かいものを感じることもあった。
 親父はといえば、特に何も言わなかった。ロウの働きぶりを褒めることもなかったが、敢えて口を出してくるということもなかった。
 親父のあの性格を考えれば、それは決して悪いことじゃない。多少は認めてくれているのかもしれないと、そう思っていたのに。
「それなのに、血の繋がった息子を追い出すような真似するか? 普通」
 ロウは飲み頃になったマグカップの中身をひと息に飲み干して言った。
 こんな仕打ちはあんまりだろう。いくら役に立たないからって、自分の手の届かない国の外に追いやるなんて。
「厄介になったんなら、そうはっきり言えばいいのによ」
 あの時、見送りの際の親父を思い出す。すっきりしたような、最近にはあまり見られなかったような顔をして叩いたのは、ロウでなくアルフェンの肩だった。
 親父の期待する人間が変わった。ただそれだけのこと。
 とうに諦めていたはずなのに、どうして今になっても奥歯を噛み締めてしまうのか。まだ未練があるのか。ずるずる濡れた衣服を引きずるような重苦しい気持ちが、いまだロウの中に渦巻いている。
 あんなふうにはなりたくないと思ったはずなのに。あんな、誰も守れないような人間にはならないと心に誓ったはずなのに。
 それでもこの胸に絡みついているこの気持ちは、いったい何だろう。
 カップの底に溜まった飲み残しを眺めているロウに、
「……本当のことはわからないけど、」
 リンウェルは呟くように言った。
「でもなんとなく、そうじゃないと思う」
 ごく穏やかな声色だった。
「他にも意図があったんじゃないかな。例えば、世界を実際に見てきてほしいとか」
「だったらそう言えばいいだろ。見送りの時でさえ、何も言わなかったぜ」
「照れくさくて言えなかったのかもしれないし。どっちにしても、子供の無事を願わない親なんかいないよ」
 親父は例外かもしれない。そう言おうとして、やめた。リンウェルの瞳が確信に満ちていたからだ。
 ロウは代わりに「そうだといいな」と言って、火の燃え盛る暖炉に目を向けた。赤と橙の混ざった焔が、少しだけ故郷で見た炎の色に似ている気がした。
「ねえ、ロウ。今日はもう眠い?」
 リンウェルがこちらの様子を窺うように訊ねてきた。ロウは小さく首を振って、「いや、今はまだそうでもねえけど」と答えた。
「ほんと? じゃあさ、カラグリアの話聞かせてよ。こないだは聞きそびれちゃったことあるんだよね」
「ええ、またかよ……」
 ロウは苦い顔を隠さずに頭を掻いた。自分がこの家で過ごすようになってから、リンウェルはやたらとカラグリアの話を聞きたがる。カラグリアというか、集落の外の世界に興味があるようで、ロウが旅の道中でどんなものを見てきたのか知りたがるのだった。
「話って、こないだ話したのでほとんど全部だしなあ。それに俺頭悪いから、あまり覚えてねえんだよな」
「そんなこと言わないで、なんとか思い出して。このままじゃ腕だけじゃなく、頭も使い物にならなくなっちゃうよ」
「フル! フル!」
 可笑しそうに羽をはばたかせたのはフルルだった。ふわふわとこちらに飛んできたかと思うと、力任せにロウの髪を束ごと引っ張ろうとする。
「痛あっ! 痛いって!」
「ほら、フルルもそう言ってるよ」
「フルゥル!」
「わかった! わかったから!」
 視界の端を滲ませながら、ロウはフルルを抑えた。
 悲鳴と笑い声の混ざり合った空気が暖炉の火に炙られる。そうしてやがて灰になって、シスロディアの星空に立ち上って消えた。