暗闇の向こうに薄っすら建物が見えてきたところで、
「待って」
リンウェルが足を止めた。
「家の前に、誰かいる」
木々の陰から目を凝らしてみると、そこにはランプを持った人間が数人、リンウェルの家の中を窺うようにして周囲を徘徊していた。
「誰だ、あいつら……」
「よく見えないけど、たぶん集落の人たちじゃないかな。あのランプ、私のと同じだし」
時折聞こえてくるドンドンという物音は扉を叩くものだろうか。誰もがせわしなく動き回り、落ち着かない。漂う空気は物々しく、只事ではない様相だ。
「何かあったのかな」
リンウェルは呟くように言うと、自分が事情を聞いてくると名乗り出た。
「いつまでも隠れてるわけにもいかないし。そっちの方が手っ取り早いでしょ」
「けど……」
表情を曇らせるロウに、リンウェルは穏やかに笑って見せる。
「大丈夫、心配しないで。何かあっても、上手く誤魔化すから」
リンウェルは、ロウがそれまで背負っていたカゴを取り上げると、自らの背に背負い直した。どうやら、たった今採集から戻って来た体を装うらしい。
「それじゃあ、落ち着いたら合図するから。それまで出てきちゃダメだよ」
まるで飼い犬に言いつけるような言い方だなと思いながら、ロウはその背中を見送った。リンウェルが坂道を下る足取りは軽く、まるで小動物が跳ねるようだ。
だがどうにもロウの不安は募った。リンウェルは心配するなと言ったが、彼らの醸す雰囲気からはどうにも良くないものが感じ取れた。むしろあの不穏そのものみたいな光景を見て、心を落ち着けていられる方がどうかしている。
ロウは周囲の気配を探ると、意を決してリンウェルの家の方へと向かった。リンウェルが使った道ではなく、ぐるりと回り込むようにして暗い森の中を半分手探りで進んでいった。
時折木の陰から気配を探ったが、近くには誰もいないようだった。なるべく急ぎ足でと足を動かせば、ほとんど先回りするようにして家の近くまで辿り着くことができた。一番大きく太い木の陰に身を潜めながら、ロウは改めて耳を澄ませる。ここからなら、リンウェルやほかの住民らの様子も窺うことができるはずだ。
とその時、
「リンウェル!」
耳に飛び込んできたのは、聞き覚えのある男の声だった。
「今までどこへ行っていた!」
おそらく、出発前にリンウェルと世間話をしていた中年男性だろう。あからさまに焦った様子で、リンウェルへと駆け寄るのが見えた。
それを聞きつけてか、周囲を探っていた他の数人も駆けつけてきた。4、5人の男が、あっという間にリンウェルの周りを取り囲んだ。
「どこって、森に採集に行ってたんだけど……」
リンウェルは戸惑ったように、それでいてできるだけ明るい声を作って言った。「何かあったの?」
「何かって、お前……!」
すると1人の男が突然、リンウェルの肩を掴んだ。もう1人が反対側を押さえ、身動きが取れないようにする。
「な、何……!?」
突然のことに混乱するリンウェルの胸元に、例の中年男が手を伸ばした。
「宝石を見せてみろ!」
男が手に取ったのは、リンウェルが首から下げているペンダントだった。暗闇の中でもほのかに淡い光を放つそれは、覗き込んだ男の顔をぼんやりと青白く照らした。
次の瞬間、男の顔からみるみる血の気が引いていくのがわかった。
「リンウェル……! お前、これを壊したのか!」
「え、これって――?」
リンウェルがわけがわからないというように、胸元のペンダントと男の顔とを見比べた。
「お前、これがただのアクセサリーだとでも思っていたのか?」
取り囲んでいたうちの一人が、吐き捨てるように言った。「この石はな、結界を強めるためのものなんだよ!」
「そ、そんな……」
今度はリンウェルの顔が青ざめていく。
「それをこんなふうにしやがって……。結界の強度はもう半分もない! お前がやったんだ! お前がそれを壊したから……!」
「村はおしまいだ、お前のせいでな! いったいどう責任を取るつもりだ!」
「そんな、私、何も知らなくて……」
次々と投げかけられた言葉に、リンウェルは項垂れた。視線だけでなく、生気までも雪の積もった地面に転がり落ちるようだ。
そんなリンウェルの目の前に立ったのは、例の中年男だった。
「お前を見つけた時は、とんだ拾い物だと思ったが……まさか恩を仇で返されるとは」
氷のように冷え切った声が空気を揺らした。男が手を振り上げた時、
「待ってくれ!」
無意識のうちにロウは声を張っていた。地を蹴り、大きく腕を広げると、リンウェルを庇うように男の前に立ち塞がる。
「ロウ!」
「な、なんだお前は……!」
男たちが一歩後ずさるのがわかる。「リンウェル……近頃何やらこそこそしていると思えば、部外者まで連れ込んでいたのか」
四方から突き刺さる鋭い視線にも臆さず、ロウは言った。
「話は全部聞いた。このペンダントの石を壊したのは、俺なんだ」
ロウはペンダントを壊してしまった時のことを詳しく説明した。自分が壊した張本人であると、信じてもらうためだ。
「リンウェルは悪くないんだ。責めるってんなら、俺にしてくれ」
ロウは男から目を離さず、また男も同じだった。じりじりと焼けつくような視線を交わした後で、やがて男は言った。
「なるほどな。お前は、正真正銘のダナ人のようだ。リンウェルとはどこで出会った? どうしてこの集落にいる」
その質問には、ロウは何も答えなかった。どんな返答をしても、きっとリンウェルに不利になるような気がしたからだ。
口を開こうとしないロウに、男は「まあいい」と言った。「その様子じゃ、正体までは明かしていないようだからな。その程度の信用とも知らずに庇うとは、殊勝なことよ」
正体……? 咄嗟にロウは目配せをしたが、リンウェルは何も言わない。視線を逸らし、小さく俯くばかりだ。
「それに、宝石を壊したのが誰かというのはさほど重要じゃない。重要なのは、壊れてしまったという事実の方だ」
そう言うと、中年男は住民たちに結界の崩壊を告げるようほかの男たちへ指示を出した。
「準備しろと、そう知らせろ。こうなれば時間との戦いだ」
わかった、と男たちが数人、集落の方に向かって駆けていく。辺りがにわかに騒がしくなる。
「とはいえ、お前たちをこのままにしてもおけない。逃げられても困る上、そもそもこの里の存在自体知られてはならないからだ」
向こうの二の舞は御免だからな。男が付け加えた言葉に、リンウェルの肩が僅かに震えた。
「とりあえずお前たちには牢にでも入っていてもらおう。何せ今は忙しい。処分を決めるのはあとだ」
「好き勝手言わせておけば、この……!」
舐め切ったような男の言葉に、頭にたちまち血が上るのがわかった。そうしてロウが拳を大きく振りかぶった時だ。
突如、後頭部に衝撃が走る。視界が一瞬にして霞んで、ロウは膝から崩れ落ちた。
「ロウ!」
「若造が、力の使いどころを間違えるなよ。もっとも、もう手遅れだろうが」
嘲笑うような声が聞こえたのが最後だった。もう一撃腹に重たいのが入って、ロウはそのまま意識を手放した。