もしロウがカラグリアを出奔していなかったら、という本編ifのお話。全部捏造/強めの幻覚/何でも許せる人向け

赫く夜空は君のため

   


 薄れゆく意識の中に遠い記憶が呼び起こされる。
 あれはまだロウが幼い頃のことだ。勝手に外に出るなと言われたのに、好奇心が勝ったロウは家の敷地外へと出てしまった。
 目の当たりにする光景は、それは胸高鳴るものだった。遠くにそびえ立つ、削り取られたような高い岩山。辺りにちくちく生い茂った、針のような細い木々。底すら見えないほど濁った池にはあちこち魚が跳ねていて、自宅の庭とはまるで違う様相に、ロウのわくわくはかつてないほど高まった。
 冒険だ。あのお伽話で読んだような冒険に、自分もこれから踏み出すんだ!
 胸が弾んだのも束の間、背後から聞こえてきたのは低い唸り声だった。拳を握り締めて振り返るが、思わず背筋が震え上がる。そこには狼の姿をしたズーグルが数匹、よだれを垂らしてこちらを見つめていた。
 まずい。本能的にそう思った。今すぐここから逃げないと。
 なのに、足がすくんで動かない。動け、動け。何度念じても、頼りない膝はがくがくと戦慄わななくだけだ。
 その時、群れの中でもひときわ大きい一匹と目が合った。グルル、と地を這うような声がする。
 ――もうだめだ。
 反射的に目を背けたロウに、ひとつの濃い陰が落ちた。顔を上げた時、目の前に立ちはだかっていたのは、よく見覚えのある大きな背中だった。
 
 ロウは自分の意識が急浮上するのと同時に、まぶたの裏に閃光が走るのを感じた。なんだこれ。この国に来てから光なんか、どこにも見えなかったはずだ。
 まさか朝が来たのか。重たいまぶたを何度かしばたたかせながら、ゆっくり焦点を合わせていく。そこに映ったのは、相も変わらず真っ暗な空と、嫌味ったらしく瞬く星たちだった。
 たちまち落胆したロウは小さく息を吐いた。なんだ、違うのか。
 脱力した途端、
「ねえ、大丈夫?」
 視界いっぱいに少女の大きな瞳が覗いた。
「うわっ!」
「ケガは? 痛いところはない?」
 そう問われてハッとする。そういえば、俺は足を踏み外して崖から落ちたんじゃなかったか。咄嗟に上を見上げてみて、ひゅっと喉が鳴った。もしかして、俺はあの高さから落ちたのか。
 ねえ、と少女はおそるおそる訊ねてきた。
「まさかとは思うけど、上から落ちてきたの?」
「……たぶんな」
 おずおずとロウは頷いた。
「それでケガひとつないって本当? っていうか本当に人間?」
「人間だよ。たぶんだけど、雪とこれのおかげじゃねえかな」
 ロウは背中に背負った小岩ほどもある鞄を示した。衝撃で潰れて変形しているが、かろうじてまだ鞄と認識できる。とはいえところどころ糸がほつれたり、傷がついてボロボロだ。自分がこうならなくて本当に良かった。
「ふうん。そんな運が良いこともあるんだね」
 少女は感心したように言って、立ち上がるのに手を貸してくれた。
 あちこち見回してみても、酷いケガは特に見当たらなかった。唯一、落ちた時に木の枝などに引っ掛けたのだろう、腕にいくつか切り傷がついていた。とはいえこのくらい屁でもない。鍛錬をしていた時と比べたら、大したことのない傷だ。
 頭は大丈夫か、打っていないかとぶんぶん揺らしていると、少女にまじまじと見つめられていることに気が付いた。上から下へ、下から上へ、何かを探るように視線が動く。
 やがて少女はひとつ結論を出したように頷いた。
「その格好、この辺りの人じゃないよね。そんな軽装で外を出歩く人いないもん」
 再び少女の視線が上下を走る。どうやら身に着けている小物まで確認しているようだった。
「だからって、レナってわけでもなさそう。もしかして、この国の人じゃないとか?」
