もしロウがカラグリアを出奔していなかったら、という本編ifのお話。全部捏造/強めの幻覚/何でも許せる人向け

赫く夜空は君のため

  ロウは頭の痛みで目を覚ました。
 頭の痛みといっても、頭痛がするとかそういう類のものではない。もっと外部的な、それでいてチクチクとした局所的な痛みだ。
 まだ冴え切らない思考の中、ゆっくりと視線を動かしていく。するとすぐそこに、何やら白いものが蠢いているのが見えた。ぼんやりとしたシルエットのそれに、徐々に焦点を合わせていく。
「フル、フル」
 丸い? そして、ふわふわ? あれ、こいつは確か……。
 数秒思いを巡らせて、ようやく思い出した。こいつは、リンウェルのフードに隠れていた仔フクロウだ。
 確かフルルとかいったか。その仔フクロウは、ごく上機嫌な様子で何かを啄んでいた。黒っぽいような、わさわさとしたそれの繋がる先は――。
「――いってぇ!」
「フル!」
 頭皮に走った痛みに、ロウは堪らず大きな声を上げた。飛び起きたロウと一緒に、目を丸くしたフルルも大きく飛び上がった。
「……~~お前っ!」
 咄嗟に腕を伸ばそうとして、
「いっっって!」
 ロウは再び声を上げる。滲んだ視界に入ったのは、添え木ごとぐるぐる巻きにされた、なんとも痛々しい自分の右腕だった。
 そういえば、折れちまってたんだっけ。痛みと同時に思い起こされたのは、目まぐるしいような昨夜の記憶だ。訪れた村で何者かの襲撃に遭ったと思ったら、今度は足を踏み外して谷の底。目を覚ましたところにたまたまリンウェルが通りがかって、声を掛けてもらったのだった。
 腕を痛めたのは、きっとあの時だろう。リンウェルの背後で動いた何かに咄嗟に拳を突き出した時。当時は何とも思っていなかったが、おそらく崖から落ちた際に何かしらダメージを負っていたに違いない。それにとどめを刺すように、何も考えず疑わず、ほとんど反射的に拳を繰り出してしまった。
 腫れ上がった腕を指摘されるまでまったく気が付かなかった。昨晩はとりあえずと添え木で固定をした上で、リンウェルの家のソファーを借りて休むことになった。
 一晩経って、腕の痛みは徐々に増してきている、ような気がする。我慢できないというほどではないにしろ、ズキズキと疼くような感覚は、まるで心臓がそこに移動したかのようにも感じられた。まったく、どうしてケガというものは自認した途端、その存在を主張するかのように痛みを増大させるのだろう。そうでなくとも何重にも巻かれた包帯で皮膚が蒸れて、不快感は増す一方だというのに。
 さらに問題なのは、痛めたのが利き腕だということだ。これでは鍛錬や戦闘どころか、日常生活だってまともに送ることができない。着替えひとつ難儀する人間が、果たしてズーグルだらけの森を歩けるだろうか。自分はこれから一刻も早くアルフェンたちと合流しなければならないというのに、まさかこんなことになるなんて。
 一人項垂れるロウをよそに、
「フル! フル!」
 フルルはからかうようにロウの頭の上を飛び回った。なんなんだこいつ。昨日はあんなに臆病そうにしていたのに、まるで態度が違う。
 ロウは思わず左手を伸ばしたが、自在に翼を操るフルルを捕らえることはできない。フルルは宙を舞う雪片のごとくひらひら翻ったと思うと、必死なロウを嘲笑うかのように目を細めた。
「あーもう! くそ!」
「フールルー!」
「あれ、なんだか仲良くなってるね」
 背後で扉の閉まる音がして、咄嗟に振り返った。ちょうどリンウェルが寝室から出てきたところだった。
「ちょっと心配してたんだけど、なんだ、大丈夫そうだね」
「いやいや、大丈夫じゃねえだろ。こいつ、俺の髪毟ってたんだぞ」
「フル! フルル!」
「はいはい、わかったわかった」
 リンウェルはこちらの訴えにはほとんど耳を貸さなかった。その代わり、
「いいから、とりあえずご飯にしようよ。2人とも、お腹空いたでしょ」
 と明るく言った。そう言われると、急激に腹が減ってきたような気がしないでもない。
 ロウは仕方なくフルルとの停戦を受け入れると、ソファーから立ち上がって水色のカーテンを開けた。窓の外に広がっていたのは、相変わらず真っ暗な空と、その下でひっそり葉を揺らす木々たちだった。
 この国には朝がない。そう聞いたのは昨夜のことだ。
「昔からシスロディアには夜しかないんだ。ずっと大昔には、どっちもあったみたいなんだけどね」
 どうやらそれはレナがこの国で集めている星霊力に関連しているようだった。カラグリアでは人々が鉱石や燃料を掘り出し、それを〈炎〉の主霊石に集めていたように、この国では領将がダナ人を使って〈光〉の星霊力を集めているらしい。
「主にはシスロデンにある投光器を使ってるみたい。〈蛇の目〉に捕まった人たちが連行されて、強制労働させられてるって聞いたよ。あ、シスロデンっていうのは、この国の首府のことで――」
