もしロウがカラグリアを出奔していなかったら、という本編ifのお話。全部捏造/強めの幻覚/何でも許せる人向け

赫く夜空は君のため

 帰り道は、どちらも言葉少なだった。黙々と歩みを進めるリンウェルの3歩ほど後ろを、ロウは食材の入ったカゴを背負って歩いた。
 何かまずいことを聞いてしまったのだろうか。不安と動揺の入り混じった感情が、ロウの鼓動をいっそう加速させていた。
 他意があったわけではない。早く仲直りしろなどと説教を垂れるつもりもなく、ただ本当に頭に浮かんだことをそのまま声に出しただけだった。
 結果的にそれがリンウェルの心を傷つけてしまったわけだが。そうと確定したわけではないにしろ、先ほどのリンウェルの表情は決して穏やかなものではなかった。リンウェルの痛いところを、あるいはあまり触れられたくないところを刺激してしまったに違いない。
 どうして自分はいつもこうなのだろう。それでなくともあまり頭を使わずに話してしまうのに、他人の事情に踏み込むようなことを聞いてしまうなんて。あくまで自分とリンウェルは、ひょんなことから偶然出会っただけの関係に過ぎないのに。
 もしかしたら、昨日の一件で距離を縮められた気になっていたのかもしれない。リンウェルの涙を見たことで、ある程度心を許してくれたのだと勘違いしていたのかもしれない。
 人の心と心の距離を縮めるのはそう簡単なことではないと、この国で学んだばかりだったのに。ついこの間の出来事さえ、人より出来の悪いこの頭は記憶していられないらしい。
 それでも、と思う。それでもリンウェルとは、少しずつわかり合えてきたような気がしてたんだけどな……。
 少なくとも、互いに気を遣ってばかりの他人とは違う。ほんの数週間一緒に過ごしただけとはいえ、軽口も叩き合えるくらいの関係性は築き上げてきたはずだ。それでもまだ、俺には悩みの1つも打ち明けられないとでもいうのだろうか。
 前を行く背中には、どこか寂しげに影が差しているようにも見えた。あるいはそれは、そうであってほしいという自分の独りよがりな願いの投影なのかもしれなかった。
 天候の変化に気付いたのはその頃だ。急に風が強まってきたと思うと、降り続けていた雪が横殴りに吹き荒ぶようになった。身体が風に煽られ、足元がぐらつく。少しでもバランスを崩したら、そのまま斜面を転がり落ちていってしまいそうだ。
 顔を上げて目を凝らしても、視界はほとんど取れなくなっていた。今や数メートル先のリンウェルの背中でさえ薄らぐようだ。ロウは慌てて歩幅を大きくし、その距離を詰めた。気配に気づいたリンウェルがこちらを振り返り、風の中で何かを呟く。
「え、なんだって?」
 ロウにはその声が聞き取れなかった。首を傾げた瞬間、リンウェルの手がロウの手首を強く掴んだ。
 腕を引かれるまま辿り着いたのは、小さな山小屋だった。逃げ込むようにして中に入るなり、後ろ手で扉を急いで閉じた。
「ほら、脱いで」
 突然リンウェルが言うので、ロウは耳を疑った。
「え? ぬ、脱ぐ?」
「コートだよ。吹雪で濡れちゃったでしょ? 乾かすから、さっさと脱いで」
 ああ、そういうことか。ロウは内心でほっとすると、背負っていたカゴを部屋の隅に下ろした。すっかり重量の増したコートを手早く脱ぎ、言われた通り壁際に吊るす。
 リンウェルが火を点した暖炉からは、炎が上がり始めていた。そのほかには簡素なランプと古びたベッドしか置かれていないこの小屋は、どうやら木こりや今日の自分たちのような採集に来た人間が利用するためのもののようだ。
 リンウェルはどこかからかラグのようなものを引っ張ってくると、それを暖炉の前へと敷いた。そしてベッドから2枚毛布を剥ぎ取り、1枚は自分の肩にかけ、もう1枚をロウへと差し出す。
「部屋が暖まるまでもう少しかかるだろうから。それまで暖炉の前で温まろう」
 ロウは頷き、リンウェルと並んでラグの上へと腰を下ろした。
 相変わらず外は風が吹き荒れているようだった。ごうごうと風の鳴る音はもちろん、窓に雪がちりちりと吹き付ける音も聞こえてくる。
 それくらい、部屋の中は静まり返っていた。言い換えれば、2人の間にはまったく会話がなかった。
 今の今まで普通に言葉を交わしていたはずなのに。事務的なことであったとはいえ、その時だけは空気が和らいだ気がしていた。
 それもどうやら気のせいだったらしい。やっぱり怒っているのだろうかと、ロウがおそるおそる様子を窺おうとした時だった。
「……さっきはごめんね」
