2.
空からまたひとつ、儚い白片がひらひらと降り注ぐ。
それが星屑だったらどんなにいいか。綿のようにふわりとしたそれが、鼻先に触れたと思った途端一瞬にして消えた。
冷たい。何もかも。露出した皮膚はもちろん、指先も、胴体も、覆われているはずの爪先だってすべてが冷たかった。
もうほとんど感覚がないほどだ。それでも前に進むため一歩足を踏み出すと、靴底の下でぎゅっという聞き慣れない音がした。足を浮かせてみれば、靴の形に押し潰されているのは真っ白い雪だった。こんな無垢な見た目をしておいて、こちらの体温をすぐさま奪っていくのだからなかなかに獰猛だ。童話の中でしか見たことのなかったそれを、まさかこんなふうに目の当たりにするなんて。見渡す限り、それがどこまでも広がっているなんて。
ロウは吐く息を白く濁らせながら、懸命に2つの背中を追っていた。1つは自分よりも大きく逞しく、頼れる背中。そこには2本の剣が背負われていて、片方の剣はまるで燃え盛る炎のごとく煌々と輝いていた。こんな天候にはおあつらえ向きだろうが、あれはもはや温かいを通り越して熱いだろう。あんな常人なら耐えられないものに平然としていられるのは、この世ではきっとただ1人、アルフェンだけだ。
そのさらに前を行くのは、自分よりは大きくないが、それでも随分な速度で前に進む恐れを知らない背中だった。シオンが歩みを進めるたび、後ろでくくった桃色の髪が大きく揺れる。その隙間からは白く、華奢な背中が覗いていた。あんな格好で寒くないのか。いや、寒いんだろうな。クシュッと音が聞こえたと思うと、アルフェンがこちらを振り返った。互いに首を横に振ったところで、前方を行くシオンがじっとこちらを睨みつけていることに気が付いた。
「……何かしら」
「いや、別に」
何も、と視線を落とすと、シオンがふんと鼻を鳴らす。その頬は淡い桃色に染まっていた。
「もう少し進んだら、どこかで休憩しましょう。そろそろエネルギーを補給しないと」
「え、でもさっき食ったばかりじゃ」
「雪道は歩くのが大変だから体力を消耗するのよ。それに、休めるうちに休んでおくべきだわ」
苛々したようにシオンは言った。
ロウが隣に視線を送ると、アルフェンは苦笑いで肩をすくめた。言う通りにしよう、という意味らしかった。
シオンはロウが加わることに最後まで反対していたが、それもジルファの一言でころりと態度を変えた。
「ちなみに、こいつはそれなりに料理もできる」
「……!」
「なんでも、とまではいかないが、少なくともお前たちよりはましだろう。簡単な軽食くらいなら作れるはずだ」
アルフェンに「そうなのか?」と問われ、ロウは小さく頷いた。
シオンはと言うと、それを聞いてからどこか落ち着かない様子だった。
「そ、そういうことは早く言ってほしいものね。別に、それが決め手になるわけではないけれど、少なくとも評価には値するわ」
そうしてまじまじとロウのことを見つめた後で、
「いいわ、連れて行きましょう。もちろん荷物も持ってもらうわよ」
とそっけなく言い放ったのだった。
今、ロウの背中にはそれは大きな鞄が背負われている。シスロディアに入ってからはいつどこで調達できるとは限らないと、ありったけの食料を詰め込まれた。元々医薬品の在庫が少なかったのもあるが、シオンが治癒術を使えることも考慮して中身はほとんどが食材となった。ティルザ曰く「これだけあれば1週間は持ちそうね」という話だったが、それだけの食材をこの貧しいカラグリアのどこから掻き集めてきたのだろう。
出発の日、門のところまで見送りに来た面々は、アルフェンよりもどちらかと言えばロウのことを激励した。
「こいつらのことはあまり心配してねえよ。それより、お前がちゃんとやっていけるかの方が心配だ」
「外に出たのだって、つい最近のことだからな。ちゃんと着替えは持ったか? 武器は?」
「ああもう、いつまでもガキ扱いすんじゃねえよ。大丈夫だっての」
ガナルとネアズがロウの背中を叩く横で、
「何かあったら、いつでも戻ってきてちょうだい。私たちにできることなら何でも協力するわ」
とティルザが言った。
「ありがとう。いざという時は頼らせてもらうよ」
「あなたもね、シオン」
「え、ええ……」
シオンが横目でティルザを見やりながら、おずおずと頷く。
「この辺にしとくか。いつまでもきりがないからな」
そう言ったのは、ジルファだった。
「お前たちなら大丈夫だとは思うが、油断はするなよ。この先に何があるのか、自分の目で見てこい」
ああ、とアルフェンは大きく請け合った。ジルファがアルフェンの肩を叩く。
それきりだ。ジルファはロウに何か声を掛けるでもなく、ちらりと視線を寄越しただけで、ほかの3人と共にウルベゼクの方へと引き返して行った。
薄々そうなるんじゃないかと予感はしていた。元より口数の多い父親ではないし、気の利くことが言える口でもなかった。敢えて余計な言葉を交わさないことで、言い争いになるのを避けたのかもしれない。
もしくは、と思う。手に余る息子から解放されて清々したのかもしれない。そういえば最後アルフェンに声を掛けた時、随分と晴れやかな顔をしていた気がする。
まあ、それもそうか。ロウは心の中で小さく息を吐いて、先を行く2人の後を駆け足気味に追った。
それからは、ひたすら歩いた。赤い岩でできた道を進むと、入り口に松明の点った洞窟があった。おそらくレナの連中が使っていたもののようだが、中にはズーグルがわんさかいて、それほど整えられた様子もなかった。
寒気を感じたのはその途中からだ。はじめは日光が遮断されているからかとも思ったが、それにしてはやけに冷える。
洞窟を抜けてみて驚いた。そこにはカラグリアとはまるで違う景色が広がっていた。
真っ暗な空に、真っ白な大地。吐いた息がたちまち白く濁ったのを見て、ロウは初めてその気温差に気が付いた。
「……~~さぶっ!」
あれだけ暑かったカラグリアが嘘みたいだ。辺りには赤い岩肌も、燃える石も見当たらない。あまりの変わりように、自分たちが今立っているこの土地は果たして本当にカラグリアと隣り合った領地なのか、あるいは自分たちはどこか違う世界に飛ばされてしまったのではないかと心から疑った。
前方には雪の積もった道ともいえない道が続いている。これからここを進んでいくのか。この軽装で。どこに敵やらズーグルやらが潜んでいるかもわからないのに。いろんな意味で、思わず身震いしてしまいそうだ。
それでもシオンは、
「行くわよ」
淡々とそう言った。誰よりも頼りない格好で、雪道に大きく一歩を踏み出していく。
立ち止まっている暇もなければ、引き返すことも許されない。それを体現するような、決して揺らぐことのない足取りだった。
「行こう」
アルフェンが振り返って言った。
「置いていかれるわけにはいかない」
ロウは、ああ、と頷いて片足を持ち上げた。雪に塗れた、重く冷たい一歩だった。