「ああ。俺はカラグリアから来たんだ」
「ええっ!」
 少女は大きな声を上げると、口元を押さえてまん丸な目をさらに丸くした。
「カラグリアって、お隣の?」
「ああ。よく知らねえけど、そうらしいな」
「そうらしいって、すっごい他人事じゃん……」
 少女が訝しそうに視線を送る。
「ねえねえ、どうやって来たの?」
「どうやってって、歩いて」
「そんなの見ればわかるよ。そうじゃなくて、そうなった経緯を聞いてるの」
「それは……」
 ロウはどう説明したものかと、やや口ごもった。「話せば長くなる」
「それもそうだよね。他の国の人がこんなところにいるなんて、普通じゃないもん」
 少女は肩をすくめたと思うと、続けて柔らかい口調で言った。
「じゃあ、いったんうちに来るのはどう? あちこちケガもしてるみたいだし」
 消毒くらいはした方がいいと思うけど、と少女は目線でロウの腕を示した。
 思ってもみない提案に、今度はロウが目を丸くする番だった。
「それはすげえありがたいけど……でも、本当にいいのか?」
「いいよ。だってダナで、訳ありなんでしょ。困ってるなら助け合わないと」
 少女はふっと穏やかな風のように微笑んだ。それは水面を揺らすようで、あるいは花の香りを運ぶかのようで、ほんの一瞬だけ時間が止まったようにも感じられた。
 眩しい。そう思って、ロウはすぐに心の中でかぶりを振った。いやいや、どうしてそんなふうに思ったんだろう。辺りには明かりも点いていなければ、陽だってまだ昇らないのに。
 錯覚か? もしくは落っこちた時にどこか頭をぶつけていて、その症状が出てしまったのか?
 疑心と困惑に首を傾げている時だ。少女の背後で黒い影が蠢くのが見えた。正体を探るよりも早く、それが地鳴りにも似た呻き声と共に飛び掛かってくる。
「……っ、危ねえっ!」
 ロウが咄嗟に繰り出した拳は少女の横をすり抜け、正確に影を捉えた。腕に確かな手応えを感じた瞬間、狼の姿をしたズーグルはつんざくような断末魔を上げながら、たちまち塵となって宙に消えていった。
「……びっくりした」
 突然のことに少女は胸を抑えつつ、大きく目を見開いていた。「まだ生き残りがいたんだ」
「生き残り?」
「う、ううん、何でもない。それより、ありがとね。助かっちゃった」
 じゃあ行こっか、と言って、少女はロウの前を歩き出した。
 少女の家は深い森の中にあった。辺りには怪物のような黒い木々が生い茂り、その間を縫うようにして細い道が敷かれている。道といっても、そこだけ雪が押し固められただけのほとんど獣道だ。顔を上げれば真っ暗、下を向けば真っ白。この国に入ってから似たような光景をずっと目の当たりにしてきたが、この天井に押し潰されるような息苦しさは何だろう。降り続ける雪片の合間になんとか目を凝らしてみれば、道は森のずっと奥の方まで続いているようだった。
 そんな道を、少女は小さなランプひとつで突き進んでいく。当然、雪に足を取られて少々歩きづらそうにはしていたが、そこは経験の差だろう。少女の足取りは、より歩幅の大きいロウよりも随分スムーズだった。
 特に会話を交わすこともなく、静寂の中に2人分の雪を踏みしめる音が鳴り響く。少女はそれを少しも気に留めていないようで、こんなに物音を立てて大丈夫だろうかとロウは終始不安だった。それでなくともここは鬱蒼とした森の中なのだ。いつどこからズーグルの群れが現れるとも限らない。先ほど実際に奇襲を食らいかけたところも考えれば、もう少し警戒しても良さそうなものなのに。
 だがそんなことはお構いなしで少女は突き進んでいく。むしろその一歩は次第に大きくなって、慌ててロウが速度を上げるくらいだった。