 リンウェルは、シスロディアの内情について丁寧に説明してくれた。地理や気候、風土。村や住民の管理体制に加え、レナ側の組織の仕組みなど、まるでカラグリアとは違った様相に、ロウの頭は混乱するばかりだった。
 中でも驚いたのが、村で自分たちを急襲してきた〈蛇の目〉という組織についてだ。
「奴らはいわゆる下っ端だよ。街や村をうろついて、住民を常に見張ってるんだ」
 戦闘能力は高くないが数は兵士よりずっと多いらしく、情報を得るためあちこち紛れ込んで生活する者もいるらしい。
「〈蛇の目〉のメンバーは基本レナだけど、一部ダナ人も混じってるって聞いたよ」
「えっ!」
 ロウは思わず大きな声を出した。
「それってレナの組織なんだろ。なんでダナ人がそっち側にいるんだよ」
「さあ、詳しいことは私も知らないよ。脅されたのか、あるいは自ら志願したのかもわからないし」
 静かに、それでいてどこか怒りをも含んだような声でリンウェルは言った。
「シスロディアではね、住民同士もお互いを監視し合ってるんだ。ちょっとでも反抗するような怪しい素振りを見せたら〈蛇の目〉に密告されて、投光器送りになっちゃう。でも密告した方にはごほうびが待ってるから、皆相手より先に密告しようと躍起になってる」
 遠い瞳は哀しく窓の外を見つめていた。
「信用できる人はほとんどいないの。家族にさえ密告された人もいるんだよ。そんな中で希望を抱けっていう方が難しいよね。昨日まで信じてた人に今日になって突然裏切られるなんて、それこそ光も見えないよ」
 ロウは言葉を失った。ここにもまた地獄があった。カラグリアとはまた違った、冷たく血の通わない地獄だ。
 リンウェルから事情を聞いた今なら、住民たちの行動も理解できた。見ず知らずの、明らかに見慣れない格好をした自分たちと会話を交わそうものなら密告は免れない。あれは住民らの冷たい性格によるものでなく、彼らなりの必死の防衛策だったのだ。
 住民たちは心の裡から冷え切っているわけではない。ただ明日の命を優先しただけのこと。光のない国で日々を生き抜くにはそうするしかなかった。
「だからね、通報した人たちのことも恨まないでほしい。見てみぬふりをすれば、それこそ仲間なんじゃないかってあらぬ疑いが掛かってたかもしれないし」
〈蛇の目〉への密告に証拠は必ずしも必要ではない。投光器送りになるかどうかは、奴らのその日の気分で決まるのだ。
「当然だろ」
 ロウは大きく頷いた。
「そういう事情があったなら仕方ねえよ。むしろ、何も知らねえでぐちぐち言ってた自分が恥ずかしいぜ」
「誰も何も教えてくれなかったんだから当然だよ。もし私が同じ立場なら、冷たいなって思ってたと思う」
 私から謝っておく、ごめんね、とリンウェルは申し訳なさそうに言った。
「でもこの国がこんなふうになっちゃったのは、全部全部レナのせいなんだよ。レナが来なければ光も朝もあったはずだし、みんなも互いを疑わないで済んだ。レナさえいなければ……」
 静かな声色のまま、その瞳には炎が宿るようにも見えた。細い指にぐっと力が込められ、上着の裾が小さく引き攣れていた。
「そういえば、リンウェルは大丈夫なのか?」
 ロウはふと思ったことを訊ねた。
「大丈夫って?」
「こういう情報、あまり外に話しちゃいけないんだろ? お前は密告されたりしねえのか?」
「ああ、そういうこと」
 リンウェルはどこかほっとしたような表情をして、「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「この集落に見張りはいないから。ほとんど来ることもないし」
「そうなのか?」
「うん。集落の人たちも皆仲が良いしね。お互いに疑う必要もないってわけ」
 この辺に住む人たちはごく少数で、それこそ村とも呼べない規模なのだという。だからこそレナのシステムが機能せず、上手く隠れられているのだとリンウェルは言った。
「少ないから忘れ去られちゃってるのか、忘れ去られてるから少ないのか、もはやどっちかわからないけどね。もしかしたら、単に私たちがかくれんぼが得意なだけなのかも」
 リンウェルはそう言って笑ったが、その瞳が一瞬だけ物悲しく見えたのは気のせいだっただろうか。
 翌日リビングに現れたリンウェルに特に変わったところは見られなかった。昨日と同じように朗らかに笑っては、キッチンに立って朝食の用意をしている。
 あれはきっと自分の見間違いだったんだな。もしくは勘違いか。ロウはぼんやりそんなことを思いながら、ぐるぐる巻きになった右手を庇いつつ、何とか着替えを済ませた。
 朝食のパンを齧っている途中で、不意にリンウェルが切り出した。
「あのね、いろいろ考えてみたんだけど、やっぱりその腕のまま外に出るっていうのは危ないと思うんだよね」
 ロウは口の中でパンを咀嚼しながら頷く。
「外にはズーグルもたくさんいるじゃない? 戦うどころか走って逃げるのも、その腕じゃ満足にできないと思うんだ」
