眠れないシオンの話。アルシオ。(約3,900字)

Fly me to the moon

 壁側を向いて、反対側を向いて。仰向けになって、また壁側を向いて。もう何度目になるか分からない寝返りの果てに、シオンはとうとう目を開けた。
 視界の端が霞んでいた。何度か目をしばたたかせてみると、たちまち夜の輪郭が浮かび上がってくる。今夜は星明りが強い。カーテンを突き抜けた白い光が、壁の木目を淡く照らしている。
 あと数刻もすればそれも完全に闇に溶けるのだろう。夜と、その周りを取り巻く世界は深まっていくのに、自分だけがまだ入り口に取り残されているみたいだ。
 もう一度寝返りを打つと、隣には夜より静かな寝息を立てる恋人の姿があった。律儀に両腕を揃えて天井を向き、まるでお手本のような姿勢で眠っていた。
 胸に掛かる毛布が軽く上下している。耳を澄ますと規則正しい呼吸音が聞こえてきて、何故かそれに少しだけ安堵した。
 こうして彼が眠っているのを見るのは、自分の生活の一部でもある。大抵は朝目覚めた時にちらりと眺め、時折昼寝するのを盗み見て、そしてごくたまに夜の静寂の中で彼の寝顔を鑑賞する。何度も何度もそうして、彼の無防備な姿をこの目に焼き付けてきた。
 それはもう彼を形作る輪郭がこんな暗がりでも分かるほどに。銀の髪から額、鼻の頂上を通って、見た目よりずっと柔らかい唇にたどり着く。すっきりとした顎にごつごつとした喉仏を登ると、自分とは違う生き物なのだなと痛感させられた。毛布の下に隠されている胸のラインだってうつくしい。あたたかくてたくましくて、いつだって私を包み込んでくれる厚い胸だ。
 まるで愛おしさそのもので出来たような彼をこうして見つめているだけで心が温かくなっていく。訳もなく冴えてしまった目を、彼を眺める時間に捧げられるのならそれはそれで有意義かもしれない。
 ――少し触れるくらい、許されるかしら。
 そんなふうに思ったのはほんの出来心だった。額に掛かる髪に手を伸ばした時、アルフェンの瞼がぴくりと動いた。続いてわずかに眉間に皺が寄ったと思うとその目が開かれ、瞳が私を捉える。
「……シオン?」
 眠たそうな目を擦って、アルフェンが完全に覚醒する。「どうかしたのか?」
「ごめんなさい、起こしてしまったかしら」
「いいや、ちょっと気配を感じただけだ」
 それはつまり自分が目を覚まさせてしまったということも同義だ。申し訳なくなって、引っ込めた手で毛布を引き上げる。
 それでもアルフェンは腹を立てた様子もなくこちらに寝返りを打つと、表情を柔らかくした。
「眠れないのか?」
「……ええ、まあ、ちょっと」
「今日はあちこち出歩いたからな。疲れ過ぎたのかもしれない」
 眠るのにも体力は必要だからな、というアルフェンの言葉には確かに心当たりがあった。
 今日は昼過ぎから二人で外に出た。まずはヴィスキントに向かって、リンウェルの家に行った。招待状を渡すと、リンウェルはぱあっと表情を変えた後で「ドレスの色は?」「好きなお花はある?」と矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。それに「白よ」「ええと、バラかしら」とひとつひとつ答えて、最後にぎゅうっと抱き着いてきたリンウェルにハグを返した。
 その後宮殿に向かい、キサラを訪ねた。「もう近衛ではない」と言いつつも、彼女は相変わらず強く、美しい後ろ姿で兵たちの訓練に参加していた。呼び止めて招待状を渡すと、「料理の手配は任せてくれ!」と胸を叩いて、「おめでとう、シオン」と祝福の言葉をくれた。
 テュオハリムの所在を訊ねると、現在はレネギスに滞在しているとのことだった。戻るのはもう数週間先ということで招待状はキサラに預け、書簡と一緒に送ってもらうことにした。直接渡せなかったのは残念ではあるが、かつての友人らが世界のあちこちで頑張っていると思うととても誇らしい気持ちになる。
 ロウには輸送隊の警護から街に戻って来たところで声を掛けた。招待状を渡すと、そもそも招待状とは? と不思議そうに首を傾げていたが、その場で封を開けて意味を理解したのか、すぐに表情は明るくなった。「プロポーズの言葉はなんだったんだよ?」と聞かれた時はドキリとした。が、そこはアルフェンが制してくれて、ロウもちょっと不満そうな顔をしながらも引き下がってくれた。
 その後は残りの招待状を各地に届けてもらうよう手配をして、ついでだからと夕飯の買い出しに市場へも寄った。気合を入れて食材を買ったはいいものの、家に帰ってからは疲れ果ててしまって結局夕食は簡単なもので済ませた。そうしていつもよりも早く休む準備をして、二人でベッドに入ったのだった。
「旅をしていた頃はもう少し体力があったはずなのに」
「平和な日常を過ごしているっていう証拠だろ。とはいえ、もっと体を動かしてもいいかもな」
