買い出しの最後にベーカリーに寄ったのは、空がオレンジ色に染まりかけた頃だった。
やや重い扉を押すと、小麦の香りが飛び込んでくる。それに混じる甘い砂糖の香りと、フルーツの甘酸っぱい匂い。
この瞬間がたまらないのよね。シオンはひとり胸を弾ませると、店の奥へと歩みを進めた。
お目当てのバゲットはまだ残っていた。時間も時間なので売り切れていたらどうしようかと思ったが、とりあえず一安心だ。
あとは小腹がすいた時に摘まむロールパンやデニッシュ、たっぷりのカスタードクリームが詰まったクリームパンも買っておこうかしら。
店員のお姉さんに一つ一つ注文を言い渡していると、背後で店の扉が開く音がした。咄嗟に振り返り、シオンは目を見開いた。そこには自分のよく知る人物が立っていたからだ。
「お、シオン」
同じく目を見開いてこちらに笑いかけたのはロウだった。人懐こい笑みは相変わらずで、旅をしていた時と変わらない。
「こんなとこで偶然だな。夕飯の買い出しか?」
「そんなところよ。あなたも?」
「俺は買い出しってか、使いっぱしり」
ロウはぐるりと辺りを見回すと、残っていた最後のバゲットと食パンを指さした。店員のお姉さんが包んでくれた包みを受け取って、シオンに向かって小さな苦笑いを浮かべる。
「夕飯用に付け合せるパン忘れたから今すぐ買って来いって言われたんだよ。ついでに明日の朝食も」
誰に、なんて聞くまでもない。ロウがこちらを訪れている間、家で一緒に夕飯を食べる相手なんてほとんど彼女に決まっている。
「リンウェルらしいわ。それであなたも面倒くさがらず、こうして買いに出てきたってわけね」
「面倒は面倒だけど、メシ作ってくれるんだからこれくらいはな。まあたまに、人使い荒い奴だって思わねえこともねーけど」
ささやかな悪態をつくロウだが、シオンは心の内で密かに笑っていた。そんなこと言って、私は見逃さないわよ。今ロウがパンの袋のほかに手にしている白い箱。それはこの通りの角を曲がったところにあるケーキ屋のものだ。見た目も可愛らしく味も美味しいと評判で、数あるヴィスキントのケーキ屋の中でも有名店の一つとなっている。
そんな時間帯によっては並ぶこともあるお店のケーキをロウが自分一人のために買うわけがない。それは甘いものが大好きなリンウェルへの贈り物だとおおよそ察しがつく。
「な、なんだよ」
シオンの視線に気づいたのか、ロウが僅かにたじろいだ。
「いいえ、なんでもないわ」
ここは気付かなかったふりをしてあげる。心の中で鼻を鳴らして、シオンはベーカリーの扉を引いた。
二人で通りに出る頃にはさらに空のオレンジは濃くなっていた。街を歩く人影も徐々に増えてきたようだ。家に帰る人や自分同様買い出しに出る人が多いのだろう。
右手には市場で買ったもの、左手にはベーカリーで買ったパンを抱えていると、さすがにちょっと歩きづらかった。重さも体積もバラバラでバランスをとるのが難しい。ふらつくほどではないけれども、傍から見たら少しぎこちなかったかもしれない。
それを見かねたのか、ロウが「手伝うか?」などと言ってこちらを覗き込んできた。ロウにまで気を遣わせてしまってなんだか申し訳ないが、それでもシオンは小さく首を振った。
「大丈夫よ。家もそこまで遠くないし」
「そうか? 別にいいんだぜ、ちょっと帰りが遅れたくらいじゃあいつも怒らねえと思うし」
シオンの手伝いならなおさら、とロウは言ったが、遠慮しておいた。荷物を運んでもらう過程でケーキが崩れたら大変だし、そもそも今こういう状況になっているのは、言ってしまえば自業自得なのだから。
「気持ちだけ受け取っておくわ。安心して、貴重な食べ物を落としたりするようなそんな真似、私がするはずないでしょう?」
「それはまあ確かに、そうだけどよ」
その言葉を聞いてようやくロウは引き下がる。その表情は少しだけ不満そうにも見えた。
「つーかアルフェンはどうしたんだよ。こんだけの量買うならついてきてもらえばよかったじゃねえか」
その名前を出されると、思わずうっと胸が詰まった。同時に口元に力が入る。――それができていたなら、こうはならなかったのよ。
「仕事か何かか? 忙しくて来れなかったとか」
「……そうね」
小さく呟いて、視線を落とす。足元に伸びた影は長く濃い。隣に並んだもう一つは、見慣れたそれではない。
視界の端では白いケーキの箱が揺れていた。その中にはきっと相手への思いやりや想いが詰まっている。決して大きくはないのに、そうと分かるそれが今はひどく羨ましかった。
「いいわよね、あなたたちは。いつも仲良さそうで」
口にしてからハッとした。
「……ごめんなさい。嫌味っぽく聞こえちゃったかしら」
「いや別に、そんなことはねーけど……」
シオンから出た言葉にロウは驚いたようだった。大きな目をさらにまん丸くして、次の瞬間には心配そうに声を潜めて言った。
「もしかして、アルフェンとケンカでもしてんのか?」
「……ケンカというわけではないかもしれないけれど、少し言い合いになってしまって」
思い出したのは昼間のやり取りだ。つまらなくてくだらない、ほんの些細な諍い。
そうと分かっていて、謝ることができなかった。それでいて自分の中に沸く苛立ちと部屋に漂う気まずい雰囲気に耐えられず、一人で買い出しに出たのだ。