 リンウェルが先に口を開いた。呟くような声だった。
「ちょっと驚いちゃって……何も言えなかったの。それでいろいろ考え事してたら、いつの間にか天気も悪くなっちゃってて」
 もうしばらく天候は回復しないと見込んで、この小屋で凌ぐことに決めたらしい。あの時吹雪に紛れて何か口走ったのは、おそらくその提案だったのだろう。
「せっかくついてきてもらったのに、ごめんね。気まずい思いさせちゃったでしょ」
 いいや、とロウは首を振った。
「俺も悪かった。何も知らねえのに、口出すような真似して」
「違うよ。ロウは何も知らなかったんじゃなくて、知らされてなかったんだから」
 リンウェルはそう言うと、抱きかかえていた膝を引き寄せて言った。
「私ね、元々ここの集落で暮らしてたわけじゃないんだ」
「え……」
「1年位前かな。いろいろあって、ここに辿り着いたの。途中で出会った、フルルと一緒にね」
 ほとんど流れ者同然だった自分を、ここの集落の人は何も言わず受け入れてくれた。食事や着るものだけでなく、住む場所まで用意してくれて、あまりの待遇にリンウェル自身も驚いたのだという。
「なんでこんなに良くしてくれるんだろうって。聞いても、困ってる人同士助け合うのは当たり前だろうって言うだけだし」
 それからも住民たちの親切は続いた。食材や日用品の調達はもちろん、何か困ったことはないかとこまめに様子を見に訪ねてきてくれる。
「貰うばかり貰ってるから、どうしても気まずくて。ほら、あんな大きな家にも住んじゃってるし」
 集落の住民たちの家はもっと簡素で、小ぢんまりしたものらしい。リンウェル自身も、どうして住民たちが自分にあの家を貸してくれたのかわからないようだった。「離れてて使いづらいからかな? まあ私はその方が気楽でいいんだけど」
 住民たちの過剰なまでの優しさに、リンウェルはいつしか負い目を感じ始めるようになっていた。
「みんな本当に良くしてくれるの。そこには本当に感謝してるし、それをありのまま受け入れればいいって言い聞かせてはいるんだけど……心の奥底では、何か裏があるんじゃないかって疑っちゃってる自分もいて……」
 リンウェルの視線が落ちる。
「ひどいよね、ここまでしてもらってるのに」
 冗談めかしたような口調だったが、その言葉に悲哀の感情が混じっていることにも、ロウはきちんと気が付いていた。
「それでどうにもぎこちなくなっちゃって。ロウにも気付かれるくらいだから、みんなにも気付かれてるのかな、なんて」
 それで動揺しちゃったの、ごめんね、とリンウェルは再び謝罪した。
 それを聞いて、ロウは「いいや」と首を振った。
「むしろ、話しにくいこと話させちまって悪かった。そんなつもりはなかったっていっても、結局言わせちまったのは同じだよな」
「ううん、黙ってたのは私の方だし。みんなとも上手くやってるよーって見栄張ったのが悪いんだし。でも、まさか本当に気付かれるとは思わなかった。ロウって私のことよく見てるんだね」
「えっ」
 急にそんなことを言われて、今度はロウが動揺する番だった。「え、ああ、いや、その……」
「本当のことを知ってるのは、今まではフルルだけだったから。これからはロウもそうだと思うと、ちょっと肩の荷が下りた気がするね」
 少し照れくさそうに言って、リンウェルは笑った。
「昨日のことも、ありがとう。私一人じゃフルルの体調不良にも気付けなかったと思う」
 リンウェルは視線を暖炉の火に向けたまま、足の先を揺らして言った。
「私、怖かったんだ。フルルに嫌われちゃったんじゃないかって。怖くて、フルルが見られなかった」
 昨日の光景を思い出す。あの胸の詰まるような緊張感は、普段そこまで空気を読む方ではないロウにも息苦しく感じられるほどだった。
 第三者のロウがそうなのだから、おそらく当事者たちの痛みは相当なものだっただろう。傷んだ魚で悪くした腹よりも、赤く浮かび上がった手の甲の傷よりも、ずっと心が痛かったに違いない。
「昨日は仲直りできたけど、本当は今もすごく怖い。もしフルルが離れていっちゃったらどうしようって、そればっかり考えて……」
 リンウェルは膝を抱えたまま、腕の間に顔を埋めた。薄い肩は小刻みに震えていて、今にも脆く崩れ落ちそうだ。
 そんなリンウェルの肩に触れる勇気は、今のロウにはない。それでも伝えられることはあると、声を振り絞った。
「離れねえだろ」
「……え?」
 視界の端でリンウェルが顔を上げた。
「あいつは、何が何でもお前から離れない。昨日だって、お前のことが本当に大事だからこそ、心配かけたくなかったんだ」