 ミルクでパンを喉の奥に押し流したロウは「そうだな」とやや重たい声で相槌を打った。リンウェルの言うことはもっともだ。加えてシスロディアのこの雪道では速度も機動力も落ちる。誰の護衛もなしにひとりで外を出歩くのは、もはや餌が歩いているのとほとんど同じことだ。
 昨夜ロウの頭を悩ませたのもそれだった。急いでアルフェンたちを追いかけたい。追いかけたいのに手段がない。無理を通せばそれこそ命が危なくなる……。どうしたものかとソファーで考えを巡らせているうち、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。
 一晩経った今になっても、いい案は浮かんでいなかった。むしろ問題点が次々浮かび上がるばかりだ。自分とアルフェンたちの現在地。その距離。潰れてボロボロになった鞄と、ほとんど使い物にならなくなった食材。たとえなんとか合流できたところで、シオンに暇を出されるのは時間の問題とも言えた。
 中身の足りていない頭でもさすがに重たくなってくる。どうしようかと再び堂々巡りが始まりそうになった時、リンウェルがこちらの様子を窺うようにして言った。
「だからね、治るまでうちにいるっていうのはどうかな」
「……へ?」
 思わぬ言葉に、素っ頓狂な声が出る。
「ロウが先を急いでるっていうのはわかるよ。早く仲間と合流したいんだよね。でもその腕で森の外を歩くのは、言ってしまえば自殺行為にも等しいし、だったらちゃんと治して万全の状態で向かった方がいいんじゃないかなあって」
 リンウェルは他にも懸念点を挙げた。ここから一番近い街まではそれなりに距離があること。それを何の準備もなしに抜けるのはなかなか難しいということ。この時期は天候も荒れがちで、視界さえもほとんど取れなくなってしまうこと。
「シスロディアに慣れてもらうっていう意味でも、悪くない提案だと思うんだけど」
「けど……」
 ロウは手にマグカップを持ったまま、言葉を詰まらせた。
 簡単に頷くことはできなかった。それはロウにとってあまりに魅力的で、この上ない申し出ではあったが、それには相応の負担がかかることも充分理解していた。何せ自分はケガ人で、ともに日常生活を送るにあたっては何の役にも立たない。それどころか足を引っ張るばかりで、リンウェルに迷惑をかけてしまうことは目に見えていた。
 そんな苦労を、しかも昨日出会ったばかりの女子に掛けるのは、いくらロウでもさすがに気が引けた。自分は頭も要領も悪いが、少なくともその程度の常識はわきまえているつもりだ。
 でも断ったとして、他にあてもないしなあ……。
「……うーん……」
 ロウが口を開くよりも早く、反論する者がいた。
「フギャッ! フリュリュリュリャーー!」
 フルルだ。
 フルルはその白い羽でロウを指し示すと、何やら一気にまくし立てた。ロウはフクロウ語はさっぱりだが、その鬼のような形相から、どうやら罵詈雑言を吐かれているのだと察した。
「フリュリャ、フリャーフルル! フルルルルルルル!」
「でもフルル。ロウがそのケガを負ったのは、私のせいでもあるでしょ?」
「!」
 リンウェルが宥めるようにして言った。
「私がうっかりしてたところを、ロウが助けてくれたんだよ。そうじゃなかったら、ケガをしてたのは私の方だったんだから」
「フル……」
 みるみるフルルの羽角が萎れていく。
「これはお礼でもあるの。命を助けてもらったんだから、それに見合った恩返しをしないと」
 リンウェルは、今度は視線をこちらに向けて言った。
「というわけで、どう? お礼させてもらえない?」
 ここまで言われてしまっては断れない。ロウはどこかほっとした面持ちで大きく請け合った。
「正直、すげえ助かる。このまま外で行き倒れるのかと思ってたところだ」
「さすがにそんな人を見放したりしないよ。言ったでしょ、ダナ人同士助け合わないとって」
「そうだったな。けど、別にお礼してもらいたくてああしたわけじゃないからな。勝手に、自然と手が出たっていうか……」
 これじゃまるで言い訳だ。思わず頭を掻くと、リンウェルは「わかってるよ」とくすくす笑った。
「でも、ケガをしてまで守ってくれたのは本当だから。改めてありがとう。残りのお礼は追々ね」
 どこか跳ねるような足取りで、リンウェルが朝食の皿をキッチンへと片していく。ただそれだけのことで、キッチンが、リビングの雰囲気が、太陽を翳したかのように明るくなった。
 まただ。またリンウェルが眩しく見える。
 目を擦っても、光源らしきものは見当たらない。木造りの部屋を照らすのは、温かみのある壁掛けのランプだけだ。
「ロウ? どうかした?」
「ああ、いや……」
 ロウは静かに首を振った。なんなんだろう、この感覚は。湧きあがる疑問に首を傾げつつ、ロウは自分の鼓動が少し騒がしくなるのを感じていた。