 畑作業とか薪割りとか、などとアルフェンは思いつく限りの力仕事を挙げた。実際に私が薪割り用の斧を持ちだしたら「危ないからダメだ」なんて言うのだろうけれど。
 そこからしばらく『どうしたら寝つきが良くなるか』という談義をアルフェンと交わしたが、一向に眠気は訪れなかった。疲労で身体は怠くて、起き上がろうという気はさらさらないのに、こうも眠れないのは珍しいことだ。
「本当にどうしちゃったのかしら」
 このままでは夜が更けていってしまう。せっかく早めに床に就いた意味がなくなってしまう。焦る自分をよそに、アルフェンは呑気な様子でただ微笑んでいた。
「眠れないなら、眠れるまで付き合うぞ」
「ダメよ。あなたは明日も仕事があるでしょう」
 それも朝早くに家を出る予定になっている。自分は朝寝坊をしたところで特に影響はなくとも、彼は違うのだ。
「じゃあとりあえず、目を閉じてみるか」
 それだけでも疲労は軽減されるらしい、というのはかつてどこかから聞いただけの知識だとアルフェンは言った。
 言う通りに目を閉じて体の力を抜く。覆われた視界は目の前にあるのにどこか遠い。次第に鈍くなっていく感覚の中で、頭の中だけが冴え冴えとするようだった。
 そういえば、昔もこんなことをしていた。〈荊〉を発現した私は、施設の中で周りとは隔絶された生活を送っていた。そこで検査と称して行われていたのはほとんど人体実験のようなもので、それを繰り返す日々はただただ悪夢でしかなかった。どうか早く終わりますように、過ぎ去りますようにと目を閉じて何度も祈った。あの部屋の冷たさは今も自分の身体のどこかに染みついているような気がする。
 ふと左の手に何かが触れた。あたたかさを超えてもはや熱いとすら感じたのは、アルフェンの指から伝わる熱だった。
「な、なに?」
 驚いた私に、「こうしたら、繋がっているみたいだろ」とアルフェンは目を閉じたままで言った。
 繋がっている。その言葉に、もう一度目を閉じる。
 するとどうだろう、さっきまでただ眼前に在るだけだった闇が少しだけ変わって見えた。私の暗闇と彼の暗闇の端っこ同士がくっついていて、果てしないその先に彼もまた居るような気がした。
 手を繋いだだけでこれほど世界が違って見える。触れられた手を返して指を絡めると、彼の指もまたそれに応えてくれた。
 そこでふと思い至った。――私、明日が怖いんだわ。
 目覚めた時世界が変わっていたら。隣にあるはずの温もりがなくなっていたら。あるいは、今まで見ていたものは全て自分の夢で、現実――誰にも触れることができず、誰の温もりも知らないあの日々に戻ってしまったら。
 そう思うととてもじゃないが眠れない。自分のあずかり知らぬところでそれが失われるなんて耐えられない。
 愛する人と一緒に居られる。親しい友人たちに祝福される。そんな余るほどの幸せを手に入れて、今度はそれを失くしてしまうのが何より怖い。指の隙間から零れ落ちる砂の一粒も逃したくないと、そう思ってしまう。
 自分はいつからこんなに欲張りになってしまったのか。誰からの温もりも愛情も、一度は自分の命だって諦めたはずなのに。
 こんなふうでいいのかしら。そう訊ねても、きっとアルフェンは笑うだけだ。私にそれを教えてくれたのは、他でもない彼だったのだから。
「ねえ」
 呼びかけにアルフェンがこちらを向く。
「そっちへ行っても、いいかしら」
 私の問いに彼は嬉しそうに目を細めると、その大きな腕を広げた。
「おいで」
 甘く囁かれた声に頷いて、私はじりじりとそれに迫った。えい、と思い切って胸に身を収め、頭を顎の下に埋めると、目の前にはあのごつごつとした喉仏があった。
 腕が背に回った。ああ、アルフェンの匂いがする。触れた肌も温度も、感じるものすべてが彼のものだと分かる。
「好きよ」
 間違えた、と思った。間違いではないのだけれど、本当は「あたたかい」と言おうとしたのだった。急に恥ずかしさが込み上げてきて、また胸に顔を強く埋める。
 アルフェンは「俺も」と言って腕の力を強めた。顔が見えなくとも表情が分かる。きっと私と同じ気持ちなのだろう。
 その温もりに身を委ね、ゆっくりと目を閉じる。暗闇の中では先ほどよりもずっと近くにアルフェンを感じた。もしかしたらこれもまた彼の一部なのかもしれない。そう思えるくらい、今はこの空間が心地良い。
 胸に頬を摺り寄せる。耳に響くのは穏やかな鼓動だ。彼が生きている、ここにいるという証の音。
 ――ねえアルフェン。
 私を連れて行ってほしいの。明日へ、あなたのいるその先の未来へ。
 私だけ取り残されないように、遅れてしまわないように、手を取って引っ張っていってほしいの。
 頭の中で想像する。アルフェンと、皆がいる世界。そこに当たり前のように存在する自分。笑っている。今まで生きてきた時間の何倍もそうしているような気がする。
 次第にそれも夜に溶けていく。境界が曖昧になったその先で、明日の私が待っている。

終わり