 たとえどんなに体調が悪くても気丈に振舞う。笑顔を見せる。ただ、目の前の大切な人を不安にさせたくない一心で。
 そんな悲しくも優しい思いやりを、ロウは知っていた。いつかこの頬に触れた母の指は柔らかくて、温かかった。
「だから、そう気に病むことねえよ。そんなの、外歩いてたらいつか隕石が降ってくるかもって心配してるのと一緒だぞ」
「そ、そんなこと……!」
 リンウェルは慌てたが、すぐにふっと表情を緩めて、
「確かに、そうかもね」
 と笑った。
「あーあ。またロウに助けられちゃったな」
「あーあ、って何だよ。それに、そんな大したこと言ってねえだろ」
 ロウは気恥ずかしさに頭を掻いたが、リンウェルは「大したことあるの」と首を振った。「少なくとも、私にはね」
「そうかあ?」
 気の抜けた声でロウは呟いたが、リンウェルは今日一番の笑みを見せて言った。
「嬉しかったよ。ありがとね」
 緩く弧を描いた口元が、暖炉の火に赤く照らされる。細められた瞳には揺らめく焔が映り込んで、きらきらと光り輝いていた。
 目を奪われていたのは、ほんの数秒だろう。はっと我に返った後で、ロウは堪らず顔を背けた。
 胸に迸った熱いものが、頬や指や、身体中を駆け巡っていく。心臓はたちまち騒ぎ出して、どうにも落ち着かなくなった。
 密かに鼓動を抑えながら思う。あれ、リンウェルってこんなかわいかったっけ。
「ロウ? どうかした?」
 顔を覗き込まれると、思わず飛び上がりそうになった。必死に誤魔化そうとして、ロウは咄嗟に視界に映ったものに手を伸ばした。
「そ、そういやお前、珍しいの着けてるよな!」
 触れたのは、リンウェルの首に下げられた青色のペンダントだった。リンウェルは出会ったあの日から、肌身離さずこれを着けている。朝寝室から出てきて夜再び戻るまで、首元からそれが外れているのを見たことがない。
「変わった色してんなって、ずっと思ってたんだ! ちょっとよく見せてくれよ」
「あ、待って……!」
 ロウがより近くへと引き寄せようとした瞬間だった。パキッと無機質な音を立てたと思うと、それがヒビの入った部分から欠けてしまった。
 欠片がころんと2人の間に転がる。まるでスローモーションのようにも見えたそれが、ロウをみるみる青ざめさせた。
「わ、悪い……!」
 どど、ど、どうしよう。焦ったところで何もかもが手遅れだった。リンウェルのペンダントは美しい球形が一転、一部が抉られたように凸凹の石へと変貌してしまった。
 取り返しのつかないことをしてしまった。拾い上げた欠片とその本体を交互に見つめながら、ロウは絶望する。俺はなんてことを……。
 ところがリンウェルは「気にしないで」と明るい調子で言った。
「元々、ロウが触る前から壊れかけてたんだ。あちこちヒビも入ってたし、いつ割れてもおかしくないって思ってたの」
「け、けど、それってお前の大事なものなんじゃ……」
 ロウの問いに、リンウェルは苦笑いしながら、「まあ、両親の形見なんだけど」と言った。
「案の定じゃねえか!」
「でも、これくらいならくっつければ直るじゃない? だからそんなにしょげなくていいよ」
 罪悪感に押し潰される寸前のロウは、自分がそれを直すと言い張った。床やラグの上をくまなく捜索し、微細な欠片一粒残すまいと目を凝らす。
「そこまでしなくていいのに……」
 その様子を見ていたリンウェルは、可笑しそうに笑った。「ロウって、意外と真面目?」
 意外は余計だと、ロウは床に這いつくばりながら思った。
 いつの間にか吹雪は止んでいた。あれだけ激しく吹いていた風も止み、今はただ穏やかな暗闇が静寂とともに広がるだけだ。
 2人で山小屋を後にする。再び家までの道を歩きながら、リンウェルが訊ねてきた。
「ロウは、星は好き?」
 少し考えて、ロウは横に首を振った。
「あんまり。きれいだけど、なんか作り物みたいだろ。きれいすぎるっつーか」
「なるほど。そんなふうに考えたことなかったな。作り物、か」
 リンウェルは頷きながら、呟くように言った。
「私は好きだよ。きれいなのもあるけど、道標にもなるから」
「道標?」
「そう。あの星は、位置がほとんど変わらないんだよ。だから、道に迷った時はあの星を目印にすればいいの」
 リンウェルは宙で最も輝く星を指して言った。「昔、空を見上げてる時にそう教わったんだ」
 誰に、とはロウは聞かなかった。リンウェルの指先が触れたペンダントが、それを密かに伝えてくれていた。