 しばらく進んだところで、急に少女のスピードが落ちた。と思うときょろきょろと辺りの気配を探り始め、警戒を高めていく。
 それはいったい何に対する注意なんだ。もしかして、俺には感じ取れない敵が周囲にいるのか。ロウは慌てて耳を澄ませ、少女と一緒に辺りの気配を探った。
 だが敵らしきものは現れなかった。代わりに木々の間に現れたのは、丸太を積み上げられたようにしてできた建物だった。
「……やっと着いた」
 少女は息を吐き、手早く扉の鍵を開けると、「はやく入って」とロウを促した。ロウは言われた通り、やや慌て気味にその建物の中へと上がり込んだ。
「へえ……」
 部屋に明かりが点されると、ロウは思わず声を漏らした。この国に来てから目にするものにおおよそ馴染みはなかったが、これはまたいっそう見慣れない光景だ。
 そこは外見からは想像もつかないほど気密性の高められた部屋だった。壁や床、天井までもが木で出来ているのに、外の寒さはまるで感じない。建材や照明の色も相まって、どこかほっと落ち着くようなあたたかみがあった。
 その象徴とも言えるのが、中央にある大きな暖炉だろう。吸い込まれそうに暗い空洞の中には、小さな炎がパチパチとこれまた小さな音を立てて燻ぶっていた。天井まで積み上げられたレンガは、いわゆる煙突というやつだろうか。暖炉も煙突も、当然ながらカラグリアでは見たことがなかった。ただでさえ暑くてたまらない部屋にこんなものがあっても使い道がないからだ。
 住む場所が違えば文化も違ってくるのは当たり前だが、まさかこれほどとは。
 部屋の広さも全然違う。このリビングだけでも自分が両親と暮らしていた家よりも大きく感じられるのに、奥にはまだ扉があった。ここにベッドが置かれていないことを考えると、もしかしたら少女の寝室かもしれない。カラグリアでは個人が個室を持つなんて、ほとんど考えられないことだ。
「ここに1人で住んでるのか?」
 ロウは思わず訊ねた。「それにしてはすげえ広いけど」
 すると少女は、ううんと首を振った。「2人だよ」
 少女が口にした途端、その後ろのフードから何やら白い物体が飛び出してきた。
「な、なんだ?」
 よく見ると、それは真っ白な羽をした仔フクロウだった。
「この子はフルル。私の家族だよ」
「フル!」
 奇妙な鳴き声を上げて、仔フクロウが羽をはばたかせた。どうやらこれまでずっと少女のフードの中にいたらしいが、気配ひとつ見せないのでまったく気が付けなかった。
「あまり人前に姿を見せないからね。ダナフクロウは警戒心が強いんだ」
 フルルと呼ばれた仔フクロウは大きな瞳でじっとこちらを見つめてきた。と思うと、少女の背に隠れるようにして身を潜めてしまう。
「そういえば、まだ名前聞いてなかったね」少女は思い出したように言って、
「私はリンウェル。あなたは?」
 と訊ねてきた。
「俺はロウ。年は16で、カラグリア生まれの――」
「そうそう! どうしてカラグリアから出られたの? レナには見つからなかったの?」
 ロウはまくし立てられるまま、これまでの経緯をひとつひとつ話した。カラグリアではレナと抵抗組織の紛争が長らく続いていたこと。自分もその組織の一員だったこと。突然現れた男女2人組が、レナの領将を討ち取ったこと。
 リンウェルは、ロウの腕の傷を消毒しながらその話を聞いていた。
「それ、本当? ものすごく信じがたい話なんだけど……」
「気持ちはわかるけど、本当だぜ。まあ正直言って、俺もまだピンと来ないままけどな」
 戦場に出ていたとはいえ、事を成し遂げたのは自分じゃない。その後の変化といったって見回りの兵士を見なくなったことぐらいで、実際国全体にどう影響があったのかなんてよくわからなかった。