追いかけてきてくれることを期待しなかったと言ったら嘘になる。街に向かう道中も、市場の通りでも何度も後ろを振り返ってはその影を探した。ベーカリーで扉が開いた音がした時もほとんど反射で振り返っていた。結局彼は現れなかったけれど。
ここまで事態が悪化することは珍しいとはいえ、最近はこういった小さなすれ違いが多くなったように思う。時には不満を直接口にし、時には我慢をして、それでも胸のあたりのもやもやが消えないままで、上手く気持ちが伝わっていないなと思うことも増えた。
誰かと一緒に暮らすのは難しい。今はそれを痛感している。このままケンカばかりの日々が続いたらどうしようとも。
「俺たちだってよく言い合いになるぜ。つーかあれはもうほとんどケンカだな。たまにしか会わない俺らでもそうなんだから、毎日顔合わせてりゃ言い合いにもなるだろ」
「逆じゃないのかしら。一緒にいる時間が長いからこそ相手のことをよく知れるし、理解もできるんじゃないかと思っていたのだけど」
「あー、ほら、なんていうか、」
ロウは言葉を選びながら、
「相手を知るってのは良いところばかりじゃないだろ。一緒に過ごすうちに嫌な部分を見つけて、今はそれが目についてるだけなんじゃねえか? 美味い料理があっても嫌いな野菜があったらそれが気になっちまう、みたいな」
と、頭を掻いた。
なるほど、というには微妙なたとえだったが、それでもロウの言わんとしていることは分かる。
「そもそも」
そうしてロウが声色を明るくして言った。
「もともと一人ずつだったんだぜ、俺ら。それが二人で暮らすようになって、すぐに上手くなんかいくわけねーだろ」
言われてみればそうだ。ついこの間までは、自分は独りでいるのが当たり前だった。そしてこの先も、死ぬまでずっと独りだと思っていたのだ。そこに誰かが現れてはたまた一緒に暮らすことになるなんて、それだけでもとんでもない予定外だろう。
「まだ慣れてないだけなんじゃねえか、二人とも。いくら一緒に旅してたって言ったって、同じ家で暮らすのはまた違うと思うぜ」
今度こそ腑に落ちると同時に驚いた。
「ロウ、あなた……」
「なんだよ」
「今日は妙にいいこと言うわね。何かあった?」
「俺はいつもこうだっつの! ったく、リンウェルみたいなこと言うなよな」
それが二人の普段の会話を想起させるようで、シオンは思わず小さく声を上げて笑ったのだった。
別れ際、城門前の橋のところで、
「ちゃんと仲直りしろよ」
と、ロウが念押ししてきた。
「分かってるわ。そういうロウも上手くやりなさい」
上手く、という言葉に引っかかったのか首を傾げるロウだったが、
「ケーキ、喜んでくれると思うわ」
と言うと、途端に頬を染めて頭を掻いた。そんな可愛げのある弟分だからこそお節介を言いたくなるのかもしれない。
街道に出て少しすると、向こうから見覚えのある人物がこちらに向かってくるのが見えた。
「シオン!」
「アルフェン?」
シオンに気付くや否や、急いで駆けてきたアルフェンは開口一番「ごめん!」と勢いよく頭を下げた。
「さっきは意地になって悪かった。謝るタイミングも分からなくて、シオンが出て行った後すぐに追いかければ良かったのに……」
その表情は叱られた犬のごとくしょんぼりとしていて、それだけでもかなり思い悩んだことが窺えた。
それを見て、シオンに浮かんだのは笑みだった。
「いいのよ。私の方こそ悪かったわ。私もあなたと同じで謝るタイミングを見失ってしまったの。気まずい空気に耐えかねて家を出てしまったのよ。それじゃ何も解決しないのにね」
本当にごめんなさい、と言って頭を下げると、買ったものが袋から転げそうになった。慌てて手で抑えようとすると、アルフェンの手がそれと重なる。
「来て早々悪いのだけど、持ってくれる? 両手にこれだけ荷物があると歩きづらくて」
「ああ、もちろんだ」
市場で買ったものもパンもどちらも持とうとするアルフェンを制して、結局自分がパンの袋を持つことで落ち着いた。アルフェンは最後まで「どっちも俺が持つのに」とぶつぶつ言っていたが。
たったそれだけのやり取りが嬉しい。自分たちの間に〈日常〉が戻ってきたことが純粋に嬉しかった。
それでも今日のケンカがなければよかったとは思わない。きっとあの言い合いにも意味があった。互いを知るためのヒントが隠されていて、それを掘り当てるためには必要なことだったのだ。
それにケンカも言い合いも二人でないとできないこと。私たち自身が二人でいることを選んだのだから、そのくらいの試練は乗り越えなければならない。
まだまだ道は半ばだ。これからはケンカをしないための努力じゃなく、二人で過ごすための努力をしたい。壁や障害があるならそれを壊すまで。そう教えてくれたのは、ほかでもない隣を歩くアルフェンだ。
その横顔を覗き見て、シオンは呟く。
「私、もっと頑張るわね」
努力は惜しまない。明日明後日、その先もずっと一緒に居られるように。隣にいるのが自分でよかったと、そう思ってもらえるように。
空いた片方の手をアルフェンの腕に絡める。夕日を背に、伸びた影がようやく距離をなくす。
この温かさが、もう独りでないことの何よりの証拠だった。
終わり