 それほど自分にとってはどこか遠い出来事だったのかもしれない。レナに支配されているということも、その頭である領将を討ち果たしたことも。
「でももっと信じられないのは、その領将を討ったうちの1人がレナ人ってことだよ。いったいどういうことなの?」
 強い口調になるリンウェルに、ロウは苦笑いを浮かべながら首を傾げてみせた。
 それに関しては、本当に自分もよく知らないのだ。ただ何やら事情があるようで、だからといってその事情が何なのかも教えてもらえなかった。
「けどシオン……ああ、そのレナ人はシオンっていうんだけど、腕前は確かだぜ。銃で戦いながら、治癒術も使えるんだ」
「ふうん。でも所詮はレナ人でしょ。どうして手なんか組んだりしたの? いつ裏切るかわかんないじゃない」
「それはそうなんだけど、シオンはどっか違う気がするっつーか……。目的は領将全員を倒すことらしいし」
「何それ。ますますわけわかんない」
 リンウェルはすげなく言い放ち、ふんと鼻を鳴らした。そっちの腕も出して、という声が随分冷ややかに聞こえる。
「それで、なんでロウはあそこに落っこちてきたわけ」
「ああ。いろいろあって俺も2人に同行することになったんだけど、その途中で足を踏み外して――」
 ロウの言葉に、リンウェルがえっと声を上げた。
「ちょっと待って。同行することになったって、その2人の目的は領将を倒すことなんでしょ? じゃあロウもそのつもりで?」
「いや、俺はなんつーか、付き添いっていうか」
「……どういうこと?」
 怪訝そうに首を巡らせるリンウェルに、ロウはいったん口ごもりながらも、奥歯に物が挟まったような物言いでとうとう言った。
「親に……無理やり決められたんだよ。勝手に2人に頼み込んで、一緒に連れてってやってくれって」
 思わずため息がついて出る。
「最初は悩んだんだ。けど、カラグリアも解放されたし、特にやりたいこともなかったし、じゃあいいかって思って」
「何それ」リンウェルが呆れたように肩をすくめた。「ほとんど捨て鉢じゃない」
「わかってるよ、自分でも」
 でも、だからってあの時の自分に他にどんな選択肢があっただろう。意地を張って首を振り、得られた自由の実感も湧かないまま日々を過ごせば良かったというのか。言われるまま、乞われるままに仕事をこなして、ふとした瞬間に空を見上げるだけの毎日を送れば良かったのか。
 いいや、とそれこそ心の中で首を振る。それだけは嫌だ。そんな、これまでの自分を全部忘れてしまいそうな生き方は。
「俺は、」とロウは零した。「昔から身体を鍛えることしか知らねえんだ。この拳を振るう以外、まともにできることもない」
 膝の上でぐっと指を握り込む。
「なのに、役に立ったこともない。俺は領将を討てなかった。挑む立場にすらなれなかったってことは、そういうことだろ」
 あの夜見た星を、どれだけ恨めしく思っただろう。その輝きはまるで取り残された自分を嘲笑うかのようで、今すぐひとつ残らず消えてしまえと思った。そんなことを願っても、何も変わらないのに。自分の無力さからは逃れられないのに。
「だからって、このままでいられるかっていうと、それも違うんだよな。何をどうしていいのかもわかんねえのに、黙ってもいられないんだ」
 あの時頷いたのは、そういうことだったのだろう。自分はこの拳を何のために振るうのか。誰のために振るうのか。ずっと悩み続けてきた答えが、外の世界にならあるような気がした。
「せっかく掴んだ機会なんだ。自分なりに足掻いて、せめて無駄にしないようにしねえとな」
「……ふうん」
 どことなく気のない相槌が聞こえる。
「でも、その鍛え上げた自慢の拳だけど」
 リンウェルがロウの右腕を指し示しながら言った。
「折れてるみたいだよ」
「…………え?」